2009年9月21日

世の中のほぼあらゆる出来事について、いくつかの陰謀説が存在する。たとえば、豚インフルエンザは欧米の製薬会社と一部の国の首脳部が結託してワクチンで儲けるために故意に起こしたとか、世界同時多発テロは当時の米国大統領が戦争の口実を作るために自作自演で行ったとか、そもそもこの世界はロスチャイルド家やロックフェラー家など一握りの超大富豪一族によって秘密裏に支配されているとか、世界を牛耳る人はだいたいフリーメイソンだとか、その手の話題はいつの時代にも一定程度の人に受け入れられ支持される。

たいてい、そういう陰謀説は読み物としては面白いのだが、論理が飛躍しすぎて信憑性に欠けるものも少なくない。しかし中には、しっかりした証拠を出しながら真面目に論じられているものもあるので、あながち間違いとは言い切れない話も多かったりする。いずれにせよ、世界には相当にしたたかな人たちがいるもので、ときに「そんなに高い地位にいる人が、そんなにとんでもないことをするはずがない」というようなことを、裏で平気でしかねないのが人間の現実であることは、確かだろう。

人間の本性は「性善」か「性悪」か。それは結局ものの見方によるのだが、陰謀史観に立つ人の中には、「人が良すぎる日本人たちは、欧米の陰謀に翻弄されっぱなしだ。日本人は性善説を捨て、自分たちももっと悪人にならなければならない」という人がいる。私は「日本人は性善説を捨てなさい」という主張には、ある程度賛成したい。「人間は本来、よいものだ」という考えに固執すると、ときに事実を見誤る。親鸞も「人間は縁に触れれば誰だって人を殺すかもしれない生き物だ」と言うように、人間は縁によってどうとでも転びうる、弱い生き物だ。

しかし、「自分たちももっと悪人にならなければいけない」というのは、いただけない。たとえば、ある国の大統領が軍需産業と裏で手を組んで、自作自演でテロを起こしてまったく関係ない国の人たちを犯人に仕立て上げてそれを口実に戦争を始めたとする。そういう悪人を見た人が、それを手本に自分も同じように悪人になろうとすれば、世界は悪人だらけでめちゃめちゃになってしまうだろう。性善説や性悪説という二者択一で片付けるのではなくて、大切なのは人間の本性を自分の目で見極めることだ。縁によってどのようにでも転んでいく人間の弱さを知った上で、慎重に丁寧に生きていかなければならないと思う。

ところで、それが何かの陰謀によるものかどうかはさておいて、最近の日本の状況について少し気になることがある。それは、マスコミなどの情報媒体そのものも含めて、皆があまり自分の頭でモノを考えようとしないことだ。信念のある人、骨のある言説に、なかなか出会えない。新聞やテレビはみな横並びで、物事を深く掘り下げない。モノや情報は溢れているのに、切り取り方はむしろ一面化している。

「真に豊かな社会というのは、選択肢の多い社会である」という主張を聞いたことがあるが、私はそうは思わない。どれほど多くの選択肢があっても、自分では決められずガイドブックを片手に他人と同じものを欲しがる人ばかりだったら、それは豊かな社会とは言えないだろう。

皮肉なことに、民主主義社会、資本主義社会において、人は「何を選択することもできる」という幻想の中で、見せかけの自由をつかまされつつ、とても不自由に生きている。実は、自由に選べることそのものには、幸せはない。正しく選ぶことができなければ、決して幸せにはなれないのだ。しかし、正しく選ぶためには人間はとてつもない努力を必要とする。ある意味、人生で経験することはすべて、正しく選ぶ方法を学ぶことに通じるといってもいいだろう。加えて、正しく選ぶためには教育や学習を通じて正しい知識を得ることも必要だ。とにかく、人は努力して総合的に成長していかなければ、正しく選べるようになれない。

努力を嫌う人は、この能力がいつまでたっても身に付かない。その結果、ガイドブックや評論家、果てはカリスマ占い師に判断をゆだね、自分の代わりに選択してもらうことになる。どんなに数多くの選択肢があったとしても、自分の人生で瞬間瞬間に選べるものは常にひとつである。それを自分で選べないとしたら、どこに自由があるというのか。

宗教イコール思考停止、と思っている人がいるかもしれない。確かに、宗教団体の教祖や教師にすべての判断をゆだねて自分は思考停止してしまい、家族や友人に大迷惑をかけたあげくにすべてを失ってしまうという人の類いの話は枚挙にいとまがないので、そう思うのも無理はない。しかし、私ははっきり言いたい。信者の個人的な判断にまで入り込み、その人の思考を奪うような宗教は、宗教の名をかたる洗脳だ。まともな宗教なら、その人が自分の思考を深めるのに役立ちこそすれ、思考を奪うようなことはあってはならない。

その点、仏教は個人個人が正しく生きること、正しく選択できるようになるための訓練法とも言えるだろう。「自灯明、法灯明」と言われるように、仏教徒の目指すところは他の誰かを信じて判断をゆだねるのではなく、自分自身で正しい判断をして生きること。といっても、自分も一人の、縁によってはどのようにでも流される弱い人間に過ぎない。だから、自分自身を正しい者と思い込む過ちを避けて、仏教の教えに従って自分を律し、自分を知り、自分を正しい方向へコントロールする生き方だ。

皆が自分の頭で考えなくなった社会は、ファシズムが台頭する危険性と、誰かが人々を意のままに操る危険性が、極めて高くなる。そういう意味では、ガイドブックが流行する社会は、危険一歩手前の状態にある。本来ならば、仏教はそのような脅威に対して有効な手だてとなるべきものであるが、肝心の仏教界は足下の小さな問題、葬式が減ったとか墓参りが少ないとかいう問題にばかり関心が向いて、仏教本来のポテンシャルに気がついていない様子だ。非常にもったいない。

ところで、この話は見方によっては、仏教と政治の関わり方についても提案でもある。私が思うに、仏教教団が積極的になすべき政治的な活動というのは、政党を作ることではないし、身内から政治家を輩出することでもない。大切なことは、仏教の教えを通じて、一人でも多くの人がそれぞれに自分自身の中に正しい判断力を養っていくことだ。ある意味、「一票の重みを増す」運動とも言える。一人一人が状況に応じて、自らの判断によって正しいと考える選択を行っていくこと。そうすれば、世論操作による選挙結果のブレも少なくなり、今より安定した社会が訪れるだろう。また、ファシズムの台頭や戦争への抑止力にもなる。真に健全な民主主義は、個人個人が成熟しないと成り立たない。そういう意味でなら、仏教は政治にもいい効果をもたらすと思う。

まとめると、一人一人の仏教徒の努力が、悪の陰謀を阻止するかもしれないという話である。

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コメント (1)

dtoauizn:

たまに拝見しております。おもしろいですね。「仏教徒が悪の陰謀を暴く」わたしも賛同いたします。本当にそう思います。

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お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは気のせいでしょうか。こんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」について書くエッセイです。
松本圭介
法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。神谷町光明寺所属。1979年、北海道生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。代表を務める光明寺仏教青年会は2008年に財団法人全国青少年教化協議会より第32回正力松太郎賞青年奨励賞受賞。インターネット寺院「彼岸寺」の運営。著書に『おぼうさん、はじめました。』 『"こころの静寂"を手に入れる37の方法』など。