2009年4月28日

つまるところ、問題はこれだ。仏教界と一般社会のすれ違いは、「仏教にはお金には換えられない普遍的な価値がある」という仏教側と、「お金にもならないものに何の価値があるのか」という一般側の決定的な価値観の違いである。

私は仏教側の人間として、仏教に普遍的な価値を見いだすことはできるのだが、その価値を一般側に知らしめるとなれば、巧妙な方法を用いなければ成果は期待できないであろうことを、5年も6年も僧侶をやってみて、最近特に痛感している。

シンプルに考えてみると、まったく価値観の異なる相手に自分の価値観を理解してもらうためには、まず相手の価値観を理解した上で、相手の価値観でも理解できる表現方法で、自分の価値観を示す必要がある。言語の違う人間同士がそれぞれの言語で議論をしてもまったく話にならない。突破口を開くためには、どちらかが相手方の言語を習得して、そちらの言語で意思疎通を図らなくてはならないのだ。要するに、私たちに必要なのは<仏教語>と<一般語>の意思疎通である。

世間一般のマジョリティは圧倒的に<一般語>話者である。皮肉なことに本来ならば<仏教語>圏に属するはずの仏教界の住人たちですら、今では生活のほとんどを<一般語>で過ごし、仕事上の必要に迫られたときにだけ<仏教語>を思い出して使うという人も多い。ネイティブな<仏教語>話者は、もはや絶滅の危機に瀕している。さらに困ったことに、この<仏教語>特有の現象として、何世代も仏教界で育った名門の一族だからといって<仏教語>ネイティブになるわけではなく、逆に<一般語>しか話せない名門の子孫も少なくなかったりする。

仏教界と一般社会との現状の構図は、以下のように表せるだろう。絶滅危機のマイノリティにある<仏教語>話者が、圧倒的マジョリティの<一般語>話者に向かって、「私たちの話を聞いてください。聞かないと、成仏できませんよ、地獄に落ちますよ、後で大変なことになりますよ」と一方的に喚いている状態である。<一般語>話者の中にも奇特な人がいて、絶滅危惧種を応援してくれることもあるかもしれないが、構図を変えるほどのインパクトはない。

このように状況は年々日々悪化しており、双方のコミュニケーションを健全なところまで回復するには相当な努力が必要ではあるが、私はそれは不可能なことではないと思っている。諦める必要はない。ある意味、シンプルなソリューションがすでに導きだされている。<仏教語>を自在に操り、その価値観を深く見通したネイティブの話者が、<一般語>話者の価値観を良く分析し、相手の価値観で評価できる仕方で自分の価値観の価値を示せばよいのである。

これを、冒頭に書いた仏教界と一般社会の価値観の定義に当てはめてみよう。<仏教語>話者は、「仏教にはお金では買えない価値がある」と主張している。それに対して<一般語>話者は、「お金にならないものに価値はない」と考えている。ならば、<仏教語>話者が歩み寄りの努力をして、お金で買えないほど高価な仏教の原液から、一般の人が手に届く金額でつい買いたくなるような、一般の人の舌に合う仏教飲料水を開発し、<一般語>圏で販売し、消費してもらえば良いのだ。<仏教語>話者の中でも原液を扱えるレベルの高い技術者は限られているので、開発にはそれなりのチームが必要だが、不可能なことではない。もしこれが成功したら、仏教側としては、健康によいなどの単純な理由であれ、一般社会の中で仏教飲料水が広く受け入れられることは悪いことではないし、愛飲者の中からルーツにも興味を持ってもらえる人が出てきてくれれば、それに越したことはない。

実は、資本主義社会でシェアの高いキリスト教などは、「消費」という流通経路を利用して、巧みにこの手法を実践しているように思われる。クリスマスやバレンタインデー、最近ではハロウィンなどまでも日本社会で商業的イベントとして消費されるようになっている。これらはキリスト教の原液では決してないが、しかし確実に日本社会の中でそのプレゼンスを高めている。そういう意味では、仏教徒として多少の脅威を感じざるを得ない。ただ、私が同時に安心しているのは、クリスマスやバレンタインデーなどはキリスト教のコアコンテンツというよりはフェスティバルという周辺コンテンツにすぎず、いくらそれらの消費が盛んになったところで、それがそのまま日本におけるキリスト教の反映につながるとは思えない。むしろ、浅い針で釣られかけた魚が用心深くなるのと同じことも起こりうる。他宗教に対する駆逐力の強いキリスト教が猛烈に広まることは仏教にとって脅威だが、そういう事態が日本でも現実化するかどうかは不透明だ。これまでは日本人が手放しで憧れる欧米文化とセットで流入できるというキリスト教ならではのアドバンテージもあったが、価値観の潮流が世界的に変化しつつある今、その手もこれまでのようには通用しなくなるだろう。

これからの仏教がとるべき戦略は、仏教のコアコンテンツである「智慧と慈悲」の原液を、一般人でも美味しく健康に飲める程度に薄めて、市場経済の中で大いに消費してもらうことである。仏教を「消費」することに抵抗感を持つ人もいるかもしれないが、緊急時にはそんなことは言っていられない。緊急事態なのは仏教だけではなく、消費社会の中で忠実な消費者であることに慣れすぎた現代人も同じだ。要するに、宗教的価値ですら消費という仕方でしか身体の中に取り入れられなくなってしまった不健康な人たちには、とりあえず消費のかたちでもいいから最低限の栄養素を取り入れてもらうしかないのである。注射でもいいからとにかく栄養素を入れてあげないと、死んでしまっては元も子もない。その後、ある程度健康を取り戻したら、本来の食事の作法に従って、仏教の原液をじっくり味わってもらったらよいのではないだろうか。

「仏教の原液から、レベルの高い技術者の手によって一般の人が美味しく健康に飲める飲料水を開発し、一般の人が買いやすい値段で流通・販売する仕組みを作ること」

これが、ここ最近私が結論を得る至った、日本仏教起死回生の道である。

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お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは気のせいでしょうか。こんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」について書くエッセイです。
松本圭介
法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。神谷町光明寺所属。1979年、北海道生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。代表を務める光明寺仏教青年会は2008年に財団法人全国青少年教化協議会より第32回正力松太郎賞青年奨励賞受賞。インターネット寺院「彼岸寺」の運営。著書に『おぼうさん、はじめました。』 『"こころの静寂"を手に入れる37の方法』など。