2008年6月27日

皆さんの小学校や中学校時代、時間割の中に「道徳」という科目はありましたか?私の場合は北海道の田舎の公立学校でしたが、たしか「道徳」は週に一時間だけ割り当てられていて、NHKのテレビ番組を見せられたりジャンボカボチャの栽培をさせられたり、担任の先生の趣味によって内容を決められている感じで、なんだか先生自身もその時間を持て余しているというか、学校としての統一的な方針が感じられない消化試合的な科目だった記憶があります。「道徳」の授業ですら道徳を学ぶ機会としてはほとんど活かされていなかったので、宗教などは小中学校でまったく触れる機会がありませんでした。

さて、昨今の日本で起こる様々な事件をニュースなどで見聞きして得た印象から「日本人の心が荒廃している」と感じておられる識者の方々が、教育基本法の改正にあたって「日本人のこころが失われたのは、見えないものを敬い大切にする宗教的感性が失われたからだ。これからは宗教教育にもっと力を入れていかなければいけない」という議論をときどきされているようです。そういった教育の大切さは私も強く感じるのですが、実際これまでそのことの重要性について多くの人が指摘してきたにも関わらず、今のところそれが一向にうまくいきそうもないのは、もしかしたら皆さんが考えるやり方に問題があるのかもしれません。

公立の学校というのは公共の機関ですから、特定の宗教に偏った教育はすべきではないでしょう。もちろん、歴史的な文脈で宗教にまつわる出来事について知識として触れていくのは必要ですが、少なくとも布教的なやり方で宗教を教えることは学校でやるべきことではないと思います。ですから、少なくとも宗教を取り扱うにあたっては学問的側面のみにしよう、あるいは、面倒なのでいっそのこと宗教そのものに距離を置こう、というような学校のスタンスというのは、それなりに理解できます。

しかし、そうした基本的なスタンスを踏まえながら、一方で「宗教は大切だ、なぜなら、大切だからだ」というようなやり方で宗教を取り上げようとすることには、やはり無理があるでしょう。子どもたちは、納得できないことは受け入れられません。見えないものを敬うことは大切だ、と学校で教えられても、先生が理由と目的を明確に合理的に説明できなければ、今の子どもたちは見向きもしないのではないでしょうか。他の科目は「なぜ?どうして?」の疑問を持つことを推奨されているのに、宗教の授業だけ「大事だから大事」というわけにはいきません。「いのちは大切だ、宗教は大切だ。なぜかって?大切だから大切なんだ」という種類の教育は、家庭での心の教育の中で行われるべきで、あまり学校でなされるべき教育の種類ではないと思います。

逆説的ですが、もし学校で宗教教育をやりたかったら、宗教というものについて徹底的に合理的・科学的・文学的な視点から客観的・批判的に評価するための学問を、いわば宗教リテラシー教育を行なうことが、最終的には日本人の宗教性を底上げすることになるのではないかと、私は思います。人身が荒廃している理由を宗教に対する不信心に帰するとしても、だからといって何でもかんでも宗教を信じる心を養えばよいというものではないし、第一そのようなものを学校で養おうと思って養えるものでもありません。

つまるところ現在、日本の学校教育が抱えている宗教に関する問題というのは、それが宗教の大切さを教えていないということではなくて、宗教に対する批判的精神を養っていないということにあるのではないでしょうか。「なぜ大切なのか」を説くのではなく、「なぜそれを大切にする人がいるのか」を追求するほうが、遥かに実践的な学びになるでしょう。宗教現象を正しく理解してそれに対する自分の立ち位置を確認し、うまく付き合っていくための技術が必要なのです。そういう技術を持たない人は、十分に知的な成熟を得ていないにも関わらず、中途半端に見聞きした「科学的」らしい言説を根拠に「宗教」そのものをあやしいものと位置づけて毛嫌いしてしまうことがあります。そしてまたそういう人こそ、ちょっとしたことをきっかけとして、また自分の未成熟な知識を拠り所にしてしまい、反対に科学的にも宗教的にも無価値なものを信じるようになってしまう可能性も大いに秘めています。

宗教に向き合う姿勢として、「正しいから正しいんだ」「ありがたいからありがたいんだ」というのは、それはそれでひとつの大きなあり方ですので、尊重すべきところもあります。しかしまた、その宗教についてまったく別の角度から、たとえば合理的・科学的・文学的な視点から再評価してみることも、宗教についての理解を深める上で非常に重要な作業であるはずです。真に価値ある宗教なら、これらの作業を踏まえた上でも、評価は揺るぎないはずです。どんな宗教関係者も、自分の宗教は本物だと思っているでしょうから、批判的な視点で宗教を眺めるための宗教リテラシー教育を学生に施すことについて、苦情は出ないことでしょう。

要約すると、義務教育で宗教教育をしたいなら、「きみたちは知的にも精神的にも未熟だから、自らが愚かであることをよく自覚して、大人になって宗教に騙されないように、彼らの騙しの手口を徹底的に洗い出し、宗教に対する批判的な視点を養おう」ということでいいのではないでしょうか。こうすることで、仮に宗教人口の総数は増えないにせよ、全体の足を引っ張る似非宗教人口を減少させ、結果的に日本人全体の宗教的感性の向上を目指す、というのはどうでしょうか?

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コメント (2)

三島:

宗教を自分で選択できるような眼が必要ですね。でないと個人レベルで思い込みが変化しないように感じます

松本:

> 三島さん
そうですね。学校教育でもそういう「眼」を育てて欲しいと思うのですが、今のところそういう力は個人個人で養っていくしかなさそうですね。

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お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが進む時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」についてつらつらと書きます。エッセイですので不正確な表記やおおげさな表現が出てくるかもしれませんが、どうぞご了承ください(誤り等あれば修正しますので、ご指摘いただければ幸いです)。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(2005年12月刊行)