2008年6月22日

この彼岸寺というサイトを運営していると、多くの機会に「あなたたちの活動の目的は何ですか?」ということを聞かれます。
今日はその質問について答えながら、私たち彼岸寺の仕事とその限界について、あくまでも私の視点からですが、自己分析的に迫ってみます。

活動のコンセプトについて

私たちは「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」というキャッチコピーのもと、僧侶をはじめ宗派を超えた仏教徒が集まって運営するインターネット・メディアであり、いわば仏教系インディペンデント・メディアとして世界中の人に対し、「今の」そして「本物の」仏教に広く親しんでもらうため、特定の宗派の情報に偏らず仏教に関するあらゆる質と鮮度の高い情報をコンスタントに提供し続けることを目的としています。

サイトコンセプトは、このように結んでいます。「こりかたまった仏教をときほぐし、今に生きる仏教へと再編集する、まったく新しいメディアです。彼岸寺を通じて世界中のみなさんに、すてきなご縁を結んでいただければ、とてもうれしいです。」文字通り世界中のみなさんに情報を届けるべく、現在、英語版のサイトも準備中です。

なぜ、インターネットなのか

インターネットを主に一種のメディアとして活用しているという点で、私たちはまだまだ旧世代的な仕方でしかインターネットを活用していません。インターネットによって人の生き方を変えてしまうこと、私たちで言えばインターネットによって人間の仏教的な生き方を変えてしまうというようなことはしておらず(できるとも思いませんし、するつもりもありませんが)、たとえばYahoo!のようにインターネット上の自分の場所へあちこちから大勢の人を集めるということ、私たちで言えばインターネット上の自分の場所へ仏教に興味のある人を大勢集めるということを目指しているに過ぎません。

しかし、それでもやはりインターネットが私たちにとって重要であるのは、それが絞られたターゲットに対して比較的低コストで地域的な制約なく情報発信ができるということです。このことはインターネットがもたらすメリットとしてあらためて言うまでもないことですが、特にターゲットを「仏教に興味のある世界中の人」に設定している私たちにとっては、非常に大きな意味を持っています。

なぜ、超宗派なのか

「超宗派」なんて一般の人にとっては何のことだか分からないと思いますが、日本仏教界では異なる宗派同士の交流があまり盛んでないため、少なくとも仏教界では「超宗派」が目新しいものになっています。一般向けのサイトですから、ほんとうは「仏教徒によるインターネット寺院」でも構わないのですが、彼岸寺はまだまだ小さなメディアで仏教界の中でも地位を確立しているというところまでは行っておりませんから、対外的な差別化の表現としてこの言葉を使っています。

日常的に宗派関係なく仏教徒同士で集まりを持つ私たちにとって「超宗派」という言葉はほとんど意味を持たないのですが、それくらい超宗派が当たり前になっていることは日本においては珍しいことと考えられているので、それを今のところ活用しているということです。ですから当然、英語版サイトではキャッチコピーを変えなければなりません。宗派など関係なく仏教徒同士が交流を持ち活動を行うことが当たり前である海外の仏教事情を踏まえると、「超宗派」なんて言っても言わなくても同じか、かえって日本仏教が宗派にこだわりを持ちすぎていることを露呈するだけでしょう。

英語版の彼岸寺に、メディアとして他にはあまり見られない特徴があるとすれば、それは「日本人の」仏教徒が仏教界の動きを「英語で」伝えるということ、ではないでしょうか。とすれば、おそらくキャッチコピーには「Japan」とか「Japanese」という言葉が入ってくることになるでしょう。

どこまでが超宗派に含まれるのか

日本国内だけでも仏教系を標榜する宗教宗派は数えきれないほどたくさんあります。それらのどこまでを超宗派に含み、どこで線引きをするのかというのは、確かになかなか難しい問題です。この彼岸寺は浄土真宗に属する私が始めたものですが、次第にご縁が広がっていき、今では真言宗や曹洞宗や日蓮宗やその他いろいろな宗に属する皆さんと協力して運営しています。基本的にはやりたい人が集まってやっているご縁に基づくメディアということですので、情報の線引きについては信頼できる仲間内のあうんの呼吸で行っています。

宗派を超えて一緒に何かをやっていけそうな人しか集まらないからだと思いますが、私たちのスタッフにはいわゆる新興宗教系の人はおらず、今のところ伝統仏教系の人だけで構成されています。ただ、ニュース記事などでは新興宗教系の仏教教団についても取り上げることもあります。私たちの目的は「今の」そして「本物の」仏教に触れてもらうことですので、スタッフがその目的に叶うと判断する情報であれば、載る可能性があります。

私たちの取り上げ方が足りないのかもしれませんが、私の見るところでは伝統仏教系には「今」感が欠けており、新興宗教系には「本物」感が欠けているという傾向にあるようです。今後、その両方の良いところを統合するようなコンテンツをどんどん発掘していきたいです。

扱うコンテンツの範囲はどこまでか

ひと口に仏教と言っても、私たち日本人の場合はすでに言語や生活様式に深く仏教的な要素が浸透していますから、その切り口は無数にあるわけです。何も教科書的に仏教教義を陳列するだけが仏教の情報発信ではないわけで、これまでにも仏像や寺院建築に関して美術的・歴史的視点から紐解いていく、いわば仏教周辺コンテンツと言うべきものを、宗教としてというよりは文化的な側面から興味を持ってもらおうとする試みはいくつもありました。

しかしこれまで、それらは主に出版社やテレビ局など仏教界の外側からの視点で生み出されてきたコンテンツであり、文化的側面を超えたところまで踏み込んで仏教周辺コンテンツの面白みを引き出そうという試みが、あまりなされて来なかったのではないかと思います。元来、日本人はあまり宗教的な事柄に関して積極的に議論したがらない傾向にあると思いますが、やはり既存のメディアも同じように宗教に関する事柄について「それをやってはまずいんじゃないか」「これはさすがに問題になるんじゃないか」と勝手に身構えてしまい、ためらってきた部分があるのではないでしょうか。もちろん、興味本位で取り上げるべきではない繊細な事柄もあるとは思いますが、もっと突っ込んで掘り下げていい事柄もたくさんあります。しかしおそらく、そう思って突っ込んでみたら今度はそれに対して宗教教団が強烈に抗議行動などを起こしたりするものだから、メディア側が「触らぬ神に祟りなし」となってしまうのかもしれません。

そのような問題を踏まえ、私たち彼岸寺は仏教界側にすでに身を置く自分たち自身が情報発信の主体となり、また仏教を掘り下げようとする外側のメディアなどの人々に対して「こんなのもあるよ」とか「その辺はあまり触らないほうがいいよ」とか「あそこは意外とえぐっても大丈夫だよ」というガイドとしての役割を果たすことによって、これまで狭く浅くしか掘り下げられなかった仏教周辺コンテンツがもっと広さと深みを増して、より多くの人々に仏教を手に取ってもらえるような魅力的なきっかけを提供していくことができればいいと考えています。

彼岸寺というメディアの強み

もともと仏教の教えは時と場所に制限を受けない普遍的な真理ですから、それが正しく受け継がれてさえいれば、どこにおいてもその顕われは見いだされる可能性があるはずです。別に、伝統仏教教団だから教えが正しくて新興仏教教団だから教えが間違っているということは、言えません。ただ、伝統仏教教団のほうが歴史が長い分、それだけ多くの人の批判にさらされてきたわけで、それを乗り越えてきた経験を踏まえているという点において、これまで教団が受持してきた経文などのテキストや風土などには、ある程度の客観的な信頼性が担保されているだろうということができると思います。

私たち彼岸寺の僧侶は皆、それぞれが何かしらの伝統仏教教団に所属しており、適度な距離を保ちながらつながっています。そして、伝統仏教教団が保持してきたコンテンツを現代的な味に調理しなおして美味しそうに盛りつける仕方にも、少しずつ慣れてきました。そういう意味では、「こりかたまった仏教をときほぐし、今に生きる仏教へと再編集する、まったく新しいメディア」として、社会一般と仏教界とをつなげるコンテンツを生み出すような、ユニークな仕事ができればと思っています。

仏教におけるコアコンテンツとは

ところでお気づきかもしれませんが、私はここまで「コンテンツ」に関して「仏教周辺コンテンツ」についてしか触れておらず、肝心の「仏教コアコンテンツ」については述べていません。仏教コンテンツの「コア」は何かといえば、それはもう言うまでもなく、「宗教としての仏教」です。コアと周辺の関係を例えるなら、寺院の本尊と参道の商店のようなものでしょうか。いくら参道をきれいにして商店が知恵をしぼってエンターテイメントとしての周辺の魅力を高めたとしても、寺院が荒れ果ててしまっていたり、ましてや肝心の拝むべき本尊がなかったりしたら、それらの努力のほとんどはまったく意味のないものとなってしまいます。

もちろん私たちも伝統仏教の教義や仏教語の由来などを解説したりしますが、それは周辺コンテンツと同様に知識を与える以上のものではなく、仏教コアコンテンツとは言えません。私が言う「宗教としての仏教」を担うことのできる仏教コアコンテンツというのは、それに触れた人の価値観を塗り替えて人生に重大な影響を及ぼすような、ある種危険な破壊力を持ったコンテンツのことを指します。

そのような種類のコンテンツは、人を媒介してしか伝達されないのではないかと思います。もちろん、教典などに書かれた言葉を通じてブッダや親鸞の教えや人柄に触れることはできます。しかしそれらも、今の世に生きながらそれをその時代なりに正しく本質的に受け継ぐ人がいてこそ、本当にまた同時代の人を惹き付ける魅力を持ちうるのではないでしょうか。

彼岸寺というメディアの限界

本来、仏教コンテンツの醍醐味は宗教的な魅力に極まるに違いないのですが、どうしたことか現代の伝統仏教からはそのような強烈な魅力があまり感じられません。地域社会に自然に溶け込んだお寺の風景というのも良いものですが、ただ人が集まるだけの村の集会所に成り下がってしまっては、お寺に未来はないでしょう。観光寺院も楽しいものですが、何か足りない気がします。

今、伝統仏教教団はテキスト化された教義を正しく受け継ぐシステムとしては機能していますが、その教義が紙に書いてあるだけでは宗教としての魅力が発揮しきれていません。それを生かすには、それを今の言葉で語り人を惹き付けられる強烈なカリスマが求められていると思います。

今「この人なら」と付いて行けるお坊さんがどれだけいますか?残念ながら、そのようなカリスマは私たち彼岸寺にもいませんし、逆にある意味、私たちのように伝統教団と良好な所属関係を保っていられるような人からは生まれてこないような気がします。ですから、私たち彼岸寺の強みであり限界でもあるのですが、彼岸寺は「仏教コアコンテンツ」を正面から攻めてくれる気合いの入ったお坊さんの登場を待ちながら、自分たち自身は伝統教団と仲良くしながら地道に「仏教周辺コンテンツ」を扱うことに徹する、というのが仕事になってくると思います。

腐っても伝統仏教

先ほど宗教的カリスマは伝統教団と仲良くできないだろうと言いました。しかし、それと同時に、単なる宗教的カリスマなら巷にもテレビにも腐るほどいますが、本物の仏教の宗教的カリスマというのはやはり伝統教団からしか生まれないだろうとも思っています。今、伝統仏教教団は組織的にはかなり閉塞感が漂っていますが、とはいえ個々には人生の師と呼べるような立派な僧侶もまだまだたくさんおられますし(そういう方はたいてい控えめで、表に出て来られないのですが)、仏教の学びを深めていくためのさまざまな方法も用意されています。

それらのステップを踏んで最終的にどこまでジャンプできるかは分かりませんが、少なくともそのステップを踏まずに飛んだ先に仏教の真理をつかむということはあり得ないでしょう。伝統仏教の確立してきた教義実践のステップを踏んでジャンプした先に、ついに着地した地点で見えた美しい景色について語ろうとしたら、まだそれを見たことがない教団人たちからの言葉狩りにあって総スカンを食らってしまったなんていうのはありそうな話ですが、少なくとも仏教的に確立されたステップを踏まずに何かを得られたとしても、それは仏教と呼べないはずです。

まとめ

彼岸寺は「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」です。本物の仏教の動きを、いち早く皆さんに伝えて行きたいと思います。仕組み的にもスタッフ的にも目立つところのないふつうのメディアかもしれませんが、これから仏教が未来へと受け継がれていくために少しでも役に立てれば幸いです。これからも、自分たちなりにやれることを頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。

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お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが進む時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」についてつらつらと書きます。エッセイですので不正確な表記やおおげさな表現が出てくるかもしれませんが、どうぞご了承ください(誤り等あれば修正しますので、ご指摘いただければ幸いです)。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(2005年12月刊行)