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2008年6月 アーカイブ

2008年6月27日

皆さんの小学校や中学校時代、時間割の中に「道徳」という科目はありましたか?私の場合は北海道の田舎の公立学校でしたが、たしか「道徳」は週に一時間だけ割り当てられていて、NHKのテレビ番組を見せられたりジャンボカボチャの栽培をさせられたり、担任の先生の趣味によって内容を決められている感じで、なんだか先生自身もその時間を持て余しているというか、学校としての統一的な方針が感じられない消化試合的な科目だった記憶があります。「道徳」の授業ですら道徳を学ぶ機会としてはほとんど活かされていなかったので、宗教などは小中学校でまったく触れる機会がありませんでした。

さて、昨今の日本で起こる様々な事件をニュースなどで見聞きして得た印象から「日本人の心が荒廃している」と感じておられる識者の方々が、教育基本法の改正にあたって「日本人のこころが失われたのは、見えないものを敬い大切にする宗教的感性が失われたからだ。これからは宗教教育にもっと力を入れていかなければいけない」という議論をときどきされているようです。そういった教育の大切さは私も強く感じるのですが、実際これまでそのことの重要性について多くの人が指摘してきたにも関わらず、今のところそれが一向にうまくいきそうもないのは、もしかしたら皆さんが考えるやり方に問題があるのかもしれません。

公立の学校というのは公共の機関ですから、特定の宗教に偏った教育はすべきではないでしょう。もちろん、歴史的な文脈で宗教にまつわる出来事について知識として触れていくのは必要ですが、少なくとも布教的なやり方で宗教を教えることは学校でやるべきことではないと思います。ですから、少なくとも宗教を取り扱うにあたっては学問的側面のみにしよう、あるいは、面倒なのでいっそのこと宗教そのものに距離を置こう、というような学校のスタンスというのは、それなりに理解できます。

しかし、そうした基本的なスタンスを踏まえながら、一方で「宗教は大切だ、なぜなら、大切だからだ」というようなやり方で宗教を取り上げようとすることには、やはり無理があるでしょう。子どもたちは、納得できないことは受け入れられません。見えないものを敬うことは大切だ、と学校で教えられても、先生が理由と目的を明確に合理的に説明できなければ、今の子どもたちは見向きもしないのではないでしょうか。他の科目は「なぜ?どうして?」の疑問を持つことを推奨されているのに、宗教の授業だけ「大事だから大事」というわけにはいきません。「いのちは大切だ、宗教は大切だ。なぜかって?大切だから大切なんだ」という種類の教育は、家庭での心の教育の中で行われるべきで、あまり学校でなされるべき教育の種類ではないと思います。

逆説的ですが、もし学校で宗教教育をやりたかったら、宗教というものについて徹底的に合理的・科学的・文学的な視点から客観的・批判的に評価するための学問を、いわば宗教リテラシー教育を行なうことが、最終的には日本人の宗教性を底上げすることになるのではないかと、私は思います。人身が荒廃している理由を宗教に対する不信心に帰するとしても、だからといって何でもかんでも宗教を信じる心を養えばよいというものではないし、第一そのようなものを学校で養おうと思って養えるものでもありません。

つまるところ現在、日本の学校教育が抱えている宗教に関する問題というのは、それが宗教の大切さを教えていないということではなくて、宗教に対する批判的精神を養っていないということにあるのではないでしょうか。「なぜ大切なのか」を説くのではなく、「なぜそれを大切にする人がいるのか」を追求するほうが、遥かに実践的な学びになるでしょう。宗教現象を正しく理解してそれに対する自分の立ち位置を確認し、うまく付き合っていくための技術が必要なのです。そういう技術を持たない人は、十分に知的な成熟を得ていないにも関わらず、中途半端に見聞きした「科学的」らしい言説を根拠に「宗教」そのものをあやしいものと位置づけて毛嫌いしてしまうことがあります。そしてまたそういう人こそ、ちょっとしたことをきっかけとして、また自分の未成熟な知識を拠り所にしてしまい、反対に科学的にも宗教的にも無価値なものを信じるようになってしまう可能性も大いに秘めています。

宗教に向き合う姿勢として、「正しいから正しいんだ」「ありがたいからありがたいんだ」というのは、それはそれでひとつの大きなあり方ですので、尊重すべきところもあります。しかしまた、その宗教についてまったく別の角度から、たとえば合理的・科学的・文学的な視点から再評価してみることも、宗教についての理解を深める上で非常に重要な作業であるはずです。真に価値ある宗教なら、これらの作業を踏まえた上でも、評価は揺るぎないはずです。どんな宗教関係者も、自分の宗教は本物だと思っているでしょうから、批判的な視点で宗教を眺めるための宗教リテラシー教育を学生に施すことについて、苦情は出ないことでしょう。

要約すると、義務教育で宗教教育をしたいなら、「きみたちは知的にも精神的にも未熟だから、自らが愚かであることをよく自覚して、大人になって宗教に騙されないように、彼らの騙しの手口を徹底的に洗い出し、宗教に対する批判的な視点を養おう」ということでいいのではないでしょうか。こうすることで、仮に宗教人口の総数は増えないにせよ、全体の足を引っ張る似非宗教人口を減少させ、結果的に日本人全体の宗教的感性の向上を目指す、というのはどうでしょうか?

2008年6月22日

この彼岸寺というサイトを運営していると、多くの機会に「あなたたちの活動の目的は何ですか?」ということを聞かれます。
今日はその質問について答えながら、私たち彼岸寺の仕事とその限界について、あくまでも私の視点からですが、自己分析的に迫ってみます。

活動のコンセプトについて

私たちは「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」というキャッチコピーのもと、僧侶をはじめ宗派を超えた仏教徒が集まって運営するインターネット・メディアであり、いわば仏教系インディペンデント・メディアとして世界中の人に対し、「今の」そして「本物の」仏教に広く親しんでもらうため、特定の宗派の情報に偏らず仏教に関するあらゆる質と鮮度の高い情報をコンスタントに提供し続けることを目的としています。

サイトコンセプトは、このように結んでいます。「こりかたまった仏教をときほぐし、今に生きる仏教へと再編集する、まったく新しいメディアです。彼岸寺を通じて世界中のみなさんに、すてきなご縁を結んでいただければ、とてもうれしいです。」文字通り世界中のみなさんに情報を届けるべく、現在、英語版のサイトも準備中です。

なぜ、インターネットなのか

インターネットを主に一種のメディアとして活用しているという点で、私たちはまだまだ旧世代的な仕方でしかインターネットを活用していません。インターネットによって人の生き方を変えてしまうこと、私たちで言えばインターネットによって人間の仏教的な生き方を変えてしまうというようなことはしておらず(できるとも思いませんし、するつもりもありませんが)、たとえばYahoo!のようにインターネット上の自分の場所へあちこちから大勢の人を集めるということ、私たちで言えばインターネット上の自分の場所へ仏教に興味のある人を大勢集めるということを目指しているに過ぎません。

しかし、それでもやはりインターネットが私たちにとって重要であるのは、それが絞られたターゲットに対して比較的低コストで地域的な制約なく情報発信ができるということです。このことはインターネットがもたらすメリットとしてあらためて言うまでもないことですが、特にターゲットを「仏教に興味のある世界中の人」に設定している私たちにとっては、非常に大きな意味を持っています。

なぜ、超宗派なのか

「超宗派」なんて一般の人にとっては何のことだか分からないと思いますが、日本仏教界では異なる宗派同士の交流があまり盛んでないため、少なくとも仏教界では「超宗派」が目新しいものになっています。一般向けのサイトですから、ほんとうは「仏教徒によるインターネット寺院」でも構わないのですが、彼岸寺はまだまだ小さなメディアで仏教界の中でも地位を確立しているというところまでは行っておりませんから、対外的な差別化の表現としてこの言葉を使っています。

日常的に宗派関係なく仏教徒同士で集まりを持つ私たちにとって「超宗派」という言葉はほとんど意味を持たないのですが、それくらい超宗派が当たり前になっていることは日本においては珍しいことと考えられているので、それを今のところ活用しているということです。ですから当然、英語版サイトではキャッチコピーを変えなければなりません。宗派など関係なく仏教徒同士が交流を持ち活動を行うことが当たり前である海外の仏教事情を踏まえると、「超宗派」なんて言っても言わなくても同じか、かえって日本仏教が宗派にこだわりを持ちすぎていることを露呈するだけでしょう。

英語版の彼岸寺に、メディアとして他にはあまり見られない特徴があるとすれば、それは「日本人の」仏教徒が仏教界の動きを「英語で」伝えるということ、ではないでしょうか。とすれば、おそらくキャッチコピーには「Japan」とか「Japanese」という言葉が入ってくることになるでしょう。

どこまでが超宗派に含まれるのか

日本国内だけでも仏教系を標榜する宗教宗派は数えきれないほどたくさんあります。それらのどこまでを超宗派に含み、どこで線引きをするのかというのは、確かになかなか難しい問題です。この彼岸寺は浄土真宗に属する私が始めたものですが、次第にご縁が広がっていき、今では真言宗や曹洞宗や日蓮宗やその他いろいろな宗に属する皆さんと協力して運営しています。基本的にはやりたい人が集まってやっているご縁に基づくメディアということですので、情報の線引きについては信頼できる仲間内のあうんの呼吸で行っています。

宗派を超えて一緒に何かをやっていけそうな人しか集まらないからだと思いますが、私たちのスタッフにはいわゆる新興宗教系の人はおらず、今のところ伝統仏教系の人だけで構成されています。ただ、ニュース記事などでは新興宗教系の仏教教団についても取り上げることもあります。私たちの目的は「今の」そして「本物の」仏教に触れてもらうことですので、スタッフがその目的に叶うと判断する情報であれば、載る可能性があります。

私たちの取り上げ方が足りないのかもしれませんが、私の見るところでは伝統仏教系には「今」感が欠けており、新興宗教系には「本物」感が欠けているという傾向にあるようです。今後、その両方の良いところを統合するようなコンテンツをどんどん発掘していきたいです。

扱うコンテンツの範囲はどこまでか

ひと口に仏教と言っても、私たち日本人の場合はすでに言語や生活様式に深く仏教的な要素が浸透していますから、その切り口は無数にあるわけです。何も教科書的に仏教教義を陳列するだけが仏教の情報発信ではないわけで、これまでにも仏像や寺院建築に関して美術的・歴史的視点から紐解いていく、いわば仏教周辺コンテンツと言うべきものを、宗教としてというよりは文化的な側面から興味を持ってもらおうとする試みはいくつもありました。

しかしこれまで、それらは主に出版社やテレビ局など仏教界の外側からの視点で生み出されてきたコンテンツであり、文化的側面を超えたところまで踏み込んで仏教周辺コンテンツの面白みを引き出そうという試みが、あまりなされて来なかったのではないかと思います。元来、日本人はあまり宗教的な事柄に関して積極的に議論したがらない傾向にあると思いますが、やはり既存のメディアも同じように宗教に関する事柄について「それをやってはまずいんじゃないか」「これはさすがに問題になるんじゃないか」と勝手に身構えてしまい、ためらってきた部分があるのではないでしょうか。もちろん、興味本位で取り上げるべきではない繊細な事柄もあるとは思いますが、もっと突っ込んで掘り下げていい事柄もたくさんあります。しかしおそらく、そう思って突っ込んでみたら今度はそれに対して宗教教団が強烈に抗議行動などを起こしたりするものだから、メディア側が「触らぬ神に祟りなし」となってしまうのかもしれません。

そのような問題を踏まえ、私たち彼岸寺は仏教界側にすでに身を置く自分たち自身が情報発信の主体となり、また仏教を掘り下げようとする外側のメディアなどの人々に対して「こんなのもあるよ」とか「その辺はあまり触らないほうがいいよ」とか「あそこは意外とえぐっても大丈夫だよ」というガイドとしての役割を果たすことによって、これまで狭く浅くしか掘り下げられなかった仏教周辺コンテンツがもっと広さと深みを増して、より多くの人々に仏教を手に取ってもらえるような魅力的なきっかけを提供していくことができればいいと考えています。

彼岸寺というメディアの強み

もともと仏教の教えは時と場所に制限を受けない普遍的な真理ですから、それが正しく受け継がれてさえいれば、どこにおいてもその顕われは見いだされる可能性があるはずです。別に、伝統仏教教団だから教えが正しくて新興仏教教団だから教えが間違っているということは、言えません。ただ、伝統仏教教団のほうが歴史が長い分、それだけ多くの人の批判にさらされてきたわけで、それを乗り越えてきた経験を踏まえているという点において、これまで教団が受持してきた経文などのテキストや風土などには、ある程度の客観的な信頼性が担保されているだろうということができると思います。

私たち彼岸寺の僧侶は皆、それぞれが何かしらの伝統仏教教団に所属しており、適度な距離を保ちながらつながっています。そして、伝統仏教教団が保持してきたコンテンツを現代的な味に調理しなおして美味しそうに盛りつける仕方にも、少しずつ慣れてきました。そういう意味では、「こりかたまった仏教をときほぐし、今に生きる仏教へと再編集する、まったく新しいメディア」として、社会一般と仏教界とをつなげるコンテンツを生み出すような、ユニークな仕事ができればと思っています。

仏教におけるコアコンテンツとは

ところでお気づきかもしれませんが、私はここまで「コンテンツ」に関して「仏教周辺コンテンツ」についてしか触れておらず、肝心の「仏教コアコンテンツ」については述べていません。仏教コンテンツの「コア」は何かといえば、それはもう言うまでもなく、「宗教としての仏教」です。コアと周辺の関係を例えるなら、寺院の本尊と参道の商店のようなものでしょうか。いくら参道をきれいにして商店が知恵をしぼってエンターテイメントとしての周辺の魅力を高めたとしても、寺院が荒れ果ててしまっていたり、ましてや肝心の拝むべき本尊がなかったりしたら、それらの努力のほとんどはまったく意味のないものとなってしまいます。

もちろん私たちも伝統仏教の教義や仏教語の由来などを解説したりしますが、それは周辺コンテンツと同様に知識を与える以上のものではなく、仏教コアコンテンツとは言えません。私が言う「宗教としての仏教」を担うことのできる仏教コアコンテンツというのは、それに触れた人の価値観を塗り替えて人生に重大な影響を及ぼすような、ある種危険な破壊力を持ったコンテンツのことを指します。

そのような種類のコンテンツは、人を媒介してしか伝達されないのではないかと思います。もちろん、教典などに書かれた言葉を通じてブッダや親鸞の教えや人柄に触れることはできます。しかしそれらも、今の世に生きながらそれをその時代なりに正しく本質的に受け継ぐ人がいてこそ、本当にまた同時代の人を惹き付ける魅力を持ちうるのではないでしょうか。

彼岸寺というメディアの限界

本来、仏教コンテンツの醍醐味は宗教的な魅力に極まるに違いないのですが、どうしたことか現代の伝統仏教からはそのような強烈な魅力があまり感じられません。地域社会に自然に溶け込んだお寺の風景というのも良いものですが、ただ人が集まるだけの村の集会所に成り下がってしまっては、お寺に未来はないでしょう。観光寺院も楽しいものですが、何か足りない気がします。

今、伝統仏教教団はテキスト化された教義を正しく受け継ぐシステムとしては機能していますが、その教義が紙に書いてあるだけでは宗教としての魅力が発揮しきれていません。それを生かすには、それを今の言葉で語り人を惹き付けられる強烈なカリスマが求められていると思います。

今「この人なら」と付いて行けるお坊さんがどれだけいますか?残念ながら、そのようなカリスマは私たち彼岸寺にもいませんし、逆にある意味、私たちのように伝統教団と良好な所属関係を保っていられるような人からは生まれてこないような気がします。ですから、私たち彼岸寺の強みであり限界でもあるのですが、彼岸寺は「仏教コアコンテンツ」を正面から攻めてくれる気合いの入ったお坊さんの登場を待ちながら、自分たち自身は伝統教団と仲良くしながら地道に「仏教周辺コンテンツ」を扱うことに徹する、というのが仕事になってくると思います。

腐っても伝統仏教

先ほど宗教的カリスマは伝統教団と仲良くできないだろうと言いました。しかし、それと同時に、単なる宗教的カリスマなら巷にもテレビにも腐るほどいますが、本物の仏教の宗教的カリスマというのはやはり伝統教団からしか生まれないだろうとも思っています。今、伝統仏教教団は組織的にはかなり閉塞感が漂っていますが、とはいえ個々には人生の師と呼べるような立派な僧侶もまだまだたくさんおられますし(そういう方はたいてい控えめで、表に出て来られないのですが)、仏教の学びを深めていくためのさまざまな方法も用意されています。

それらのステップを踏んで最終的にどこまでジャンプできるかは分かりませんが、少なくともそのステップを踏まずに飛んだ先に仏教の真理をつかむということはあり得ないでしょう。伝統仏教の確立してきた教義実践のステップを踏んでジャンプした先に、ついに着地した地点で見えた美しい景色について語ろうとしたら、まだそれを見たことがない教団人たちからの言葉狩りにあって総スカンを食らってしまったなんていうのはありそうな話ですが、少なくとも仏教的に確立されたステップを踏まずに何かを得られたとしても、それは仏教と呼べないはずです。

まとめ

彼岸寺は「超宗派仏教徒によるインターネット寺院」です。本物の仏教の動きを、いち早く皆さんに伝えて行きたいと思います。仕組み的にもスタッフ的にも目立つところのないふつうのメディアかもしれませんが、これから仏教が未来へと受け継がれていくために少しでも役に立てれば幸いです。これからも、自分たちなりにやれることを頑張っていきますので、どうぞよろしくお願いします。

2008年6月 4日

宗教について質問すると「特に信じている宗教はありません」と答える多くの日本人のことを、外国人が奇異に感じたり人間性に疑問を抱くというのはよく聞く話です。ちょうど最近、日本人の宗教観に関するアンケート記事が読売新聞に掲載されていたので、そこから少し考えてみたいと思います。


読売新聞社が17、18日に実施した年間連続調査「日本人」で、何かの宗教を信じている人は26%にとどまり、信じていない人が72%に上ることがわかった。

ただ、宗派などを特定しない幅広い意識としての宗教心について聞いたところ、「日本人は宗教心が薄い」と思う人が45%、薄いとは思わない人が49%と見方が大きく割れた。また、先祖を敬う気持ちを持っている人は94%に達し、「自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがある」という人も56%と多数を占めた。

多くの日本人は、特定の宗派からは距離を置くものの、人知を超えた何ものかに対する敬虔(けいけん)さを大切に考える傾向が強いようだ。

この結果によれば、何はともあれ日本人は先祖を敬う民族であるということが分かります。何か特定の宗教を信じている人が3割を切っているにも関わらず、お寺や神社が昔ながらのやり方で今でもなんとかやって来られたのは、実情、誰しも個人としては特に宗旨は何でもいいかあるいは必要ないくらいに思っているのだけど、先祖代々受け継いだものは尊重しなければご先祖様に申し訳が立たないので、決められた宗旨で法事や神事を先祖供養のために慎ましく執り行っているに過ぎないのではないでしょうか。「○○を大切にしないと後で大変なことが起こる」「○○をしっかり供養すれば良い方向に物事が進む」というのは不安煽動型宗教の原始的なあり方ですが、この「○○」の部分に「神」を入れようが「仏」を入れようが「先祖」を入れようが形式としてはどれも同じことで、そういう意味ではやはり日本人の先祖崇拝も宗教的感覚の一種とみなすことができるでしょう。

考えてみれば先祖というのもすでにこの世的なあり方にはない超越的な存在ですから、その存在に対して敬いの気持ちを強く持つ日本人というのは、それを自分自身が宗教的な振る舞いであると自覚しているかどうかは別にしても、非常に宗教的な感性の持ち主たちであることは間違いないのではないかと思います。私たちはしばしば、結婚や出産や試験に合格したときなど何か良いことがあるたびに先祖の墓前に報告して日頃の加護に感謝したり、病気や交通事故や会社の倒産など何か悪いことが起こると先祖供養を勤めて更なる加護をお願いすることがありますが、このような行為が自然に無意識に感覚的に共有されているというのは、考えてみればすごいことです。複数の異なる宗教が拮抗する国で、細木さんや江原さんのテレビ番組が主要放送局で放映されるということはまずあり得ないでしょう。長押の上に先祖の写真を飾っても、アッラーの神は振り向いてくれません。

さて、折々に優しい表情と厳しい表情を変幻自在に魅せてくれる豊かな自然環境に囲まれて文化を育んできた日本人は、あらゆる自然現象に対してあらゆる神仏を見いだす八百万(やおよろず)の宗教観を発達させてきたと言われます。もしかしたらその神々の中でも最も人々の身体感覚に近い神が、写真や家系図などから生前のその人とのつながりを意識できる「先祖」であったのかもしれません。また、皆さんご存知のように神や仏というのは「今はこちらの仏がいい」「いや、次はこっちの神を信じるべきだ」というふうに時代の政治状況等によって立場が翻弄されるのが常ですが、さすがに個人個人の「先祖」神にまではお上も口出ししてこないというわけで、人々の宗教的感性の受け皿として「先祖」という存在が大きくなってきたという可能性もあります。

私たちはあまりにも祖先を敬うことを当たり前と思っているため、そのことがどれほど宗教的であるか考えもせずにいますが、たとえば他所の国を見てみれば先祖供養や墓参りなどしないという人たちもたくさんいます。今、日本だけでなく欧米などでも宗教離れが進んでいるという話を聞きますが、たしかに欧米社会において例えばクリスチャンだった人が教会に行かなくなるというのは、人々の宗教離れの度合いを測る目安として意味を持つかもしれません。しかし少なくとも日本において、例えば仏教徒だった人がお寺に行かなくなるというのは、それはたまたまこれまで先祖供養の表現方法として先祖代々の寺院において法事をするということを選んでいただけで、これからはもっと自分のやり方で先祖供養に励みたいと決意して寺院との檀家関係に終止符を打ったということならば、それを単純に宗教離れということはできないでしょう。むしろ、寺社との形骸化した関係の中で世間体を気にして形だけ法要行事を勤めるという人よりも、その宗教心は高まっていると言ってもいいくらいです。

にもかかわらず、どうして日本人は自分のことを「宗教心が薄い」「宗教を信じていない」と考えるのでしょうか。読売新聞のコラムで山折哲雄氏も書いておられましたが、江戸時代以前には自らの宗教心を他国との比較によって意識する必要のなかった日本人も、言葉によっては何とも定義しがたい日本人独特の八百万の宗教観について自分では整理をつけることができないまま、次第に一神教国の宗教観の影響を受けて「宗教心を持つこと」イコール「特定の一神教の神に信仰を捧げること」と考えるようになってしまっているのかもしれません。御先祖様だけは大事にするけれども寺社仏閣などにはあまり気持ちが向かない人は、「宗教心が薄く、宗教を信じていない」となるのでしょうし、あっちのお寺もこっちの神社もそれぞれにご利益があるけど何より御先祖様を大事にするという人は、「宗教を信じていないけれども、宗教心は薄くない」となるのでしょう。

確かに、私自身のことを考えてみても、「宗教を信じているか?」と聞かれれば、私は自分のことを「宗教心が薄い」とは考えないまでも、「信じている」と自信を持って答えるのに若干のためらいがあります。私は宗教というのは、私という小さな器が持つものさしを超越する真理だからこそ、宗教がほんとうの宗教でありうるのだと考えています。真理というのは人間が自分で作りだせるものではなくて、求めようとする私めがけて向こうからやってくるような、そういうものだろうと思います。だから、私が「あの人の言うことは信じる」というのと同じレベルで「あの神様の言うことは信じる」というようなものではないはずです。自分のものさしで特定の宗教を選び、信じることにするという信仰のあり方をすんなりと受け入れるためには、よほど個人主義・人間中心主義が社会に行き届いていることが条件となるのではないでしょうか。私にとって仏教は、有り難いご縁があって向こうからやってきてくれた真理です。たまたま出会ったからには、もっと親しんでいきたいと思っています。

少し話しはそれましたが、もともと日本人が八百万の宗教観であることに加えて、とりわけ日本ではカルト教団の活動が社会問題化して「宗教」そのものに対する警戒感が高まっており、人が自ら進んで特定の宗教を選び信仰に傾倒することをネガティブに受け止める風潮ができあがってしまいました。そんな状況の中で「あなたは特定の宗教を信じていますか?」と質問されれば、多くの人が「信じていない」と答えるのも無理はありません。だからといって、外国人が自分の価値観に依った質問の仕方で日本人の宗教性に疑問を呈するのはいかがなものでしょうか。日本人も努力して自分の立場を自覚した上で表現を工夫したほうがいいとは思いますが、外国人のほうももう少し質問の仕方を変えて「先祖とのつながりを感じることはありますか?」「いのちの営みに人間の力を超えた何かを感じたことはありますか?」などというふうにしてみたらどうでしょう。イエスとかアッラーとかブッダとか、それぞれの宗教によって超越的な存在に付けられる名前は違いますが、日本の場合はそれに「先祖」という名前がついているのだと考えれば、国民の94%がいわば「先祖教」の信者であるという、物質文化信仰に傾きがちな今の世界の中でも非常に希有な信仰の篤い先進国として注目されるかもしれません。

ただし、だからといって「先祖教」という宗教教団を打ち立ててしまえばいいということではありません。そんなことをしたらかえって逆効果、ただ自分の先祖を敬いたいだけの素朴な信者と、数多の家族の総体としての国民的先祖神を敬えと言い出すに違いない教団側との対立が激しくなって、混乱を招くだけでしょう。「宗教心はある」けれども「特定の宗教は信じていない」という人が多いという事実はおそらく、祖先を敬う素朴で純粋な自分たちの気持ちを「先祖教」という特定組織の利害関係の渦へと勝手に収斂されたくないという人々の気持ちを反映したものと言えます。

なぜ、日本人は「特定の宗教は信じていない」ということにこだわるのでしょうか。それはやはり、伝統宗教教団も含めたこれまでの幾多の宗教組織が、本来持つべき純粋な信仰心を忘れて次第に組織の維持と発展そのものを目的とするようになり、人々の悩みとはまったくかけ離れたところで押し付けがましく机上の空論を述べ立てるだけになったり、人の幸せをめちゃくちゃにしてしまうような反社会的な行動をとるようになってしまう姿を、人々が嫌というほど見せつけられてきたからではないかと思えてなりません。八百万の神々には何も責任はないのですが、特定の神仏に対する信仰が生まれればそれを担ぐ人たちが集団を作ってドグマと利権を争い合うようになり、もともとの個人の純粋な気持ちそのままに神仏へ向き合うことが難しくなります。皮肉なことですが、本来的に個人個人の所属から引きはがすことのできない神である「先祖」神が、最も集団として担ぎ上げられにくい神として今なお純粋な信仰を集めているということかもしれません。

先祖を敬い、神仏を大切にし、自然の中に人間を超えたものを感じる日本人。この島国独特の豊かな宗教的感性をよい方向に伸ばしていくことができれば、やがて世界によい宗教的影響を与えるうねりのきっかけとなっていくと思いますし、逆にそれができなければ、世界どころか日本の伝統は破壊され人心は荒廃していくのではないかと危惧します。今の時代を生きる私たちが後世に対して負っている大きな責任を感じずにはいられません。

お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが進む時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」についてつらつらと書きます。エッセイですので不正確な表記やおおげさな表現が出てくるかもしれませんが、どうぞご了承ください(誤り等あれば修正しますので、ご指摘いただければ幸いです)。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(2005年12月刊行)