2008年2月11日

最近、自分の信仰について語り合ったことがありますか?
と聞かれたら、恐らく多くの人が「ありません」と、
そして
「最近どころかそんなことこれまで一度もありませんよ」と
答えるのではないだろうか。

かくいう自分も、
5年ほど前に仏教界を志してから2〜3年の間、
僧侶になるための得度研修や住職課程などで
仲間たちと仏教について寺院について僧侶について、
そして何よりも社会生活の中での自分自身の信仰について
いろいろと語り合った時期が懐かしく思い出されるほど、
ここ最近はそういう話をしていないことに気付く。

研修の場に出て来る人などは
自分がこれから僧侶として社会の中でやっていく上で
自分自身の信仰について真剣に向き合わなければ
ならないだろう(さすがにまずいだろう)
という意識があるだけまだ良いが、
おそらく日本の全僧侶の何パーセントかは
そのような種類のことにまったく意識を持つことなく
世襲の流れの中だけでお坊さんをやっておられる方々も
おられるのではないだろうか。


ある程度の歳をとってから縁あって得度したという
年配のお坊さんから聞いた話だが、
自分が得度したばかりの頃に
代々住職を勤めておられる家系のお坊さんに、
「あなたはどのような信仰をもって
 僧侶をやっておられるのか」
と質問したところ、
「私にとって自分が僧侶であるということは、
 家族も檀家さんも納得している流れのことであり、
 まったく違和感がない」
という答えが返ってきて、愕然としたという。

おそらく質問を受けたお坊さんにしてみれば、
心構えもなにも、現状のようにやっているだけで
何も不都合はないのだからこれでいいじゃないか、
ということだったんだと思う。
確かに僧侶としてまったく違和感なく雲の流れのように
この世の中を軽々と自然に過ごしていけたら
素晴らしいことではあるのだが。

とにかく、お坊さんという職業に就いて
ある程度ふつうにやれるようになってくると、
だんだん自分の信仰について真剣に語り合う場が
少なくなってくるということは確かだ。

これは何も、皆の前で法話をする布教系の僧侶が偉くて、
専らお経ばかりを読む法要系の僧侶が劣っているなどと
言いたいわけではない。

どこかで聞いたような法話を
慣れきった調子で語る人もいるだろうし、
自分の信仰を法話に盛り込み熱をもって語る人もいる。
お経をただ法事のためだけに読む人もいるだろうし、
お経の言葉をかみしめて自分の信仰に結びつけながら
味わって読む人もいるだろう。

しかしいずれにしても多くの法要や説法の形式は
僧侶から聴衆へ一方的に向けられており、
ほとんど参加者同士の対話の余地はない。

お寺へお参りしてみれば感じられることだが、
多くの法要では内容に関する説明もなく
意味の分からないお経を長時間聞かされ、
その後の法話も僧侶から一方的に話をするだけで
質疑応答や茶話の時間を設けられていることは少ない。

それに加えて、特に都市部では
檀家同士の付き合いも希薄化しているから、
お参りしている人同士のコミュニケーションもなされない。

いや、何も
「私の信仰の核となる体験はかくかくしかじかでした」
なんて込み入った話を望むわけではないが、
せっかくのお寺の大きな法要のときには
「お宅も初盆ですか、
 うちもこの春に息子を亡くしましてね」というように、
お寺という信仰の場を通じて
お互いの体験や考えをシェアすることが
在家の仏教徒にとってとても重要なことだと思う。


そもそも「仏事」「法事」とは読んで字の如く、
事を通じて我が身の生き方を
仏法に照らし見るための機縁ではなかったか。
それが単なる形式的な儀式として
意味内容を失い形骸化してしまったら、
それはもはや宗教を失った伝統芸能に過ぎない。
伝統芸能にも申し訳ないので、
単に「伝統」とだけ呼んだほうがいいかもしれない。

伝統仏教教団の求心力が低下していると
いうことが言われ始めてすでに久しく、
各宗教団ではそれを取り戻すために
どうすればいいのかと高僧が集まっての議論が盛んだが、
だいたい答えは最初から決まっているようなものだと思う。

簡単な話で、
「信仰の現場である末寺が宗教性を取り戻せば良い」のだ。

いくら教団本山の高僧方が限りある知恵を絞って
今様の新規事業などを考案しようと試みたところで、
僧侶という井の中の生き物の宿命、
計画性もなく大局も見ることができず終いには
自らの私利私欲のために役立つ事業にだけ熱を上げるという
始末になるのは目に見えているのだから、
末寺から大金を集めて何かをしようなどと
初めから考えていただかないほうが
誰のためにもありがたいことではあるのだが、
もし集まってしまったお金の使い道に
困るようなことがあるときは、
ぜひ人材育成に力を入れてもらいたいと思う。

一般企業でも人材ほど大切なものはないと
言われるのだから、宗教ならなおさらのことである。
人を育てることを放置しておいて、システムが
なんとかしてくれるなんていうことがあるはずはない。


少し話がそれてしまったが、要するに言いたいのは、
在家仏教における信仰は日々の生活と不可分であり、
その信仰を高めていくには宗教性のある人間同士の
コミュニケーションが必要で、それを活性化させることが
教団の求心力を取り戻すためにも不可欠である、
ということである。

特に日本の諸仏教の中でも在家の色彩の強い浄土真宗には、
昔から信者同士のコミュニケーションを活性化させる
仕掛けがセットされてきた。

たとえば、蓮如上人の御一代記の中に
「物をいへいへと仰せられ候ふ。
 物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。
 信・不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。
 物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。
 ただ物を申せと仰せられ候ふ」
という言葉が出てくる。

何でもいいからモノを言ってみろ、
信じている人も信じていない人もただモノを言ってみろ。

どんなことでも語り合えば相手と心が通じるし、
自分に誤ったところがあれば正してもらうこともできる。

僧侶も信者も関係なく
どんなことでも腹を割って語り合うコミュニケーションが、
在家仏教の信仰をより良い方向に高めて行くために
最も重要なことであると、蓮如上人は見抜いていたのだろう。

実際、僧侶だけでなく信者同士で話をしたほうが、
人生経験として喜びや苦労など共感できることも多いし、
得るものも大きい。
そこに、他の人よりも多少は仏教の知識が多い
案内人としての僧侶が加わることで、
在家仏教的信仰に包まれた安心感のある日々の生活が
信者にもたらされたのではないだろうか。


このような信仰確認の集まりを浄土真宗では
「談合」と呼んで蓮如上人の頃から大切にしてきた。

談合とは、
何も密室で悪いことをこっそり話し合うことではなくて、
もともとは信仰について語り合う場だったのだ。
昔からお寺では、法要があり法話があり、
という流れは変わらないが、
「仏法は讃嘆・談合にきはまる」というくらい重視された
談合は、法話の内容について皆で話合いをする座であった。

これにより今から五百年以上も昔に在家仏教教団の信仰を
一気に広めた蓮如上人の先見の明には恐れ入るが、
その伝統を少しずつ腐らせてきたのが
その後の浄土真宗かもしれない。

今ではほとんどのお寺で
法話の後の寄り合い座談会など見られないし、
あったとしても茶話会程度のものである。

逆にこの手法を上手に取り入れてきたのが
仏教系の新宗教教団だ。
座談会・法座・接心など教団によって表現はさまざまだが、
それぞれ何かしらのかたちで信者同士あるいは
僧侶と信者による深い宗教的対話がセットされており、
この手法も一因となって
教線を大きく拡大してきた経緯が見て取れる。

時には
「知らないうちに大勢の信者が集まっている
 会合へ連れていかれ、改宗を迫られた」
とか危険な話も聞くが、座談会という形式そのものに
罪があるわけではないだろう。
人間として多少なりとも宗教性を分かち合うような場を
持つことは、経験として大事なことだと思う。


ところで、ここ彼岸寺ではいろいろなお寺と協力して
さまざまなイベントの企画がなされており、
一見仏教とは関係のなさそうなものもあったりして、
人によっては仏教の布教をおろそかにしてイベントめいた
ことばかりやってけしからんと見る向きもあるが、
実際のところ私たちはイベントを開催することそのものには
あまり興味を持っていない。

ただ「お寺という場をどのように
仏教が生きる場として再生できるか」という一点を意識し、
さまざまな試みを行っているに過ぎないのだ。

今、私が実現してみたいと思うのは、
お寺のコミュニケーションの機能を可能な限り高めること。
しかし、単にコミュニケーションを提供するだけでは、
電話やメールといった通常のコミュニケーション・ツールと
変わらない。

ではお寺に何があるかといえば、
お寺には、お堂があり、仏さまがいる。
ツールを介してではなく
大勢の人が集まれる現実の場を提供し、
そして人間同士のコミュニケーションを
仏さまに見守ってもらい、ときには参加してもらう。
こんなお寺が作れれば、何よりも楽しい。


今こそ伝統仏教が改めて蓮如上人に学ぶべき時が来ている。

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コメント (3)

パンダ:

地道に寺新聞を出したり、法話会、お経会をしているお寺と、していない所は、報恩講の参詣の人達をみればわかりますね。単純に数の問題ではなく、生き生きと参加しているか、義理と人情?に責められて仕方なく来ている方とは表情が違いますし(来られるだけすごい事ですが。)私の勝手な基準を書かせて頂くと、報恩講で法話のあとのお斎を寺院方が一般の人達と一緒に食べるか、別室に通されて、内輪ネタでつまらん話をするかで、どれだけ人を大切にしている寺院かがわかります。特別扱いも嫌ではないですが、私は門徒さんと話がしたいのに、寺族と門徒さんが分離している所が多いですね、でお寺に人が来なくなったと嘆くのです。

松本:

> パンダさん
仰ること、なるほどと共感しました。私も報恩講や法話会などでいくつか寺院をまわりますが、お斎(おとき=お食事)の席が、ご参詣の方々と僧侶とが一緒になっているところと、別々にされるところがありますね。招待側のお寺が招待僧侶に対して遠慮もあるのだと思いますが、その席も大事な仏縁ですから、遠慮せずに皆一緒の席にしてしまえばよいのになぁと感じます。

まる子:

はじめまして。以前から彼岸寺の記事は読んでいて、おもしろいなぁと思うことがいくつもありました。
今回新宗教について触れられていましたが、何を隠そう、私は立正佼成会の者です。私自身は現在19歳大学一年で、佼成会の活動に出るようになったのは大学に入ってからです。母方がもとから佼成会会員で私自身は3代目なのですが、高校までは宗教そのものに対して偏見をもっていました。けれど、とあることがきっかけで佼成会、そして宗教についての捉え方が変わり、今は宗教を通じての世界平和活動・自己練成に努め、アツい仲間も増えました。
佼成会では「法座」を大切にします。みんなが輪になって近状や悩み・気づきを共有し、お互いに感化しあったり相談しあったりします。その法座の中から法華経の教えを身近に感じることがあったり、人間・社会について考えさせられたりします。
もちろん、自分たちの信仰姿勢についても語り合ったりします。年齢も性別も立場も超えて、いろいろな学びがあります。
今回の「お寺の未来」の内容から、法座のありがたさを改めて感じました。そして、宗派は違っても根本的なトコは通じているんだなと感じました。
私は宗教協力・他宗教理解を目指しています。佼成会会員としてだけではなく、人間としてです。同じような志をもつ同年代の仲間もいます。
いつか、松本さんや彼岸寺の方々とお会いして日本の信仰について語りあってみたいです。

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お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが加速度をつけて進んでいくこんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。「お寺の未来」について、彼岸寺住職の松本が連載していきます。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社/2005年12月刊行)