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2007年12月 アーカイブ

2007年12月10日

大学卒業後、新卒でお坊さんになってから今年で5年目になる。一般企業であればそろそろ主任とか係長とか何かしらの小さな肩書きがついて、若手のリーダーとして仕事にも脂が乗ってくる頃だろうか。自分の場合は2〜3年前に住職から「執事」という肩書きをもらい、光明寺の僧侶として、また浄土真宗本願寺派の僧侶として、今ではそれなりにお寺での日々をつつがなく過ごせるようになってきた。はじめは股の間がスースーして気持ちの悪かった法衣も今では自然に着ることができるようになったし、お寺でなされる数々の行事や相談事もよほど特別な案件でなければ戸惑わずに対応できる。職業としての僧侶であることにおいては、それなりの自信がついてきたと言っていい。

お坊さんになったばかりの頃、「坊さんは職業じゃねぇ、生き様だ!」なんて青臭い言葉をブログに書き、それが拙著『おぼうさん、はじめました。』の帯のコピーにもなった。とはいっても私もそれほど純真無垢な男ではないので「そうは言っても職業の部分もあるんだけどね」という対句も心の底には常にあった。ただ、生き様としての側面を忘れてはいけないという自戒の意味を込めて、敢えて青臭い理想を前面に出して残しておこうと思ったのだ。しかし、今となってはこの言葉も少し気恥ずかしい、どこか違和感のあるものとなってしまった。これを今の気分でいい直すとしたら、「おれは職業じゃねぇ、生き様だ!」そして「そうは言っても職業の部分もあるんだけどね」というところか。

私は仏教が好きで、仏教に携わる仕事がしたくて、仏教ファンの趣味が高じてお坊さんになった。もともと家は浄土真宗だったし、どんな人でも日常生活を送りながら在家仏教徒として救いの道を求められる親鸞さんの教えに惹かれて、浄土真宗を選んだ。仏教に携わる仕事がしたいだけなら何もお坊さんにならなくても他の方法があったかもしれないが、どうせやるならとことんやらないと気が済まない性格もあって、やはり得度をすることにした。なってみなければ分からない特別な何かが「坊さん」という立場にはあるのかもしれないとも、少しは思った。法事やお葬式など社会的な要請に応える職業としての坊さんという立場、そして仏道に邁進する求道者としての坊さんという立場、その矛盾の間で悩みながらも精進する姿への憧れの気持ちもあった。

しかし、5年経った今となっては「坊さん、だから何?」というのが率直な気持ちである。「坊さんは職業じゃねぇ、生き様だ!」なんて、ずいぶんと坊さんに拘ってしまったものだと、振返って思う。私は浄土真宗で得度した僧侶だが、そもそも浄土真宗に僧侶という立場はあまり馴染まない。出家じゃなくて在家のための宗教なのだから、教義上もともと僧侶など必要がなく、みんな同じ念仏衆として平等な立場にあるのだ。長い歴史の中で他の宗派と交わり足並みを揃えるようにして浄土真宗にも僧侶というかたちが出来てきたのだと思うが、これにはかなり矛盾がある。ある意味、自分が浄土真宗のお坊さんであることを徹底しようとすればするほどお坊さんということが意味を為さなくなるのである。浄土真宗のお坊さんにも尊敬できる方はたくさんおられるが、そういう方々は総じて自分がお坊さんであることをなんとも思っていない人ばかりであるような気がする。

他宗は少し事情が違うけれど、修行を終えて山から下りてきてしまえばごく普通の家庭と同じように暮らしている僧侶もかなり多い。僧侶だからといって特別なことは何もなく、ほんとうにふつうの人である。もしも何かあるとすれば、その人が常に僧侶であろうと努力しているかどうかということだけだと思う。努力していないお坊さんが多いというわけではないし、今そのことを議論したいのではない。尊敬できるお坊さんはたくさんいるのだが、その人たちはお坊さんだから尊敬できるというのではなくて、人として尊敬できるから尊敬できるんだ、という当たり前のことを言いたかっただけである。スリランカやミャンマーなどでお坊さんが尊敬されているのは、厳しい戒律などをしっかり守って尊敬に値する人しかお坊さんでいられないからお坊さんは尊敬されるのであって、そのイメージを多少なりとも日本に重ね合わせようとすれば必ず無理が出てくる。この日本において、坊さんか坊さんでないかということは、ほんとうはまったくどうでもいいことなのではないか。「坊さんは職業じゃねぇ」というよりも、どんな職業に就いていたって、あるいは就いていなくたって、大事なことは職業じゃねぇ、その人の生き様だ!というのは言うまでもないことだった。

アメリカの本願寺を訪れたとき、面白い制度に出会った。レイ・ティーチャーという制度で、レイ(信者)の中でも熱心な人がトレーニングを受けて住職の代わりに法要などを司ることができるというもの。なるほど、お坊さんがいなくても法要儀式が成り立つ仕組みである。この考え方を援用すれば、そもそも浄土真宗の仏事というのは誰か立派に修行したほんとうのお坊さんの代わりに在家信者の代表信者が儀式の執行を預かっているものと見ることもできる。私もたまたま本願寺で研修を受けた信者代表として本当のお坊さんの代わりに法要などを司るレイ・ティーチャーのようなものだと思えば、少しは矛盾が吸収されて気が楽になってくる。

私は僧侶の代わりにときどき僧侶のような格好をして、仏教を伝え広めるお手伝いをさせていただいている在家の仏教徒だ。日々のふつうの暮らしの中で少しでも仏教の考えに基づいた正しい生き方ができればいいなと、そう思っている。

お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが進む時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」についてつらつらと書きます。エッセイですので不正確な表記やおおげさな表現が出てくるかもしれませんが、どうぞご了承ください(誤り等あれば修正しますので、ご指摘いただければ幸いです)。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(2005年12月刊行)