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2007年10月 アーカイブ

2007年10月 5日

 「お寺の未来」というタイトルでコラムを書いているのはいいのだけれど、日増しに強まる閉塞感に、どうにも明るい未来が見いだせない。「やっぱり未来は真っ暗でした」という結論もなくはないが、せっかくお寺の未来を明るくしたいと思ってお坊さんになったのに、それでは元も子もないというもの。困った。

 と、そのとき親しい新聞社の方から「築地の近くに来てるんだけど、ラーメンでも食べない?」と誘われ、一緒に昼飯へ。大手新聞社で長年にわたって記者をやってきたその方は今、新聞社の内部の改革に取り組んでいるという。新聞業界を取り巻く問題点やその解決策、またそれに対する抵抗勢力の話などをしているうちに、「あれ、新聞業界と仏教界って、構造が似てるかもね?」と気が付いた。大手の新聞社も「今変わらなければ未来はない」と、必死でがんばっている(がんばろうとしている)のだ。
 考えてみれば、どんな業界だって努力もなしにバラ色の未来が待っているなんてことはありえない。これまでお寺がさほどの努力もなしに(少なくとも努力してなさそうに)やってこられたのは、偉大な祖師方や先祖方の計り知れない努力によって耕されてきた教えが実を結び続けてきたからであって、それを手入れもせず野方図に貪り続けた結果、蓄えはすっかり底をついてしまった。
 しかし考えようによっては、これまでがあまりに恵まれ過ぎていただけで、今まさに他の業界と同じようにお寺の努力が試される時代が来たとも言える。どこの業界だって、時代の荒波に取り残されないように必死に頑張っているのだ。それならば、時代のニーズを的確に捉えるだけでなく、さらにそのニーズをよりよい方向へと導いて行くべき仏教が頑張らなくてどうする。今日は新聞業界と問題点や解決策を共有しながら、未来を模索してみよう。

本山と末寺との隔たり

 実は、宗派の本山は宗派に所属する寺院が抱える檀家の情報をほとんど何も知らない。多くの本山では職業や特性などはもちろんのこと、名前や住所、電話番号さえ分からないのではないだろうか。今でこそ個人情報保護の観点から、ということもできるが、もともと末寺としては本山にあまり情報を与えてしまうと自分のお寺を飛ばして檀家に直接アプローチされてしまう可能性が出てくるため、必要最小限の情報しか本山に対しては出したがらない。そのため本山が唯一知っているのは、各寺院から報告が上がってくる檀家の件数だけではないだろうか。
 本願寺派を例にとれば、各寺院から本山への賦課金(上納金)は報告された檀家の件数をもとに算出されるため、その数字すらも多くの寺院が過少申告するものだから、結局のところ本山は自分の宗派が抱える檀家の総数すら知り得ないのである。

 これと同じように大手新聞社の本社も、実は一般の販売代理店が持つ顧客情報を必ずしも一元的に管理できているわけではないらしい。仏教界ほどではないにせよ、長い歴史を持つ新聞業界には古い体質もたくさん残っていて、一般の代理店は顧客情報を本社に出すのを嫌がるそうだ。商品である新聞を回してもらえなくなったら商売が成り立たない代理店にとって、顧客情報を守ることは店を守ることでもある。仮に情報を本社に渡すとすると、それを持って本社が他の代理店に顧客情報を回してしまったら、代理店は配達の仕事を奪われてしまうことになってしまう。
 その結果、主に末寺に対する本山の仕事と代理店に対する新聞社本社の仕事は似通ってきて、上納金を収めてもらう代わりに宗派(新聞)の看板を出すことを認め、教えを広める営業マンとしての僧侶(販売員)を育成支援し、不適切な事態が生じた場合には看板と免許を取り上げるということになる。そして、おばけのようにたくさんの檀家(読者)を持っている末端の場合は、より本部に対しての影響力が強くなる。本部からの指令に対し、力の強い末端が反発した場合には「あそこがああ言っているんだから、多少は意見を取り入れなくちゃな」という配慮が生じてくるのは、どこの世界も同じだろう。本部と末端の関係が、両者ともよく似ているのである。


末寺と檀家の関係

 各宗派の本山や観光寺院は別として、全国に7万ヵ寺以上もある(そのうちの何割かはすでに廃寺に近い状態と思われるが)と言われる一般の末寺がどのようにして檀家を維持しているかといえば、まずひとつは昔からの付き合い、「菩提寺とはきちんと付き合いを続けていくもの」という習慣的なものが大きい。そもそも檀家にとって「檀家になるかならないか」とか「どこの檀家になろうか」という選択肢はほとんどなく、檀家だから檀家、という関係である。
 それをさらに支えているのが、法要儀式や法話の内容などもさることながら、それ以上に大きいのは僧侶と檀家との個人的な人間関係だろう。仏教の教えそのものに惹かれて檀家を続けているという人は、どちらかといえばおそらく少数派ではないかと思う。住職さん、そしてさらに住職さんの奥さんや家族との親密なお付き合いが、お寺が檀家を維持する上で欠かせないものとなっているのである。特に田舎のほうでは、地域の人間関係をもっともよく把握しているのが、地元のお寺の住職さんだというところも多いのではないだろうか。

 一方、新聞の販売代理店は全国で2万程度あるそうで、お寺の数と規模感は近い。これだけインターネットが普及している時代でも新聞を購読してる読者は、新聞に情報媒体としての価値を見いだしている人ばかりではなく、「昔から新聞をとってきたから」「新聞くらいとらなくちゃ」というような習慣性に依っているケースも多いのではないだろうか。新聞はほとんど読まれることなく毎日積み上げられるだけ、という家も少なくないだろう。それでも新聞をとるのを止めないのは、「新聞がないと、何か都合が悪くなる気がする」「とるのを止めると、恥ずかしい」という意識が読者にあるのだと思われる。
 また、新聞社本社と読者の直接的な接点というのはほとんどないが、代理店の販売員は毎日のように新聞を配達するわけで、その家の構成員の様子や変化をある程度把握している。実は私も小学生の頃に自分で働いてみたくて新聞配達をやったことがあるのだが、毎朝毎夕それぞれの家の玄関に立つわけだから、「このうちは子どもが生まれたんだな」とか「おばあちゃんが亡くなったんだな」とか、そういうことが自然に分かるのである。早起きをして、毎朝の挨拶が日課となっている人もおり、それなりの人間関係も築かれている。

 「昔からそうだから」「関係を止めると悪い気がする」というような意識は、檀家と新聞読者に共通するものではないだろうか。


僧侶のおごり、記者のおごり

 「苦しんでいる人に寄り添っていくためには、まずその人の声に耳を傾けることが必要です」ということを僧侶向けの研修などではことさら強調されるほど、僧侶というのは他人の話を聞かない人が多いと言われる。基本的に仏の教えを説教するのが仕事であり、「住職、住職」といって上座へと持ち上げられることも多いため、どうしても僧侶である自分は他人よりも上に立っていると錯覚してしまう人が出てくるのだ。これは、そうなってしまうお坊さんが悪いのではあるが、そうなってしまうように持ち上げ続ける檀家さんにも責任の一端はあるのかもしれない。それに慣れ過ぎて、しまいには「檀家はだまって僧侶のいうことを聞いていればいいんだ」というようなことを言い出す僧侶も稀にいる。
 本山ともなるとこれが更に激しくなり、すべての人間関係が仏教界だけで構成されて一般の人との接点をほとんど持たないものだから、もはやフィクションとも言える閉じられた世界に安住するはだかの王様で埋め尽くされる。こうなるともう、誰のためのお寺なんだか分からなくなってくる。

 これも、もしかしたら新聞業界でも同じようなことが言えるかもしれない。新聞記者という肩書きによっていろんな著名人や有力者と親交を持てるおかげで、やがてその肩書きを自分の力と錯覚し、「おれは新聞記者様だぞ」という意識を持ってしまう人もいるそうだ。「読者ありき」がマスメディアのあり方として正しいことだとは必ずしも思わないが、読者の視点や販売店の意見をまったく無視してできあがってきた新聞は、誰のための新聞になるだろう。


 というわけで、このように、仏教界と新聞業界はいくつかの共通する体質を持っている。その新聞業界において、ここのところ少しずつ変革しようとしていることがあるという。

 それはまず、既存の顧客とのつながりを強化しようということ。これまで販売店の現場まかせであった顧客との関係について、それを強化するような方策をいろいろ模索しているようだ。いわゆるCRM戦略、新たな顧客を獲得するよりも、既存の顧客を手放さないようにすることが、まずは一番重要だろうということだろう。仏教界でも新しい檀家・信徒を獲得しようという動きがあるが、まずその前に今すでに檀家さんとしてお寺を支えてくれている人たちとの関係をより強固にすることが不可欠なのは、間違いない。すでにメンバーである人を維持すること(プラスマイナスゼロ)と、すでにメンバーである人をひとり手放して新しい人をメンバーにすること(プラス1マイナス1)の苦労を比較してみれば、自ずとその重要性が分かる。

 また、販売店の多くは新聞が将来的に紙媒体からインターネットへと移行してしまうのではないか、そうしたら販売店の存在意義はなくなってしまうのではないかと恐れているそうだが、一方ですでに先を見据えた有力販売店は、新聞を売るだけではなく地域の総合情報サービス所へと脱皮しようと試行錯誤を始めているそうだ。今後、檀家制度が行き詰まるであろうことが予想されている仏教界も、そろそろ先を見据えた試みをあちこちで始めてみないと、明るい未来は開けてこないだろう。

 誰かが対策を講じてくれるのを待っている場合ではなく、たぶんいくら待ってもただ待ちぼうけを食うだけである。小手先ではない本質的な改革が今、求められている。

 あ、そうかそれなら、お寺が新聞屋さんを始めるってのはどうだろう?って、だから、小手先じゃどうにもならないんだって!

お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが進む時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」についてつらつらと書きます。エッセイですので不正確な表記やおおげさな表現が出てくるかもしれませんが、どうぞご了承ください(誤り等あれば修正しますので、ご指摘いただければ幸いです)。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(2005年12月刊行)