最近、ぼくが気に入っていることわざは「船頭(せんどう)多くして船(ふね)山(やま)に登る」だ。船を指揮する船頭さんが何人もいると、船は統制をとれなくなっておかしな方向に進んでしまうという意味である。なるほどなと納得させられることわざなのだが、ふと気になるのはなぜ「山に登る」のかということ。「進まず」とか「沈没す」とかでも良さそうなものだが、船頭の多い船は「山に登る」とされているのだ。ひとりで停滞・沈没するだけなら迷惑もかからないのだが、それぞれの船頭が善かれと思ってまわりを巻き込み行く先が、想像もつかないようなあきれた到着点に辿り着くという皮肉が込められているのだろう。
このことわざ、仏教界に当てはめてみるとまた面白い。たとえば浄土真宗では阿弥陀如来の願いが「船」にたとえられるが、浄土真宗を信仰する人を船の乗客とするならば、そのリーダーとされる住職は船頭と言えるだろう。その船頭たちの中でも船頭の上に立ちたいと思う船頭が集まって、船頭の山並を築いていく。それぞれの地域の小さなお寺がひとつの山だとすれば、それぞれの山を背負いつつ京都の本山へ集まってくる住職たちの群れは、さながらボスの中のボスを決める猿山コンテストのようでもある。それは言い過ぎかもしれないが、そんなにはずれてもいないと思う。
ここのところ「なぜ伝統仏教教団は停滞するのか」ということを書いているが、ポイントはこの「船頭多くして船山に登る」のことわざに集約されるかもしれない。
伝統仏教において京都の山が好きで集まってくる船頭たちの多くは、
・みんな自分の小舟(お寺)を持っており、大船(本山)に乗り込むときも、いつでも頼れる救命用の小舟を手放さない。
・小舟の船頭(住職)としての自負から、いつも何かしら細かな指示をしたがる。
・生まれてこのかた船の世界しか知らないので、人間には船頭か乗客の2種類しか存在しないと思っている。
・担当の船が短期間で変わるため、いつも船に対して責任を持たない。
・多くの船頭は、沈没させて批難されることを恐れて船を漕がせない。
・やる気のある少数派の船頭も、行き先も告げずにがむしゃらに漕がせたり、他の船頭から足を引っ張られたりして、座礁する。
というようなことの繰り返しで、まったく埒があかないのだ。
一人のがんばりともう一人のがんばりが合わされば二人と言わず三人分以上の力が出そうなものだが、一人と一人が合わさると二分の一と言わず三分の一くらいの力も出なくなってしまうのが船頭の足の引っ張り合いである。ぼくがよく聞く船頭用語のひとつに、「思い」という言葉がある。「この件については○○さんの思いを尊重せなあかん」などというふうに使われるのだが、船頭が多くなればなるほどこの手の無用な気遣いが増えてきて、しまいにはどうでもいいことひとつひとつに対して皆が疑心暗鬼になっていく。大昔すでに山に登ってしまった船がそのまま身動きがとれなくなり、風雨にさらされ生き恥をさらしながら朽ちていくのを待つしかないという悲劇。
船頭の皆さん、それほど乗客の言うことを聞く気がないのなら、どうしてそんなに他の船頭の言うことばかり気にするのか。それほど他の船頭を気にするくらいなら、どうして乗客の「思い」に耳を傾けないのか。そして何よりも、もっと謙虚に仏の「思い」に耳を傾けるべきではないのか。せっかくの弥陀の願船も、乗っている船頭のせいで船の行き先がおかしくなったり、船頭に嫌気がさした乗客が船から降りたいと言い出したら、それこそ船のオーナー、仏に申し訳が立たない。
ここのところ残念なことばかりで暗い記事が続いてしまった。来週こそは楽しい記事を書きたいと思います。
コメント (2)
同感です。
いろいろと大変だと思いますが、陰ながら応援しています。
ミャンマーのことが気がかりな一青年僧侶より
投稿者: よし坊 | 2007年09月29日 13:47
日時: 2007年09月29日 13:47
> よし坊さん
どうも、コメントありがとうございます。
ミャンマーのお坊さんの苦難を考えれば、日本での苦労なんて大したことはありませんよね。
投稿者: 松本 | 2007年10月06日 02:19
日時: 2007年10月06日 02:19