2007年9月23日

 つい最近、とある雑誌の座談会で上田紀行さんとご一緒する機会を得た。上田紀行さんと言えば、『がんばれ仏教』や『目覚めよ仏教』などの著書でも活躍中の文化人類学者として、マスコミでも有名な方である。東京港区の青松寺での「ボーズ・ビー・アンビシャス」企画などでは僧侶啓発講座にも積極的に参画しておられ、伝統仏教界への応援の気持ちから発される厳しい意見が若手僧侶たちにもよい刺激となり、仏教界でも各方面から注目を集めている。
 このサイト「彼岸寺」やお寺カフェ「神谷町オープンテラス」の試みなど、ぼくがこれまで伝統仏教の中で取り組んできた活動が上田さんの活動と一緒に新聞や雑誌で紹介されるというふうに、過去にも誌面上ではご一緒したことが何度かあったのだが、意外にもご本人に実際にお会いしてゆっくりお話する機会が今までなかった。このたび、座談会終了後に近所のバーのカウンターで向き合って一杯飲むという場をいただいたことは、貴重なご縁となった。

 さて、これまでぼくは伝統仏教界に関する上田さんの著書も読んだことがあるし、その活動も知っていた。青松寺で開かれている「ボーズ・ビー・アンビシャス」という企画にも参加したことがあるし、そこに集まるお坊さんたちの真剣な気持ちと真摯な姿勢にも触れている。それらうについて、素晴らしい活動だなと感じたのは確かだ。

 しかし、そこに何かが足りないような気がしていた。上田さんのされていることは意義あることだし、そこに集まって来るお坊さんもポテンシャルが高くやる気に満ちた人たちばかりだ。だから、その試み自体は素晴らしいのだけれど、でもまだ何かが足りないような気がするのはどうしてだろう。と、考えているうちにあるとき足りないものに気が付いた。それは何か。「役者が足りない」のだ。

 上田さんが『がんばれ仏教』と語りかけたときに反応するお坊さんは、実はお坊さんの中の一部に過ぎない。「お坊さんもまだまだ捨てたもんじゃない」と言われるような活動を現場で地道に頑張っているお坊さんにとっては、そのメッセージは仲間意識を呼び覚まし、活動の励みになるだろう。また、仏教にかける自分の思いをかたちにするため何か活動したいと思いつつ今一歩を踏み出せないお坊さんにとって、メッセージへ共感する仲間たちのサポートには大きく勇気づけられるに違いない。しかし、ぼくの経験からしてみても、現実に活動している多くのお坊さんはそのような精神性ではないはずで、だいたいお坊さんというのは自分がお坊さんであることに誇りを持っている人が多いから、「今やっているお坊さん活動で精一杯だ、社会活動など必要ない」「お坊さんは俗事に関わるべきでない」「坊主でもない学者風情にそんなこと言われる筋合いはない」とか、そういう強い反発が出てきてしかるべきで、そういう人こそ『がんばれ仏教』を取り巻く役者として入ってこなければと感じていたのだ。

 というわけで、お坊さんじゃない人に「がんばれ仏教」なんて言われて怒る坊さんはいないのかという話を伺ってみたのだが、意外にもそんなふうに怒る人はあまりいないそうだ。講演の講師として伝統仏教界のあちこちから呼ばれることもあるけれど、それを取り巻くのはすでにある程度の問題意識を持った人たちで、それは「がんばれ仏教」を励みとして聞ける人たち。ほんとうに根性を入れ直して「がんばる」べき人たちは、そもそもそういう場に出てこない、ということだ。なるほどな、と思った。ぼくとしては、「お坊さんは偉いんだ」と生まれてこのかた決め込んでいる人の多い伝統仏教界から「学者なぞにがんばれ仏教なんて言われる筋合いはない、徹底的に論破してやる」くらいの勢いのある人が出てきたら面白くなるのになと思っていたのだが、事実はそうではないらしい。そういえば、確かにお坊さんは自分がお偉い僧侶として振る舞っていられる演出の場にしか出て来ない人が多いような気がするし、これは悲しいことではあるが、そういうスタンスでお坊さんをやっている人ほど教団の中心になんと多いことかということを感じざるを得ない。

 上田さんの『がんばれ仏教』の気持ちは、伝統仏教教団の中枢部まで届けたいものだが、実際に届いているのはまだまだ周辺部の有縁の人々ばかりである。前回のコラムからもたびたび言っているが、能力もあり人格的にも優れた尊敬できるお坊さんは、全世界にまだまだたくさんいる。しかし、せっかくそういう人たちがやる気を出しても教団の中枢部のあまりの程度の低さに嫌気が差し、辞めて帰って自分のお寺で静かに地道に活動している人は多い。よく言われる、「個々の寺院で頑張っている活動」はときどき目に入るけど「伝統仏教教団の活動」はまったく見えて来ないというのには、そういう事情がある。簡単に言えば、まともなお坊さんはアホらしくて本山周辺に近寄らなくなってしまうのだ。もちろん、いくらアホらしいと思っても諦めずに頑張っている人もいるのだが、そういう人も何かのタイミングで没落していくことが多い。伝統仏教は江戸よりも以前から歴史が長い分、さらに魔物が大きく育ってしまうのかもしれない。

 でも、悲観するばかりでは先に進まない。今差し込んでいるひとつの光は、インターネットの普及によって個々のお寺が独自で情報発信できるような環境が整ったことではないかと思う。昔だったら教団につぶされたような企画でも、今ではそんなことは関係なく独自に実施して、その結果を世論に直接問うことができる。カチカチの檀家制度では立ち上がりにくかった檀家の人たちも、世論を味方につけてよりよい方向を模索していくこともできる。これからの伝統仏教教団は、周辺部から変わっていくことは間違いない。やがてそのうねりが大きな渦となって、中心部も巻き込んでいくような勢いを持てばいいと思う。エッセンスだけ残しつつ、解体するような仕方で再生していく方向を模索していきたいものである。

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お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが加速度をつけて進んでいくこんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。「お寺の未来」について、彼岸寺住職の松本が連載していきます。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社/2005年12月刊行)