2007年9月14日

お坊さんというのは教えを広めるために存在しているのだから、浄土真宗のお坊さんなら浄土真宗の教えが広まることなら手放しで喜ぶはずだと考えられているけれど、実際はそうでもないんじゃないかというお話。

まず根本的なところ、誰しもお寺に生まれてきたからといって「自分はこの教えを広めるために生まれてきたんだ」という使命感を持つとは限らない。むしろふつうは、生まれたのがたまたまお寺だっただけで、そこでお坊さんになるのもそれが家業だからという人のほうが多いだろう。もちろん、家業としての自覚を持って一生懸命がんばる人もいるしがんばらない人もいるのだが、最終的にはやっぱりお寺は自分が住むための実家であり、お坊さんという職業も自分が食べていくためにやっているだけ、という人はけっこう多いのではないだろうか。ちなみにこの話は、お坊さんを職業として自分の寺を切り盛りすることで生計を立てている人にしか当てはまらないことなので、念のため。

話を戻そう。さて、「お寺はお坊さんが食べていくためのもの」ということになると、今どきお坊さんも食べ物や飲み物など現物のお布施だけでは暮らせないから、現金収入が大切になってくる。土地持ちのお寺であれば地代収入だけで成り立ってしまうところもあるが、一般にはお寺の現金収入といえば法事やお葬式でのお布施がほとんどだろう。で、これを増やすにはどうしたらいいか。それは簡単な話、檀家の数を増やせばいい。檀家が増えれば法事やお葬式の数も増えるからだ。では今度、その檀家の数を増やすには、いろんなつきあいの輪を広げ、それを強固なものにしていくこと。浄土真宗の教えに魅力を感じるというのもつきあいの深まるひとつの大きなきっかけになるから、結果的に浄土真宗の教えが広まってくれることはお寺にとって好ましいこととなる。

しかし逆にいえば、自分のお寺にとってよい結果をもたらすような仕方である限りは、浄土真宗の教えが広まってくれることを喜べるということ。だから、自分に何も関係のない範囲での布教活動については、お坊さんは穏やかな顔をして「熱心な布教活動、素晴らしいですね。どんどん教えをひろめてください」と言っていられるのだが、ひとたびこの前提が崩れたら途端に険しい顔になって「布教するのは良いが、やり方や手順を考えてもらわないと困るし、活動を認めるわけにいかない」と言い出すお坊さんの何と多いことか。

このことを象徴するのが、誰かが新しくお寺を作ろうとするとき。総論としては「布教に熱心な人が新しいお寺を作ることには大賛成」でも、いざ自分のお寺の近所に新しいお寺ができるとなると、必ずと言っていいほどいろんな理由をつけて邪魔をするお寺が出てくる。法事やお葬式の仕事をとられたりして自分の縄張りを荒らされては困る、という本音の部分がむき出しになってくるのだ。

ところで、おもしろいことに多くのお寺が近所に同じ宗派のお寺が新しく作られるということになると妨害するのに、他宗派や他宗教が進出してくることについてはまったく言っていいほど関心を示さないこと。浄土真宗の同じ宗派、浄土真宗の違う宗派、伝統仏教の他宗派、仏教系の新宗教、キリスト教、というように、自分のところの教義から内容が遠くなればなるほどこの傾向は強くなる。本来なら、自分と教義の近い宗教と仲良くして遠い宗教に対抗意識を持ちそうなものだが、そういう考え方をする人は伝統仏教界の中にまったくと言っていいほど見当たらない。いったい、この現象の原因はなんなのか。実はそれも、最初に述べた「家業としてのお寺」意識に見いだされるのではないかと思う。

ようするに、お寺というのは昔から続いてきたことをただそのまま引き継いでいるだけであって、お坊さんの世襲も、「家の宗教」という檀家制度も、そのことをよく象徴していると思う。新規教線の開拓だのなんだかんだ言ってみたところで、お坊さんの意識として強烈にあるのは、昔ながらの「家の宗教」であり、生まれながらにして決まってしまう所属の宗教や所属の寺院という考え方。仮に日本で浄土真宗の檀家が1000万人いるとしたら、まだ残り1億1000万人の人がいるのだから、その人たちに布教しようとすれば、今の10倍の数のお寺を誕生させてもいい計算になる。しかし、実際にはそんなふうに考えるお坊さんはいない。おそらく多くのお坊さんにとって1億1000万人の浄土真宗以外の人は眼中になく、毎年どんどん小さくなっていく1000万人のパイの奪い合いだけが争われている。

先祖のお坊さんたちが開拓してくれた1000万という畑ですら耕すこともせずただ果実を摘んで安穏としてばかりの人たちが、わざわざ見ず知らずの土地を耕そうとするわけがないのは、それもまた道理というもの。しかし、どんなにのんびり屋さんだとしても、ここ最近の畑の荒れようと果実の痩せ具合を見れば、そろそろ家業の行く末を案ずる危機感が出てきてもいい頃かと思う。

先達が開拓してくれた1000万の畑を手入れし直して元気に維持していく生真面目さと、そしてまだ手つかずの1億1000万の未開の荒野へ乗り出していく勇気と智慧が今、必要なのではないかと思う。

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コメント (7)

侯招:

僕は、在家出身の本派役僧ですが、近親増悪もそのとおりですが、大きなお寺ってある意味、地域社会のステイタスなんだと思う、昔から地域の有力者を檀家にしていて、保守の保守になっていて、自分の事じゃなくて、寺の祖父やその祖父の話題ができる事が仲間の条件で、いまの人のご信心は関係ないのです。ただ同じ宗派だと睨みが利くと思うのでしょう。

或阿呆:

はじめまして。

外国への布教は念頭にないのでしょうか?
途上国と言われる国々には、非常に悲惨な暮らしをしている人々がいますが、彼らを日本の僧侶はいかにして救うのでしょうか。現代において数万円も出せば簡単に第三世界に行くことが出来ます。日本の隣にはそういう国々が多数あります。彼らの生活は本当に悲惨ですよ。どのようにお考えになりますか?
私は古代において中国やインドから高僧が命がけで日本に渡り教えを広め民衆を救った事例を知っています。現代においては命をかけずとも現地に行くことは簡単だと思われます。

匿名:

私は、神戸地震、新潟地震のボランティア活動をしてきました。貧困者の募金なども、たまに参加したりしていますが、正直、慈悲に聖道、浄土の境目あり、ですね。目の前に困った人がいる、そこをなんとかする、で精一杯じゃないですか。ご縁があれば助ける、縁の無い人は無理です。

三島:

私個人では外国での布教は考えていません。理由は日本の私のまわりにも悲惨な生活をしている人がたくさんいるからです。あと或あほさんの周りにも辛い思いをされている方が多いと思いますが、見えないのですか?

松本:

> 侯招さん
確かに、土地の有力者自体が世襲で受け継がれていく傾向が地方では強いですから、その土地を代々仕切ってきた先祖の話をお寺でするというのも一種のステイタス表示なのでしょうね。

> 或阿呆さん
日本でも社会の中で苦しんでいる方はたくさんおられますが、世界に目を向ければさらに大変な状況で苦しんでいる方もたくさんおられますね。私も数年前にインドを旅した時など、大きなショックを受けました。
私自身は現在日本に住みながら今の自分が持つ問題意識の中で今自分が出来る範囲のことをするのみではありますが、今後は海外へ出て活動するという選択肢も大いにあり得ることだと考えています。
現代のお坊さんでも佐々井秀嶺さんなど、日本から渡って民衆に仏教を広める活動をされている方もおられるのは、とても励みになりますね。

> 三島さん 匿名さん
人の苦しみの多寡を量ることはできませんが、あらゆる苦しんでいる人の存在に意識を向けるということは大切ですね。愛の反対語は無関心であるとは、よく言ったものだと思います。
しかし、かといってすべての人の苦しみを我が事として一身に背負うことも無理ですので、まずはできるところから始めることですよね。意識ばかりが大きくなって行動が伴わなくては、元も子もなくなってしまいます。

:

まったく賛成です。今檀家数の減少を兼務か合併で乗り切ろうとしている寺ばかりです。私もどこかの小さな空き寺をと思っても誰も手放しません。また、兼務のお寺は荒れ放題というところが少なくありません。禅宗系で修行しましたが、在家出家でお寺のない和尚がたくさん修行しています。彼らにも布教のチャンスと作ってあげたいのですが、残念ながら現状は本山をはじめ宗務庁はそういう危機意識がありませんね。
これからは、コンビニみたいな小さなお寺をたくさん造ることだと思って活動しています。とにかく、このままでは、伝統仏教教団は観光寺以外、早晩消滅するのではないかとさえ思えてなりません。以上感想を書きました。

松本:

> 智さん
ほんとうに、在家出身のお寺がない僧侶の方々に
チャンスをあげればものすごく大きな力になると
思うのですが、なかなかそうはならないんですよね。

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お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが加速度をつけて進んでいくこんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。「お寺の未来」について、彼岸寺住職の松本が連載していきます。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社/2005年12月刊行)