2007年9月 5日

参院選が終了し、大方の予想通り民主党の勝利という結果に終わった。民主党から出馬している浄土真宗本願寺派の僧侶、藤谷光信氏も78,000票ほどの得票で当選。参院は民主党が第一党となり、野党が議席の過半数を占める事態となった。今後この流れを受けて、衆院解散なども含めて政界再編に突入していくのだろうか。

自民党への逆風、民主党への追風、大きな風が吹いた今回の選挙。社会情勢の中での瞬間風速的な風でもあるのだろうが、この風が参院において今後6年間、痕跡を残し続けることになる。有権者の選択が今後の政治の方向性を決めていくのである。速報を見ながら、ふと自分の所属する浄土真宗本願寺派という宗門組織のことを思った。浄土真宗本願寺派は、明治政府が議会制民主主義を導入する以前から、試験的に議会制民主主義をいち早く取り入れた教団であり、その制度は今も続いている。本山=政府、総長=総理大臣、総務=大臣、宗会議員=国会議員、有権者=僧侶。国家の規模とは比べ物にならないが、形としては日本の国とほぼ同じような制度が成り立っている。

しかし、どうしてだろう、ここではどうにも風が吹かない。自分が日頃接する僧侶から、「本山は一体何を考えているんだろう」と言う、政治の変革を望む意見を聞くことは多い。しかし、それほどまでに有権者である僧侶の多くが本山に対して否定的な立場をとるのであれば、教団にも選挙があるのだから、大きく風向きが変わってもいいのではないかと思うのだが、結果はなかなかそうならない。もちろん、長年の間に議員も入れ替わるし有権者も世代交代するのだが、肝心なところである「浄土真宗本願寺派」という教団そのものは、少なくとも外の一般社会から見たときに何も変わっていないどころか、なんだか後退しているような感じがするのである。これは一体どうしてか。

その理由としては、まず初めに「社会と断絶した感覚」がある。お寺が持つ一般社会との接点というのは、主に檀家さんとの付き合いがほとんどである。もちろん檀家さんにはいろんな方がおられるが、たいていは「お寺さん」として丁寧に扱ってくださるために、お寺は特別に批判を受けることもなく、のほほんと今まで通りのやり方でお寺をやっていればいいというふうになってしまう。「時代に合わせてどのように変わっていくべきか」という議論が、基本的に欠けている。ましてや親から子へと疑いなしに世襲で継がれるお寺であれば、なおさら家族ぐるみで感覚がずれてしまうものだから、状況は深刻だ。

二つめに、「仏教界の閉鎖的な体質」があると思う。社会と断絶した状況では、お坊さんの世界は仏教界という狭い範囲に限られ、そこでの人間関係にどうしても固執するようになる。「あの人はいい役職についたのに、なぜ自分には声がかからないのか」とか、そういう嫉妬心のうずが沸き上がる。しかもその人の実力だけでなく、お寺の格や歴史など、一般社会よりもさらに難しい要因がいろいろ重なってくるので、事態はより複雑である。それでまたお坊さんの中には、そういう種類の事柄に強い興味を持つ人がけっこう多いのがやっかいなところ。つまらない足の引っ張り合いが始まり、人が集まれば集まるほど物事が進まなくなる。不幸中の幸いなのは、その閉鎖的な体質ゆえに、一般の皆様に対してそのような醜態を曝さずに済んでいることだろうか。

三つめに、「優秀な指導者の不足」も挙げられるのではないか。これは決して、お坊さんや仏教関係者に優秀な人材がいないと言いたいのではない。それどころか、基本的な知性が高いだけでなく、仏教を深く掘り下げたところから自然とにじみ出てくる人徳を備えた、あらゆる意味で心から信頼のおけるお坊さんもたくさんおられるのである。ただ残念なのは、そういう方々に限って、あるいはだからこそ、お坊さん同士のつまらないしがらみを離れようとする傾向が強く、教団の中のほうには極力近寄らずに在野の僧であり続ける人が多い。もちろん、それでも敢えての決意を持ってしがらみの中に分け入ってくる人もいるのだが、少数派だ。

おまけは、「見失われた教団の存在意義」だろうか。個々のお寺はそれぞれに独自の仕方で頑張っていたり頑張っていなかったりそれぞれやっているのだが、それを中心で統括するべき教団本部の仕事といえば、肥大化した本部組織をどのように維持するかということが自己目的化してしまっている感がある。仕事のための仕事のための仕事が大半を占め、前例にないことには取り組まず、ひたすら内部の人間関係政治活動に精を出し、いかに自分が責任を負わずにポジションを守るかということに腐心する。官僚だって誰だって、はじめはそんなふうに自分がなるなんて思ってもみないだろう。しかし人間を作るにおいて、環境が持つ影響力というのは大きいもので、あるときそれに飲み込まれてしまっていた自分にふと気づき、愕然とする人も多いのではないだろうか。

と、なんだかいやなことばかり書いてしまったが、別に嫌みを言いたかったわけではなくて、伝統仏教の未来を客観的に真剣に考えてみようと思ったら、なんだかこんな話になってしまった。いろんな宗派の人と話していて思うのは、おそらくこのような問題は本願寺に限らず、伝統仏教教団全体が抱えるものなのだろうということ。伝統仏教教団は、昔からの歴史文化の遺産とこれまで受け伝えられてきた教義の質の高さのおかげで今のところはなんとか体面を保っているが、社会に対する行動力や布教の努力においては新興宗教の活動に遠く及ばないと言わざるをえない。怪しい新興宗教が孤独で不安な人に見せかけの温かい声をかけて近づいていくとしても、見せかけの声すらかけていない伝統仏教には何を言う資格もないのだと思う。

しかし逆に言えば、本物の教えに深く根ざしたところから本物の行動が出てくるとしたら、それほど強いものはない。諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教。見せかけのもの、にせものが横行する今こそ、お坊さんは余計なことを考えず「ほんとうにいいこと」に取り組みはじめるときではないだろうか。

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コメント (8)

sueda taijiro:

勇気ある提言

 勇気ある提言に感心しました。私は、浄土真宗の一門徒で、昨年8月には、御内願で西本願寺で法名をもらいました。西本願寺派は日本最大の教団であることから、組織の運営にも工夫を凝らされ、教団の維持に努められていることは重々理解できます。しかし、親鸞聖人の説かれた絶対他力、浄土と念仏の別離という浄土宗を極限まで追及された真宗の本旨から考えますと、今の浄土真宗本願寺派は、蓮如上人が基礎を築かれた浄土真宗の御作法に則った形式仏教に成り下がっています。
 まず、第一に本願寺門主が代々親鸞聖人の子孫であることですが、天皇家ではあるまいし、何故、一念仏教団が、門主を世襲する必要があるのでしょうか?まるで王朝の継続を行っているように思えます。「たとえ牛盗人といわれても、あるいは善人、あるいは後世を願う聖とか、仏法を修行する僧侶とみえるように振舞ってはならない」とまでいわれた親鸞上人の浄土真宗の奥義は、浄土宗を突き詰めれば、念仏一宗の興廃はどうでもよく、称名念仏によって浄土にいくか地獄にゆくかもどちらでも、人間の計らいに属さないという立場に立たれたはずです。この原点に返る時、今の本願寺派の議会制民主主義が機能しないのはまず門主の世襲という問題だろうと思います。
 つぎに、非僧非俗の親鸞上人にあやかり、浄土真宗の僧侶の多くが、髪をのばし、妻帯して、まったくの俗人としての生活を送られています。そして、葬式、法事のときにご活躍されます。衆生救済で始まった浄土真宗の僧侶が、俗人とまったく同様に振舞うことは教義に反してはいませんが、人間の属性が安きに流れることを思いますと、俗人と同様の生活をしていれば、俗に流され修行を怠り、教義の本当の理解を忘れるのではないかと思います。また、南無阿弥陀仏しか、仏教の真実はないのかも知れませんが、そもそもの仏教を起こした釈迦の生涯や言行、大乗仏教の他の経典についても、法話で取り上げて話をして、何故、浄土真宗の教義がいまのようになったのか講義するような余裕がいると思います。
 南無阿弥陀仏は「知」で入るものではなく「非知」の計らいでありますが、南無阿弥陀仏だけでは、現世の苦界に悶えている私などは救いがありません。現世の苦しみのとげを少しでも抜けるような工夫もあってしかるべきです。
 雑文お許し下さい。
 

松本:

>suedaさん

はじめまして。コメントありがとうございます。
世襲というのは、いいところもたくさんあるのですが、
問題なのはあまりにも多くの寺院が世襲ばかりになってしまったということかもしれません。いろんなパターンがあっていいと思いますし、そうでなければ硬直化してダイナミズムを失いますよね。

先ほどたまたま「俗僧」という言葉を新明解辞典で調べました。俗人より俗人な僧侶、という意味らしいですが、教義うんぬん以前に人としてどうかという視点は、当たり前ですがとくにお坊さんは忘れないようにしなくちゃいけませんよね。自分もまったく反省することばかりですが、、、

a-hashi:

松本さま。

a-hashiです。
先日はお忙しい中、ありがとうございました。

今回のブログについては非常に興味深く読ませていただきました。
先日お会いした際にもう少しお話できればよかったのですが。
今回、ここで少し意見を述べさせていただければと思います。

世襲についてですが、一つには檀家さんの希望という側面も強いのではないかと思います。
私自身、跡継ぎのいない(=子供のいない)まま亡くなられた先代の跡を継ぐべく親戚の寺院へ入ったのですが、檀家の皆様からは、
「よかった、跡継ぎがおらんかったから寺が潰れるかと思ってた。」
という意見を聞きました。
また、一方で
「苗字変わるんでか。」
と、私と先代の苗字が違うということで私に対する不信感を露わにされる方もおります。
(この件については、そういったことから住職継承までに戸籍を変更する予定です。)
寺の跡継ぎの知り合いと話をしても、危機感の無さや世間とのずれに驚くことも多く、寺院の世襲というものの危険性も感じますが、一方で外部から寺院を継ぐ人間が入ってくるということへの檀家さんの拒否感というのもけっこう強いのだなと感じる毎日です。

次に社会との関係ですが、寺院の側が世間一般というものに何がしか働きかけをしようとした場合に一番反対するのが他の誰でもない檀家さんだったりするのです。
それこそ、
「そんなことに力入れるくらいなら、うちへの参りにもっと力入れてくれんと困る。」
とか、
「お寺はお経を読んで、法事をするのが仕事や。そんな(いらん)ことはせんでええ。」
とか言われたりするのですから。
そうすると、社会と積極的に関わろうにもそれを支えてくれるはずの身内に反対されるからもういいや、となるという側面もあるのではないかと思います。

いや、別に檀家さんに全面的な責任を押し付けているわけではなく、そういう側面もありますよね、ってだけです。

もちろん、そういったことを含めて変わるべきは変えていくだけのことが僧侶には求められているのだから、なにもしないことのいいわけにはならないのですが。

あと、そうそう、お坊さんの地位とか名誉とかに関する関心って本当に強いですよね(苦笑
寺院社会の中だけの関係性だから、ほんとに檀家さんとかからしたら何のこっちゃとしか思えないようなことなんだけど、複数の僧侶で法要を営む際の席次とか、衣の色とか、ものすごくこだわりますよね。
私自身、全く興味が無いのに地域のほかの寺院とかの関係から僧班をどうするかで檀家さんと話し合いしてたりします。
正直、本気でめんどくさいです。
私はもう列5でかまいません(苦笑×2

松本:

>a-hashiさん

こちらこそ先日はありがとうございました。
さて、世襲についてのコメントありがとうございます。
今回のコラムでは書きませんでしたが、「檀家さんが世襲を望んでいる」ということは、確かにありますよね。特に何百年も昔から代々守られてきたような田舎の農村などにあるお寺は、よそ者が入って来るのを嫌がるケースも多いような気がします。

地位や名誉に関する関心が強い人は、そういう人だけで楽しんでやっていてくれる分にはいいのですが、あまり関心のない人まで巻き込んでやられると、めんどうですよねぇ。

akinego:

広島のakinegoです。お久しぶりです。

世襲に関しては、私も世襲で僧侶ですか完全否定はできません。ただ自分自身は、かなり自覚的(これは真宗っぽくない?)
にお寺を継ごうと思ってました。続くかどうかは大きな問題ですが・・・。

田舎のお寺の場合、地域の人の出入りも表面上はほとんどないので、一年毎のサイクルががっちり固まって、ついつい惰性で護持運営ができる環境にあるのは確かです。でもそれはあくまで、表面上で、担っていく世代はどんどん変わっていくので、お寺の未来は従来道りであれば、「悲観的」でしょう。

しかし、親鸞聖人や、蓮如上人の時代も、社会の仕組みが大きく変化した時です。お念仏には、新しいシステム、人間像をつくり出すダイナミックなはたらきがあります。そのダイナミックさを、じゃましないように伝えていきたいと思ってます。

あと、世襲については、「屋号」を受け継ぐていう面からも、ご意見きかせていたけたらとも思います。「屋号」を継ぐってのは、結構、理にかなったシステムじゃなかなって個人的には思ってます。

松本:

> akinegoさん
おひさしぶりです。
おっしゃるとおり、社会の仕組みが大きく変化する時代こそ、かえって古いものが新しく生まれ変わるチャンスです。そのとき、古いものがもはや価値を失っていれば生まれ変わることもできませんが、依然として価値を持っていれば生まれ変わることができるでしょう。仏教が試される時代ですね。
世襲で屋号を受け継ぐということについてですが、確かに、世襲といっても檀家さんが必ずしも住職家の血筋だけにこだわっているわけではないんですよね。お寺にはその地域の歴史を背負ってもらわにゃ、という意識が強いものです。だから、後継ぎについて、遠くの親戚にするか近くの他人にするかで、もめたりすることもよくありますね。

匿名:

私のお寺では、新築問題で 寺と総代だけで建築を決定し 門徒の
意見は、まったく無視しております。しかも 最近コマーシャルでもテレビで宣伝しています。はせがわという会社が受注するようにっています。門徒と寺の話し合いがまとまるまでその受注を待ってほしいとの要望を会社にしていますが、企業が行う経済活動でありなんら問題がないといっています。私は、今早急に建築をいそぐ必要はないと感じます。建設が成立することで寺と檀家の関係が悪化するのは明らかです。檀家の中には 寺を脱会するという最悪の事態もありうるのです。日本のこころを大切にするということはまったくうそでしょうか。はせがわの企業倫理は、企業の経済活動を最優先することであり、テレビの宣伝とはまったく違うのでしょうか
社長に聞きたいと思っています。又寺と企業との間に何か他の理由があるのでしょうか 寺の住職も私たちの意見を無視し
寺の運営には檀家は一切かかわることは出来ません。もともと寺は封鎖的であり封建的であるので 檀家に意見を聞く必要がないといいます。そして檀家総会の場さえ与えないのです。そのような情況の元では 浄土真宗本願寺派の未来はなく 若い人々の仏教離れは、さけられないのではないか もっと開かれた民主的な運営が末端の寺では、出来ないのか切
に願うものです

松本:

> 匿名さん

企業は経済活動を行ううえで、しっかりした倫理観を持ってほしいと思います。寺を建てる会社であれば、寺を建てることを請け負うことが決まったのなら、しっかりと仕事をしてほしいですよね。
ただ、発注側の体制がしっかりしていないと、どちらを向いて仕事をしていいのか分からなくなりますので、できるものもできません。お寺を新築するというのはお寺にとって大きな事業ですから、檀家の理解も不可欠だと思います。檀家側の代表として総代さんが選ばれているはずですが、、、そこに意見は反映されないのでしょうか?
これからの時代、檀家さんの意見を聞かないお寺は立ち行かなくなるでしょう。他のいいお寺が受け皿となってフォローしてくれればいいのですが、まだそういう流れがうまくできていません。
今、封建的なものと脱皮していくものとの間、過渡期にあると思います。

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お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが加速度をつけて進んでいくこんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。「お寺の未来」について、彼岸寺住職の松本が連載していきます。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社/2005年12月刊行)