参院選が終了し、大方の予想通り民主党の勝利という結果に終わった。民主党から出馬している浄土真宗本願寺派の僧侶、藤谷光信氏も78,000票ほどの得票で当選。参院は民主党が第一党となり、野党が議席の過半数を占める事態となった。今後この流れを受けて、衆院解散なども含めて政界再編に突入していくのだろうか。
自民党への逆風、民主党への追風、大きな風が吹いた今回の選挙。社会情勢の中での瞬間風速的な風でもあるのだろうが、この風が参院において今後6年間、痕跡を残し続けることになる。有権者の選択が今後の政治の方向性を決めていくのである。速報を見ながら、ふと自分の所属する浄土真宗本願寺派という宗門組織のことを思った。浄土真宗本願寺派は、明治政府が議会制民主主義を導入する以前から、試験的に議会制民主主義をいち早く取り入れた教団であり、その制度は今も続いている。本山=政府、総長=総理大臣、総務=大臣、宗会議員=国会議員、有権者=僧侶。国家の規模とは比べ物にならないが、形としては日本の国とほぼ同じような制度が成り立っている。
しかし、どうしてだろう、ここではどうにも風が吹かない。自分が日頃接する僧侶から、「本山は一体何を考えているんだろう」と言う、政治の変革を望む意見を聞くことは多い。しかし、それほどまでに有権者である僧侶の多くが本山に対して否定的な立場をとるのであれば、教団にも選挙があるのだから、大きく風向きが変わってもいいのではないかと思うのだが、結果はなかなかそうならない。もちろん、長年の間に議員も入れ替わるし有権者も世代交代するのだが、肝心なところである「浄土真宗本願寺派」という教団そのものは、少なくとも外の一般社会から見たときに何も変わっていないどころか、なんだか後退しているような感じがするのである。これは一体どうしてか。
その理由としては、まず初めに「社会と断絶した感覚」がある。お寺が持つ一般社会との接点というのは、主に檀家さんとの付き合いがほとんどである。もちろん檀家さんにはいろんな方がおられるが、たいていは「お寺さん」として丁寧に扱ってくださるために、お寺は特別に批判を受けることもなく、のほほんと今まで通りのやり方でお寺をやっていればいいというふうになってしまう。「時代に合わせてどのように変わっていくべきか」という議論が、基本的に欠けている。ましてや親から子へと疑いなしに世襲で継がれるお寺であれば、なおさら家族ぐるみで感覚がずれてしまうものだから、状況は深刻だ。
二つめに、「仏教界の閉鎖的な体質」があると思う。社会と断絶した状況では、お坊さんの世界は仏教界という狭い範囲に限られ、そこでの人間関係にどうしても固執するようになる。「あの人はいい役職についたのに、なぜ自分には声がかからないのか」とか、そういう嫉妬心のうずが沸き上がる。しかもその人の実力だけでなく、お寺の格や歴史など、一般社会よりもさらに難しい要因がいろいろ重なってくるので、事態はより複雑である。それでまたお坊さんの中には、そういう種類の事柄に強い興味を持つ人がけっこう多いのがやっかいなところ。つまらない足の引っ張り合いが始まり、人が集まれば集まるほど物事が進まなくなる。不幸中の幸いなのは、その閉鎖的な体質ゆえに、一般の皆様に対してそのような醜態を曝さずに済んでいることだろうか。
三つめに、「優秀な指導者の不足」も挙げられるのではないか。これは決して、お坊さんや仏教関係者に優秀な人材がいないと言いたいのではない。それどころか、基本的な知性が高いだけでなく、仏教を深く掘り下げたところから自然とにじみ出てくる人徳を備えた、あらゆる意味で心から信頼のおけるお坊さんもたくさんおられるのである。ただ残念なのは、そういう方々に限って、あるいはだからこそ、お坊さん同士のつまらないしがらみを離れようとする傾向が強く、教団の中のほうには極力近寄らずに在野の僧であり続ける人が多い。もちろん、それでも敢えての決意を持ってしがらみの中に分け入ってくる人もいるのだが、少数派だ。
おまけは、「見失われた教団の存在意義」だろうか。個々のお寺はそれぞれに独自の仕方で頑張っていたり頑張っていなかったりそれぞれやっているのだが、それを中心で統括するべき教団本部の仕事といえば、肥大化した本部組織をどのように維持するかということが自己目的化してしまっている感がある。仕事のための仕事のための仕事が大半を占め、前例にないことには取り組まず、ひたすら内部の人間関係政治活動に精を出し、いかに自分が責任を負わずにポジションを守るかということに腐心する。官僚だって誰だって、はじめはそんなふうに自分がなるなんて思ってもみないだろう。しかし人間を作るにおいて、環境が持つ影響力というのは大きいもので、あるときそれに飲み込まれてしまっていた自分にふと気づき、愕然とする人も多いのではないだろうか。
と、なんだかいやなことばかり書いてしまったが、別に嫌みを言いたかったわけではなくて、伝統仏教の未来を客観的に真剣に考えてみようと思ったら、なんだかこんな話になってしまった。いろんな宗派の人と話していて思うのは、おそらくこのような問題は本願寺に限らず、伝統仏教教団全体が抱えるものなのだろうということ。伝統仏教教団は、昔からの歴史文化の遺産とこれまで受け伝えられてきた教義の質の高さのおかげで今のところはなんとか体面を保っているが、社会に対する行動力や布教の努力においては新興宗教の活動に遠く及ばないと言わざるをえない。怪しい新興宗教が孤独で不安な人に見せかけの温かい声をかけて近づいていくとしても、見せかけの声すらかけていない伝統仏教には何を言う資格もないのだと思う。
しかし逆に言えば、本物の教えに深く根ざしたところから本物の行動が出てくるとしたら、それほど強いものはない。諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教。見せかけのもの、にせものが横行する今こそ、お坊さんは余計なことを考えず「ほんとうにいいこと」に取り組みはじめるときではないだろうか。