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2007年9月 アーカイブ

2007年9月29日

最近、ぼくが気に入っていることわざは「船頭(せんどう)多くして船(ふね)山(やま)に登る」だ。船を指揮する船頭さんが何人もいると、船は統制をとれなくなっておかしな方向に進んでしまうという意味である。なるほどなと納得させられることわざなのだが、ふと気になるのはなぜ「山に登る」のかということ。「進まず」とか「沈没す」とかでも良さそうなものだが、船頭の多い船は「山に登る」とされているのだ。ひとりで停滞・沈没するだけなら迷惑もかからないのだが、それぞれの船頭が善かれと思ってまわりを巻き込み行く先が、想像もつかないようなあきれた到着点に辿り着くという皮肉が込められているのだろう。

このことわざ、仏教界に当てはめてみるとまた面白い。たとえば浄土真宗では阿弥陀如来の願いが「船」にたとえられるが、浄土真宗を信仰する人を船の乗客とするならば、そのリーダーとされる住職は船頭と言えるだろう。その船頭たちの中でも船頭の上に立ちたいと思う船頭が集まって、船頭の山並を築いていく。それぞれの地域の小さなお寺がひとつの山だとすれば、それぞれの山を背負いつつ京都の本山へ集まってくる住職たちの群れは、さながらボスの中のボスを決める猿山コンテストのようでもある。それは言い過ぎかもしれないが、そんなにはずれてもいないと思う。

ここのところ「なぜ伝統仏教教団は停滞するのか」ということを書いているが、ポイントはこの「船頭多くして船山に登る」のことわざに集約されるかもしれない。
伝統仏教において京都の山が好きで集まってくる船頭たちの多くは、

・みんな自分の小舟(お寺)を持っており、大船(本山)に乗り込むときも、いつでも頼れる救命用の小舟を手放さない。
・小舟の船頭(住職)としての自負から、いつも何かしら細かな指示をしたがる。
・生まれてこのかた船の世界しか知らないので、人間には船頭か乗客の2種類しか存在しないと思っている。
・担当の船が短期間で変わるため、いつも船に対して責任を持たない。
・多くの船頭は、沈没させて批難されることを恐れて船を漕がせない。
・やる気のある少数派の船頭も、行き先も告げずにがむしゃらに漕がせたり、他の船頭から足を引っ張られたりして、座礁する。

というようなことの繰り返しで、まったく埒があかないのだ。

一人のがんばりともう一人のがんばりが合わされば二人と言わず三人分以上の力が出そうなものだが、一人と一人が合わさると二分の一と言わず三分の一くらいの力も出なくなってしまうのが船頭の足の引っ張り合いである。ぼくがよく聞く船頭用語のひとつに、「思い」という言葉がある。「この件については○○さんの思いを尊重せなあかん」などというふうに使われるのだが、船頭が多くなればなるほどこの手の無用な気遣いが増えてきて、しまいにはどうでもいいことひとつひとつに対して皆が疑心暗鬼になっていく。大昔すでに山に登ってしまった船がそのまま身動きがとれなくなり、風雨にさらされ生き恥をさらしながら朽ちていくのを待つしかないという悲劇。

船頭の皆さん、それほど乗客の言うことを聞く気がないのなら、どうしてそんなに他の船頭の言うことばかり気にするのか。それほど他の船頭を気にするくらいなら、どうして乗客の「思い」に耳を傾けないのか。そして何よりも、もっと謙虚に仏の「思い」に耳を傾けるべきではないのか。せっかくの弥陀の願船も、乗っている船頭のせいで船の行き先がおかしくなったり、船頭に嫌気がさした乗客が船から降りたいと言い出したら、それこそ船のオーナー、仏に申し訳が立たない。

ここのところ残念なことばかりで暗い記事が続いてしまった。来週こそは楽しい記事を書きたいと思います。

2007年9月23日

 つい最近、とある雑誌の座談会で上田紀行さんとご一緒する機会を得た。上田紀行さんと言えば、『がんばれ仏教』や『目覚めよ仏教』などの著書でも活躍中の文化人類学者として、マスコミでも有名な方である。東京港区の青松寺での「ボーズ・ビー・アンビシャス」企画などでは僧侶啓発講座にも積極的に参画しておられ、伝統仏教界への応援の気持ちから発される厳しい意見が若手僧侶たちにもよい刺激となり、仏教界でも各方面から注目を集めている。
 このサイト「彼岸寺」やお寺カフェ「神谷町オープンテラス」の試みなど、ぼくがこれまで伝統仏教の中で取り組んできた活動が上田さんの活動と一緒に新聞や雑誌で紹介されるというふうに、過去にも誌面上ではご一緒したことが何度かあったのだが、意外にもご本人に実際にお会いしてゆっくりお話する機会が今までなかった。このたび、座談会終了後に近所のバーのカウンターで向き合って一杯飲むという場をいただいたことは、貴重なご縁となった。

 さて、これまでぼくは伝統仏教界に関する上田さんの著書も読んだことがあるし、その活動も知っていた。青松寺で開かれている「ボーズ・ビー・アンビシャス」という企画にも参加したことがあるし、そこに集まるお坊さんたちの真剣な気持ちと真摯な姿勢にも触れている。それらうについて、素晴らしい活動だなと感じたのは確かだ。

 しかし、そこに何かが足りないような気がしていた。上田さんのされていることは意義あることだし、そこに集まって来るお坊さんもポテンシャルが高くやる気に満ちた人たちばかりだ。だから、その試み自体は素晴らしいのだけれど、でもまだ何かが足りないような気がするのはどうしてだろう。と、考えているうちにあるとき足りないものに気が付いた。それは何か。「役者が足りない」のだ。

 上田さんが『がんばれ仏教』と語りかけたときに反応するお坊さんは、実はお坊さんの中の一部に過ぎない。「お坊さんもまだまだ捨てたもんじゃない」と言われるような活動を現場で地道に頑張っているお坊さんにとっては、そのメッセージは仲間意識を呼び覚まし、活動の励みになるだろう。また、仏教にかける自分の思いをかたちにするため何か活動したいと思いつつ今一歩を踏み出せないお坊さんにとって、メッセージへ共感する仲間たちのサポートには大きく勇気づけられるに違いない。しかし、ぼくの経験からしてみても、現実に活動している多くのお坊さんはそのような精神性ではないはずで、だいたいお坊さんというのは自分がお坊さんであることに誇りを持っている人が多いから、「今やっているお坊さん活動で精一杯だ、社会活動など必要ない」「お坊さんは俗事に関わるべきでない」「坊主でもない学者風情にそんなこと言われる筋合いはない」とか、そういう強い反発が出てきてしかるべきで、そういう人こそ『がんばれ仏教』を取り巻く役者として入ってこなければと感じていたのだ。

 というわけで、お坊さんじゃない人に「がんばれ仏教」なんて言われて怒る坊さんはいないのかという話を伺ってみたのだが、意外にもそんなふうに怒る人はあまりいないそうだ。講演の講師として伝統仏教界のあちこちから呼ばれることもあるけれど、それを取り巻くのはすでにある程度の問題意識を持った人たちで、それは「がんばれ仏教」を励みとして聞ける人たち。ほんとうに根性を入れ直して「がんばる」べき人たちは、そもそもそういう場に出てこない、ということだ。なるほどな、と思った。ぼくとしては、「お坊さんは偉いんだ」と生まれてこのかた決め込んでいる人の多い伝統仏教界から「学者なぞにがんばれ仏教なんて言われる筋合いはない、徹底的に論破してやる」くらいの勢いのある人が出てきたら面白くなるのになと思っていたのだが、事実はそうではないらしい。そういえば、確かにお坊さんは自分がお偉い僧侶として振る舞っていられる演出の場にしか出て来ない人が多いような気がするし、これは悲しいことではあるが、そういうスタンスでお坊さんをやっている人ほど教団の中心になんと多いことかということを感じざるを得ない。

 上田さんの『がんばれ仏教』の気持ちは、伝統仏教教団の中枢部まで届けたいものだが、実際に届いているのはまだまだ周辺部の有縁の人々ばかりである。前回のコラムからもたびたび言っているが、能力もあり人格的にも優れた尊敬できるお坊さんは、全世界にまだまだたくさんいる。しかし、せっかくそういう人たちがやる気を出しても教団の中枢部のあまりの程度の低さに嫌気が差し、辞めて帰って自分のお寺で静かに地道に活動している人は多い。よく言われる、「個々の寺院で頑張っている活動」はときどき目に入るけど「伝統仏教教団の活動」はまったく見えて来ないというのには、そういう事情がある。簡単に言えば、まともなお坊さんはアホらしくて本山周辺に近寄らなくなってしまうのだ。もちろん、いくらアホらしいと思っても諦めずに頑張っている人もいるのだが、そういう人も何かのタイミングで没落していくことが多い。伝統仏教は江戸よりも以前から歴史が長い分、さらに魔物が大きく育ってしまうのかもしれない。

 でも、悲観するばかりでは先に進まない。今差し込んでいるひとつの光は、インターネットの普及によって個々のお寺が独自で情報発信できるような環境が整ったことではないかと思う。昔だったら教団につぶされたような企画でも、今ではそんなことは関係なく独自に実施して、その結果を世論に直接問うことができる。カチカチの檀家制度では立ち上がりにくかった檀家の人たちも、世論を味方につけてよりよい方向を模索していくこともできる。これからの伝統仏教教団は、周辺部から変わっていくことは間違いない。やがてそのうねりが大きな渦となって、中心部も巻き込んでいくような勢いを持てばいいと思う。エッセンスだけ残しつつ、解体するような仕方で再生していく方向を模索していきたいものである。

2007年9月14日

お坊さんというのは教えを広めるために存在しているのだから、浄土真宗のお坊さんなら浄土真宗の教えが広まることなら手放しで喜ぶはずだと考えられているけれど、実際はそうでもないんじゃないかというお話。

まず根本的なところ、誰しもお寺に生まれてきたからといって「自分はこの教えを広めるために生まれてきたんだ」という使命感を持つとは限らない。むしろふつうは、生まれたのがたまたまお寺だっただけで、そこでお坊さんになるのもそれが家業だからという人のほうが多いだろう。もちろん、家業としての自覚を持って一生懸命がんばる人もいるしがんばらない人もいるのだが、最終的にはやっぱりお寺は自分が住むための実家であり、お坊さんという職業も自分が食べていくためにやっているだけ、という人はけっこう多いのではないだろうか。ちなみにこの話は、お坊さんを職業として自分の寺を切り盛りすることで生計を立てている人にしか当てはまらないことなので、念のため。

話を戻そう。さて、「お寺はお坊さんが食べていくためのもの」ということになると、今どきお坊さんも食べ物や飲み物など現物のお布施だけでは暮らせないから、現金収入が大切になってくる。土地持ちのお寺であれば地代収入だけで成り立ってしまうところもあるが、一般にはお寺の現金収入といえば法事やお葬式でのお布施がほとんどだろう。で、これを増やすにはどうしたらいいか。それは簡単な話、檀家の数を増やせばいい。檀家が増えれば法事やお葬式の数も増えるからだ。では今度、その檀家の数を増やすには、いろんなつきあいの輪を広げ、それを強固なものにしていくこと。浄土真宗の教えに魅力を感じるというのもつきあいの深まるひとつの大きなきっかけになるから、結果的に浄土真宗の教えが広まってくれることはお寺にとって好ましいこととなる。

しかし逆にいえば、自分のお寺にとってよい結果をもたらすような仕方である限りは、浄土真宗の教えが広まってくれることを喜べるということ。だから、自分に何も関係のない範囲での布教活動については、お坊さんは穏やかな顔をして「熱心な布教活動、素晴らしいですね。どんどん教えをひろめてください」と言っていられるのだが、ひとたびこの前提が崩れたら途端に険しい顔になって「布教するのは良いが、やり方や手順を考えてもらわないと困るし、活動を認めるわけにいかない」と言い出すお坊さんの何と多いことか。

このことを象徴するのが、誰かが新しくお寺を作ろうとするとき。総論としては「布教に熱心な人が新しいお寺を作ることには大賛成」でも、いざ自分のお寺の近所に新しいお寺ができるとなると、必ずと言っていいほどいろんな理由をつけて邪魔をするお寺が出てくる。法事やお葬式の仕事をとられたりして自分の縄張りを荒らされては困る、という本音の部分がむき出しになってくるのだ。

ところで、おもしろいことに多くのお寺が近所に同じ宗派のお寺が新しく作られるということになると妨害するのに、他宗派や他宗教が進出してくることについてはまったく言っていいほど関心を示さないこと。浄土真宗の同じ宗派、浄土真宗の違う宗派、伝統仏教の他宗派、仏教系の新宗教、キリスト教、というように、自分のところの教義から内容が遠くなればなるほどこの傾向は強くなる。本来なら、自分と教義の近い宗教と仲良くして遠い宗教に対抗意識を持ちそうなものだが、そういう考え方をする人は伝統仏教界の中にまったくと言っていいほど見当たらない。いったい、この現象の原因はなんなのか。実はそれも、最初に述べた「家業としてのお寺」意識に見いだされるのではないかと思う。

ようするに、お寺というのは昔から続いてきたことをただそのまま引き継いでいるだけであって、お坊さんの世襲も、「家の宗教」という檀家制度も、そのことをよく象徴していると思う。新規教線の開拓だのなんだかんだ言ってみたところで、お坊さんの意識として強烈にあるのは、昔ながらの「家の宗教」であり、生まれながらにして決まってしまう所属の宗教や所属の寺院という考え方。仮に日本で浄土真宗の檀家が1000万人いるとしたら、まだ残り1億1000万人の人がいるのだから、その人たちに布教しようとすれば、今の10倍の数のお寺を誕生させてもいい計算になる。しかし、実際にはそんなふうに考えるお坊さんはいない。おそらく多くのお坊さんにとって1億1000万人の浄土真宗以外の人は眼中になく、毎年どんどん小さくなっていく1000万人のパイの奪い合いだけが争われている。

先祖のお坊さんたちが開拓してくれた1000万という畑ですら耕すこともせずただ果実を摘んで安穏としてばかりの人たちが、わざわざ見ず知らずの土地を耕そうとするわけがないのは、それもまた道理というもの。しかし、どんなにのんびり屋さんだとしても、ここ最近の畑の荒れようと果実の痩せ具合を見れば、そろそろ家業の行く末を案ずる危機感が出てきてもいい頃かと思う。

先達が開拓してくれた1000万の畑を手入れし直して元気に維持していく生真面目さと、そしてまだ手つかずの1億1000万の未開の荒野へ乗り出していく勇気と智慧が今、必要なのではないかと思う。

2007年9月 5日

参院選が終了し、大方の予想通り民主党の勝利という結果に終わった。民主党から出馬している浄土真宗本願寺派の僧侶、藤谷光信氏も78,000票ほどの得票で当選。参院は民主党が第一党となり、野党が議席の過半数を占める事態となった。今後この流れを受けて、衆院解散なども含めて政界再編に突入していくのだろうか。

自民党への逆風、民主党への追風、大きな風が吹いた今回の選挙。社会情勢の中での瞬間風速的な風でもあるのだろうが、この風が参院において今後6年間、痕跡を残し続けることになる。有権者の選択が今後の政治の方向性を決めていくのである。速報を見ながら、ふと自分の所属する浄土真宗本願寺派という宗門組織のことを思った。浄土真宗本願寺派は、明治政府が議会制民主主義を導入する以前から、試験的に議会制民主主義をいち早く取り入れた教団であり、その制度は今も続いている。本山=政府、総長=総理大臣、総務=大臣、宗会議員=国会議員、有権者=僧侶。国家の規模とは比べ物にならないが、形としては日本の国とほぼ同じような制度が成り立っている。

しかし、どうしてだろう、ここではどうにも風が吹かない。自分が日頃接する僧侶から、「本山は一体何を考えているんだろう」と言う、政治の変革を望む意見を聞くことは多い。しかし、それほどまでに有権者である僧侶の多くが本山に対して否定的な立場をとるのであれば、教団にも選挙があるのだから、大きく風向きが変わってもいいのではないかと思うのだが、結果はなかなかそうならない。もちろん、長年の間に議員も入れ替わるし有権者も世代交代するのだが、肝心なところである「浄土真宗本願寺派」という教団そのものは、少なくとも外の一般社会から見たときに何も変わっていないどころか、なんだか後退しているような感じがするのである。これは一体どうしてか。

その理由としては、まず初めに「社会と断絶した感覚」がある。お寺が持つ一般社会との接点というのは、主に檀家さんとの付き合いがほとんどである。もちろん檀家さんにはいろんな方がおられるが、たいていは「お寺さん」として丁寧に扱ってくださるために、お寺は特別に批判を受けることもなく、のほほんと今まで通りのやり方でお寺をやっていればいいというふうになってしまう。「時代に合わせてどのように変わっていくべきか」という議論が、基本的に欠けている。ましてや親から子へと疑いなしに世襲で継がれるお寺であれば、なおさら家族ぐるみで感覚がずれてしまうものだから、状況は深刻だ。

二つめに、「仏教界の閉鎖的な体質」があると思う。社会と断絶した状況では、お坊さんの世界は仏教界という狭い範囲に限られ、そこでの人間関係にどうしても固執するようになる。「あの人はいい役職についたのに、なぜ自分には声がかからないのか」とか、そういう嫉妬心のうずが沸き上がる。しかもその人の実力だけでなく、お寺の格や歴史など、一般社会よりもさらに難しい要因がいろいろ重なってくるので、事態はより複雑である。それでまたお坊さんの中には、そういう種類の事柄に強い興味を持つ人がけっこう多いのがやっかいなところ。つまらない足の引っ張り合いが始まり、人が集まれば集まるほど物事が進まなくなる。不幸中の幸いなのは、その閉鎖的な体質ゆえに、一般の皆様に対してそのような醜態を曝さずに済んでいることだろうか。

三つめに、「優秀な指導者の不足」も挙げられるのではないか。これは決して、お坊さんや仏教関係者に優秀な人材がいないと言いたいのではない。それどころか、基本的な知性が高いだけでなく、仏教を深く掘り下げたところから自然とにじみ出てくる人徳を備えた、あらゆる意味で心から信頼のおけるお坊さんもたくさんおられるのである。ただ残念なのは、そういう方々に限って、あるいはだからこそ、お坊さん同士のつまらないしがらみを離れようとする傾向が強く、教団の中のほうには極力近寄らずに在野の僧であり続ける人が多い。もちろん、それでも敢えての決意を持ってしがらみの中に分け入ってくる人もいるのだが、少数派だ。

おまけは、「見失われた教団の存在意義」だろうか。個々のお寺はそれぞれに独自の仕方で頑張っていたり頑張っていなかったりそれぞれやっているのだが、それを中心で統括するべき教団本部の仕事といえば、肥大化した本部組織をどのように維持するかということが自己目的化してしまっている感がある。仕事のための仕事のための仕事が大半を占め、前例にないことには取り組まず、ひたすら内部の人間関係政治活動に精を出し、いかに自分が責任を負わずにポジションを守るかということに腐心する。官僚だって誰だって、はじめはそんなふうに自分がなるなんて思ってもみないだろう。しかし人間を作るにおいて、環境が持つ影響力というのは大きいもので、あるときそれに飲み込まれてしまっていた自分にふと気づき、愕然とする人も多いのではないだろうか。

と、なんだかいやなことばかり書いてしまったが、別に嫌みを言いたかったわけではなくて、伝統仏教の未来を客観的に真剣に考えてみようと思ったら、なんだかこんな話になってしまった。いろんな宗派の人と話していて思うのは、おそらくこのような問題は本願寺に限らず、伝統仏教教団全体が抱えるものなのだろうということ。伝統仏教教団は、昔からの歴史文化の遺産とこれまで受け伝えられてきた教義の質の高さのおかげで今のところはなんとか体面を保っているが、社会に対する行動力や布教の努力においては新興宗教の活動に遠く及ばないと言わざるをえない。怪しい新興宗教が孤独で不安な人に見せかけの温かい声をかけて近づいていくとしても、見せかけの声すらかけていない伝統仏教には何を言う資格もないのだと思う。

しかし逆に言えば、本物の教えに深く根ざしたところから本物の行動が出てくるとしたら、それほど強いものはない。諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教。見せかけのもの、にせものが横行する今こそ、お坊さんは余計なことを考えず「ほんとうにいいこと」に取り組みはじめるときではないだろうか。

お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが進む時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。彼岸寺の松本が見たり聞いたり感じたりしたことをもとに、「お寺の未来」についてつらつらと書きます。エッセイですので不正確な表記やおおげさな表現が出てくるかもしれませんが、どうぞご了承ください(誤り等あれば修正しますので、ご指摘いただければ幸いです)。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(2005年12月刊行)