2007年06月06日

ある雑誌の対談企画で、坊主バーの藤岡善信さんとお会いした。坊主バーとは東京の四谷三丁目駅近くにあるバーで、藤岡さんを中心にいろんな宗派のお坊さんがスタッフとして運営している、文字通りの「坊主」バーだ。雑居ビルの階段を上って扉の前に立てば、「会員制」ならぬ「檀家制」の文字がお客さんを待ち構える。と言っても基本的には普通のバーなので、もちろん仏教徒ではない一般のお客さんも温かく迎えてくれるのだが、通好みの方はスタッフと仏教について熱いトークを繰り広げることもできる。

藤岡さんとは新聞などの誌面上にて「坊主バー、神谷町オープンテラス」という並びでご一緒したことは何度かあったが、実際にお会いしたのはこれが初めてだ。同じ宗派なので何かしらの接点がありそうなものだが、好き好んで宗派組織の内部をうろついているぼくと違って、藤岡さんはあえてそういうところから距離を置いて、東京都心のバーという現場で日夜勝負を挑んでいる方なのだろうと、そんなふうに想像していた。

対談現場、前半は神谷町オープンテラスにて。藤岡さんは、初対面でも親しみやすい雰囲気で、顔立ちの端正で少し寡黙な方だった。真面目、というよりは、ストイックという言葉が似合うだろうか。元ボクサーという経歴が、その佇まいにとてもよくはまっていた。

お互いに、在家(実家が寺でない)出身でありながら縁あって浄土真宗本願寺派の僧侶となり、今は宗派を超えた僧侶仲間と一緒に一般社会へ向けた事業を行っているという共通点もあり、自然と親近感が沸いた。そして同時に、一見同じような背景を持ち同じような試みに取り組んでいるようで、それぞれのスタンスにはかなり違いがあるのだろうということも感じた。

藤岡さんは僧侶として坊主バーを運営しながら、そこにいろいろな葛藤を感じている。坊主バーで誰に何を伝えたいのか、僧侶として人に何かを伝えるなどというのはそもそも非常におこがましいことではないのか、浄土真宗の仏道を歩みたいのであれば僧侶でなくても仏教徒として自覚を持てばそれでいいのではないか、など、僧侶として感じるところについて率直に話をした。どれも根本的な問題で、すごく大事な悩みだ。もちろんぼくもこれまで何度もそういう問題について考えてきた。でも、そういえば最近はそういうことをあまり考えなくなっていることに、ふと気が付いた。どうしてだろうか。

浄土真宗の教えは基本的に在家仏教の教えなので、僧侶も門徒も分け隔てなく、念仏を拠り所とする教えだ。僧侶というのはその教えを守り発展させるリーダー的存在に過ぎず、辞書的に見た「僧侶=出家して仏門に入った人」という一般の感覚からすると、「僧侶」という言葉の意味合いから大きな隔たりがある。でも、一般の人から見れば僧侶は僧侶であり、そのイメージとのギャップに苦しむことは、真面目な浄土真宗の僧侶であればたいてい通る道なのではないかと思われる。また、教団自体が「僧侶」という立場に重みを持たせようとする構造を持っていることが、その混乱に拍車をかける。

仏教では三宝、つまり仏と法と僧を大切にしなければならない。
僧というのは、仏法を学ぶ仏弟子の集団のことを指す。

でも、だからといって、仏教徒たる者は、今現在の仏教教団が提供する枠組みに疑問を持つことなくその中で大人しくしていればよいのかといえば、そうではないと思う。僧を敬い大切にすることが求められるのであればこそ、僧がおかしな方向を向いていれば問題として真剣に考えることも必要だろうし、時代に即した方向性を模索していく実験も必要になるだろう。

得度式を経て教団から僧侶として認められると、そのことについてだけでも真面目に考えるといろんな悩みが出てくるが、それは仕方のないことだと思う。これだけ長い歴史を経た教団組織に対して、いまだに僧=教団と考えるほうが、無理があるのかもしれない。同じ方向を向いた仏弟子集団を意識するなら、教団とかいうあまり大きなものを考える前に、たとえひとりずつでも身近なところから腹を割って話せる仏教同志を見つけていったほうがいいのではないか。

では教団なんて要らないのかといえば、ぼくはそうは思わない。長い歴史と伝統の上に成り立っていて今でもそれなりにかたちのある教団という組織は事業体としての魅力があるし、活用の仕方次第で大きな可能性を秘めていると感じている。だから、考えれば考えるほどきりがない「浄土真宗の僧侶として如何にあるべきか」という問題はひとまず棚に上げ、ぼくは積極的に教団内の仕事もしている。

でもやっぱり、その問題については棚上げしつつもいつも心のどこかで意識しておくべきことでもある。僧侶としての、というよりは仏教徒としての藤岡さんの真面目な姿勢に、ぼくもすごく大切なものをもらった。お互いにそれぞれ違った役割があるのだと思うが、クロスしたところでこれから何か一緒にできることがありそうな気がした。

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コメント (3)

石川 正子:

初めまして。
最近、転職をし、お茶の教室の受付を始めました者です。

この仕事を始めるまでに、権力や報酬への執着は私なりにかなり削ぎ落とされてきたように思っていたのですが、日々いろんな事や人に出合う度に、自分の弱さや、これでいいのか?という問いに負けそうになっていたときに、松本さんの本に出合い、ほんの数行の言葉から勇気をもらっており、お礼を言いたかった者です。

松本さんも、日々迷ったり、人からエネルギーをもらったり、答えの出ない問いは保留にしておいたり、そんな様子を読んでいると、「まだまだ私に迷いがなくなるわけないじゃん」といい意味で諦めがつきます。

孤独感がつのる時があります。まだ、私のまわりでは、この年で仏教に興味があるなんていうと、変わり者扱いされますから。

そんな時は彼岸寺のページを楽しみにしてますので、これからもがんばってください。

松本:

>石川様
拙著をお読みくださいましてありがとうございます。
私の本が少しでも人の役に立てるということ、
そのことが今度は私の元気になります。
今後ともよろしくお願いいたします。

妙永:

松本 さん
  
  はじめまして!
  僕は中国からのお坊さんです、松本さんと同じで浄土宗に属しています、今日本で仏教学の大学院を通ってます。
 松本さんが書いた文章を読ませていただきまして、とても感慨があります。日本のお坊さんもいろいろと悩んでますね。
 今の時代、僧侶としてはどのように生きていくのか、そして今の時代には、僧団はどういう姿で社会に臨むか、修行というのはどういうものか、などなど
 いろいろと考えなければならないですね。
 偶然にこのページを発見して、縁かもしれないですが、松本さんといろいろと交流したいですね。
 よろしくお願いします。
妙永合十

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お寺は日本全国に7万ヵ寺以上存在するといわれますが、その割にはあまり存在感が感じられないのは私の気のせいでしょうか?情報化とグローバリゼーションが加速度をつけて進んでいくこんな時代だからこそ、お寺には日本の伝統や文化を守り育んでいく、大事な役目があると思うんです。「お寺の未来」について、彼岸寺住職の松本が連載していきます。
松本圭介
僧侶 法名・釈紹圭(しょうけい)。浄土真宗本願寺派僧侶、布教使。東京・神谷町光明寺所属。1979年生まれ。東京大学文学部哲学科卒業後、仏教界のトビラを叩く。超宗派の僧侶達が集うブログサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、寺院内カフェ「ツナガルオテラ 神谷町オープンテラス」を企画している。著書に『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社/2005年12月刊行)