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      <title>おじいちゃんへの質問</title>
      <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/</link>
      <description>めっちゃん（２９歳）が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。[手紙]ーめっちゃんからおじいちゃんへの手紙[対話]ーめっちゃんとおじいちゃんの面談[振り返り]ー面談を終えためっちゃんの感想
めっちゃん離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>5.2「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」 [対話]</title>
         <description><![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。


［おじいちゃん］

まずね、因果についてだけどね、めっちゃんはひとつ勘違いしてるな。因果という場合の、果が因になるという場合の「因」といった場合には、異熟果（いじゅくか）という形ではないんだよ。


［めっちゃん］

「私」というのは、過去の「果」であると同時に、未来の「因」であるということになる」と書いていた部分のことね。異熟果ではないってどういうこと？


<strong><u>結果の中に、因になる要素がある　～結果はそのまま因にならない～</u></strong>


 ［おじいちゃん］

例えば、<strong>善もしくは悪という行為は因になる</strong>んだよ。善というのは、それによって安穏の安らかな結果をもたらす行為だし、悪というのは非安穏の結果をもたらす行為だよね。善もしくは悪というのは「行為」で、それが「原因」になって、苦もしくは楽という「結果」をもたらすわけなんだよ。その<strong>結果は善でも悪でもない</strong>んだよ。善によってもたらした結果であって、善でも悪でもないということは、<strong>結果はそのまま因にはならない</strong>んだよ。結果はあくまで結果であって、因ではないんだな。
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">5.救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのか</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 20 Feb 2008 11:22:24 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>5.1「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」[手紙]</title>
         <description><![CDATA[おじいちゃんへ

拝啓
凍えるような寒さが続いていますが、おじいちゃん、元気ですか。
こう寒いと外に出るのもなかなか億劫になりますね。おじいちゃんに会いにいこうと思いつつも、この寒さにかまけて、しばし時間があいてしまいました。

さて、今回おじいちゃんに聞きたいことは、
<strong>「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」</strong>
ということです。

おじいちゃんは、以前、「因果」の話を私に教えてくれましたね。その時、大豆を例に「豆をうえて豆をとる。豆は去年の『果』であり、今年の収穫に対する『因』になる」といいました。そうすると、<strong>「私」というのは、過去の「果」であると同時に、未来の「因」である</strong>ということになると理解しました。

また、豆が発芽するには、太陽・水・空気などの外部要因が必要になると思うのですが、それらを「縁」というならば、<strong>「縁」によって「私を救ってくださる阿弥陀様の存在に気づくかどうか」が往生を決定づける最後の要因になる</strong>のだと思います。

そうなると、「阿弥陀様の存在に対する気づき」があれば、「果」は「浄土への往生」になり、気づきがなければ、「果」は「再びの生」になってしまう、とそのように思いました。（輪廻転生とは私たちが勝手に描いているものだとおじいちゃんはいったので、そもそも「再びの生」になるのかどうかも疑問なのだけどね、この疑問はまた別の機会に聞くことにします。）このように考えていくと、<strong>「因」と「縁」以外の「私の気づき」という要素が浄土往生においてはとても重要なのではないか</strong>と思いました。]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2008/02/51.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">5.救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのか</category>
        
        
         <pubDate>Mon, 04 Feb 2008 15:33:37 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>4.3　おじいちゃんへ [振り返り]</title>
         <description><![CDATA[おじいちゃんへ

拝啓

この間、おじいちゃんに会った時はまだ秋だったのに、気がつけばもうすっかり冬になってしまいましたね。今ごろ、おじいちゃんは、こたつに入って縁側から海を眺めているのだろうなあっと思いながら、久しぶりに手紙を書いています。

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="Nature1-012決定.jpg" src="http://www.higan.net/blog/grandpa/Nature1-012%E6%B1%BA%E5%AE%9A.jpg" width="480" height="360" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;"/></span>

この間のおじいちゃんの話を聞いて、私なりに少し考えたことを書いてみます。

今回のおじいちゃんへの質問は、<strong>「阿弥陀様の救いには条件があるのか」</strong>ということでした。そのきっかけとなったのは、おじいちゃんが以前くれた手紙でしたね。]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/12/43.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">4.阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 25 Dec 2007 16:16:49 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>4.2「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか」[対話]</title>
         <description><![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。


[おじいちゃん]

今回はまず、<strong>「死んだ人がすぐにお浄土にいったのかどうか」</strong>という問題提起だね。これは大事な問題だね。


<u><strong>浄土に包まれている</strong></u>　


あのねえ、ただ実際はね、<strong>どこにいても浄土の枠の中</strong>なんだよ。浄土に往生した者は、めっちゃんがいるこっちの側にはなんぼでも会えるのだよ。まあしかし、浄土真宗では浄土に誰でも往生できるとはいわないね。やっぱり、<strong>生と死の問題を解決したり、自分自身にけじめをつけるということが非常に大事なこと</strong>になるんだ。

ただ同じこの教えに導かれているもの、それはまあ、今はわからなくたって必ず分かるときがくるし、どこにいっても、例えば地獄の底にいても、その人にとったら地獄だけど、悟りを開いたものの目からみれば地獄におろうとどこにおろうと実はただあんたが錯覚してるだけだということだから「その錯覚を翻しなさい」といつでも言い続けることができるわけなんだよ。その意味では、<strong>「こちらからはいつでも会えるけど、向こうからは気がつかない」</strong>ということなんだよ。

]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/11/42.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">4.阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 06 Nov 2007 16:18:33 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>4.1「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか」[手紙]</title>
         <description><![CDATA[拝啓


朝晩は幾分涼しくなり、ようやく秋の気配を感じる今日この頃です。

今回のおじいちゃんへの質問は、
<strong>「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか。」</strong>
ということです。

数年前、私は友人の死という現実に直面し、
その時に感じた思いを綴った手紙をおじいちゃんに送りましたね。覚えていますか？
その中で、友人の死という現実をどう受け止めてよいのか分からず混乱する一方で、
「起きたことには必ず意味がある、そうなるべくしてなった」とどこかで思ったこと、
また、｢私より一足先に浄土にいったのだと思うと、
しんどいこの世の中にいるよりよかったのではないか｣
そのように思ったと書きました。

また、その反面、こらえきえれない「悲しい」という思いがわきあがってきて、
そのことに戸惑い、<strong>「悲しいというその思いはどこからやってくるのだろう」</strong>
という疑問がわいたこと、
そして、ふと<strong>それが「我」であることに気づいた</strong>ということも書きました。

おじいちゃんは、会った時にいろいろと話してくれましたね。
しかし、混乱している私を前に、あまり多くを語れなかったのでしょう。
それからしばらくして、一通の手紙をくれましたね。

今回の私の疑問は、おじいちゃんがくれたその手紙の中から始まっています。]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/10/41.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">4.阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 31 Oct 2007 11:28:49 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>3.3 おじいちゃんへ [振り返り]</title>
         <description><![CDATA[拝啓


少しずつ秋めいてきましたね。海からの風が心地よい季節になってきたことかと思います。

<img alt="%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%93%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81%E3%81%AE%E5%86%99%E7%9C%9F.JPG" src="http://www.higan.net/blog/grandpa/%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%93%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81%E3%81%AE%E5%86%99%E7%9C%9F.JPG" border="0"width="480" height="360" />

おじいちゃんと話した後は、不思議なもので、心の芯から温かくなるというか、元気になるというか、ものすごく深いところで大事なことを肯定されたような気がします。

さて、今回の質問は、
<strong>「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのでしょうか」</strong>
というものでした。

そもそも、なぜこんな質問が沸いてきたのだろうかと、私なりにもう一度考えてみました。

ひとつは、「お聖教の通りに生きないといけない」という言葉を聞いたときに自分が感じた「私の生き方はこれでいいのだろうか」という不安による部分があります。

もうひとつは、「教えを聞いているのに、あるいは、お坊さんなのにどうして日常においてもっと立派ではないの？」という問いに対して、私がきちんと答えられなかったということがあります。]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/09/33.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">3.どう生きるかということと、救われるかということの関係</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 26 Sep 2007 08:24:56 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>3.2 「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのでしょうか」 [対話]</title>
         <description><![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いに行きました。 


[おじいちゃん]

よう来た、よう来た。暑いなあ。まあ、まあ、お茶でも飲みなさい。

お茶飲みながら、ほな、ゆっくりはじめようか。 

今回のめっちゃんの質問は、<strong>「どう生きるかということと、救われることはどういう関係にあるのだろうか」</strong>そういうことだね。 


<strong><u>精魂こめて生きるということ</u></strong>


めっちゃんは手紙の中で、「救われる」ということと「この世でどう生きるか」ということは、直接関係がないように書いているね。これは、なんだろうね、大人の宗教なんだろうね、浄土真宗というのは。

阿弥陀さんは束縛せんのだよ。それだけ、私たちがそれぞれの場でそれぞれの道を選択するしかないんだな。どの道を行ってもいいんだということなんだろうね。その意味で、「特定しない」というだけのことで、どの道を行っても精魂込めて生きればそれが素晴らしいということなんだろうね。 

「どう生きてもいい」ということではなくて、むしろ生き方うんぬんはどうあっても、例えば、吹けば飛ぶような将棋の駒に命を賭けて生きる人もあるだろう。そういう道に精魂込めて生きる、そんな命の燃やし方というのも素晴らしいことなんだよ。いろいろと学んでいく姿があるんだよ。どんな道を選ぶかは自分で決めるんだ。まあ、自分で決めると言っても、半分くらいは知らんうちに決められてしまうことが多いけどな、ははは。しかしまあ、いずれにしても、自分のある道に精魂込めて生きた証を残すということなんだろうね。 ]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/09/32.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">3.どう生きるかということと、救われるかということの関係</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 12 Sep 2007 09:02:42 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>3.1「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのでしょうか」[手紙]</title>
         <description><![CDATA[おじいちゃんへ

拝啓

暑い日が続いていますが、お変わりなくお過ごしですか。
私もうだるような暑さにぐったりしながらも、
どうしてもおじいちゃんに尋ねてみたいことがあって筆をとりました。

<a href="http://www.higan.net/blog/grandpa/%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%91-2"><img alt="%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%91-2" src="http://www.higan.net/blog/grandpa/%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%91-2-thumb" width="240" height="180" /<img border="0"></a>

さて、私からおじいちゃんへの3つ目の質問は
<strong>「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのか」</strong>
ということです。

おじいちゃんは私に
<strong>「教えの通りに生きなければならない」</strong>
という趣旨のことを何度も話してくれます。
また前回の質問の中でも、
<strong>「人生の中で大きな壁にぶち当たったときに、それが自分を
突き動かす主導原理になるかが、その人にとっての宗教かどうかだ」</strong>
ということも教えてもらいました。

私は、自分の生き方と浄土真宗の教えの関係があやふやになっています。
基本的には、
<strong>「この世でどう生きるか」ということと「救われるか」ということは直接的な関係はない</strong>
と理解しています。
だからといって、この世でどう生きてもかまわないということにはならないのですが、
この世での生き方は阿弥陀様の前ではほとんど意味をもたないのではないか
と思っています。一方で、そのような考えは大変怠惰なものであるようにも思います。]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/08/31.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">3.どう生きるかということと、救われるかということの関係</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 15 Aug 2007 17:28:13 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>2.3 おじいちゃんへ [振り返り]</title>
         <description><![CDATA[おじいちゃんへ

拝啓

梅雨の前の少し不安定な気候が続いていますがお変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。

この間は、また私のとりとめもない疑問につきあってくれてどうもありがとう。問えば問うほど何かからズレていくような気がする一方で、問わずにはいられないのですから、本当に我ながらどうしようもないなっと思ったりもします。


さて、今回の私の質問は、
<strong>「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか」</strong>
ということでした。]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/08/23.html</link>
         <guid>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/08/23.html</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">2. 浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか</category>
        
        
         <pubDate>Wed, 01 Aug 2007 10:39:22 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>2.2 「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのだろうか」 [対話]</title>
         <description><![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。

<a href="http://www.higan.net/blog/grandpa/images/granpa2.2.html" onclick="window.open('http://www.higan.net/blog/grandpa/images/granpa2.2.html','popup','width=922,height=691,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.higan.net/blog/grandpa/images/granpa2.2-thumb.jpg" width="240" height="179" alt="" /></a>

[おじいちゃん] 

めっちゃん、お手紙読ませてもらったよ。

「他の人のことなんかわしの知ったこっちゃない」
とぽーんと言ってしまいたいけど、
そうはいかないね。ははははは。

それじゃあ、さっそく話を始めようか。 

<strong>「生と死を支えるもの」</strong>

[おじいちゃん]

まず、今回の質問は、
「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのか」
ということが一番の疑問の中心だね。 

まずそもそもね、
「救い」ということの内容がいろいろとあるのだと思うね。

ただ、<strong>いろんな宗教があって、
いろんな人がそれによって心のやすらぎを獲得する。</strong>
そういう意味では、救われるものというのは無数にあるだろうね。 

それをいちいち、あれがいい、これがどうというわけじゃないと思うよ。
その人にとってそれが一番いいというものがあるんだよ。
仏教ではそういうのを、「病に応じて薬を与える」という意味で
「応病与薬（おうびょうよやく）」というのだけどね。
それと同じで、その人の置かれている精神状況や生活環境に応じて
一番適切な教えが一番いいということだろうね。 

ただね、「みんなが同じ境地に到達するか」
というとそれは分からないけどね。

そしてね、その人にとって心のやすらぎを持つという意味ではいいのだけれども、
<strong>究極は「生と死を支えるもの」でないといけない</strong>わけなんだよ。]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/07/22.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">2. 浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 15 Jul 2007 16:04:11 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>2.1「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか」[手紙]</title>
         <description><![CDATA[おじいちゃんへ 

拝啓 

ぽかぽかと穏やかな小春日和が続いていますが、
お変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。
縁側の窓から広がる久美浜湾を眺めている
おじいちゃんの様子を思いうかべながら、
今日もまたつらつらとお手紙を書いています。 

もしかすると、この手の質問はおじいちゃんを
少し不愉快にさせてしまうのではないかとやや心配しつつも、
やっぱり聞かずにはおれず、今日も筆をとりました。 

<strong>「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか？」</strong>

これが今回のおじいちゃんへの質問です。 ]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/07/21.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">2. 浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 01 Jul 2007 22:52:49 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>1.3 おじいちゃんへ [振り返り]</title>
         <description><![CDATA[おじいちゃんへ 

おじいちゃん、
この間はゆっくり話を聞かせてくれてありがとう。 

私はおじいちゃんと話すことで、
「この方向でいいのだ」という
ある種の安心感や自信のようなものをもらうような気がします。 

今回の私の質問は、
<strong>「浄土真宗を正しく聴かせていただくことの意味」</strong>
についてでした。 ]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/06/1_2.html</link>
         <guid>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/06/1_2.html</guid>
        
          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">1. 救われるということの意味</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 15 Jun 2007 13:33:37 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>1.2 救われるということの意味 [対話]</title>
         <description><![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。

<img alt="010201.jpg" src="http://www.higan.net/blog/grandpa/images/010201.jpg" width="240" height="180" />

[おじいちゃん]

めっちゃん、お手紙読ませてもらったよ。
また難題を持ってきたなあ。
それじゃあ、さっそく話を始めようか。

めっちゃんの質問は、
「正しく聴かせていただくこと意味はなんだろうか。
　正しく聴かせていただかないと救われないのか」
ということだね。

本題に入る前に、
まず「何をどう学ぶか」ということから話そうか。

めっちゃん、浄土真宗を学ぶ上で一番大事なことはなんだと思う？


[めっちゃん]

うーん、なにかなあ・・・


[おじいちゃん]

まずはな、親鸞聖人のお聖教を正確に拝読するということだよ。
正確に拝読するために一番いいのは、自分で現代語訳することだね。
親鸞聖人が何を考えていて何を言おうとしていたか、
それを正確にとらえるのが一番大事なんだ。
教義というのももちろんあるけれど、
あの方の生の声を聴くというのが大事なんだよ。

もうひとつは、読むときに「朗読をしてみる」ということだな。
中世の文章というのはもともと朗読するものなんだ。
おそらく親鸞聖人は、ご自分で書かれた教行信証など
何度も何度も自分で声に出して読んでこられたと思うよ。
そうすると生命のリズムみたいなものが響いてくる。
そういうことを心がけていくといい。
おじいちゃんなんかも、ついつい目でばかり読んでしまうけど、
そうするとね、大事な部分が失われてしまうんだよ。

大事な文章は声に出して読んでみるということだよ。
そうすると言葉に慣れてくるしね、
親鸞聖人が語った言葉で聴くという意味で、
朗読しながら読むといいんだよ。


[めっちゃん]

じゃあ、おじいちゃん。
つまり、お聖教を正確に拝読したり、浄土真宗の勉強をしないと
救われないということかな？
]]></description>
         <link>http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/06/1_1.html</link>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">1. 救われるということの意味</category>
        
        
         <pubDate>Fri, 01 Jun 2007 13:30:18 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>1.1 救われるということの意味 [手紙]</title>
         <description><![CDATA[おじいちゃんへ

寒い日が続いていますがお変わりなくおすごしでしょうか。
いつものごとく、この手紙を京都に戻る新幹線の中で書いています。
「まためっちゃんからの質問がきたわい」と
あきれつつも意気揚々としているおじいちゃんの姿を思いうかべながら、
つらつらとお手紙を書いております。

<img alt="1-1.jpg" src="http://higanji.sakura.ne.jp/blog/grandpa/images/1-1.jpg" width="240" height="180" />

おじいちゃんはいつも私に言います。
「めっちゃん、お釈迦さまの教えを正しく聴かせていただきなさい」
今回おじいちゃんに質問したいことは、
「浄土真宗を正しく聴かせていただく、理解しようとする、
　その行為の本質的意味は何なのでしょうか」
ということです。

もっというならば、
「浄土真宗を正しく理解しないことには救われないのでしょうか」
ということであります。]]></description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">1. 救われるということの意味</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 15 May 2007 14:07:39 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>0. はじめに</title>
         <description>この企画は、
私「めっちゃん」の仏教についての素朴な疑問に、
お坊さんである「おじいちゃん」が答えるものです。

まず、登場人物の「めっちゃん」と「おじいちゃん」について、
そして二人のやりとりがはじまった経緯を簡単に説明しましょう。


私「めっちゃん」が生まれ育ったのは京都の北にある小さな町です。
おじいちゃんはそこから列車で二時間ほど離れたところにある
浄土真宗のお寺の住職をしています。
おじいちゃんは私に子供のころから仏教の話、
とくに浄土真宗の話をよくしてくれましたが、
幼き子供にはむずかしすぎました。
ただ記憶にあるのは、
おじいちゃんが手を大きく動かしたりしながら、
とっても一生懸命話してくれた、その姿でありました。</description>
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          <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">0. はじめに</category>
        
        
         <pubDate>Sun, 13 May 2007 13:16:47 +0900</pubDate>
      </item>
      
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