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   <title>おじいちゃんへの質問</title>
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   <updated>2008-02-20T04:43:10Z</updated>
   <subtitle>めっちゃん（２９歳）が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。[手紙]ーめっちゃんからおじいちゃんへの手紙[対話]ーめっちゃんとおじいちゃんの面談[振り返り]ー面談を終えためっちゃんの感想
めっちゃん離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。</subtitle>
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   <title>5.2「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」 [対話]</title>
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   <published>2008-02-20T02:22:24Z</published>
   <updated>2008-02-20T04:43:10Z</updated>
   
   <summary>後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。 ［おじいちゃん］ まずね、因...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="5.救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。


［おじいちゃん］

まずね、因果についてだけどね、めっちゃんはひとつ勘違いしてるな。因果という場合の、果が因になるという場合の「因」といった場合には、異熟果（いじゅくか）という形ではないんだよ。


［めっちゃん］

「私」というのは、過去の「果」であると同時に、未来の「因」であるということになる」と書いていた部分のことね。異熟果ではないってどういうこと？


<strong><u>結果の中に、因になる要素がある　～結果はそのまま因にならない～</u></strong>


 ［おじいちゃん］

例えば、<strong>善もしくは悪という行為は因になる</strong>んだよ。善というのは、それによって安穏の安らかな結果をもたらす行為だし、悪というのは非安穏の結果をもたらす行為だよね。善もしくは悪というのは「行為」で、それが「原因」になって、苦もしくは楽という「結果」をもたらすわけなんだよ。その<strong>結果は善でも悪でもない</strong>んだよ。善によってもたらした結果であって、善でも悪でもないということは、<strong>結果はそのまま因にはならない</strong>んだよ。結果はあくまで結果であって、因ではないんだな。
]]>
      <![CDATA[例えば、地獄におちたからといって、地獄は悪ではないんだよ。もし地獄が悪という性質をもっていたら、地獄におちた者は永久に地獄になってそこから出られなくなる。地獄は善でも悪でもないから、そこで善をなすこともできるし、地獄からはい出すこともできる。地獄で結果をむすぶ因の勢力がなくなるんだな。燃料が消えたら火が消えていくようなもんだよ。地獄の結果をもたらすようなエネルギーが消えたら、結果がなくなるわけだから、地獄そのものは善でも悪でもない。結果をうけて、結果をもたらしたエネルギーが尽きてしまえば、何もしなくてもそこから出られることになる、そこにあるべき縁、因の力がなくなるからね。だから、<strong>果が即、因というわけではない</strong>んだよ。

果が因になるというのは、そうやなあ、豆を例にすると、豆というのは結果としてあるわけだけど、結果としてある豆は種じゃないね。種として使われるかどうかは決まってないわけで、食料にもなるわけで、<strong>つまり、結果の中に次の結果をひく因になる要素があるだけで、その因になる要素を働かせた場合に因になる</strong>んだよ。人間というものが、人間の因になるわけではないんだよ。


<u><strong>仏の智慧と慈悲が善なる因になる</strong></u>


ただ<strong>仏さんの場合は違う</strong>んだよ。
<strong>仏さんの本質は、智慧と慈悲</strong>だね。その如来の智慧と慈悲は、如来の修行によって作り上げた結果としての働きで、智慧というのは人の愚かさをやぶって、人々に正しい心理を見せしめる働きをもっているし、慈悲というのは人々の痛みを共感し人々の幸せを願っていくという心だから、<strong>その智慧と慈悲という心が相手に与えられると智慧と慈悲をもたらす結果というのがその人に生まれてくる</strong>わけなんだ。それが悟りをもたらすような結果をうむ潜勢力がうまれてくるわけなんだよ。

そこで、果が因になったときには、果という異熟の結果ではなくて、善悪でいえば善なる因になるわけなんだよ。<strong>智慧、もしくは慈悲が、善なる因になる</strong>というわけだ。それは頂いた人の中で、その人にとっての因になるというわけなんだがな。如来のものが衆生のものになるというのは、普通の人だと成立しないんだけど、<strong>如来という自他一如の悟りの境地に達して、自他一如の悟りの得というものを衆生に与えると、与えられた自他一如の智慧がその衆生の智慧となって働いていくという、その時に因となる働きをもつ</strong>ということなんだよ。

だから、人が人になるというわけではないということなんだよ。特に、これが非常にむつかしい問題になるのは、如来がやった結果を他の人がそのまま受け取るというのは普通はありえないことなんだよ。


<u><strong>危険な宿業論</strong></u>


「自業自得」というのが仏教の基本的な枠組みだからね、他の人がやった結果をこちらがそのまま受けるというのはありえない仏教の基本的考え方というのはそういう考え方になっているわけなんだ。<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E8%88%8E%E8%AB%96">倶舎</a>だとか<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98">唯識</a>とか非常に綿密な行動の因果論というものが、それが業論というものなんだけどね、それが、非常に意味を広げて、場合によって適応範囲以外にまで広げていくことがあるんだけど、それが危険なんだ。


［めっちゃん］

余計なことまで？


［おじいちゃん］

あのね、今よく問題になってるけど、仏教では親の因果は子の報いということはいわないんだよ。ただ親がやったことは子どもに影響する、これは縁であって、因じゃない。自分が受けているのは「過去」の集積であることは確実なんだけど、<strong>過去と過去世はちがう</strong>からね。「過去世」の集積であると見た時に、いいことも悪いことも、苦楽の結果は、過去の善悪という行為の結果であると、そういう風に一律的にやってきたね。

例えば、身体障害者として生まれたということは、その人が過去世において身体障害者になるような悪業をつくっておったという考え方がでてくるね。身体障害はマイナスという判断がまずあるわけなんだな。マイナスだと判断する偏見がある。

すべての不幸の結果というのはすべて自分の過去世における悪の報いであると、それとすべての現代の幸福というものは、すべて過去世の善なる行為の報いだと判断する。そして、これはその人の過去世までわたる責任だという、そういう考え方は非常に危険だということなんだよ。

例えば、部落差別というのがあるね。被差別部落にうまれたのは過去世の悪い行いの結果だとこういう風に考えるわけだ。だけど被差別部落というのは過去につくったものではなくて、この世でつくったものなんだよ、そこに生まれてきたということが悪の結果だということは論理に間違っている。

身体障害をマイナスといってしまうけど、その人はそれしか生きられない生き方でいきていくのであって、それがその人を磨きあげるか、つぶしてしまうかはその人の生き方によるよね。是か非かを分けるのは第三者が勝手に分けているわけで、だいたい障害というかどうかそれも問題なんだよ。むしろどんな状況であってもその人がその人らしくいきられる社会があればいいんだよ。それを作らないのは作らない社会が悪いのであってその人がわるいのじゃない。ところが案外その人の責任にされて、二重、三重の苦しみをうけるわけなんだ。だから、身体障害者がいけない状況にしている社会の仕組み、意識が悪いんであって、その人が不自由なしに生きられる社会をつくればいいんじゃないか、ということであって、こっちの責任であってそっちの責任じゃないということになるんだな。被差別部落なんかにしても被差別部落をつくったのもこの世で人間がつくったんであって、それも本人たちに相談してつくったわけではない、勝手に決めてしまったわけなんだから。

そういう社会がつくっていくいろんなしきたりがあるので、前世が悪かったからそこへ生まれてきたといわれるのは、この世の社会のしきたりがこの人をそういう風にとじこめてしまうのも過去の業の報いだとみていくのが、悪い宿業論だね。


<u><strong>わからないことを、わからないまま、いただく</strong></u>


［めっちゃん］

えーっと、そもそも、過去と過去世って違うんだっけ？


［おじいちゃん］

違う。
例えば泥棒して刑務所にいれられて苦しんでいるのは、過去の自分の犯罪の結果だな、それははっきりしているね。原因が自分にあることと自分にないことと、自分にはないけど苦しい結果をうることはあるね。
例えば戦争したために一家が離散する、あるいは本人が負傷したりするとか、いう風な関係ないものにふりまわされて不幸な状況におちいるというのはいくらでもあるわけだね。それを全部自分の行った過去世の業の報いだという形で正当化しようとすることは、分からないことに意味を与えてそして現実を説明しようとするのは、これは、分かったことを分かったとおりにいうんだったらいいけど、<strong>分からないことを分かったことにして、分かっているところから分からないことを類推してこうであったはずだという論理は危険</strong>だね。


［めっちゃん］

今の私があるのは、過去のいろんなことの結果としてあるのだよね？


［おじいちゃん］

そう。結果としてあるんだ。
それは生物として、人間として、おじいちゃんの過去世といえば生物の歴史というのは全部おじいちゃんのところに集約してるね。そういう意味で３０数億年の生物の歴史がおじいちゃんの上に集約している。それがなんであるかは分からないけどね。


［めっちゃん］

私が虫でなくて、人間として今存在していることも、それが良いか悪いかとはいえないのだよね？


［おじいちゃん］

そうだね、良いか、悪いかは分からないね。人間の方が上で、虫の方が下ということも、いえないね。それは、人間の勝手な価値観だからね。<strong>価値観と因果関係をごっちゃにすると非常に危険なものがでてくる</strong>わけなんだよ。ただ自分の存在というのは無限の歴史をもってるから、何が出てくるか分からないという不気味さもあるけどね。

ただ、それは分からないんだから、<strong>分からないことは分からないこととして受け止めるのが一番いい</strong>んだよ。<strong>分からないんだけど、ありがたいこととして受け止めたら一番いい</strong>んだよ。なかなかそこまでいかないんだけどね。
ただ、<strong>分からないことを分かったこととして受け止めようとするところに無理がある</strong>。一番いいのは、<strong>分からないけれど、私にとってはありがたいことだ、「ありえないことがありえている」、だから「ありえていることを大事にしよう」と受け入れる、そういう心境がひらかれたら一番いい。本当は悟りというのはそう</strong>なんだけどね。

お釈迦さんの悟りというのも、そんなことだと思うよ。だから、みんなと、一匹の虫とも連関しているんだと。ある時には経典なんかではね、心地観経というのがあってね、永劫に流転してきたと、流転した中にはいろんな境遇に永劫なんだから時間的に永劫なんだから空間的にも無限に広がっているわけだ。
だから生きとし生けるすべてのものと関連している、だから一切の衆生は自分にとって流転した中で親となり子となり父となり母となり兄弟となり夫婦となってきたものなのだと、そういう風な受け止め方をしていきなさいということが書いてあるんだよ。そうすると一匹の虫とも親となり子となり姉妹となったことがあったんだろうという気持ちでつきあいなさいと、中国でそういう考え方が入ってきたんだよ。

命というものは、もともとそういう連帯感の中で成立しているもんだということだろうね。それにどんな意味をもたせ、どんな表現で実感するかが問題なんだね。マイナスのイメージをもつような解釈をしないようにしたらいいとおもう。プラスの意味をもつような意味にそれを理解をしていけばいいのでね。苦しみに苦しみをそえるような、悲しみに悲しみをそえるような解釈は、命を痛めつけることになるから、<strong>命を痛めつけるような解釈をすること自体が間違い</strong>だと言っていいだろうね。

宗教とはだいたい見えない世界をどう解釈しどう理解するか、荒唐無稽に解釈するとかえって変なものがでてくる。


<u><strong>次元の違い</strong></u>


［めっちゃん］

手紙の質問になるのだけど、「主体の力ができることは何かあるのか」というところ、おじいちゃんはどう思ってるのかな。


［おじいちゃん］

その問題だけどね。例えばね、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99">鈴木大拙</a>氏が以前大阪でお話されたことがあるんだよ。もう90歳を過ぎていたかな。1時間ほどお話をされて、最後に、こうおっしゃったんだよ。

「今日の話は鈴木がいうたと聞かずに天地が語ったきいといてください」

さらっとね。彼は一時間びっしりと、お話しされた。誰がいったわけでもない、彼自身がいってるのだが、「鈴木がいうたんじゃなくて天地が語っていると思ってください」といった時に、すっと高い次元の世界が広がっていく。実は、<strong>自力か他力というのは次元の違い</strong>なんだよ。


［めっちゃん］

次元の違い？


［おじいちゃん］

つまり、私がやっているというのは、みな私がやっているんだよ。
<strong>私しかみえないか、それとも、私をこえた何かがみえるか、その違い</strong>なんだよ。

真宗でいう他力はね、念仏しているという事実があって、この<strong>念仏を「私の行い」「私の功績」とみるか、それとも「如来の働き」「如来が私を呼び覚ましている姿」だとみるか、その違い</strong>なんだよ。
私の働きとみた人には、如来はみえてないんだ。仏を念じているんだけど、念じる方に力が入って仏がみえなくなっている。念仏している自分だけがみえているわけだね。

ところが、如来が私に届いて私を呼び覚ましているというときは、私はただ聞いているだけで、<strong>聞くのに力はいらないから、聞いているだけだから、私はそこにいない</strong>。聞いている私にはなんの意味もない。そこに呼び覚ましている如来がある、そこで<strong>「仏様のおかげで」</strong>という言葉がふっとでてくる。


<u><strong>他力は不思議の世界</strong></u>


その時に、つまり、人間がみえてるか、仏様がみえてるか、それを自力他力という。だから<strong>自力というのは「思議の世界」、他力というのは「不思議の世界」</strong>。不思議というのは自分を超えた領域。自分を超えた領域いうたって、自分を離れてわかるわけではないから、自分の行い、生きているというのは行いをしているということだから、行いを離れて何もみえない。だけどその行いを自分の行いとみるか、鈴木大拙先生だったら天地がかたっているとみるか。


［めっちゃん］

ただ、縁がある人と縁がない人がいる。その人たちはそれぞれ過去によって存在していて、どちらに対しても如来は働きかけて一生懸命やっているのに、結果は縁があったりなかったりというのがある。これは本人の気づきがないからなのか、ここの違いがなぜうまれてくるの？


［おじいちゃん］

その違いがなぜうまれてくるかは、<strong>わからない</strong>。<strong>わからないけれど、わからないことを、もともとわからないことを私が分からせていただいたのは不思議だと味わっているのが念仏の行者</strong>なんだよ。

<strong>分からない人の姿、あれがもともとの私の姿</strong>なんだよ。だから<strong>私がきいているというのは不思議としかいいようがない</strong>と。その不思議なのは誰のせい？、というと仏様のおかげというしかない、とそういう論理なんだよ。

つまり、<strong>わからない世界、見えない世界、分からない世界をわからぬままにありがたく頂戴している世界と、そうではなくて、自分だけがみえてる世界がある</strong>んだよ。
人をみているようだけど、人をみているのではなくてその人の上に自己をみている、どんな場合でもみな自分しかみえていない。われわれがみえている世界というのは自分の心が描き出す世界ですから、自分が自分をみている。<strong>人をみているのでもなければ、天地をみているわけでもない、自分をみている。宇宙大の自己をえがいている。それが私たちの姿</strong>なんだから。

それが、不思議にきかせてもらいましたとか、おかげさまできかせていただきましたとかいうのは、そこで如来さまがみえてきたんだな。<strong>如来様がみえてきたというのは、念仏しているというこの事実、ひとつの事実、ここから突破口がひらく</strong>んだ。
別に手が動くでもいいんだ。手が動くのは私が動かしているんではなくて、私の手が動くのは摩訶不思議で、そりゃそのとりで、手が動く、足が動くというより、むしろお念仏しているというのが如来の願力によって念仏がでてきたとみる。
それで<strong>本願力というのは、私をこえさせるための非常にいい言葉</strong>なんだよ。私が私の枠をはみださせるためのすばらしい言葉なんだよ。それが本願力。だから、本願力によってお念仏がでてきてくださるんだなっていうのが、こういう言い方。<strong>念仏を私の行いとうけとるか、如来様の行いと受け取るか、それが如来様の働きとうけとるような視野をひらいてもらったのは如来様の本願力なんだな、とそういう風な文脈をあたえてもらっているのがご法義の文脈なんだよ。</strong>」


［めっちゃん］

やっぱりじゃあ全部如来様のおてまわしでなっているんやね。


［おじいちゃん］

そこが一番おちつくわけなんだな。自分の力だと、今日は100遍やったけど、明日は２００遍しよう、明後日は３００遍しよう、１０００遍になったからあの人１００遍しか唱えてないからオレの方が上だとやっぱり自分がみえてくる。そういうことになるんだよ。


［めっちゃん］

わからんことはわからんままにいただくということね。


［おじいちゃん］

<strong>わからんままに、ありがたいこととしてうけとる</strong>とね、こういう世界が開けると全部をうけいれられる。如来がうけいれてくださっている自分を自分が拒絶してどうするかということになってくる。


［めっちゃん］

そうね。一方で、生死を解決するだとか、この人生を生ききるというのは、それはそれで大事なんだよね？


<u><strong>凡夫に生死をこえさせる教え</strong></u>


［おじいちゃん］

大事だね。みんな関連しているからね。<strong>生死がなくなるわけではない</strong>からね。生死を真反対と考えなくていい世界があるんだよと、生きてることも死ぬこともありがたいことこういう視野がひらけたら、<strong>生と死を反対として受けないで、トータルに全体をうけこんでしまう、その生と死をうけこんでしまう領域というのは、生と死を超えた領域</strong>だね。
だけど<strong>生と死を超えた領域は、生と死がない領域ではない</strong>。<strong>生もありがたい、死もありがたいご縁</strong>なんだ。そういう境地がひらけたら、「死生共にわずらいなし」だな。法然聖人あたりはそこまでいっておられるな。

「生けらば念仏の功積もり 死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもこの身には 思いわずらうことぞなき と思いぬれば 死生共にわずらいなし」

まあ、それはね、達人としてだけど、なんかそういう世界があるというのは、おじいちゃんもわかるなあ。だから生だけにとらわれて、死を拒絶することはいらんじゃないかと、<strong>死ぬことだってありがたいご縁だと、浄土が開けるご縁なんだと、浄土が開けるご縁として死を理解させてくれるのは浄土教のありがたいところ</strong>だよ。
「死んだらしまい」といわれて、「さようか」といって死ねるほど達観してたらいいけどな、そうはいかんからな、おじいちゃんなんかは、「お浄土に生まれる」ていわれて、「さようか、そやったら頂戴しましょか」と思える。<strong>凡夫にうまいこと生死をこえさせる。凡夫が生死に迷わないように上手いことやるのが念仏往生</strong>だな。やっぱり、阿弥陀さんよく考えておられるな、ははは。


［めっちゃん］

凡夫のままで生死をこえさせる・・・か。
他の宗教と全然違うね、根本が。
今日はなんだかすごい難しい話だったけど、私ももう一度おじいちゃんのいっていたことをじっくり聞いてみるわ。ありがとう。]]>
   </content>
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   <title>5.1「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」[手紙]</title>
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   <published>2008-02-04T06:33:37Z</published>
   <updated>2008-02-20T04:42:42Z</updated>
   
   <summary>おじいちゃんへ 拝啓 凍えるような寒さが続いていますが、おじいちゃん、元気ですか...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="5.救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[おじいちゃんへ

拝啓
凍えるような寒さが続いていますが、おじいちゃん、元気ですか。
こう寒いと外に出るのもなかなか億劫になりますね。おじいちゃんに会いにいこうと思いつつも、この寒さにかまけて、しばし時間があいてしまいました。

さて、今回おじいちゃんに聞きたいことは、
<strong>「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」</strong>
ということです。

おじいちゃんは、以前、「因果」の話を私に教えてくれましたね。その時、大豆を例に「豆をうえて豆をとる。豆は去年の『果』であり、今年の収穫に対する『因』になる」といいました。そうすると、<strong>「私」というのは、過去の「果」であると同時に、未来の「因」である</strong>ということになると理解しました。

また、豆が発芽するには、太陽・水・空気などの外部要因が必要になると思うのですが、それらを「縁」というならば、<strong>「縁」によって「私を救ってくださる阿弥陀様の存在に気づくかどうか」が往生を決定づける最後の要因になる</strong>のだと思います。

そうなると、「阿弥陀様の存在に対する気づき」があれば、「果」は「浄土への往生」になり、気づきがなければ、「果」は「再びの生」になってしまう、とそのように思いました。（輪廻転生とは私たちが勝手に描いているものだとおじいちゃんはいったので、そもそも「再びの生」になるのかどうかも疑問なのだけどね、この疑問はまた別の機会に聞くことにします。）このように考えていくと、<strong>「因」と「縁」以外の「私の気づき」という要素が浄土往生においてはとても重要なのではないか</strong>と思いました。]]>
      <![CDATA[一方で、そもそも私という人間は、人間としてこの世に生を受けているけれど、それは<strong>過去の因によって決まっていることなのだろうか</strong>という疑問があります。
過去の因で現在の私があるとすれば、私は過去の因に対しては何もできません。
そして、与えられる「縁」に対しても基本的に何もできないように思います。
そうすると、私の力が果たしうることは何もないように思えてきます。

それでも結果として、救われる人と救われない人がいます。

では、その救われる人と救われない人の違いは、前回おじいちゃんがいった<strong>「私を救ってくださる阿弥陀様の存在に気づくかどうか」</strong>にあるとすれば、気づくかどうかは私の力ではないのでしょうか。あるいは、気づかせていただく存在に阿弥陀様が育てて下さっているのであれば、気づけない人がいるというのは、当人の力不足であり、また、阿弥陀様の力不足であるのでしょうか。

「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのか」という自分の問いに対して、私は「ある」と思っています。過去の因と、今の自分をとりまく縁（これはすべて阿弥陀様のお手回しなのだと、常日頃おじいちゃんがいっていることだと思っています）、それらに対して、感謝し、おまかせすることだけが、唯一できることなのだと思います。<strong>「何をするか」ではなく、「今どうあるか」ということが大事</strong>なのだと思います。そのあり方が、過去の因をすべて断ち切って浄土に往生させていただく身になる一番大事なきっかけだと思うのですが、どうなのでしょうか。

また、そのことは、「生死の問題を解決する」ということにもつながると思いいます。ここまで育ててくださった阿弥陀様に感謝しおまかせするより他ないということに身をゆだねつつ、生と死という限界を抱えたこの人生を真剣に生ききるということだと理解しています。

<strong>「この世で阿弥陀様に会ってない人が、死んでから阿弥陀様にあうことなどない」</strong>というようなことを、私が尊敬する先生がおっしゃっていました。それを聞いて改めて、この人生における「私のあり方」がやはり浄土に往生する上では、大事な要因なのだと思いました。

「因」と「縁」の中で、最終的にどういう「果」になるかということは、一見なんの力にもならない「私の気づき」がとても大事な要素であり、それは私の主体的働きでもあると思うのですが、その認識はおじいちゃんからみて正しいのでしょうか。

おじいちゃんのお考えを聞かせてください。
近いうちに会いにいきますね。
その日まで、さようなら。

敬具
めっちゃんより]]>
   </content>
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   <title>4.3　おじいちゃんへ [振り返り]</title>
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   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/grandpa//9.2386</id>
   
   <published>2007-12-25T07:16:49Z</published>
   <updated>2007-12-26T03:01:20Z</updated>
   
   <summary>おじいちゃんへ 拝啓 この間、おじいちゃんに会った時はまだ秋だったのに、気がつけ...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="4.阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[おじいちゃんへ

拝啓

この間、おじいちゃんに会った時はまだ秋だったのに、気がつけばもうすっかり冬になってしまいましたね。今ごろ、おじいちゃんは、こたつに入って縁側から海を眺めているのだろうなあっと思いながら、久しぶりに手紙を書いています。

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="Nature1-012決定.jpg" src="http://www.higan.net/blog/grandpa/Nature1-012%E6%B1%BA%E5%AE%9A.jpg" width="480" height="360" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;"/></span>

この間のおじいちゃんの話を聞いて、私なりに少し考えたことを書いてみます。

今回のおじいちゃんへの質問は、<strong>「阿弥陀様の救いには条件があるのか」</strong>ということでした。そのきっかけとなったのは、おじいちゃんが以前くれた手紙でしたね。]]>
      <![CDATA[
亡くなった友人は浄土にいったのだと思う私に対して、<strong>生きているうちに信心をいただいていないのであれば、浄土になどいっていない</strong>、といいきるおじいちゃん。
そこに違和感というか、ある種の反発を感じていました。

自分が救われたいがために他の人を蹴落としてしまう「蜘蛛の糸」という物語がありますが、おじいちゃんの姿がちょっとその主人公のカンダタに重なったりもしました。
「自分だけが救われればいいということなのか？」
いやいや、失礼な話ですね、ごめんなさい。

思えば、落ち込んでいる私に「そうだよそうだよ、お友達は浄土にいったのだよ、安心しなさい」といってなぐさめるのはとてもたやすいことだったのに、そうはしなかった。「生前に信心をいただいていないものの前には浄土はない」とピシっと言い切ったおじいちゃん。その意味することが今回おじいちゃんに補足的に話を聞いて、初めてわかったような気がします。

<strong>「この世で仏様に出会っていない人には浄土はない」</strong>
ここを私はあやふやにしていました。

改めて、今冷静に考えてみると、「友人は浄土にいった」と、「私」が思いたかったにすぎなかったのですね。

そもそも、「死」それ自体を、私たちは誰一人として経験していない、
それなのに、「死が悲しい、苦しい」などと勝手に思っている、
そして、<strong>その思っている主体は他ならない「私」</strong>なのですね。
友人の死について抱いた<strong>私の思いの根底には、「我」しかない</strong>ことを改めて認識しました。

すべての人は浄土に包まれており、阿弥陀様は、臨終最後の最後まで一生懸命働きかけてくださっておられる。その阿弥陀様の存在に気づくかどうかは、<strong>結局のところ当人でなければわからない</strong>のですね。それをあたかもわかったようにして、「浄土にいったのだ」と当人ではない「私」が思ってみたところで、それは、勝手な自分への慰めにすぎなかったわけです。

<strong>浄土にいったかどうかはわからない。
ただ、すべての人は浄土に包まれている。</strong>
それしかいえないということが、今回のおじいちゃんとの対話を通じて、初めて気づきました。

最後に、「救われるということ」について、
<strong>救われるものと救われないものの違いは何によって生み出されるのか</strong>。

この疑問に、おじいちゃんは今回<strong>「自分をたのむ心」であり、「心に隙間をあける」ことが大事である</strong>と教えてくれました。この辺りは、まだまだ疑問がつきないので、それは次のお手紙で聞きます。


いつもとりとめもない私の疑問に丁寧に答えてくれて本当にありがとう。
また会う日まで、またね。



めっちゃん]]>
   </content>
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   <title>4.2「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか」[対話]</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/11/42.html" />
   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/grandpa//9.2299</id>
   
   <published>2007-11-06T07:18:33Z</published>
   <updated>2007-11-07T08:22:01Z</updated>
   
   <summary>後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。 [おじいちゃん] 今回はまず...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="4.阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。


[おじいちゃん]

今回はまず、<strong>「死んだ人がすぐにお浄土にいったのかどうか」</strong>という問題提起だね。これは大事な問題だね。


<u><strong>浄土に包まれている</strong></u>　


あのねえ、ただ実際はね、<strong>どこにいても浄土の枠の中</strong>なんだよ。浄土に往生した者は、めっちゃんがいるこっちの側にはなんぼでも会えるのだよ。まあしかし、浄土真宗では浄土に誰でも往生できるとはいわないね。やっぱり、<strong>生と死の問題を解決したり、自分自身にけじめをつけるということが非常に大事なこと</strong>になるんだ。

ただ同じこの教えに導かれているもの、それはまあ、今はわからなくたって必ず分かるときがくるし、どこにいっても、例えば地獄の底にいても、その人にとったら地獄だけど、悟りを開いたものの目からみれば地獄におろうとどこにおろうと実はただあんたが錯覚してるだけだということだから「その錯覚を翻しなさい」といつでも言い続けることができるわけなんだよ。その意味では、<strong>「こちらからはいつでも会えるけど、向こうからは気がつかない」</strong>ということなんだよ。

]]>
      <![CDATA[[めっちゃん]

「こちら」というのは、「浄土に往生した者の側」で、「向こう」というのは、「生きている人間の側」ってことだよね？


[おじいちゃん]

そうそう。<strong>浄土に往生したものは、私たち人間にいつも会っている</strong>わけなんだよ。そして、<strong>同じ場にいる</strong>わけなんだ。

だけど、<strong>私たち本人は気づかない</strong>、というだけのことだろうね。それを気づかせるために、教化していくわけなんだ。だから、「六道四生（ろくどうししょう）のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなり」と親鸞聖人がおっしゃったのはそういうことなんだよ。

ただね、｢あの人にとっては浄土はなかった｣ということはあるものなんだよ。<strong>浄土のある人とない人がある</strong>わけなんだよ。だから、「みんなお浄土にいけますよ」とはいわない。浄土のある人というのは、<strong>如来の言葉を受け入れたときに、浄土がある身になる</strong>わけなんだな。そうでなかった場合には、その人にとっては浄土はないわけなんだよ。

まあ、しかし、如来様の御教化というのは、<strong>臨終最後の瞬間まで行われている</strong>からね。だからこっちからみてなかったと思うけど、その人は仏縁があったかもしれん。どーんな仏縁があるかわからないからね。臨終のその瞬間に気づいておれば、それでお浄土にいってるわけだし、こちらは、<strong>浄土に行ったか、行かないかは決めらない</strong>んだよ。決められないんだが、<strong>聞かなかった人、ここで味わえなかった人は、その人には浄土はなかったということになる</strong>んだよ。

だけど、なんらかの形で、病気の中で、あるいは死ぬ前に、自分の命がぎりぎりのところで如来様の教えにあう可能性も、ないことはないんだよ。わしらが知っている限りは信はなかったし、浄土のない人だったけど、最後の瞬間に仏さんに会ってる可能性もないことはないのだから。

だから<strong>『行ったか行かなかったはいえない』</strong>。
ただいえることは、<strong>『この世で出会ってなかった人には浄土はない』</strong>ということだけなんだ。
浄土はないけども、<strong>『それぞれのところで浄土に包まれている人だ』</strong>ということはいえる。この世でもそうだけど、向こうでもそうだからね。だから、そういう意味では生死を解決した人と、解決していない人との違いがあるというだけだね。


[めっちゃん]

その「仏様にあわない」っていうのは、お念仏を聞かなかったということ？


<u><strong>心に隙間をあける</strong></u>


 [おじいちゃん]

<strong>「自分を助けてくださる仏様がいらっしゃることに気づかなかった」</strong>ということだな。だから、最後までひとりぼっちだったというそういう状態だよ。そういう意味で非常に寂しい人だったということになるね。


[めっちゃん]

そうすると、念仏もまったくできないような身体――例えば耳も聞こえない、目も見えない人は、気づきたくても気づけないとすれば・・・？


[おじいちゃん]

それでもね、結構ね、そういう目の見えない人も、耳の聞こえない人も、ご縁には会う機会はあるだよ。実際問題としてもね。

それは耳は聞こえないけれども手の感覚が非常に素晴らしいと、例えば、仏様の目も見えないし、耳も聞こえないけれども、仏様のあるお仏像をさすってね、そして仏様を感ずるという人もいるわけだしね。ただ一番代表的な目とか耳とかね、これでキャッチするけれど、耳が不自由であっても目が不自由であっても仏様に会うことはできる、ということだね。

ただ、あの～、精神的に異常があって、そして仏様に会えないということ、それでもね、わたしらの常識の仏様には会えなくても、どんな形でおうてらっしゃるか分からないということはあるからね。精神に異常をきたしているという人だって、どんな形で仏さんに会ってるかわからんよ、実際にそういう人もいるからね。だから、いわゆる、普通の意味で、御領解が述べられない、お念仏もできないけども、なんか仏様を実感している人もいることはいるわけだからね。

<strong>私らの方で往生したかどうかっていうのはわからない。</strong>ただその人にとっては最後まで法に入らなかったら仏様に会えなかったら一人ぼっちで寂しい人生を送ったという、そういうことしかいえない。<strong>仏様に会ってらっしゃるかもしれない</strong>しね。


[めっちゃん]

そうすると、いろんな縁があっても聞かない、あるいは、<strong>仏様に会えない人というのは何がそうさせているの？</strong>


[おじいちゃん]

やっぱり<strong>自分をたのむ心</strong>だね。自分というものを信頼しすぎる。自分を信頼しすぎるんで、失敗もするし。といっても、自分を信頼しないと生きていかれないわけやけどね。

だけど、<strong>「自分自身は根本的にはたよりならない」</strong>というそういう思いがどっかであると仏様に出会いやすいということだね。自分だって人だって、そんなたよりになるもんじゃない。たよりになるもんじゃないからお互いに善意だけは失わないで生きようという、危ないもんだから、よっぽど気をつけて生きようという、そういう心が生まれてくる。

やっぱり仏様の教えって言うのは、これがほんまのことで、それを疑う自分の心が偽者だということ。といって、自分の心をなくすわけにはいかんのだから、あってもいいけどもこれにあまり力をいれない、それをいわゆる、「我をつのる」っていうでしょう、我はみんなあるんだけどなるべくつのらないようにしましょう、っていうことだね。

どっか<strong>隙間あけておく</strong>わけなんだよ。その<strong>隙間から仏様の教えが入ってくる</strong>。はからいなくしたら生きていけないから、はからいはあるんだけども隙間あけておく。つまり、<strong>自分を絶対視しない、たかがしれた人間なんだということを思っておく。隙間あけておいたらあってもそんなに邪魔にならない。</strong>


[めっちゃん]

その我っといういものが、往生できない場合は輪廻を繰り返していくっていう主体になっているの？


[おじいちゃん]

えーあのね、輪廻転生っというのはね、そういう風に「自分自身がえがいていく世界」なんだよ。だから、輪廻しているものには、まさに我があるような状態で輪廻しているわけなんだけよ。だけど、ほんとは無我なんだからな。それが一瞬にして消えるわけなんだよ。


[めっちゃん]

そうすると、輪廻には主体なんてものはないのかなあ？


[おじいちゃん]

主体はないのにね、あると思ってえがいているわけなんだよ。だから、人間存在というものが、無我といわれた時には、そういう実態のないものだと、しかし、実態のないものだと分かったら悟り開いたことになるんだけどね。しかし、凡夫であるけども実態のないものだと思うことができるというのはどうかというと、心に隙間あけるだけなんだよ。<strong>ちょっと隙間あける。絶対視しない</strong>、っていうこと。なんらかの形で実体化し絶対化するようなものがあるとそれでふさがれてしまう。聞こえてくるものが聞こえなくなる、見えるものが見えなくなる。ちょっと隙間あけておくんだ、心に。


[めっちゃん]

絶対視してはいけないかあ。でもね、おじいちゃん、親鸞聖人のお言葉は絶対視してもいいもの、だとか、その、絶対視していいものとしていけないものというふたつが存在するわけだよね？


[おじいちゃん]

そうだね、区別はあるね。そういうことで、親鸞聖人のお言葉、親鸞聖人自身は「おれの言葉にふりまわされたらいかんぞ」というところがあるから、それなりに気をつけておっしゃってるわけなんだよ。ただ間違うこともあるし、ケアレスもされるけど、そんなことがあっても、本質的にはかわらない。<strong>法然聖人でも親鸞聖人でも、人間を超えた領域からきている言葉が非常にたくさんある人</strong>なんだよ。言葉なんかでも非常に吟味して書いておられるからね。

その点で、法然聖人の言葉なんかは聞き書きがほとんどで、ご自身で筆とって書かれたのは非常に少ないんだよ。お手紙の中でもほんのわずかだね。あとは弟子たちが聞き書きしたり、口うつしだったりしたものが多いと思うんだよ。だいたい文章のスタイルがわかっているから、そのスタイルでよんでいくと、これは原本は直筆だっただろうなと、ちょっとこういう言葉づかいはあの人されなかったよな、とかあったりして、他のお弟子さんに書かせたりしたかなっというのがあるのだよ。

その点、親鸞聖人の場合は、直筆が残っているから信頼感があってありがたい。そうでない場合は、信頼できる人が確認したもの、例えば同じ観経でも善導大師がよんだ読み方でよむと、善導大師が到達されている境地というのがよみとれるわけなんだよ。しかし、浄影寺のような人がお書きになった観経書ですとこの人なりの観経になる。みなひとつの観経だけど、ああいう天才的な学者が注釈しているだけに、お経が開く世界が違ってくるんだよ。おじいちゃんは、善導大師がよんで、法然聖人が確認して、親鸞聖人が展開したようなそういうお経をよむという、そういう読み方なんだな。そういう意味で、できるだけあの人が伝えようとされたものに近いものをこちらで自分なりに再現していくということをやってるのだけども、なかなか相手が大物やから、ははは、こっちが小物すぎるかしらん、難しいんだけどな。


[めっちゃん]

最後に、おじいちゃん、もうひとつ聞きたいの。
前に聞いた「浄土真宗以外の人は救われないのか」ということと関連するのだけどね。キリスト教徒だったら親鸞聖人のお聖教に出会わないと思うんだけど、結局最後は、浄土という場所にいろんな宗教の人がいくんじゃないかと思うのだけど、それは違う理解かな？


<u><strong>私は確実に会いますよ</strong></u>


[おじいちゃん]

そうだね、おじいちゃんがクリスチャンの方の考え方がある程度わかったと仮定すると、<strong>こっちから向こうは見える</strong>ということだね。向こうはこっち側が見えてるかは知らないけど。そうすると、キリスト教というのはこんないいとこがあるな、イスラム教でもこういう点は素晴らしいなというのはあるもんだよ。そういう風にいいとこの共通点をお互いに確認しあうということをすると、なんというか、あんたはあんたの信仰の世界に、私は私の信心の世界に生きているけど、話し合いができる、ということになる。どこへいかないといけないということはないと思うね。それぞれの世界の中に生きていながらお互いが話し合いができるような場があればそれでいいと思うんだよ。普通だって、みんなそれぞれ違った世界をつくって生きているけれど、その中でお互い理解しようすれば理解できる世界があるからね。キリスト教の人が阿弥陀様のお浄土にこなきゃならないこともないし、こちらが最後の審判にであわないといけないこともないしね。


[めっちゃん]

例えば、キリスト教徒が天国にいったら、こっちからお浄土にいった人と実は同じ場所にいて会うみたいなことにならないのかなあ？


[おじいちゃん]

やっぱりね、共通したものはあって、そしてお互いにその相手の信仰の世界がわかりあうというところがあれば、それだったらおんなじことだね。あの、向こうは会えるかどうかわからないが、<strong>私は確実に会いますよ</strong>というのはあっていいんじゃないかな。そっちがこっちを見えるかどうか知らんけど、こっちからあなたは見えますよ、というのがあってもいいんじゃないかな。


[めっちゃん]

そうかそうか、そういうことか。こっちから見えるけど、あっちから見えないということがあるのね。


<u><strong>言葉が開く世界</strong></u>


 [おじいちゃん]

そういうことはなんぼでもある。人間同士でもそうだけど、それをどうして突破できるかというと、<strong>言葉で突破するしかない</strong>んだよ。お互い言葉をかけあうことによって、見えないところが見えるようになってくればいいわけなんだ。やっぱりね、宗教の世界っていうのは、この、非常に言葉の意義が、言葉っていうものが重い意味をもっているっていうことだろうね。私らの世界もそうなんでね。

例えば、私にとっての息子は私の息子なんだが、他の人にとってはそうでないただの男性。その、めっちゃんのお母さんからいえば夫だし、めっちゃんからいえば父親なんだけど、それぞれがそれぞれの世界を生きているわけで、そんな中で話しあいすれば、「あ、これおとうちゃんだったんだ」、「あ、夫だったんだ」っていうのが、わかりあうよね。

普通は自分の息子、自分の息子ってみているけど、言葉をかわしあいながら、今は父親として振舞ってるな、とか、そういうのが人間同士でもあるんだよ。じゃあそれをどうするのかというと、<strong>言葉でほぐしていって共通の場を開いていく</strong>んだよ。

宗教の世界も、そういう意味で<strong>話し合いって大事</strong>だね。話し合いが通じなければ一番怖い。そういうことだと思うなあ。だから、死んで真宗の人のいいことは、<strong>尽十方無碍の世界が開ける</strong>っていうんだから、<strong>みな分かる</strong>っていうんだよ、ははは。


[めっちゃん]

みな見える。


[おじいちゃん]

この世は見えすぎたら困るけどな、あっちでは見えすぎて困ることはないからな。歎異抄なんかに、「尽十方無碍の光に同じくして」という言い方してるけどね、あれで結構この人楽しんでいるなっていうのを読みながら思うね。<strong>お浄土いったら「尽十方無碍の光に同じくして」って、楽しいのだろうなあ</strong>っていう感じだな。ははは。


[めっちゃん]

おじいちゃんの言っていた意味がようやく分かった気がする。ありがとう。]]>
   </content>
</entry>

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   <title>4.1「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか」[手紙]</title>
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   <published>2007-10-31T02:28:49Z</published>
   <updated>2007-10-31T01:46:20Z</updated>
   
   <summary>拝啓 朝晩は幾分涼しくなり、ようやく秋の気配を感じる今日この頃です。 今回のおじ...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="4.阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[拝啓


朝晩は幾分涼しくなり、ようやく秋の気配を感じる今日この頃です。

今回のおじいちゃんへの質問は、
<strong>「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか。」</strong>
ということです。

数年前、私は友人の死という現実に直面し、
その時に感じた思いを綴った手紙をおじいちゃんに送りましたね。覚えていますか？
その中で、友人の死という現実をどう受け止めてよいのか分からず混乱する一方で、
「起きたことには必ず意味がある、そうなるべくしてなった」とどこかで思ったこと、
また、｢私より一足先に浄土にいったのだと思うと、
しんどいこの世の中にいるよりよかったのではないか｣
そのように思ったと書きました。

また、その反面、こらえきえれない「悲しい」という思いがわきあがってきて、
そのことに戸惑い、<strong>「悲しいというその思いはどこからやってくるのだろう」</strong>
という疑問がわいたこと、
そして、ふと<strong>それが「我」であることに気づいた</strong>ということも書きました。

おじいちゃんは、会った時にいろいろと話してくれましたね。
しかし、混乱している私を前に、あまり多くを語れなかったのでしょう。
それからしばらくして、一通の手紙をくれましたね。

今回の私の疑問は、おじいちゃんがくれたその手紙の中から始まっています。]]>
      <![CDATA[（以下、おじいちゃんからの手紙の抜粋）
「彼女が亡くなってしまったことについて、
あなたがずっと学んできた浄土の教えの上から、
このきびしい現実の苦悩を解決しようとして、
がんばっておる姿は尊く聞かせていただきました。
おじいちゃんの率直な感想を述べさせてもらいましょう。

まず、あなたが彼女の死について、
浄土の一足先に帰っていった彼女をすなおに祝福してあげるべきなのに、
実際にはなかなかそうはなれない。
彼女とはもう逢えないことがひどく悲しいが、
その気持ちをどうすることもできないのは、
真宗の教えを聞いてきた自分としては
なんともなさけないかぎりだといっている点ですが、
これについて考えてみましょう。

教義的にいって、
<strong>彼女が死んで浄土に帰っていったといっている点ですが、
これは大きな間違い</strong>です。
<strong>真宗で死んで浄土に帰っていく人というのは、生きている時に当人が
「いつ死んでもお浄土に生まれる」ことを「信じて」いる人だけ</strong>であって、
一般の人たちは決してそのように信じてなどいないのですから、
死後は再び何かの生物に生まれ変わって、
いわゆる迷界を輪廻転生しつづけると説くのが仏教であることはご承知のとおりです。

したがって、彼女が生前真宗の信心をいただいてないとしたら、
彼女は浄土になど生まれていないわけです。」


正直、私はこの手紙を読んだ時に、
おじいちゃんの書いたものにおいて、はじめて「違和感」を覚えました。
でも、その違和感が何なのかを確認することもできずに数年がたちました。
今回、あの時分からなかったことをもう一度おじいちゃんに確認したくて、
手紙を書くことにしました。

おじいちゃんは、
「浄土真宗の信心をいただいていない者の前には浄土はない」と書いています。
まず、<strong>浄土真宗の信心をいただいていないものは
死んだらどうなるのでしょうか</strong>。
再び輪廻を繰り返すとすれば、
「彼女は一足先に浄土にいってしまったんだな」と思っている私は、
ひどい勘違いをしていることになります。

真宗の教えを聞く人もいれば、聞かない人もいます。
聞くご縁のまったくない人もいるし、身体的に聞けない人もいると思います。
教えを聞かない・聞けない、あるいは、念仏しない・できない人というのは、
信心をいただけず、お浄土にいけないのでしょうか。

そうだとすれば、
「私以外の人のことは分からない」という前提があるとしても、
やはり私以外の人のことも気になって仕方がありません。

私が真宗にご縁があったのは、
生まれた環境がたまたまそのような環境であったためです。
「ご縁があったから」といえばそれまでなのだけど、
一方で、ご縁がない人にとっては、「ご縁がなかったから」という言葉では
到底いいつくせない大きなことを失っていると思います。
そもそも、<strong>ご縁に原因、あるいは主体のようなものはあるのでしょうか</strong>。
ご縁にあふれる場にいても、ご縁に恵まれない人もいるわけで、
それは一体何がそうさせているのでしょうか。
その正体が輪廻の主体なのでしょうか。

阿弥陀様はどんな人もわけへだてなく救ってくださるのだとすれば、
そこには念仏がない人も、信心がない人も、
どんな人でもお浄土につれていってくださるのではないのでしょうか。
そんなことはないのでしょうか。<strong>阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか</strong>。

私は阿弥陀様の救いに条件はないと思っています。
また、すべての人が最後は浄土にいくと思っています。
輪廻を何度も繰り返す人もいれば、そうでない人もいるとは思うけれど、
結局いきつく先は浄土より他にないような気がしてなりません。
キリスト教や他の宗教を信仰している人は、
別の言葉でその領域をあらわしているとしても、
結局のところそれは、「浄土真宗でいうところのお浄土という場」に他ならず、
すべての人はそのお浄土にいきつくように思います。


個人の思いなどを、
宗教でああだこうだ言うべきではない気がするけれど、思うままに書いてみました。

おじいちゃんの意味することを、
もう一度正確に聞かせていただきたいなっと思っています。
近いうちに会いに伺いますね。
その時まで、さようなら。


敬具

めっちゃんより]]>
   </content>
</entry>

<entry>
   <title>3.3 おじいちゃんへ [振り返り]</title>
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   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/grandpa//9.2162</id>
   
   <published>2007-09-25T23:24:56Z</published>
   <updated>2007-09-25T23:39:58Z</updated>
   
   <summary>拝啓 少しずつ秋めいてきましたね。海からの風が心地よい季節になってきたことかと思...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="3.どう生きるかということと、救われるかということの関係" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[拝啓


少しずつ秋めいてきましたね。海からの風が心地よい季節になってきたことかと思います。

<img alt="%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%93%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81%E3%81%AE%E5%86%99%E7%9C%9F.JPG" src="http://www.higan.net/blog/grandpa/%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%93%E3%81%BE%E3%81%A8%E3%82%81%E3%81%AE%E5%86%99%E7%9C%9F.JPG" border="0"width="480" height="360" />

おじいちゃんと話した後は、不思議なもので、心の芯から温かくなるというか、元気になるというか、ものすごく深いところで大事なことを肯定されたような気がします。

さて、今回の質問は、
<strong>「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのでしょうか」</strong>
というものでした。

そもそも、なぜこんな質問が沸いてきたのだろうかと、私なりにもう一度考えてみました。

ひとつは、「お聖教の通りに生きないといけない」という言葉を聞いたときに自分が感じた「私の生き方はこれでいいのだろうか」という不安による部分があります。

もうひとつは、「教えを聞いているのに、あるいは、お坊さんなのにどうして日常においてもっと立派ではないの？」という問いに対して、私がきちんと答えられなかったということがあります。]]>
      <![CDATA[さらに、それらの根底には、「こういう風に生きなければならないという理想モデルのようなものがあるのだろうか」あるいは、「教えを聞いたならそれは即実践としてあらわれなければ『すべて意味がない』のだろうか」そのような思いがありました。

同時に、「そんなことはないはずだ」そのようにも思っていました。一方で、その理由をきちんと説明できませんでした。そして、そのような自分に対して、ある種の歯がゆさのようなものを感じていました。


そしておじいちゃんは言いました。

<strong>大事なことは「真剣かどうか」ということ</strong>


その一言で、私は、ものすごく安心しました。
そして、亡くなったおばあちゃんの生き方が、わがままでマイペースであったけれども、やはり「すごい生き方」だったんだということを改めて認識しました。
聞かせていただくことに対して、あれほど「真剣に」また、あれほど「喜び楽しんでいた」人を私は今まで間近で見たことがなかった。だから強烈であり、その姿が、私にご縁をつないで下さる何よりものきっかけになったのだと思います。
そのような事実を改めて認識しました。


さらに、おじいちゃんが言うように、<strong>人は善悪様々なご縁のもとで生きる極めて不安定な生き物</strong>だと思います。<strong>だからこそ、「いつでも戻れる」「いつでも復元できる」ということが、とても大事</strong>なのですね。
ポイントオブノーリターンを超えられるということが、おじいちゃんと私の間の極めて自然な共通認識でしたね。

帰り道、私はしみじみ思いました。
「念仏とともに生きるご縁をいただいたことは、本当にありがたいことだなあ」と。

<strong>これがあれば、生きられる、
これがあれば、死ねる、</strong>
そういうものが教えであり、念仏なのだろうと思います。
また、そういうことが、おじいちゃんが以前教えてくれた<strong>「主導原理」</strong>ということでもあるのだろうか、とも思いました。


めっちゃんより]]>
   </content>
</entry>

<entry>
   <title>3.2 「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのでしょうか」 [対話]</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/09/32.html" />
   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/grandpa//9.2137</id>
   
   <published>2007-09-12T00:02:42Z</published>
   <updated>2007-09-12T00:16:07Z</updated>
   
   <summary>後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いに行きました。  [おじいちゃん] よう来た...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="3.どう生きるかということと、救われるかということの関係" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いに行きました。 


[おじいちゃん]

よう来た、よう来た。暑いなあ。まあ、まあ、お茶でも飲みなさい。

お茶飲みながら、ほな、ゆっくりはじめようか。 

今回のめっちゃんの質問は、<strong>「どう生きるかということと、救われることはどういう関係にあるのだろうか」</strong>そういうことだね。 


<strong><u>精魂こめて生きるということ</u></strong>


めっちゃんは手紙の中で、「救われる」ということと「この世でどう生きるか」ということは、直接関係がないように書いているね。これは、なんだろうね、大人の宗教なんだろうね、浄土真宗というのは。

阿弥陀さんは束縛せんのだよ。それだけ、私たちがそれぞれの場でそれぞれの道を選択するしかないんだな。どの道を行ってもいいんだということなんだろうね。その意味で、「特定しない」というだけのことで、どの道を行っても精魂込めて生きればそれが素晴らしいということなんだろうね。 

「どう生きてもいい」ということではなくて、むしろ生き方うんぬんはどうあっても、例えば、吹けば飛ぶような将棋の駒に命を賭けて生きる人もあるだろう。そういう道に精魂込めて生きる、そんな命の燃やし方というのも素晴らしいことなんだよ。いろいろと学んでいく姿があるんだよ。どんな道を選ぶかは自分で決めるんだ。まあ、自分で決めると言っても、半分くらいは知らんうちに決められてしまうことが多いけどな、ははは。しかしまあ、いずれにしても、自分のある道に精魂込めて生きた証を残すということなんだろうね。 ]]>
      <![CDATA[<strong><u>まず、なぞる</u></strong>


［めっちゃん］

ときどき、おじいちゃん、私に言うでしょ。

「めっちゃん、お聖教に書かれたとおりに生きないといけない」って。

それを聞くと、私、自分の生き方がこれでいいのかと不安になる。 


［おじいちゃん］

ほうほう、そこはな。そうだなあ、例えば、習字をする時には手本をなぞるだろう。その<strong>手本をなぞるように、お聖教を読んでいく</strong>わけなんだよ。そこには、親鸞聖人には親鸞聖人の生き方がある。おじいちゃんにはおじいちゃんの生き方がある。それが見えてくるわけなんだ。書で言うなら、それはその人その人の個性のある書が書けるということなんだけれども、<strong>最初はやっぱりなぞらないとだめなんだ</strong>。

そうすると、非常に真剣な生き方をしてらっしゃるその人の生き方、姿に打たれていく。こっちにそれが広がっていく。

おじいちゃんが字が下手なのは、手本をちゃんと見て書かなかったからなんだ。自己流で書いても上達はしない。そういう意味で、お聖教も綿密に読んでいかないと変な方向に行ってしまうということになるだろうね。お聖教は規格だからね。 


<strong><u>気ままによまない　気ままに生きない</u></strong>


［めっちゃん］

お聖教を読むことと、その、日々を生きていくことの関係がやっぱりよく分からないなあ 


［おじいちゃん］

うーん、直接の関係というよりは、発想の転換であるとか、あるいはひとつのことを最初から意味を見出すことはできなくても、だんだんと自分なりに真剣にやっておれば深い意味が見えてくる。そういう意味で、どんなことでも、それこそ大道長安に透るの如く、みんな通じているところがある。問題は、やっぱり<strong>「気ままに読まない」</strong>ということ。<strong>「気ままに生きない」</strong>ということと同じことだね。 

そのまま写すのだったら、投射のような形になるけれど、そうじゃなくて、自分の字を書く、自分の絵が描けるようになるんだ。自分の人生は自分の向かう方向にしかないわけで、その中で、<strong>非常に真剣に生きた人の記録は非常に大きな指針になる</strong>ね。

道が決まっていてもありがたいことなんだ。おじいちゃんが、伝教大師なら伝教大師の書物を読んだとして、弘法大師なら弘法大師の書物を読んだとして、別に密教をやるわけじゃない。そういう書物を正確に著者の心を探り当てようと読んでいく。そこで出会う生き方というものが大きな示唆を与えてくれるんだよ。そういう意味で、お聖教は正確に、そして、できるだけそっちの方に没入するようにして読んでいく癖をつけた方がいいね。 


[めっちゃん]

なるほど。

あとね、もうひとつ聞きたいのが、生活態度との関係というか。亡くなったおばあちゃんは、ものすごーくマイペースでわがままな性格だったけど、もう一方でものすごく熱心にずっと仏法を聞き続けてきたよね。ただ一般の人は、なぜそこが結びつかないのか、<strong>生活においてもなぜ立派じゃないのだろうか</strong>、そういうことを言う人もいる。そこはどう考えたらいいのかなあ。 


<strong><u>縁の中で真剣に生きる</u></strong>


[おじいちゃん]

その人その人の生きてきた歴史があるのと、それからやっぱり<strong>『機縁（きえん）』</strong>だろうね。その人が出会う、いろんな出会いの縁だね。どうしてもそういう出会いによっていろんな面が出来てくるからね。楷書を書くようにきちっと強い倫理でいかないもので、ただ問題は<strong>「その中でどれだけ真剣であるか」</strong>ということなんだな。真剣に生きているならどの生き方をしても悩みもあるし、つらいこともあると思う。そういう中で、真剣に生きているということが、自分自身にとって悔いが多いとや、悔いが多いんだけども、しかし、真剣に生きたということで悔いが少なくなると思うな。


[めっちゃん]

そうかそうか。 


[おじいちゃん]

まあ、娑婆ちゅうところは、いろんな縁があるからなあ。純粋培養みたいなわけにはいかないからね。縁に触れて過ちも犯したり、いろんなことがあると思うんだよ。しかし、それも良心的なんだ。間違ったことをやっているのに良心的だなんて言うのはおかしいみたいだけど、こっちからみたら間違っているように見えても、その人にとっては精一杯な生き方をしていたというのがあれば、あんまり悔いのない人生なのではないかと思うよ。逆に規格にはまっただけで、無難だったけど、おもしろみのない人生だったということもあるだろうしね。いろいろあるもんだ。」 


[めっちゃん]

どれだけ真剣に・・・・。 


[おじいちゃん]

真剣に生きているというのは、まあ誰もが真剣に生きているんだと思うけどね、まあ、もっとまじめにやれっという風に思うかもしれんけど、やっぱり一生懸命自分なりに人生を生きたというのがあればそれでいいんじゃないかという気がするね。その意味で、人を批判するっていうのはすごい難しいことでね、<strong>人を批判しているのは自分を語っているだけになる</strong>という気がするからね。それは難しいと思うんだよ。といって何も批判しないでいいかっていうとそういうわけにはいかないし。まあ、<strong>いろんなご縁、善悪様々なご縁の中を生きている</strong>のでしょうね。ただそんな中で、なにかここだけは帰って来られる、そういうものがあるっていうことなんだろうね。 


<strong><u>ポイント・オブ・ノーリターンをこえる</u></strong>

脳死を問題にするときに、『<strong>ポイント・オブ・ノーリターン</strong>』みたいなものがあるのは知っているかな？ある一定のところまで行くと、そこからは帰ることができないという点だよ。そんなものが目に見えるわけじゃないけれど、もしかしたら心の中にも『ポイント・オブ・ノーリターン』みたいなものがあって、そこまでだったらすーっと簡単に帰れるんだけど、それを踏み外すと、すーっと落ちてしまって帰ることができないような線が心の中にあるような気がするね。その点では、<strong>念仏というのはポイント・オブ・ノーリターンをある意味で壊してしまう</strong>。 


[めっちゃん]

うん、そんな気がする。 


[おじいちゃん]

<strong>どこからでも帰れるという、そういうものがある</strong>ということが、危ない人間にとっては一番ありがたいことだと思うんだよ。そういう意味では、何はともあれお念仏しなさいよ、ということなんだね。なにはともあれ念仏があって、<strong>どこでもそこから復縁できる</strong>ということが、そういうものが与えられているということが、ポイント・オブ・ノーリターンが無くなったということだろうね。 


[めっちゃん]

そうね。全部お釈迦さんの手の上で終わっている気がするな。そこであーだこーだ考えて一生懸命生きても、全部手の上のことのような気がする。 


[おじいちゃん]

人生っていうのはいろんな危機があるからね。そういう、いろんな危機を乗りこえていけるのは、どこかこう『<strong>復元力</strong>』というものがあるからだろうね。 


[めっちゃん]

おじいちゃんも、そういうものすごい危機にあったときには、お聖教に何かを求めようとしてきた？ 


[おじいちゃん]

その場合はね、お聖教の言葉というよりは、<strong>お聖教を読んでいること自身が大事</strong>だと思うんだよ。何かいいことはないかなっていうよりは、<strong>読んでいること自身が非常に安心感を与えてくれる</strong>。その点で、お聖教に親しむ癖をつけていくのはいいことだね。 


<strong><u>お聖教の言葉を聞いて楽しむ</u></strong>


[めっちゃん]

おじいちゃんから「教えのとおりに生きないといけない」というのを聞いたときに、なにかあるべきモデルみたいなのがあって、それに沿った生き方をしないといけないのだろうかって思ったことがあって・・・。 


[おじいちゃん]

そういうことじゃないんだよ。お聖教というのは、そこから何を読み取るか、また何が読み取れるかということ、それは読み取ることはその人その人のその時の状況に応じて読み取るのだろうけど、<strong>お聖教の聖典を読むことを楽しみにする、それ自体がすばらしいんだろうね</strong>。真宗のお聖教じゃなくても涅槃経でもあるいは維摩経でも読んでいると、そのたびに一言二言は「あれっ」と思うような言葉に出会うから、そうなるとその日一日が楽しいもんだよ。ははは。 


[めっちゃん]

そういうことかあ。亡くなったおばあちゃんも、いつもお聖教をおもしろい、おもしろいって読んでたものね。 


[おじいちゃん]

お聖教をおもしろく読めるということは、そういう目を開いてもらったということが信を得たということなんだよ。<strong>信というのは、別に特別なものではなくて、お聖教の言葉を聞いて楽しむ、そういうことなんだよ</strong>。信楽（しんぎょう）の「ぎょう」という字は「楽しむ」だからね。 


[めっちゃん]

そうね。おじいちゃんと話すと、私の中でいつも、ぼんやりそうじゃないかなって思っていたことが、言葉を帯びてなんだかとてもはっきりと自覚できるな。]]>
   </content>
</entry>

<entry>
   <title>3.1「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのでしょうか」[手紙]</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/08/31.html" />
   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/grandpa//9.2075</id>
   
   <published>2007-08-15T08:28:13Z</published>
   <updated>2007-08-15T09:36:46Z</updated>
   
   <summary>おじいちゃんへ 拝啓 暑い日が続いていますが、お変わりなくお過ごしですか。 私も...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="3.どう生きるかということと、救われるかということの関係" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[おじいちゃんへ

拝啓

暑い日が続いていますが、お変わりなくお過ごしですか。
私もうだるような暑さにぐったりしながらも、
どうしてもおじいちゃんに尋ねてみたいことがあって筆をとりました。

<a href="http://www.higan.net/blog/grandpa/%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%91-2"><img alt="%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%91-2" src="http://www.higan.net/blog/grandpa/%E3%82%81%E3%81%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%EF%BC%91-2-thumb" width="240" height="180" /<img border="0"></a>

さて、私からおじいちゃんへの3つ目の質問は
<strong>「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのか」</strong>
ということです。

おじいちゃんは私に
<strong>「教えの通りに生きなければならない」</strong>
という趣旨のことを何度も話してくれます。
また前回の質問の中でも、
<strong>「人生の中で大きな壁にぶち当たったときに、それが自分を
突き動かす主導原理になるかが、その人にとっての宗教かどうかだ」</strong>
ということも教えてもらいました。

私は、自分の生き方と浄土真宗の教えの関係があやふやになっています。
基本的には、
<strong>「この世でどう生きるか」ということと「救われるか」ということは直接的な関係はない</strong>
と理解しています。
だからといって、この世でどう生きてもかまわないということにはならないのですが、
この世での生き方は阿弥陀様の前ではほとんど意味をもたないのではないか
と思っています。一方で、そのような考えは大変怠惰なものであるようにも思います。]]>
      <![CDATA[おじいちゃんは昔、身体が弱かったために戦争にいかず、
田舎で学校の先生とお寺の住職をしながら生計を立てていたんですよね。
それを聞いて、さぞかしたくさんの苦労をしてきたんだろうなと思いました。

それから私がまだ小さい頃は、
いつも正確に教えを聴かせてくれたし、
常に念仏が口をついて出ていましたよね。
そんな浄土真宗に対するおじいちゃんの姿勢が、孫の私には、
他の全部の要素をふっとばして、「おじいちゃんの生き方」として強烈に残っています。

ただ、一般の多くの人は、浄土真宗の教えをそれだけ聴いていれば
大層人間的にもすばらしい人なのだろうと期待するだろうし、
その期待と現実のおじいちゃんの姿には、
当然何かギャップがあり、ある時は人を失望させてしまったり、
なんてこともあったのではないかと思うのだけど、どうですか？
実際、おじいちゃんにはすごくマイペースなところもありますし…。

そんなことから、
<strong>「この世でどう生きるか」ということと、
「浄土真宗の教えを聴かせていただくこと」はどういう風に関係しているのだろうか</strong>
と考えるのだけど、私の中ではどうにもいいかげんな解答になってしまいます。

この世をよりよく生きるとか、道理にかなった生き方をするとか、
そういうことと宗教とは別だと思います。
別なのだけれども、私の「主導原理」であるからには、
私を導いていくのは浄土真宗の教えになるのだと思うのですが、
そのことが経験の浅さからか、まだまだ具体的に分からないのです。

おじいちゃんは何かに迷ったり、ひどく苦しむとき、
そこに浄土真宗の教えが主導原理となり具体的な方向性を指し示し、
それに基づいて生きてこられたのでしょうか。

「浄土真宗以外の人は救われないのか」という前回の質問に対して、
夫や子どもを含めて私以外の他の人が救われるかどうかということは、
私が考えをめぐらすことではないと思いました。
すべては、私と阿弥陀様との関係のもとに私がどう生きるか
ということでしかないのだとそう思いました。

一方で、人がご縁をいただくときには、
私がおじいちゃんという存在に対して深い尊敬や愛情が背景にあったように、
<strong>その人の生き方に醸し出される何かがすごく重要なのだ</strong>と思います。
そう考えると、やはり「どう生きるか」というのは間違いなくとても大事なことになります。

こう生きたから救われるというものでもない、
だからといってどう生きていいものでもない。
浄土真宗の教えを真剣に聴かせていただいているのであれば、
それは必ず生きる上で実践としてあらわれるべきなのでしょうか。
そうであるならば、やはり、こう生きるべきという姿はあるものなのでしょうか。

以前のお話の中で、おじいちゃんは
<strong>「正しく聴かせていただく中で、救われるということの意味が分かる」</strong>
と言っていました。
この「分かる」というのは、「どうすれば救われるのかということが分かり、
それを日常においてどのように実践していくことが分かる」ということなのでしょうか。

と、最近はこんなふうに、堂々めぐりが続いています。

「救われる」という言葉を使用するのは、
認識の違いになってしまうのかもしれませんが、
このある種ぼわっとした疑問に、ぼわっとしたままでもいいので
おじいちゃんの考えを教えてほしいのです。

「とんでもない生徒がきてしまった」と
おじいちゃんも呆れているだろうなと思うと恥ずかしくなるけれど、
聴ける時にあつかましくも聴かせていただこうと手紙を書きました。

おじいちゃんの考えを伺いに、近いうちに会いに行きます。
今からその日が楽しみです。

敬具

めっちゃんより]]>
   </content>
</entry>

<entry>
   <title>2.3 おじいちゃんへ [振り返り]</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/08/23.html" />
   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/grandpa//9.2047</id>
   
   <published>2007-08-01T01:39:22Z</published>
   <updated>2007-08-03T00:09:00Z</updated>
   
   <summary>おじいちゃんへ 拝啓 梅雨の前の少し不安定な気候が続いていますがお変わりなくお元...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="2. 浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[おじいちゃんへ

拝啓

梅雨の前の少し不安定な気候が続いていますがお変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。

この間は、また私のとりとめもない疑問につきあってくれてどうもありがとう。問えば問うほど何かからズレていくような気がする一方で、問わずにはいられないのですから、本当に我ながらどうしようもないなっと思ったりもします。


さて、今回の私の質問は、
<strong>「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか」</strong>
ということでした。]]>
      <![CDATA[この質問の背景には、<strong>特別な宗教をもたない自分の夫や子どもはどうなるのだろうかという不安</strong>がありました。また一方で、私は念仏よりほかに救われる道はないと思うが、私以外の人は念仏よりほかに救われる道があるのかもしれないという思いがありました。

今回のおじいちゃんとの対話の最大のキーワードは、
<strong>「主導原理」</strong>
ではないでしょうか。

おじいちゃんはいいました。
<strong>人生における具体的な困難、生と死や罪と罰のような大きな問題にぶち当たった時に、それが私を支え突き動かしてくれるのか、つまり「主導原理」となるのか、というのが、それがその人にとって「宗教」かどうかなのだ</strong>と。

心のやすらぎをうるという意味では宗教以外の無数のものがあるのだということも納得です。ただ、心のやすらぎをいくら積み重ねたところで、究極の場面で私を支えるものでなければ意味がないと思います。その意味では私が問題にしていることは、明確に「宗教」なのでしょうね。

では、浄土真宗が私を支えてくれるのだろうか。人生で耐え難い困難にぶちあたった時に私を支えてくれるのは何なのだろうか。

究極にはやはり、「阿弥陀様」であり「念仏」なのだろうと思います。ただ実際にまだ私の30年足らずの人生ではまだ検証できていないわけで、それはこれからの長い長い人生の中で身をもって体験することなのでしょう。

おじいちゃんとの対話を終えた今でも、やはり、<strong>「私は念仏より他に救われないのだが、私以外の人はどうか分からない、救われる人もいるように思う。」</strong>というこのあやふやな結論は変わらないように思います。

ただ、おじいちゃんもいっていたように、
「私にとってはこれ以外に道はない」ということと同じように
「あなたにとってもそれ以外に道がない」ということが同時に成立するのだと思います。
<strong>「私は信じないけれどもあなたの信じているものを私は認める」</strong>という相手の真理性を認めることは、とても大事なことなのだと思います。

同時に、そこまでしか言えないのだと思います。

それ以上の、「あなたが救われるかどうか」という点については、”あなたではない私”が、懸念したり口をはさむべきことではないことのような気がします。それは例え夫婦であっても子どもであっても。

私と阿弥陀様との関係においてがすべてなのだとそう思います。
荒っぽい言い方をすれば、「他の人のことは知ったこっちゃない」んだと思います。

阿弥陀様とのご縁のもとに、私という自我を振り切ろうと思いつつも、常にその自我を抱えながら、<strong>「“私”はどう生きるのか」</strong>ということを突き詰めて実践していくより他ないのだろうという認識をあらためてもちました。

またお手紙書きます。

敬具

めっちゃんより]]>
   </content>
</entry>

<entry>
   <title>2.2 「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのだろうか」 [対話]</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/07/22.html" />
   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/grandpa//9.1991</id>
   
   <published>2007-07-15T07:04:11Z</published>
   <updated>2007-09-28T02:16:49Z</updated>
   
   <summary>後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。 [おじいちゃん]  めっちゃ...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="2. 浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。

<a href="http://www.higan.net/blog/grandpa/images/granpa2.2.html" onclick="window.open('http://www.higan.net/blog/grandpa/images/granpa2.2.html','popup','width=922,height=691,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.higan.net/blog/grandpa/images/granpa2.2-thumb.jpg" width="240" height="179" alt="" /></a>

[おじいちゃん] 

めっちゃん、お手紙読ませてもらったよ。

「他の人のことなんかわしの知ったこっちゃない」
とぽーんと言ってしまいたいけど、
そうはいかないね。ははははは。

それじゃあ、さっそく話を始めようか。 

<strong>「生と死を支えるもの」</strong>

[おじいちゃん]

まず、今回の質問は、
「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのか」
ということが一番の疑問の中心だね。 

まずそもそもね、
「救い」ということの内容がいろいろとあるのだと思うね。

ただ、<strong>いろんな宗教があって、
いろんな人がそれによって心のやすらぎを獲得する。</strong>
そういう意味では、救われるものというのは無数にあるだろうね。 

それをいちいち、あれがいい、これがどうというわけじゃないと思うよ。
その人にとってそれが一番いいというものがあるんだよ。
仏教ではそういうのを、「病に応じて薬を与える」という意味で
「応病与薬（おうびょうよやく）」というのだけどね。
それと同じで、その人の置かれている精神状況や生活環境に応じて
一番適切な教えが一番いいということだろうね。 

ただね、「みんなが同じ境地に到達するか」
というとそれは分からないけどね。

そしてね、その人にとって心のやすらぎを持つという意味ではいいのだけれども、
<strong>究極は「生と死を支えるもの」でないといけない</strong>わけなんだよ。]]>
      <![CDATA[［めっちゃん］

生と死を支えるもの？ 

［おじいちゃん］

そう、それが宗教の特徴なんだよ。
どの宗教も生と死を支えていくわけだから、そこには程度の高い低いはなくて、
その人にとって何が一番いいのか、ということが大事になるね。 

［めっちゃん］

さっきおじいちゃんは「心のやすらぎ」っていったけど、
その「心のやすらぎ」と「救い」って違うもの？ 

［おじいちゃん］

いやいや、違うものではないよ。
ひとつの問題を解決したらひとつのやすらぎを得るけれども、
次の問題が出てきたらそれに全然対応できないということがあるだろう。
そうなると、もっと深いやすらぎが必要になるね。

そうすると、もう少し程度の高い宗教が必要になるということなんだよ。
そして、さっきいったように、究極的には、「生と死を支えるもの」
というところまでいかないと宗教としては不十分なんだよ。 
 
<strong>「私の夫と赤ちゃんは救われるのか？」</strong>

[めっちゃん]

じゃあね、おじいちゃん。手紙にも書いたのだけど、
私の夫は、何か特別に宗教を信仰しているわけではないし、
生まれたばかりの私の赤ちゃんもそう。

そうなると、心のやすらぎはあったとしても、
究極のところがないとすればやっぱり心配になるのね。
そのあたりについては、おじいちゃんはどう思う？ 

[おじいちゃん]

まず、同じ家庭の中で違った宗教をもっているということは、
ある意味不安定な生活を招きうると思うよ。
よっぽど相手の立場を認めていても、生活様式が違ってくるからね。

まあこれはちょっと極端な例だけど、
例えばイスラム教徒とヒンズー教徒が一緒に暮らすと、まず食べ物に困るよね。
もちろん食事の制限だけではなくて、ものの考え方もかなり違ってくる。
そういう意味で、宗教の違いが逆に生活を不安定にするということが起きてくるだろうね。

そうは言っても、それが信仰である限りは統一できるものでもないよね。 

[めっちゃん]

そうね、信仰である限りは変えられないと思う。
それが家の習慣とかだったらどうとでもなるけどね。 

[おじいちゃん]

ただまあ仏教についていうなら、例えば天台宗と浄土真宗なんかは、
どっちも念仏するわけで、そういう意味では浄土真宗が正信偈をあげるのも
そんなに違和感はないだろうしね。

ただ、家庭の中で出来る限り宗教は一致していた方がいいし、
それはとても大事な問題だと思うよ。 

<strong>「大きな力」への「いくつものつながり方」</strong>

[めっちゃん]

そうね。
あとね、もうひとつの疑問。 

私は南無阿弥陀仏と手をあわせることで、大きな何かにつながっていると感じるし、
私がお世話になった産婦人科医はお産にたちあう度に、大きな何かにつながっていると感じる。
そんな風に、「いくつものつながり方」みたいなものがあるのではないかなっと思うのだけど、
それは少し違う理解かな？ 

[おじいちゃん]

そういう考え方もあるよね。
ただね、ある意味そこでは「大きな力」という形で抽象化されているんだよ。
ところが<strong>実際のお念仏の中で味わう「大きな力」というのは、
「仏様のご縁」という形で具体化している</strong>わけなんだよ。 

お医者さんの場合には、赤ちゃんが産まれてくる姿に大きな力を感ずるということだね。
まあ、それは優れた科学者であれば当然ありうることだね。

抽象的な場合や、理論的な場合は、それでいいんだよ。
まあ抽象的というのは理論的ということなのだけどね。
つまり、理論的にもある種の整合性があって、
本人にも納得ができている場合はそれでいいのだよ。 

ただ<strong>大事なことはね、それが生と死の問題にぶつかったり、
あるいは罪と罰の問題にぶつかった時に、そこから解答がでてくるかということ</strong>なのだよ。
非常に抽象化されているがために、それを受け止める力がないということがあるんだよ。 

<strong>「私たちを導いてくれるもの」</strong>

[めっちゃん]

抽象的というのをもう一度説明してもらえるかな？ 

[おじいちゃん]

抽象的というのは誰にでもわかるんだよ。
そして本人も理論的には納得ができるんだ。
だけどね、抽象的な場合は、何か大きな問題にぶつかった時に、
それが自分自身の<strong>主導原理</strong>としては働きにくいのだよ。 

[めっちゃん]

主導原理？ 

[おじいちゃん]

そう、主導原理って例えば、
「こっちの方を向け、こういう生き方、考え方をしろ」
というような問題への指導性ということだよ。 

つまりな、具体的であるほど具体的問題に対応しやすくなるんだよ。

抽象的である場合には、
普遍性をもっているけれども具体的な問題になった時には案外無力になるんだよ。
だから、出来るだけ宗教を通して具体化していった方がいいと思うんだよ。 

[めっちゃん]

なんだか言葉が少し混乱気味かな…。
具体的っていうのは、体系的っていうことかな？ 

[おじいちゃん]

いやいや、体系的ということではなくて、
<strong>精神構造の重層性</strong>があるということだよ。

例えばね、野原に咲いている一輪の花をみて、
キリスト教徒の場合は「そこに神の栄光を感ずる」という。
また一方で、「そこに宇宙的な生命を感ずる」という人もいる。

どちらも感じている状態は同じだと思うよ。だけどその時に、
キリスト教徒であれば非常に敬虔なお祈りが、つまり宗教的な行動が出てくるわけだよ。

つまり、<strong>同じような領域を感じているのだけど、
それがどういう形で具体化していくか</strong>ということなんだ。
なんというかな、いろんな問題にぶちあたったり、迷ったりする時に、
「その感じた何かが、人生を指導していく原理として動いてくるかどうか」ということだね。 

[めっちゃん]

それは宗教かどうかというより、
信心があるかどうか、ということじゃないのかな？ 

[おじいちゃん]

信心といってもいいのかもしれないけど、もっと正確にいうなら、
宗教性が濃厚な場合と希薄な場合があるということだろうね。 

産婦人科の先生の場合、
赤ちゃんが産まれてくる場面なんていうのはとても神秘的だからね、
ただその神秘的なことが自分の人生の中で
どういう風に具体化していくかという問題があるのと思うよ。 

めっちゃん、宗教っていうのはな、
横にずらっと並ぶだけじゃなくてな、縦にも並ぶと思うよ。
つまり重層構造をもっているんだよ。
その意味で、おじいちゃんなんかも、
キリスト教徒のセントフランシスの行動をみていて立派だなあって思うしね、
そういう立派さを共感しあうところがあるもんだよ。

そういう意味では、自分の信仰とは違うけれども非常に深く共感ができるんだ。

仏教の中でも禅宗や真言宗も、
それぞれ非常に優れた宗教体系をもっていると思うよ。 

<strong>「私にとってはこれ以外に道はない」</strong>

ということと同じように

<strong>「あなたにとってそれ以外に道がない」</strong>

ということが認められればいいんだよ。 

ただそれが同じ家庭の中にいると、話がちぐはぐしたり、
生活様式がちぐはぐすることがあったりして安定感を欠くことがあるので、
一緒に暮らす場合は同じ宗教をもつというのは大事だと思うけどね。 

<strong>「対話する宗教・しない宗教」</strong>

[めっちゃん]

いやあ、今日はなんかちょっと混乱気味やわ。おじいちゃん。 

[おじいちゃん]

はははは。まあまあ、混乱してなんぼということもあるからね。 

それにしても、実際問題、
今の時代は宗教の多元性や違った宗教間の対話というのが、
非常に大きな問題になってきているね。

ただ対話というのが可能になるのは、
お互いが相手の真理性を認めないと成立しないもんなんだよ、
そうでなければ「伝道」であって「対話」ではないんだ。

<strong>伝道の場合は、多くの場合はおしつけがある</strong>からな。 

親鸞聖人みたいに「誰でもはいってくれて好きなときにでていったらいいよ」
とぽーんと言い切れる心の広い人はめったにいないんでね。 

「違った宗教であってもその真理性を認める」

あるいは、

「私は信じないけど、あなたの信じているものを私は認める」

とかそういうことはありうるわけだよ。

これからはむしろそういう宗教になるだろうね。
宗教がひとつの共同体を支えていっていた場合、
これを信じないとこの共同体に入れないという非常に偏狭なものであったけれど、
これからはそれをなくすようにしないといけないだろうね。 

<strong>「相手の信仰を大事にする、相手の信心を大事にする」</strong>

しかし、

<strong>「認めるけど私は信じない、私は違うものを信じる」</strong>

そういうことが同時に成立するように、
これからはなっていくんじゃないかな、
そうしないと人類滅びると思うわ。

宗教で滅びたっていうんじゃ、かっこつかんからなあ。 

[めっちゃん]

相手の信仰を大事にする、相手の信心を大事にする、か。
なんだかずばりの答えはないけど、ヒントをいっぱいもらった気がするな。 

[おじいちゃん]

ずばりの答えなんか期待したらあかん。 

[めっちゃん]

そうやな、さすが、おじいちゃん。
ちょっとまたゆっくり整理してみるわ。

ありがとう。

また手紙書くね。 ]]>
   </content>
</entry>

<entry>
   <title>2.1「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか」[手紙]</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/07/21.html" />
   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/grandpa//9.1948</id>
   
   <published>2007-07-01T13:52:49Z</published>
   <updated>2007-07-08T04:11:27Z</updated>
   
   <summary>おじいちゃんへ  拝啓  ぽかぽかと穏やかな小春日和が続いていますが、 お変わり...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="2. 浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[おじいちゃんへ 

拝啓 

ぽかぽかと穏やかな小春日和が続いていますが、
お変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。
縁側の窓から広がる久美浜湾を眺めている
おじいちゃんの様子を思いうかべながら、
今日もまたつらつらとお手紙を書いています。 

もしかすると、この手の質問はおじいちゃんを
少し不愉快にさせてしまうのではないかとやや心配しつつも、
やっぱり聞かずにはおれず、今日も筆をとりました。 

<strong>「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか？」</strong>

これが今回のおじいちゃんへの質問です。 ]]>
      <![CDATA[<strong>■「なぜ浄土真宗を信じているのか？」</strong>


この質問に関連して、
私は随分前に一度おじいちゃんにお手紙を書いています。
それは、ギリシャを旅した時に感じた疑問を綴ったものでした。

宗教色の強いギリシャを巡る中で、私が出会ったギリシャ人たちは、
何度となくギリシャ正教の素晴らしさを私に説いてきました。
「なぜギリシャ正教を信じているのか」と私が問えば、
その理由を懇々と説明してきました。
一方で私は、<strong>「自分がなぜ浄土真宗を信じているのか」</strong>ということに対して、
まったくと言っていいほど彼らに論理的に説明できませんでした。
そのことに疑問と不安を覚えておじいちゃんに手紙を書いたのでした。

さっそくその時の手紙を引っ張り出して、私も少し読み返してみました。 

『「あなたはなぜ浄土真宗を信じているのか」と問われても、
私は「浄土真宗にご縁があったから」としか言えませんでした。
それは自分の親が自分の親たるゆえんを、
説明できないのととても似ていると思います
（縁があったということと
他の親には決して代えられないということ以外は、
何も言えないのであります）。

（途中省略）

おそらく私は、信じること、まかせることがすべてであると信じる一方で、
どこかでやはり浄土真宗への絶対的まかせがまったくできておらず、
他を知って比較することで自分の信じているものが揺らぐことを
恐れる思いがあるような気がします。

同時に、だからこそ、
これから長い人生を生きていく上でたとえ愚かであっても、
「どうして自分は浄土真宗を信じているのだろうか？」
ともっと真正面から考えねば、
自分が将来子どもを持って親になったり
自分が伝える立場に立った時に
揺らぎはしないだろうかと懸念するのです』 


<strong>■「夫や子どもがこのままだと救われないのだろうか？」</strong>


この手紙を書いてから早五年の月日がたち、
その間に私は結婚し、子供も授かりました。

おじいちゃんも知っているとおり、
私の夫は浄土真宗に対する私の思いを
とてもよく理解してくれる人ですが、
本人は何か特別な宗教を信仰しているわけではありません。
伴侶を得て親となった今、
「どうして自分は浄土真宗を信じているのだろうか？」
という問いの延長線上にある
「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのだろうか」
という問いが、
<strong>「家族である自分の夫や子どもがこのままだと救われないのだろうか」</strong>という
極めてリアルな問いとしてなんだか迫ってきているわけなのです。 

その点について、おじいちゃん、私はふたつのことを感じています。

ひとつは、<strong>「私にとっては、念仏より他に救われる道はない」</strong>
今の私が確かにいえるのは、この一点だけです。
浄土真宗かどうかということより、
「南無阿弥陀仏とお念仏するより他に私が救われる道はない」
ということなのです。

同時に、（この前の手紙にも書きましたが）
南無阿弥陀仏とお念仏しなくても私は救われると思っている、
そのことはすでに決まったことだと思っている、
しかし、南無阿弥陀仏が口をついてでてしまう、
「念仏がなくても救われると思う反面、念仏が口をついて出てしまう。
そして、この念仏以外に私が救われる道はない」
この相矛盾するようなすべてのことが、私の中の素直で確かな感情です。 

さて、もうひとつ思うこと、それは、
<strong>「私以外の人にとっては、念仏より他の道があるのかもしれない」</strong>
ということです。
この点についてはまったく確信もなく、
ただ感覚的に思っているというのが正直なところです。


<strong>■「大いなるもの」に自分が生かされているという感覚</strong>


なんと表現すればよいのかわからないので、
ここでは「大いなるもの」といいますが、
この<strong>「大いなるもの」に自分が生かされているという感覚</strong>、絶対的安心感、
そのような感覚を、私は「南無阿弥陀仏」と手をあわせる習慣の中で
理屈なく感じてきたわけですが、一方で、同じような絶対的安心感を、
念仏以外の方法で感じている人もいるようにも思うのです。

例えば、私がお産でお世話になった産科医は、
2万例以上のお産に関わってきた人なのですが、
人工的な介入なく極めて原始的かつ自然なお産に立ち会う度に、
お産というのは人がしているのではなく大宇宙の大いなる力が
人を介しておこなっているものだと
感じざるをえないとよくおっしゃっていました。

また、自然なお産を通して、自分は大いなるものに生かされているのだと実感し、
その存在を前に自分の無力さを実感し、
ただただ手を合わせてゆだねるより他にない
という感覚におそわれる、ともおっしゃっていました。

さて、この産科医の感じる感覚は、
私が念仏の中で感じるそれととても共通していると思います。
どちらも理屈を超えて、自分という存在が大宇宙という
大いなるものに生かされていると感じ、
そこにある種の絶対的安心感を抱いているのだと思います。

そのように考えると、
「私以外の人にとって救われる道があるのか」という点については、
「分からない」を前提としながらも、
救われる道があるような気がしてしまうのです。

そうすると、（極めて浅はかな表現になってしまうのですが）
「大いなるもの」につながる手段として私は念仏をし、念仏以外の手段でもって
その「大いなるもの」につながる人もいるように思うのです。
そこには「ありがとうございます、おまかせします」という、
私が阿弥陀様におまかせする時の思いと同じような思いが存在すると思います。 

上記のようなふたつの思いがある中で、
当初の疑問「浄土真宗以外を信仰する人は救われないのだろうか」を
もう一度考えてみると、
<strong>「私は念仏より他に救われないのだが、
私以外の人はどうか分からない、救われる人もいるように思う」</strong>
という極めていいかげんであやふやな結論に至ってしまうのです。 

さてそうなると、
「自分の周囲の大切な人、夫や子ども、彼らはどうなのか、救われないのか」
という日常のリアルな疑問が置き去りになってしまうのだけど、
やはり、「分からない」としかいえないのです。
夫、子どもといえども私以外の人である以上分からないのです。


<strong>■「同じように浄土真宗を信仰させようと思わないのか？」</strong>


一方で、「そうであるならば、同じように浄土真宗を信仰させようと思わないのか？」
そう問われる方もいるかもしれませんね。
では、そう問われれば私はなんと答えるだろうか？

　たぶんこのように答えると思います。

<strong>「浄土真宗というのはものすごく素晴らしいもので、
私はこれより他にないと思っており、願わくば同じように信仰してもらいたいが、
そこから先はなるようになる、ご縁にまかせるより他なし」</strong>

おそらく私がおじいちゃんの存在を通してご縁をいただいたように、
私の存在を通してご縁をいただくことになってもらいたいと思う反面、
すべては阿弥陀様が一生懸命私たちを救おうとして下さっている
そのお力によるものである以上、
私のはからいを超えたことだと思うのです。 

前回のおじいちゃんとの対話を通して、
理屈ではないことを理屈で考えるおろかさを感じるといっていたのに、
やっぱり考えてしまうんです。そして、聞かずにはおれないんです。

おじいちゃんの考えを聞きたいのでまた会いに行きます。
その時まで、どうかめっちゃんのこのとりとめもない問いにつきあってください。

敬具 
 
めっちゃんより


2.2「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか」[対話]へ続く]]>
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<entry>
   <title>1.3 おじいちゃんへ [振り返り]</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/06/1_2.html" />
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   <published>2007-06-15T04:33:37Z</published>
   <updated>2007-06-15T12:03:07Z</updated>
   
   <summary>おじいちゃんへ  おじいちゃん、 この間はゆっくり話を聞かせてくれてありがとう。...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="1. 救われるということの意味" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[おじいちゃんへ 

おじいちゃん、
この間はゆっくり話を聞かせてくれてありがとう。 

私はおじいちゃんと話すことで、
「この方向でいいのだ」という
ある種の安心感や自信のようなものをもらうような気がします。 

今回の私の質問は、
<strong>「浄土真宗を正しく聴かせていただくことの意味」</strong>
についてでした。 ]]>
      <![CDATA[<strong>■「巨大な何かを直視してみたいという思い」</strong>

私自身、30歳近くになって
少しずつ浄土真宗をもっと深めたいという思いが強くなり、
実際に法座を聴いたり勉強させていただくようになりました。 

真宗を深めたいというよりは、もっと正直にいうならば、

「自分の横にある巨大な何か、
　それがずっと気になって仕方がないのだけれども
　直視してこなかった、
　その<strong>巨大な何かを直視してみてみたいという思い</strong>を
　抑えきれなくなってきた」

と言った方がいいかもしれません。 

話の中で、おじいちゃんは<strong>「飢餓感」</strong>ということばを使いました。
「自己満足だけではないある種の飢餓感がある」と。
そこには、真宗を正しく理解しなければ救われないのかどうか、
といったことをまったく超えた
「つき動かされる何か」があるのだと、そう理解しました。 

何かをすれば何かが得られる、
そういう原因と結果の関係などを超越した、
もうそうせざるをえないような、
本能的とも言うべきものがあるだけなのではないだろうか。

私の「巨大な何かを直視してみたいという思い」も
その延長線上にあるものだと思います。 

<strong>■『「信」ということ』</strong>

また「信（しん）」ということについて、

「仏様がおっしゃることはほんまやと受けいれたことを「信」といい、
　「信」というのは一瞬にして決まる。ただ、一瞬にして決まるが、
　受け入れた内容がどれだけ自分のものになっているか、
　どれだけ自分が理解しているか、
　となるとそこには人それぞれ差がある。
　共通の場にいるけれども、
　味わいの深い浅いという意味においては雲泥の差がある」

とおじいちゃんは言いました。 

自分自身に関していうなれば、
私は「信」があると思います。
しかし、「信」として受け入れた内容は
まだまだ自分のものにはとてもなっていない、
（おじいちゃんは海という共通の場に入る例えを言いましたが）
海という共通の場に足先だけを入れた状態なのだと理解しています。 

<strong>■「浄土という絶対安堵の世界」</strong>

では、私はどういうふうに「信」を得たのだろうと考えてみると、
そこにはやはりおじいちゃん、あなたがいるわけであります。
本人に言うのも照れますが、
私はきっとおじいちゃんに対する深い信頼感を通して
浄土真宗のご縁をいただき、そして信をいただいたのだと思います。 

もちろん、「それも含めてすべてがお釈迦さまのお力なのだぞ」と
おじいちゃんは言うでしょうが、このリアルな現実において
おじいちゃんの存在がやはり大きかったと私自身は思っています。 

いつかおじいちゃんに手紙で書いたことがありましたね。

「大学入学の前日にいつものように『南無阿弥陀仏』といいながら
　手をあわせて心の中で『浄土にいけますように』と唱えた自分がいた。
　なぜ『大学に合格しますように』と願わなかったのかと、
　後日とても不思議に思った」、と。

そしてはたと気づかされた。
「大学に入ることと私の幸福はまったく別のことだ」と。

この当たり前の事実を実感し、同時に、自分はただひたすら
<strong>浄土という絶対安堵の世界を求めつづけているのだ</strong>ということに気づき、
また、この世のすべてのことが
極めて不安定な形だけのものであるということを感じたのでした。

そのことをおじいちゃんに手紙で伝えましたね。 
私はおじいちゃんという存在や念仏する習慣を通して
「絶対安堵の世界観」というのを
自然に信じ受け入れてきたのだと思います。 

<strong>■「何かに突き動かされて」</strong>

<strong>「浄土真宗を正しく聴かせていただくことの意味はなんなのだろう？」</strong>

その問いに少し戻りましょう。 
結局のところ、意味も目的も無くして、

<strong>「ただそうせざるを得ないからそうしている、
何かに突き動かされてそうしている」</strong>

それだけなのだと思います。 

「信」ある者がもつ「飢餓感」、
そうしないではいられない自分がそこにいる。
突き動かされ、追い求める上で、
浄土真宗を信じる者として一番確かなあり方が、
親鸞聖人が残して下さった教えを忠実に拝読すること。

そしてそのような姿を通して、あくまで結果として、
仏弟子としての成長があり、また周囲の者がご縁をいただき、
そこに味わい深い人生が開けていく。
そのように思います。 

おじいちゃんとの対話を通して
あらためて理屈ではないことを確認させられ、
同時にやはり理屈で考えてしまう
愚かな自分がいることも確認する次第です。 

いつも、めっちゃんからのとりとめもない質問に
一生懸命答えてくれてありがとう。

また会える日を楽しみにしています。 

めっちゃんより]]>
   </content>
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   <title>1.2 救われるということの意味 [対話]</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.higan.net/blog/grandpa/2007/06/1_1.html" />
   <id>tag:www.higan.net,2007:/blog/grandpa//9.389</id>
   
   <published>2007-06-01T04:30:18Z</published>
   <updated>2007-06-15T12:01:40Z</updated>
   
   <summary>後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。 [おじいちゃん] めっちゃん...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
   </author>
   
      <category term="1. 救われるということの意味" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/grandpa/">
      <![CDATA[後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。

<img alt="010201.jpg" src="http://www.higan.net/blog/grandpa/images/010201.jpg" width="240" height="180" />

[おじいちゃん]

めっちゃん、お手紙読ませてもらったよ。
また難題を持ってきたなあ。
それじゃあ、さっそく話を始めようか。

めっちゃんの質問は、
「正しく聴かせていただくこと意味はなんだろうか。
　正しく聴かせていただかないと救われないのか」
ということだね。

本題に入る前に、
まず「何をどう学ぶか」ということから話そうか。

めっちゃん、浄土真宗を学ぶ上で一番大事なことはなんだと思う？


[めっちゃん]

うーん、なにかなあ・・・


[おじいちゃん]

まずはな、親鸞聖人のお聖教を正確に拝読するということだよ。
正確に拝読するために一番いいのは、自分で現代語訳することだね。
親鸞聖人が何を考えていて何を言おうとしていたか、
それを正確にとらえるのが一番大事なんだ。
教義というのももちろんあるけれど、
あの方の生の声を聴くというのが大事なんだよ。

もうひとつは、読むときに「朗読をしてみる」ということだな。
中世の文章というのはもともと朗読するものなんだ。
おそらく親鸞聖人は、ご自分で書かれた教行信証など
何度も何度も自分で声に出して読んでこられたと思うよ。
そうすると生命のリズムみたいなものが響いてくる。
そういうことを心がけていくといい。
おじいちゃんなんかも、ついつい目でばかり読んでしまうけど、
そうするとね、大事な部分が失われてしまうんだよ。

大事な文章は声に出して読んでみるということだよ。
そうすると言葉に慣れてくるしね、
親鸞聖人が語った言葉で聴くという意味で、
朗読しながら読むといいんだよ。


[めっちゃん]

じゃあ、おじいちゃん。
つまり、お聖教を正確に拝読したり、浄土真宗の勉強をしないと
救われないということかな？
]]>
      [おじいちゃん]

いよいよ本題だね。
それは、救われるということの意味がわかってくるということだよ。

救われるということは、簡単といえば簡単だ。
でも同時に、人生というのは無限に多様な、
しかも誰も経験したことがない事柄がどんどん出てきて
その中で確かめていくわけで、そういう意味では、
人生全体が道場みたいなものなんだよ。

ただ、教えを反発しながら聴くのではなく、
教えをほんものと受け入れて、そして確かめていこうという態度、
それが信心というものだ。

だから、信の無い者は共感がないから、
お聖教をいくら読んでもわからない。
ほんとうにわかろうとするならば、
愛情や敬意