2008年2月 4日

おじいちゃんへ

拝啓
凍えるような寒さが続いていますが、おじいちゃん、元気ですか。
こう寒いと外に出るのもなかなか億劫になりますね。おじいちゃんに会いにいこうと思いつつも、この寒さにかまけて、しばし時間があいてしまいました。

さて、今回おじいちゃんに聞きたいことは、
「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのでしょうか」
ということです。

おじいちゃんは、以前、「因果」の話を私に教えてくれましたね。その時、大豆を例に「豆をうえて豆をとる。豆は去年の『果』であり、今年の収穫に対する『因』になる」といいました。そうすると、「私」というのは、過去の「果」であると同時に、未来の「因」であるということになると理解しました。

また、豆が発芽するには、太陽・水・空気などの外部要因が必要になると思うのですが、それらを「縁」というならば、「縁」によって「私を救ってくださる阿弥陀様の存在に気づくかどうか」が往生を決定づける最後の要因になるのだと思います。

そうなると、「阿弥陀様の存在に対する気づき」があれば、「果」は「浄土への往生」になり、気づきがなければ、「果」は「再びの生」になってしまう、とそのように思いました。(輪廻転生とは私たちが勝手に描いているものだとおじいちゃんはいったので、そもそも「再びの生」になるのかどうかも疑問なのだけどね、この疑問はまた別の機会に聞くことにします。)このように考えていくと、「因」と「縁」以外の「私の気づき」という要素が浄土往生においてはとても重要なのではないかと思いました。

一方で、そもそも私という人間は、人間としてこの世に生を受けているけれど、それは過去の因によって決まっていることなのだろうかという疑問があります。
過去の因で現在の私があるとすれば、私は過去の因に対しては何もできません。
そして、与えられる「縁」に対しても基本的に何もできないように思います。
そうすると、私の力が果たしうることは何もないように思えてきます。

それでも結果として、救われる人と救われない人がいます。

では、その救われる人と救われない人の違いは、前回おじいちゃんがいった「私を救ってくださる阿弥陀様の存在に気づくかどうか」にあるとすれば、気づくかどうかは私の力ではないのでしょうか。あるいは、気づかせていただく存在に阿弥陀様が育てて下さっているのであれば、気づけない人がいるというのは、当人の力不足であり、また、阿弥陀様の力不足であるのでしょうか。

「救われるかどうかにおいて、私という主体の力の意味はあるのか」という自分の問いに対して、私は「ある」と思っています。過去の因と、今の自分をとりまく縁(これはすべて阿弥陀様のお手回しなのだと、常日頃おじいちゃんがいっていることだと思っています)、それらに対して、感謝し、おまかせすることだけが、唯一できることなのだと思います。「何をするか」ではなく、「今どうあるか」ということが大事なのだと思います。そのあり方が、過去の因をすべて断ち切って浄土に往生させていただく身になる一番大事なきっかけだと思うのですが、どうなのでしょうか。

また、そのことは、「生死の問題を解決する」ということにもつながると思いいます。ここまで育ててくださった阿弥陀様に感謝しおまかせするより他ないということに身をゆだねつつ、生と死という限界を抱えたこの人生を真剣に生ききるということだと理解しています。

「この世で阿弥陀様に会ってない人が、死んでから阿弥陀様にあうことなどない」というようなことを、私が尊敬する先生がおっしゃっていました。それを聞いて改めて、この人生における「私のあり方」がやはり浄土に往生する上では、大事な要因なのだと思いました。

「因」と「縁」の中で、最終的にどういう「果」になるかということは、一見なんの力にもならない「私の気づき」がとても大事な要素であり、それは私の主体的働きでもあると思うのですが、その認識はおじいちゃんからみて正しいのでしょうか。

おじいちゃんのお考えを聞かせてください。
近いうちに会いにいきますね。
その日まで、さようなら。

敬具
めっちゃんより

2008年2月20日

後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。


[おじいちゃん]

まずね、因果についてだけどね、めっちゃんはひとつ勘違いしてるな。因果という場合の、果が因になるという場合の「因」といった場合には、異熟果(いじゅくか)という形ではないんだよ。


[めっちゃん]

「私」というのは、過去の「果」であると同時に、未来の「因」であるということになる」と書いていた部分のことね。異熟果ではないってどういうこと?


結果の中に、因になる要素がある ~結果はそのまま因にならない~


[おじいちゃん]

例えば、善もしくは悪という行為は因になるんだよ。善というのは、それによって安穏の安らかな結果をもたらす行為だし、悪というのは非安穏の結果をもたらす行為だよね。善もしくは悪というのは「行為」で、それが「原因」になって、苦もしくは楽という「結果」をもたらすわけなんだよ。その結果は善でも悪でもないんだよ。善によってもたらした結果であって、善でも悪でもないということは、結果はそのまま因にはならないんだよ。結果はあくまで結果であって、因ではないんだな。

例えば、地獄におちたからといって、地獄は悪ではないんだよ。もし地獄が悪という性質をもっていたら、地獄におちた者は永久に地獄になってそこから出られなくなる。地獄は善でも悪でもないから、そこで善をなすこともできるし、地獄からはい出すこともできる。地獄で結果をむすぶ因の勢力がなくなるんだな。燃料が消えたら火が消えていくようなもんだよ。地獄の結果をもたらすようなエネルギーが消えたら、結果がなくなるわけだから、地獄そのものは善でも悪でもない。結果をうけて、結果をもたらしたエネルギーが尽きてしまえば、何もしなくてもそこから出られることになる、そこにあるべき縁、因の力がなくなるからね。だから、果が即、因というわけではないんだよ。

果が因になるというのは、そうやなあ、豆を例にすると、豆というのは結果としてあるわけだけど、結果としてある豆は種じゃないね。種として使われるかどうかは決まってないわけで、食料にもなるわけで、つまり、結果の中に次の結果をひく因になる要素があるだけで、その因になる要素を働かせた場合に因になるんだよ。人間というものが、人間の因になるわけではないんだよ。


仏の智慧と慈悲が善なる因になる


ただ仏さんの場合は違うんだよ。
仏さんの本質は、智慧と慈悲だね。その如来の智慧と慈悲は、如来の修行によって作り上げた結果としての働きで、智慧というのは人の愚かさをやぶって、人々に正しい心理を見せしめる働きをもっているし、慈悲というのは人々の痛みを共感し人々の幸せを願っていくという心だから、その智慧と慈悲という心が相手に与えられると智慧と慈悲をもたらす結果というのがその人に生まれてくるわけなんだ。それが悟りをもたらすような結果をうむ潜勢力がうまれてくるわけなんだよ。

そこで、果が因になったときには、果という異熟の結果ではなくて、善悪でいえば善なる因になるわけなんだよ。智慧、もしくは慈悲が、善なる因になるというわけだ。それは頂いた人の中で、その人にとっての因になるというわけなんだがな。如来のものが衆生のものになるというのは、普通の人だと成立しないんだけど、如来という自他一如の悟りの境地に達して、自他一如の悟りの得というものを衆生に与えると、与えられた自他一如の智慧がその衆生の智慧となって働いていくという、その時に因となる働きをもつということなんだよ。

だから、人が人になるというわけではないということなんだよ。特に、これが非常にむつかしい問題になるのは、如来がやった結果を他の人がそのまま受け取るというのは普通はありえないことなんだよ。


危険な宿業論


「自業自得」というのが仏教の基本的な枠組みだからね、他の人がやった結果をこちらがそのまま受けるというのはありえない仏教の基本的考え方というのはそういう考え方になっているわけなんだ。倶舎だとか唯識とか非常に綿密な行動の因果論というものが、それが業論というものなんだけどね、それが、非常に意味を広げて、場合によって適応範囲以外にまで広げていくことがあるんだけど、それが危険なんだ。


[めっちゃん]

余計なことまで?


[おじいちゃん]

あのね、今よく問題になってるけど、仏教では親の因果は子の報いということはいわないんだよ。ただ親がやったことは子どもに影響する、これは縁であって、因じゃない。自分が受けているのは「過去」の集積であることは確実なんだけど、過去と過去世はちがうからね。「過去世」の集積であると見た時に、いいことも悪いことも、苦楽の結果は、過去の善悪という行為の結果であると、そういう風に一律的にやってきたね。

例えば、身体障害者として生まれたということは、その人が過去世において身体障害者になるような悪業をつくっておったという考え方がでてくるね。身体障害はマイナスという判断がまずあるわけなんだな。マイナスだと判断する偏見がある。

すべての不幸の結果というのはすべて自分の過去世における悪の報いであると、それとすべての現代の幸福というものは、すべて過去世の善なる行為の報いだと判断する。そして、これはその人の過去世までわたる責任だという、そういう考え方は非常に危険だということなんだよ。

例えば、部落差別というのがあるね。被差別部落にうまれたのは過去世の悪い行いの結果だとこういう風に考えるわけだ。だけど被差別部落というのは過去につくったものではなくて、この世でつくったものなんだよ、そこに生まれてきたということが悪の結果だということは論理に間違っている。

身体障害をマイナスといってしまうけど、その人はそれしか生きられない生き方でいきていくのであって、それがその人を磨きあげるか、つぶしてしまうかはその人の生き方によるよね。是か非かを分けるのは第三者が勝手に分けているわけで、だいたい障害というかどうかそれも問題なんだよ。むしろどんな状況であってもその人がその人らしくいきられる社会があればいいんだよ。それを作らないのは作らない社会が悪いのであってその人がわるいのじゃない。ところが案外その人の責任にされて、二重、三重の苦しみをうけるわけなんだ。だから、身体障害者がいけない状況にしている社会の仕組み、意識が悪いんであって、その人が不自由なしに生きられる社会をつくればいいんじゃないか、ということであって、こっちの責任であってそっちの責任じゃないということになるんだな。被差別部落なんかにしても被差別部落をつくったのもこの世で人間がつくったんであって、それも本人たちに相談してつくったわけではない、勝手に決めてしまったわけなんだから。

そういう社会がつくっていくいろんなしきたりがあるので、前世が悪かったからそこへ生まれてきたといわれるのは、この世の社会のしきたりがこの人をそういう風にとじこめてしまうのも過去の業の報いだとみていくのが、悪い宿業論だね。


わからないことを、わからないまま、いただく


[めっちゃん]

えーっと、そもそも、過去と過去世って違うんだっけ?


[おじいちゃん]

違う。
例えば泥棒して刑務所にいれられて苦しんでいるのは、過去の自分の犯罪の結果だな、それははっきりしているね。原因が自分にあることと自分にないことと、自分にはないけど苦しい結果をうることはあるね。
例えば戦争したために一家が離散する、あるいは本人が負傷したりするとか、いう風な関係ないものにふりまわされて不幸な状況におちいるというのはいくらでもあるわけだね。それを全部自分の行った過去世の業の報いだという形で正当化しようとすることは、分からないことに意味を与えてそして現実を説明しようとするのは、これは、分かったことを分かったとおりにいうんだったらいいけど、分からないことを分かったことにして、分かっているところから分からないことを類推してこうであったはずだという論理は危険だね。


[めっちゃん]

今の私があるのは、過去のいろんなことの結果としてあるのだよね?


[おじいちゃん]

そう。結果としてあるんだ。
それは生物として、人間として、おじいちゃんの過去世といえば生物の歴史というのは全部おじいちゃんのところに集約してるね。そういう意味で30数億年の生物の歴史がおじいちゃんの上に集約している。それがなんであるかは分からないけどね。


[めっちゃん]

私が虫でなくて、人間として今存在していることも、それが良いか悪いかとはいえないのだよね?


[おじいちゃん]

そうだね、良いか、悪いかは分からないね。人間の方が上で、虫の方が下ということも、いえないね。それは、人間の勝手な価値観だからね。価値観と因果関係をごっちゃにすると非常に危険なものがでてくるわけなんだよ。ただ自分の存在というのは無限の歴史をもってるから、何が出てくるか分からないという不気味さもあるけどね。

ただ、それは分からないんだから、分からないことは分からないこととして受け止めるのが一番いいんだよ。分からないんだけど、ありがたいこととして受け止めたら一番いいんだよ。なかなかそこまでいかないんだけどね。
ただ、分からないことを分かったこととして受け止めようとするところに無理がある。一番いいのは、分からないけれど、私にとってはありがたいことだ、「ありえないことがありえている」、だから「ありえていることを大事にしよう」と受け入れる、そういう心境がひらかれたら一番いい。本当は悟りというのはそうなんだけどね。

お釈迦さんの悟りというのも、そんなことだと思うよ。だから、みんなと、一匹の虫とも連関しているんだと。ある時には経典なんかではね、心地観経というのがあってね、永劫に流転してきたと、流転した中にはいろんな境遇に永劫なんだから時間的に永劫なんだから空間的にも無限に広がっているわけだ。
だから生きとし生けるすべてのものと関連している、だから一切の衆生は自分にとって流転した中で親となり子となり父となり母となり兄弟となり夫婦となってきたものなのだと、そういう風な受け止め方をしていきなさいということが書いてあるんだよ。そうすると一匹の虫とも親となり子となり姉妹となったことがあったんだろうという気持ちでつきあいなさいと、中国でそういう考え方が入ってきたんだよ。

命というものは、もともとそういう連帯感の中で成立しているもんだということだろうね。それにどんな意味をもたせ、どんな表現で実感するかが問題なんだね。マイナスのイメージをもつような解釈をしないようにしたらいいとおもう。プラスの意味をもつような意味にそれを理解をしていけばいいのでね。苦しみに苦しみをそえるような、悲しみに悲しみをそえるような解釈は、命を痛めつけることになるから、命を痛めつけるような解釈をすること自体が間違いだと言っていいだろうね。

宗教とはだいたい見えない世界をどう解釈しどう理解するか、荒唐無稽に解釈するとかえって変なものがでてくる。


次元の違い


[めっちゃん]

手紙の質問になるのだけど、「主体の力ができることは何かあるのか」というところ、おじいちゃんはどう思ってるのかな。


[おじいちゃん]

その問題だけどね。例えばね、鈴木大拙氏が以前大阪でお話されたことがあるんだよ。もう90歳を過ぎていたかな。1時間ほどお話をされて、最後に、こうおっしゃったんだよ。

「今日の話は鈴木がいうたと聞かずに天地が語ったきいといてください」

さらっとね。彼は一時間びっしりと、お話しされた。誰がいったわけでもない、彼自身がいってるのだが、「鈴木がいうたんじゃなくて天地が語っていると思ってください」といった時に、すっと高い次元の世界が広がっていく。実は、自力か他力というのは次元の違いなんだよ。


[めっちゃん]

次元の違い?


[おじいちゃん]

つまり、私がやっているというのは、みな私がやっているんだよ。
私しかみえないか、それとも、私をこえた何かがみえるか、その違いなんだよ。

真宗でいう他力はね、念仏しているという事実があって、この念仏を「私の行い」「私の功績」とみるか、それとも「如来の働き」「如来が私を呼び覚ましている姿」だとみるか、その違いなんだよ。
私の働きとみた人には、如来はみえてないんだ。仏を念じているんだけど、念じる方に力が入って仏がみえなくなっている。念仏している自分だけがみえているわけだね。

ところが、如来が私に届いて私を呼び覚ましているというときは、私はただ聞いているだけで、聞くのに力はいらないから、聞いているだけだから、私はそこにいない。聞いている私にはなんの意味もない。そこに呼び覚ましている如来がある、そこで「仏様のおかげで」という言葉がふっとでてくる。


他力は不思議の世界


その時に、つまり、人間がみえてるか、仏様がみえてるか、それを自力他力という。だから自力というのは「思議の世界」、他力というのは「不思議の世界」。不思議というのは自分を超えた領域。自分を超えた領域いうたって、自分を離れてわかるわけではないから、自分の行い、生きているというのは行いをしているということだから、行いを離れて何もみえない。だけどその行いを自分の行いとみるか、鈴木大拙先生だったら天地がかたっているとみるか。


[めっちゃん]

ただ、縁がある人と縁がない人がいる。その人たちはそれぞれ過去によって存在していて、どちらに対しても如来は働きかけて一生懸命やっているのに、結果は縁があったりなかったりというのがある。これは本人の気づきがないからなのか、ここの違いがなぜうまれてくるの?


[おじいちゃん]

その違いがなぜうまれてくるかは、わからないわからないけれど、わからないことを、もともとわからないことを私が分からせていただいたのは不思議だと味わっているのが念仏の行者なんだよ。

分からない人の姿、あれがもともとの私の姿なんだよ。だから私がきいているというのは不思議としかいいようがないと。その不思議なのは誰のせい?、というと仏様のおかげというしかない、とそういう論理なんだよ。

つまり、わからない世界、見えない世界、分からない世界をわからぬままにありがたく頂戴している世界と、そうではなくて、自分だけがみえてる世界があるんだよ。
人をみているようだけど、人をみているのではなくてその人の上に自己をみている、どんな場合でもみな自分しかみえていない。われわれがみえている世界というのは自分の心が描き出す世界ですから、自分が自分をみている。人をみているのでもなければ、天地をみているわけでもない、自分をみている。宇宙大の自己をえがいている。それが私たちの姿なんだから。

それが、不思議にきかせてもらいましたとか、おかげさまできかせていただきましたとかいうのは、そこで如来さまがみえてきたんだな。如来様がみえてきたというのは、念仏しているというこの事実、ひとつの事実、ここから突破口がひらくんだ。
別に手が動くでもいいんだ。手が動くのは私が動かしているんではなくて、私の手が動くのは摩訶不思議で、そりゃそのとりで、手が動く、足が動くというより、むしろお念仏しているというのが如来の願力によって念仏がでてきたとみる。
それで本願力というのは、私をこえさせるための非常にいい言葉なんだよ。私が私の枠をはみださせるためのすばらしい言葉なんだよ。それが本願力。だから、本願力によってお念仏がでてきてくださるんだなっていうのが、こういう言い方。念仏を私の行いとうけとるか、如来様の行いと受け取るか、それが如来様の働きとうけとるような視野をひらいてもらったのは如来様の本願力なんだな、とそういう風な文脈をあたえてもらっているのがご法義の文脈なんだよ。


[めっちゃん]

やっぱりじゃあ全部如来様のおてまわしでなっているんやね。


[おじいちゃん]

そこが一番おちつくわけなんだな。自分の力だと、今日は100遍やったけど、明日は200遍しよう、明後日は300遍しよう、1000遍になったからあの人100遍しか唱えてないからオレの方が上だとやっぱり自分がみえてくる。そういうことになるんだよ。


[めっちゃん]

わからんことはわからんままにいただくということね。


[おじいちゃん]

わからんままに、ありがたいこととしてうけとるとね、こういう世界が開けると全部をうけいれられる。如来がうけいれてくださっている自分を自分が拒絶してどうするかということになってくる。


[めっちゃん]

そうね。一方で、生死を解決するだとか、この人生を生ききるというのは、それはそれで大事なんだよね?


凡夫に生死をこえさせる教え


[おじいちゃん]

大事だね。みんな関連しているからね。生死がなくなるわけではないからね。生死を真反対と考えなくていい世界があるんだよと、生きてることも死ぬこともありがたいことこういう視野がひらけたら、生と死を反対として受けないで、トータルに全体をうけこんでしまう、その生と死をうけこんでしまう領域というのは、生と死を超えた領域だね。
だけど生と死を超えた領域は、生と死がない領域ではない生もありがたい、死もありがたいご縁なんだ。そういう境地がひらけたら、「死生共にわずらいなし」だな。法然聖人あたりはそこまでいっておられるな。

「生けらば念仏の功積もり 死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもこの身には 思いわずらうことぞなき と思いぬれば 死生共にわずらいなし」

まあ、それはね、達人としてだけど、なんかそういう世界があるというのは、おじいちゃんもわかるなあ。だから生だけにとらわれて、死を拒絶することはいらんじゃないかと、死ぬことだってありがたいご縁だと、浄土が開けるご縁なんだと、浄土が開けるご縁として死を理解させてくれるのは浄土教のありがたいところだよ。
「死んだらしまい」といわれて、「さようか」といって死ねるほど達観してたらいいけどな、そうはいかんからな、おじいちゃんなんかは、「お浄土に生まれる」ていわれて、「さようか、そやったら頂戴しましょか」と思える。凡夫にうまいこと生死をこえさせる。凡夫が生死に迷わないように上手いことやるのが念仏往生だな。やっぱり、阿弥陀さんよく考えておられるな、ははは。


[めっちゃん]

凡夫のままで生死をこえさせる・・・か。
他の宗教と全然違うね、根本が。
今日はなんだかすごい難しい話だったけど、私ももう一度おじいちゃんのいっていたことをじっくり聞いてみるわ。ありがとう。

めっちゃん(29歳)が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。
[手紙]
ーめっちゃんからおじいちゃんへの手紙
[対話]
ーめっちゃんとおじいちゃんの面談
[振り返り]
ー面談を終えためっちゃんの感想
めっちゃん
離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。