2007年10月31日

拝啓


朝晩は幾分涼しくなり、ようやく秋の気配を感じる今日この頃です。

今回のおじいちゃんへの質問は、
「阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか。」
ということです。

数年前、私は友人の死という現実に直面し、
その時に感じた思いを綴った手紙をおじいちゃんに送りましたね。覚えていますか?
その中で、友人の死という現実をどう受け止めてよいのか分からず混乱する一方で、
「起きたことには必ず意味がある、そうなるべくしてなった」とどこかで思ったこと、
また、「私より一足先に浄土にいったのだと思うと、
しんどいこの世の中にいるよりよかったのではないか」
そのように思ったと書きました。

また、その反面、こらえきえれない「悲しい」という思いがわきあがってきて、
そのことに戸惑い、「悲しいというその思いはどこからやってくるのだろう」
という疑問がわいたこと、
そして、ふとそれが「我」であることに気づいたということも書きました。

おじいちゃんは、会った時にいろいろと話してくれましたね。
しかし、混乱している私を前に、あまり多くを語れなかったのでしょう。
それからしばらくして、一通の手紙をくれましたね。

今回の私の疑問は、おじいちゃんがくれたその手紙の中から始まっています。

(以下、おじいちゃんからの手紙の抜粋)
「彼女が亡くなってしまったことについて、
あなたがずっと学んできた浄土の教えの上から、
このきびしい現実の苦悩を解決しようとして、
がんばっておる姿は尊く聞かせていただきました。
おじいちゃんの率直な感想を述べさせてもらいましょう。

まず、あなたが彼女の死について、
浄土の一足先に帰っていった彼女をすなおに祝福してあげるべきなのに、
実際にはなかなかそうはなれない。
彼女とはもう逢えないことがひどく悲しいが、
その気持ちをどうすることもできないのは、
真宗の教えを聞いてきた自分としては
なんともなさけないかぎりだといっている点ですが、
これについて考えてみましょう。

教義的にいって、
彼女が死んで浄土に帰っていったといっている点ですが、
これは大きな間違い
です。
真宗で死んで浄土に帰っていく人というのは、生きている時に当人が
「いつ死んでもお浄土に生まれる」ことを「信じて」いる人だけ
であって、
一般の人たちは決してそのように信じてなどいないのですから、
死後は再び何かの生物に生まれ変わって、
いわゆる迷界を輪廻転生しつづけると説くのが仏教であることはご承知のとおりです。

したがって、彼女が生前真宗の信心をいただいてないとしたら、
彼女は浄土になど生まれていないわけです。」


正直、私はこの手紙を読んだ時に、
おじいちゃんの書いたものにおいて、はじめて「違和感」を覚えました。
でも、その違和感が何なのかを確認することもできずに数年がたちました。
今回、あの時分からなかったことをもう一度おじいちゃんに確認したくて、
手紙を書くことにしました。

おじいちゃんは、
「浄土真宗の信心をいただいていない者の前には浄土はない」と書いています。
まず、浄土真宗の信心をいただいていないものは
死んだらどうなるのでしょうか

再び輪廻を繰り返すとすれば、
「彼女は一足先に浄土にいってしまったんだな」と思っている私は、
ひどい勘違いをしていることになります。

真宗の教えを聞く人もいれば、聞かない人もいます。
聞くご縁のまったくない人もいるし、身体的に聞けない人もいると思います。
教えを聞かない・聞けない、あるいは、念仏しない・できない人というのは、
信心をいただけず、お浄土にいけないのでしょうか。

そうだとすれば、
「私以外の人のことは分からない」という前提があるとしても、
やはり私以外の人のことも気になって仕方がありません。

私が真宗にご縁があったのは、
生まれた環境がたまたまそのような環境であったためです。
「ご縁があったから」といえばそれまでなのだけど、
一方で、ご縁がない人にとっては、「ご縁がなかったから」という言葉では
到底いいつくせない大きなことを失っていると思います。
そもそも、ご縁に原因、あるいは主体のようなものはあるのでしょうか
ご縁にあふれる場にいても、ご縁に恵まれない人もいるわけで、
それは一体何がそうさせているのでしょうか。
その正体が輪廻の主体なのでしょうか。

阿弥陀様はどんな人もわけへだてなく救ってくださるのだとすれば、
そこには念仏がない人も、信心がない人も、
どんな人でもお浄土につれていってくださるのではないのでしょうか。
そんなことはないのでしょうか。阿弥陀様の救いに条件はあるのでしょうか

私は阿弥陀様の救いに条件はないと思っています。
また、すべての人が最後は浄土にいくと思っています。
輪廻を何度も繰り返す人もいれば、そうでない人もいるとは思うけれど、
結局いきつく先は浄土より他にないような気がしてなりません。
キリスト教や他の宗教を信仰している人は、
別の言葉でその領域をあらわしているとしても、
結局のところそれは、「浄土真宗でいうところのお浄土という場」に他ならず、
すべての人はそのお浄土にいきつくように思います。


個人の思いなどを、
宗教でああだこうだ言うべきではない気がするけれど、思うままに書いてみました。

おじいちゃんの意味することを、
もう一度正確に聞かせていただきたいなっと思っています。
近いうちに会いに伺いますね。
その時まで、さようなら。


敬具

めっちゃんより

2007年11月 6日

後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。


[おじいちゃん]

今回はまず、「死んだ人がすぐにお浄土にいったのかどうか」という問題提起だね。これは大事な問題だね。


浄土に包まれている 


あのねえ、ただ実際はね、どこにいても浄土の枠の中なんだよ。浄土に往生した者は、めっちゃんがいるこっちの側にはなんぼでも会えるのだよ。まあしかし、浄土真宗では浄土に誰でも往生できるとはいわないね。やっぱり、生と死の問題を解決したり、自分自身にけじめをつけるということが非常に大事なことになるんだ。

ただ同じこの教えに導かれているもの、それはまあ、今はわからなくたって必ず分かるときがくるし、どこにいっても、例えば地獄の底にいても、その人にとったら地獄だけど、悟りを開いたものの目からみれば地獄におろうとどこにおろうと実はただあんたが錯覚してるだけだということだから「その錯覚を翻しなさい」といつでも言い続けることができるわけなんだよ。その意味では、「こちらからはいつでも会えるけど、向こうからは気がつかない」ということなんだよ。

[めっちゃん]

「こちら」というのは、「浄土に往生した者の側」で、「向こう」というのは、「生きている人間の側」ってことだよね?


[おじいちゃん]

そうそう。浄土に往生したものは、私たち人間にいつも会っているわけなんだよ。そして、同じ場にいるわけなんだ。

だけど、私たち本人は気づかない、というだけのことだろうね。それを気づかせるために、教化していくわけなんだ。だから、「六道四生(ろくどうししょう)のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなり」と親鸞聖人がおっしゃったのはそういうことなんだよ。

ただね、「あの人にとっては浄土はなかった」ということはあるものなんだよ。浄土のある人とない人があるわけなんだよ。だから、「みんなお浄土にいけますよ」とはいわない。浄土のある人というのは、如来の言葉を受け入れたときに、浄土がある身になるわけなんだな。そうでなかった場合には、その人にとっては浄土はないわけなんだよ。

まあ、しかし、如来様の御教化というのは、臨終最後の瞬間まで行われているからね。だからこっちからみてなかったと思うけど、その人は仏縁があったかもしれん。どーんな仏縁があるかわからないからね。臨終のその瞬間に気づいておれば、それでお浄土にいってるわけだし、こちらは、浄土に行ったか、行かないかは決めらないんだよ。決められないんだが、聞かなかった人、ここで味わえなかった人は、その人には浄土はなかったということになるんだよ。

だけど、なんらかの形で、病気の中で、あるいは死ぬ前に、自分の命がぎりぎりのところで如来様の教えにあう可能性も、ないことはないんだよ。わしらが知っている限りは信はなかったし、浄土のない人だったけど、最後の瞬間に仏さんに会ってる可能性もないことはないのだから。

だから『行ったか行かなかったはいえない』
ただいえることは、『この世で出会ってなかった人には浄土はない』ということだけなんだ。
浄土はないけども、『それぞれのところで浄土に包まれている人だ』ということはいえる。この世でもそうだけど、向こうでもそうだからね。だから、そういう意味では生死を解決した人と、解決していない人との違いがあるというだけだね。


[めっちゃん]

その「仏様にあわない」っていうのは、お念仏を聞かなかったということ?


心に隙間をあける


[おじいちゃん]

「自分を助けてくださる仏様がいらっしゃることに気づかなかった」ということだな。だから、最後までひとりぼっちだったというそういう状態だよ。そういう意味で非常に寂しい人だったということになるね。


[めっちゃん]

そうすると、念仏もまったくできないような身体――例えば耳も聞こえない、目も見えない人は、気づきたくても気づけないとすれば・・・?


[おじいちゃん]

それでもね、結構ね、そういう目の見えない人も、耳の聞こえない人も、ご縁には会う機会はあるだよ。実際問題としてもね。

それは耳は聞こえないけれども手の感覚が非常に素晴らしいと、例えば、仏様の目も見えないし、耳も聞こえないけれども、仏様のあるお仏像をさすってね、そして仏様を感ずるという人もいるわけだしね。ただ一番代表的な目とか耳とかね、これでキャッチするけれど、耳が不自由であっても目が不自由であっても仏様に会うことはできる、ということだね。

ただ、あの~、精神的に異常があって、そして仏様に会えないということ、それでもね、わたしらの常識の仏様には会えなくても、どんな形でおうてらっしゃるか分からないということはあるからね。精神に異常をきたしているという人だって、どんな形で仏さんに会ってるかわからんよ、実際にそういう人もいるからね。だから、いわゆる、普通の意味で、御領解が述べられない、お念仏もできないけども、なんか仏様を実感している人もいることはいるわけだからね。

私らの方で往生したかどうかっていうのはわからない。ただその人にとっては最後まで法に入らなかったら仏様に会えなかったら一人ぼっちで寂しい人生を送ったという、そういうことしかいえない。仏様に会ってらっしゃるかもしれないしね。


[めっちゃん]

そうすると、いろんな縁があっても聞かない、あるいは、仏様に会えない人というのは何がそうさせているの?


[おじいちゃん]

やっぱり自分をたのむ心だね。自分というものを信頼しすぎる。自分を信頼しすぎるんで、失敗もするし。といっても、自分を信頼しないと生きていかれないわけやけどね。

だけど、「自分自身は根本的にはたよりならない」というそういう思いがどっかであると仏様に出会いやすいということだね。自分だって人だって、そんなたよりになるもんじゃない。たよりになるもんじゃないからお互いに善意だけは失わないで生きようという、危ないもんだから、よっぽど気をつけて生きようという、そういう心が生まれてくる。

やっぱり仏様の教えって言うのは、これがほんまのことで、それを疑う自分の心が偽者だということ。といって、自分の心をなくすわけにはいかんのだから、あってもいいけどもこれにあまり力をいれない、それをいわゆる、「我をつのる」っていうでしょう、我はみんなあるんだけどなるべくつのらないようにしましょう、っていうことだね。

どっか隙間あけておくわけなんだよ。その隙間から仏様の教えが入ってくる。はからいなくしたら生きていけないから、はからいはあるんだけども隙間あけておく。つまり、自分を絶対視しない、たかがしれた人間なんだということを思っておく。隙間あけておいたらあってもそんなに邪魔にならない。


[めっちゃん]

その我っといういものが、往生できない場合は輪廻を繰り返していくっていう主体になっているの?


[おじいちゃん]

えーあのね、輪廻転生っというのはね、そういう風に「自分自身がえがいていく世界」なんだよ。だから、輪廻しているものには、まさに我があるような状態で輪廻しているわけなんだけよ。だけど、ほんとは無我なんだからな。それが一瞬にして消えるわけなんだよ。


[めっちゃん]

そうすると、輪廻には主体なんてものはないのかなあ?


[おじいちゃん]

主体はないのにね、あると思ってえがいているわけなんだよ。だから、人間存在というものが、無我といわれた時には、そういう実態のないものだと、しかし、実態のないものだと分かったら悟り開いたことになるんだけどね。しかし、凡夫であるけども実態のないものだと思うことができるというのはどうかというと、心に隙間あけるだけなんだよ。ちょっと隙間あける。絶対視しない、っていうこと。なんらかの形で実体化し絶対化するようなものがあるとそれでふさがれてしまう。聞こえてくるものが聞こえなくなる、見えるものが見えなくなる。ちょっと隙間あけておくんだ、心に。


[めっちゃん]

絶対視してはいけないかあ。でもね、おじいちゃん、親鸞聖人のお言葉は絶対視してもいいもの、だとか、その、絶対視していいものとしていけないものというふたつが存在するわけだよね?


[おじいちゃん]

そうだね、区別はあるね。そういうことで、親鸞聖人のお言葉、親鸞聖人自身は「おれの言葉にふりまわされたらいかんぞ」というところがあるから、それなりに気をつけておっしゃってるわけなんだよ。ただ間違うこともあるし、ケアレスもされるけど、そんなことがあっても、本質的にはかわらない。法然聖人でも親鸞聖人でも、人間を超えた領域からきている言葉が非常にたくさんある人なんだよ。言葉なんかでも非常に吟味して書いておられるからね。

その点で、法然聖人の言葉なんかは聞き書きがほとんどで、ご自身で筆とって書かれたのは非常に少ないんだよ。お手紙の中でもほんのわずかだね。あとは弟子たちが聞き書きしたり、口うつしだったりしたものが多いと思うんだよ。だいたい文章のスタイルがわかっているから、そのスタイルでよんでいくと、これは原本は直筆だっただろうなと、ちょっとこういう言葉づかいはあの人されなかったよな、とかあったりして、他のお弟子さんに書かせたりしたかなっというのがあるのだよ。

その点、親鸞聖人の場合は、直筆が残っているから信頼感があってありがたい。そうでない場合は、信頼できる人が確認したもの、例えば同じ観経でも善導大師がよんだ読み方でよむと、善導大師が到達されている境地というのがよみとれるわけなんだよ。しかし、浄影寺のような人がお書きになった観経書ですとこの人なりの観経になる。みなひとつの観経だけど、ああいう天才的な学者が注釈しているだけに、お経が開く世界が違ってくるんだよ。おじいちゃんは、善導大師がよんで、法然聖人が確認して、親鸞聖人が展開したようなそういうお経をよむという、そういう読み方なんだな。そういう意味で、できるだけあの人が伝えようとされたものに近いものをこちらで自分なりに再現していくということをやってるのだけども、なかなか相手が大物やから、ははは、こっちが小物すぎるかしらん、難しいんだけどな。


[めっちゃん]

最後に、おじいちゃん、もうひとつ聞きたいの。
前に聞いた「浄土真宗以外の人は救われないのか」ということと関連するのだけどね。キリスト教徒だったら親鸞聖人のお聖教に出会わないと思うんだけど、結局最後は、浄土という場所にいろんな宗教の人がいくんじゃないかと思うのだけど、それは違う理解かな?


私は確実に会いますよ


[おじいちゃん]

そうだね、おじいちゃんがクリスチャンの方の考え方がある程度わかったと仮定すると、こっちから向こうは見えるということだね。向こうはこっち側が見えてるかは知らないけど。そうすると、キリスト教というのはこんないいとこがあるな、イスラム教でもこういう点は素晴らしいなというのはあるもんだよ。そういう風にいいとこの共通点をお互いに確認しあうということをすると、なんというか、あんたはあんたの信仰の世界に、私は私の信心の世界に生きているけど、話し合いができる、ということになる。どこへいかないといけないということはないと思うね。それぞれの世界の中に生きていながらお互いが話し合いができるような場があればそれでいいと思うんだよ。普通だって、みんなそれぞれ違った世界をつくって生きているけれど、その中でお互い理解しようすれば理解できる世界があるからね。キリスト教の人が阿弥陀様のお浄土にこなきゃならないこともないし、こちらが最後の審判にであわないといけないこともないしね。


[めっちゃん]

例えば、キリスト教徒が天国にいったら、こっちからお浄土にいった人と実は同じ場所にいて会うみたいなことにならないのかなあ?


[おじいちゃん]

やっぱりね、共通したものはあって、そしてお互いにその相手の信仰の世界がわかりあうというところがあれば、それだったらおんなじことだね。あの、向こうは会えるかどうかわからないが、私は確実に会いますよというのはあっていいんじゃないかな。そっちがこっちを見えるかどうか知らんけど、こっちからあなたは見えますよ、というのがあってもいいんじゃないかな。


[めっちゃん]

そうかそうか、そういうことか。こっちから見えるけど、あっちから見えないということがあるのね。


言葉が開く世界


[おじいちゃん]

そういうことはなんぼでもある。人間同士でもそうだけど、それをどうして突破できるかというと、言葉で突破するしかないんだよ。お互い言葉をかけあうことによって、見えないところが見えるようになってくればいいわけなんだ。やっぱりね、宗教の世界っていうのは、この、非常に言葉の意義が、言葉っていうものが重い意味をもっているっていうことだろうね。私らの世界もそうなんでね。

例えば、私にとっての息子は私の息子なんだが、他の人にとってはそうでないただの男性。その、めっちゃんのお母さんからいえば夫だし、めっちゃんからいえば父親なんだけど、それぞれがそれぞれの世界を生きているわけで、そんな中で話しあいすれば、「あ、これおとうちゃんだったんだ」、「あ、夫だったんだ」っていうのが、わかりあうよね。

普通は自分の息子、自分の息子ってみているけど、言葉をかわしあいながら、今は父親として振舞ってるな、とか、そういうのが人間同士でもあるんだよ。じゃあそれをどうするのかというと、言葉でほぐしていって共通の場を開いていくんだよ。

宗教の世界も、そういう意味で話し合いって大事だね。話し合いが通じなければ一番怖い。そういうことだと思うなあ。だから、死んで真宗の人のいいことは、尽十方無碍の世界が開けるっていうんだから、みな分かるっていうんだよ、ははは。


[めっちゃん]

みな見える。


[おじいちゃん]

この世は見えすぎたら困るけどな、あっちでは見えすぎて困ることはないからな。歎異抄なんかに、「尽十方無碍の光に同じくして」という言い方してるけどね、あれで結構この人楽しんでいるなっていうのを読みながら思うね。お浄土いったら「尽十方無碍の光に同じくして」って、楽しいのだろうなあっていう感じだな。ははは。


[めっちゃん]

おじいちゃんの言っていた意味がようやく分かった気がする。ありがとう。

2007年12月25日

おじいちゃんへ

拝啓

この間、おじいちゃんに会った時はまだ秋だったのに、気がつけばもうすっかり冬になってしまいましたね。今ごろ、おじいちゃんは、こたつに入って縁側から海を眺めているのだろうなあっと思いながら、久しぶりに手紙を書いています。

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この間のおじいちゃんの話を聞いて、私なりに少し考えたことを書いてみます。

今回のおじいちゃんへの質問は、「阿弥陀様の救いには条件があるのか」ということでした。そのきっかけとなったのは、おじいちゃんが以前くれた手紙でしたね。


亡くなった友人は浄土にいったのだと思う私に対して、生きているうちに信心をいただいていないのであれば、浄土になどいっていない、といいきるおじいちゃん。
そこに違和感というか、ある種の反発を感じていました。

自分が救われたいがために他の人を蹴落としてしまう「蜘蛛の糸」という物語がありますが、おじいちゃんの姿がちょっとその主人公のカンダタに重なったりもしました。
「自分だけが救われればいいということなのか?」
いやいや、失礼な話ですね、ごめんなさい。

思えば、落ち込んでいる私に「そうだよそうだよ、お友達は浄土にいったのだよ、安心しなさい」といってなぐさめるのはとてもたやすいことだったのに、そうはしなかった。「生前に信心をいただいていないものの前には浄土はない」とピシっと言い切ったおじいちゃん。その意味することが今回おじいちゃんに補足的に話を聞いて、初めてわかったような気がします。

「この世で仏様に出会っていない人には浄土はない」
ここを私はあやふやにしていました。

改めて、今冷静に考えてみると、「友人は浄土にいった」と、「私」が思いたかったにすぎなかったのですね。

そもそも、「死」それ自体を、私たちは誰一人として経験していない、
それなのに、「死が悲しい、苦しい」などと勝手に思っている、
そして、その思っている主体は他ならない「私」なのですね。
友人の死について抱いた私の思いの根底には、「我」しかないことを改めて認識しました。

すべての人は浄土に包まれており、阿弥陀様は、臨終最後の最後まで一生懸命働きかけてくださっておられる。その阿弥陀様の存在に気づくかどうかは、結局のところ当人でなければわからないのですね。それをあたかもわかったようにして、「浄土にいったのだ」と当人ではない「私」が思ってみたところで、それは、勝手な自分への慰めにすぎなかったわけです。

浄土にいったかどうかはわからない。
ただ、すべての人は浄土に包まれている。

それしかいえないということが、今回のおじいちゃんとの対話を通じて、初めて気づきました。

最後に、「救われるということ」について、
救われるものと救われないものの違いは何によって生み出されるのか

この疑問に、おじいちゃんは今回「自分をたのむ心」であり、「心に隙間をあける」ことが大事であると教えてくれました。この辺りは、まだまだ疑問がつきないので、それは次のお手紙で聞きます。


いつもとりとめもない私の疑問に丁寧に答えてくれて本当にありがとう。
また会う日まで、またね。

めっちゃん

めっちゃん(29歳)が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。
[手紙]
ーめっちゃんからおじいちゃんへの手紙
[対話]
ーめっちゃんとおじいちゃんの面談
[振り返り]
ー面談を終えためっちゃんの感想
めっちゃん
離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。