後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いに行きました。
[おじいちゃん]
よう来た、よう来た。暑いなあ。まあ、まあ、お茶でも飲みなさい。
お茶飲みながら、ほな、ゆっくりはじめようか。
今回のめっちゃんの質問は、「どう生きるかということと、救われることはどういう関係にあるのだろうか」そういうことだね。
精魂こめて生きるということ
めっちゃんは手紙の中で、「救われる」ということと「この世でどう生きるか」ということは、直接関係がないように書いているね。これは、なんだろうね、大人の宗教なんだろうね、浄土真宗というのは。
阿弥陀さんは束縛せんのだよ。それだけ、私たちがそれぞれの場でそれぞれの道を選択するしかないんだな。どの道を行ってもいいんだということなんだろうね。その意味で、「特定しない」というだけのことで、どの道を行っても精魂込めて生きればそれが素晴らしいということなんだろうね。
「どう生きてもいい」ということではなくて、むしろ生き方うんぬんはどうあっても、例えば、吹けば飛ぶような将棋の駒に命を賭けて生きる人もあるだろう。そういう道に精魂込めて生きる、そんな命の燃やし方というのも素晴らしいことなんだよ。いろいろと学んでいく姿があるんだよ。どんな道を選ぶかは自分で決めるんだ。まあ、自分で決めると言っても、半分くらいは知らんうちに決められてしまうことが多いけどな、ははは。しかしまあ、いずれにしても、自分のある道に精魂込めて生きた証を残すということなんだろうね。
まず、なぞる
[めっちゃん]
ときどき、おじいちゃん、私に言うでしょ。
「めっちゃん、お聖教に書かれたとおりに生きないといけない」って。
それを聞くと、私、自分の生き方がこれでいいのかと不安になる。
[おじいちゃん]
ほうほう、そこはな。そうだなあ、例えば、習字をする時には手本をなぞるだろう。その手本をなぞるように、お聖教を読んでいくわけなんだよ。そこには、親鸞聖人には親鸞聖人の生き方がある。おじいちゃんにはおじいちゃんの生き方がある。それが見えてくるわけなんだ。書で言うなら、それはその人その人の個性のある書が書けるということなんだけれども、最初はやっぱりなぞらないとだめなんだ。
そうすると、非常に真剣な生き方をしてらっしゃるその人の生き方、姿に打たれていく。こっちにそれが広がっていく。
おじいちゃんが字が下手なのは、手本をちゃんと見て書かなかったからなんだ。自己流で書いても上達はしない。そういう意味で、お聖教も綿密に読んでいかないと変な方向に行ってしまうということになるだろうね。お聖教は規格だからね。
気ままによまない 気ままに生きない
[めっちゃん]
お聖教を読むことと、その、日々を生きていくことの関係がやっぱりよく分からないなあ
[おじいちゃん]
うーん、直接の関係というよりは、発想の転換であるとか、あるいはひとつのことを最初から意味を見出すことはできなくても、だんだんと自分なりに真剣にやっておれば深い意味が見えてくる。そういう意味で、どんなことでも、それこそ大道長安に透るの如く、みんな通じているところがある。問題は、やっぱり「気ままに読まない」ということ。「気ままに生きない」ということと同じことだね。
そのまま写すのだったら、投射のような形になるけれど、そうじゃなくて、自分の字を書く、自分の絵が描けるようになるんだ。自分の人生は自分の向かう方向にしかないわけで、その中で、非常に真剣に生きた人の記録は非常に大きな指針になるね。
道が決まっていてもありがたいことなんだ。おじいちゃんが、伝教大師なら伝教大師の書物を読んだとして、弘法大師なら弘法大師の書物を読んだとして、別に密教をやるわけじゃない。そういう書物を正確に著者の心を探り当てようと読んでいく。そこで出会う生き方というものが大きな示唆を与えてくれるんだよ。そういう意味で、お聖教は正確に、そして、できるだけそっちの方に没入するようにして読んでいく癖をつけた方がいいね。
[めっちゃん]
なるほど。
あとね、もうひとつ聞きたいのが、生活態度との関係というか。亡くなったおばあちゃんは、ものすごーくマイペースでわがままな性格だったけど、もう一方でものすごく熱心にずっと仏法を聞き続けてきたよね。ただ一般の人は、なぜそこが結びつかないのか、生活においてもなぜ立派じゃないのだろうか、そういうことを言う人もいる。そこはどう考えたらいいのかなあ。
縁の中で真剣に生きる
[おじいちゃん]
その人その人の生きてきた歴史があるのと、それからやっぱり『機縁(きえん)』だろうね。その人が出会う、いろんな出会いの縁だね。どうしてもそういう出会いによっていろんな面が出来てくるからね。楷書を書くようにきちっと強い倫理でいかないもので、ただ問題は「その中でどれだけ真剣であるか」ということなんだな。真剣に生きているならどの生き方をしても悩みもあるし、つらいこともあると思う。そういう中で、真剣に生きているということが、自分自身にとって悔いが多いとや、悔いが多いんだけども、しかし、真剣に生きたということで悔いが少なくなると思うな。
[めっちゃん]
そうかそうか。
[おじいちゃん]
まあ、娑婆ちゅうところは、いろんな縁があるからなあ。純粋培養みたいなわけにはいかないからね。縁に触れて過ちも犯したり、いろんなことがあると思うんだよ。しかし、それも良心的なんだ。間違ったことをやっているのに良心的だなんて言うのはおかしいみたいだけど、こっちからみたら間違っているように見えても、その人にとっては精一杯な生き方をしていたというのがあれば、あんまり悔いのない人生なのではないかと思うよ。逆に規格にはまっただけで、無難だったけど、おもしろみのない人生だったということもあるだろうしね。いろいろあるもんだ。」
[めっちゃん]
どれだけ真剣に・・・・。
[おじいちゃん]
真剣に生きているというのは、まあ誰もが真剣に生きているんだと思うけどね、まあ、もっとまじめにやれっという風に思うかもしれんけど、やっぱり一生懸命自分なりに人生を生きたというのがあればそれでいいんじゃないかという気がするね。その意味で、人を批判するっていうのはすごい難しいことでね、人を批判しているのは自分を語っているだけになるという気がするからね。それは難しいと思うんだよ。といって何も批判しないでいいかっていうとそういうわけにはいかないし。まあ、いろんなご縁、善悪様々なご縁の中を生きているのでしょうね。ただそんな中で、なにかここだけは帰って来られる、そういうものがあるっていうことなんだろうね。
ポイント・オブ・ノーリターンをこえる
脳死を問題にするときに、『ポイント・オブ・ノーリターン』みたいなものがあるのは知っているかな?ある一定のところまで行くと、そこからは帰ることができないという点だよ。そんなものが目に見えるわけじゃないけれど、もしかしたら心の中にも『ポイント・オブ・ノーリターン』みたいなものがあって、そこまでだったらすーっと簡単に帰れるんだけど、それを踏み外すと、すーっと落ちてしまって帰ることができないような線が心の中にあるような気がするね。その点では、念仏というのはポイント・オブ・ノーリターンをある意味で壊してしまう。
[めっちゃん]
うん、そんな気がする。
[おじいちゃん]
どこからでも帰れるという、そういうものがあるということが、危ない人間にとっては一番ありがたいことだと思うんだよ。そういう意味では、何はともあれお念仏しなさいよ、ということなんだね。なにはともあれ念仏があって、どこでもそこから復縁できるということが、そういうものが与えられているということが、ポイント・オブ・ノーリターンが無くなったということだろうね。
[めっちゃん]
そうね。全部お釈迦さんの手の上で終わっている気がするな。そこであーだこーだ考えて一生懸命生きても、全部手の上のことのような気がする。
[おじいちゃん]
人生っていうのはいろんな危機があるからね。そういう、いろんな危機を乗りこえていけるのは、どこかこう『復元力』というものがあるからだろうね。
[めっちゃん]
おじいちゃんも、そういうものすごい危機にあったときには、お聖教に何かを求めようとしてきた?
[おじいちゃん]
その場合はね、お聖教の言葉というよりは、お聖教を読んでいること自身が大事だと思うんだよ。何かいいことはないかなっていうよりは、読んでいること自身が非常に安心感を与えてくれる。その点で、お聖教に親しむ癖をつけていくのはいいことだね。
お聖教の言葉を聞いて楽しむ
[めっちゃん]
おじいちゃんから「教えのとおりに生きないといけない」というのを聞いたときに、なにかあるべきモデルみたいなのがあって、それに沿った生き方をしないといけないのだろうかって思ったことがあって・・・。
[おじいちゃん]
そういうことじゃないんだよ。お聖教というのは、そこから何を読み取るか、また何が読み取れるかということ、それは読み取ることはその人その人のその時の状況に応じて読み取るのだろうけど、お聖教の聖典を読むことを楽しみにする、それ自体がすばらしいんだろうね。真宗のお聖教じゃなくても涅槃経でもあるいは維摩経でも読んでいると、そのたびに一言二言は「あれっ」と思うような言葉に出会うから、そうなるとその日一日が楽しいもんだよ。ははは。
[めっちゃん]
そういうことかあ。亡くなったおばあちゃんも、いつもお聖教をおもしろい、おもしろいって読んでたものね。
[おじいちゃん]
お聖教をおもしろく読めるということは、そういう目を開いてもらったということが信を得たということなんだよ。信というのは、別に特別なものではなくて、お聖教の言葉を聞いて楽しむ、そういうことなんだよ。信楽(しんぎょう)の「ぎょう」という字は「楽しむ」だからね。
[めっちゃん]
そうね。おじいちゃんと話すと、私の中でいつも、ぼんやりそうじゃないかなって思っていたことが、言葉を帯びてなんだかとてもはっきりと自覚できるな。