2007年12月25日

おじいちゃんへ

拝啓

この間、おじいちゃんに会った時はまだ秋だったのに、気がつけばもうすっかり冬になってしまいましたね。今ごろ、おじいちゃんは、こたつに入って縁側から海を眺めているのだろうなあっと思いながら、久しぶりに手紙を書いています。

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この間のおじいちゃんの話を聞いて、私なりに少し考えたことを書いてみます。

今回のおじいちゃんへの質問は、「阿弥陀様の救いには条件があるのか」ということでした。そのきっかけとなったのは、おじいちゃんが以前くれた手紙でしたね。


亡くなった友人は浄土にいったのだと思う私に対して、生きているうちに信心をいただいていないのであれば、浄土になどいっていない、といいきるおじいちゃん。
そこに違和感というか、ある種の反発を感じていました。

自分が救われたいがために他の人を蹴落としてしまう「蜘蛛の糸」という物語がありますが、おじいちゃんの姿がちょっとその主人公のカンダタに重なったりもしました。
「自分だけが救われればいいということなのか?」
いやいや、失礼な話ですね、ごめんなさい。

思えば、落ち込んでいる私に「そうだよそうだよ、お友達は浄土にいったのだよ、安心しなさい」といってなぐさめるのはとてもたやすいことだったのに、そうはしなかった。「生前に信心をいただいていないものの前には浄土はない」とピシっと言い切ったおじいちゃん。その意味することが今回おじいちゃんに補足的に話を聞いて、初めてわかったような気がします。

「この世で仏様に出会っていない人には浄土はない」
ここを私はあやふやにしていました。

改めて、今冷静に考えてみると、「友人は浄土にいった」と、「私」が思いたかったにすぎなかったのですね。

そもそも、「死」それ自体を、私たちは誰一人として経験していない、
それなのに、「死が悲しい、苦しい」などと勝手に思っている、
そして、その思っている主体は他ならない「私」なのですね。
友人の死について抱いた私の思いの根底には、「我」しかないことを改めて認識しました。

すべての人は浄土に包まれており、阿弥陀様は、臨終最後の最後まで一生懸命働きかけてくださっておられる。その阿弥陀様の存在に気づくかどうかは、結局のところ当人でなければわからないのですね。それをあたかもわかったようにして、「浄土にいったのだ」と当人ではない「私」が思ってみたところで、それは、勝手な自分への慰めにすぎなかったわけです。

浄土にいったかどうかはわからない。
ただ、すべての人は浄土に包まれている。

それしかいえないということが、今回のおじいちゃんとの対話を通じて、初めて気づきました。

最後に、「救われるということ」について、
救われるものと救われないものの違いは何によって生み出されるのか

この疑問に、おじいちゃんは今回「自分をたのむ心」であり、「心に隙間をあける」ことが大事であると教えてくれました。この辺りは、まだまだ疑問がつきないので、それは次のお手紙で聞きます。


いつもとりとめもない私の疑問に丁寧に答えてくれて本当にありがとう。
また会う日まで、またね。

めっちゃん

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コメント (4)

三島:

言葉を頭のなかでいじって、観念の遊びをしているみたいですね。大学で習ったような、ことばで上手く説明してるだけのように思えます。教学の解釈はいいけど、それで救われる人がいるのですか、お通夜やお葬式で、そういうお話をみなさんの前でできますか?

キューピー:

こんにちわ。
気づけばこのコラムを繰り返し読んでいる自分がいます。
それは言葉のひとつひとつに、触れるような確認のようなものを感じるから。
おじいさんに、そしてめっちゃんさん自身に対しても。
それが僕自身の問い、と重なるのだと思います。

いい写真ですね。



はじめまして。いままでの記事をずっと読ませていただいて、おじいさんの深さにものすごく感動しました。

心に隙間あけるということ、また親鸞聖人のお言葉、親鸞聖人自身は「おれの言葉にふりまわされたらいかんぞ」というところがあるから。という一文の中にその真宗に対する深さを感じました。

まためっちゃんさんの聞法の姿勢を感じて自分自身あらためて考えさせられました。

自分の祖父は自分が大学のときになくなってしまいました。それまで真宗の話なんてまったくしなかったのに最近になって本当にもっとたくさんの話をしておけばよかったと感じています。

宗教、真宗というものを言葉で突破するということは自分自身その難しさを痛感します。

でも思うに宗教というものは頭でわかることではないと思っています。

このおじいちゃんの手紙に書かれていることを読んで頭で理解をするのはとても難しいと思います。たくさんの問いをかかえて、宗教的なベースができていて、自分の宗教的な立ち位置があるところまできて突然ストンとはいってくる。というものなんだと思います。

おじいさんの話をおれからも聞かせていただきたいです。よろしくお願いいたします。

めっちゃん:

だいりょうさん>
コメントありがとうございます。

おじいちゃんの言葉を理解しきれないことは、
私も多々あります。
そして、頭で理解しようとすればするほど、
混乱してしまい、
そして、教えと逆行してるなあっと
思ったりします。
頭でわかろうとおもうこと自体無理なのでしょうね。

ただ、だいりょうさんがおっしゃるように、
突然ストンと入ってくるときもあるとおもいます。

ひきつづき、よろしくおねがいします。

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めっちゃん(29歳)が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。
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離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。