おじいちゃんへ
拝啓
この間、おじいちゃんに会った時はまだ秋だったのに、気がつけばもうすっかり冬になってしまいましたね。今ごろ、おじいちゃんは、こたつに入って縁側から海を眺めているのだろうなあっと思いながら、久しぶりに手紙を書いています。
この間のおじいちゃんの話を聞いて、私なりに少し考えたことを書いてみます。
今回のおじいちゃんへの質問は、「阿弥陀様の救いには条件があるのか」ということでした。そのきっかけとなったのは、おじいちゃんが以前くれた手紙でしたね。
亡くなった友人は浄土にいったのだと思う私に対して、生きているうちに信心をいただいていないのであれば、浄土になどいっていない、といいきるおじいちゃん。
そこに違和感というか、ある種の反発を感じていました。
自分が救われたいがために他の人を蹴落としてしまう「蜘蛛の糸」という物語がありますが、おじいちゃんの姿がちょっとその主人公のカンダタに重なったりもしました。
「自分だけが救われればいいということなのか?」
いやいや、失礼な話ですね、ごめんなさい。
思えば、落ち込んでいる私に「そうだよそうだよ、お友達は浄土にいったのだよ、安心しなさい」といってなぐさめるのはとてもたやすいことだったのに、そうはしなかった。「生前に信心をいただいていないものの前には浄土はない」とピシっと言い切ったおじいちゃん。その意味することが今回おじいちゃんに補足的に話を聞いて、初めてわかったような気がします。
「この世で仏様に出会っていない人には浄土はない」
ここを私はあやふやにしていました。
改めて、今冷静に考えてみると、「友人は浄土にいった」と、「私」が思いたかったにすぎなかったのですね。
そもそも、「死」それ自体を、私たちは誰一人として経験していない、
それなのに、「死が悲しい、苦しい」などと勝手に思っている、
そして、その思っている主体は他ならない「私」なのですね。
友人の死について抱いた私の思いの根底には、「我」しかないことを改めて認識しました。
すべての人は浄土に包まれており、阿弥陀様は、臨終最後の最後まで一生懸命働きかけてくださっておられる。その阿弥陀様の存在に気づくかどうかは、結局のところ当人でなければわからないのですね。それをあたかもわかったようにして、「浄土にいったのだ」と当人ではない「私」が思ってみたところで、それは、勝手な自分への慰めにすぎなかったわけです。
浄土にいったかどうかはわからない。
ただ、すべての人は浄土に包まれている。
それしかいえないということが、今回のおじいちゃんとの対話を通じて、初めて気づきました。
最後に、「救われるということ」について、
救われるものと救われないものの違いは何によって生み出されるのか。
この疑問に、おじいちゃんは今回「自分をたのむ心」であり、「心に隙間をあける」ことが大事であると教えてくれました。この辺りは、まだまだ疑問がつきないので、それは次のお手紙で聞きます。
いつもとりとめもない私の疑問に丁寧に答えてくれて本当にありがとう。
また会う日まで、またね。
めっちゃん