後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。
[おじいちゃん]
今回はまず、「死んだ人がすぐにお浄土にいったのかどうか」という問題提起だね。これは大事な問題だね。
浄土に包まれている
あのねえ、ただ実際はね、どこにいても浄土の枠の中なんだよ。浄土に往生した者は、めっちゃんがいるこっちの側にはなんぼでも会えるのだよ。まあしかし、浄土真宗では浄土に誰でも往生できるとはいわないね。やっぱり、生と死の問題を解決したり、自分自身にけじめをつけるということが非常に大事なことになるんだ。
ただ同じこの教えに導かれているもの、それはまあ、今はわからなくたって必ず分かるときがくるし、どこにいっても、例えば地獄の底にいても、その人にとったら地獄だけど、悟りを開いたものの目からみれば地獄におろうとどこにおろうと実はただあんたが錯覚してるだけだということだから「その錯覚を翻しなさい」といつでも言い続けることができるわけなんだよ。その意味では、「こちらからはいつでも会えるけど、向こうからは気がつかない」ということなんだよ。
[めっちゃん]
「こちら」というのは、「浄土に往生した者の側」で、「向こう」というのは、「生きている人間の側」ってことだよね?
[おじいちゃん]
そうそう。浄土に往生したものは、私たち人間にいつも会っているわけなんだよ。そして、同じ場にいるわけなんだ。
だけど、私たち本人は気づかない、というだけのことだろうね。それを気づかせるために、教化していくわけなんだ。だから、「六道四生(ろくどうししょう)のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもて、まづ有縁を度すべきなり」と親鸞聖人がおっしゃったのはそういうことなんだよ。
ただね、「あの人にとっては浄土はなかった」ということはあるものなんだよ。浄土のある人とない人があるわけなんだよ。だから、「みんなお浄土にいけますよ」とはいわない。浄土のある人というのは、如来の言葉を受け入れたときに、浄土がある身になるわけなんだな。そうでなかった場合には、その人にとっては浄土はないわけなんだよ。
まあ、しかし、如来様の御教化というのは、臨終最後の瞬間まで行われているからね。だからこっちからみてなかったと思うけど、その人は仏縁があったかもしれん。どーんな仏縁があるかわからないからね。臨終のその瞬間に気づいておれば、それでお浄土にいってるわけだし、こちらは、浄土に行ったか、行かないかは決めらないんだよ。決められないんだが、聞かなかった人、ここで味わえなかった人は、その人には浄土はなかったということになるんだよ。
だけど、なんらかの形で、病気の中で、あるいは死ぬ前に、自分の命がぎりぎりのところで如来様の教えにあう可能性も、ないことはないんだよ。わしらが知っている限りは信はなかったし、浄土のない人だったけど、最後の瞬間に仏さんに会ってる可能性もないことはないのだから。
だから『行ったか行かなかったはいえない』。
ただいえることは、『この世で出会ってなかった人には浄土はない』ということだけなんだ。
浄土はないけども、『それぞれのところで浄土に包まれている人だ』ということはいえる。この世でもそうだけど、向こうでもそうだからね。だから、そういう意味では生死を解決した人と、解決していない人との違いがあるというだけだね。
[めっちゃん]
その「仏様にあわない」っていうのは、お念仏を聞かなかったということ?
心に隙間をあける
[おじいちゃん]
「自分を助けてくださる仏様がいらっしゃることに気づかなかった」ということだな。だから、最後までひとりぼっちだったというそういう状態だよ。そういう意味で非常に寂しい人だったということになるね。
[めっちゃん]
そうすると、念仏もまったくできないような身体――例えば耳も聞こえない、目も見えない人は、気づきたくても気づけないとすれば・・・?
[おじいちゃん]
それでもね、結構ね、そういう目の見えない人も、耳の聞こえない人も、ご縁には会う機会はあるだよ。実際問題としてもね。
それは耳は聞こえないけれども手の感覚が非常に素晴らしいと、例えば、仏様の目も見えないし、耳も聞こえないけれども、仏様のあるお仏像をさすってね、そして仏様を感ずるという人もいるわけだしね。ただ一番代表的な目とか耳とかね、これでキャッチするけれど、耳が不自由であっても目が不自由であっても仏様に会うことはできる、ということだね。
ただ、あの~、精神的に異常があって、そして仏様に会えないということ、それでもね、わたしらの常識の仏様には会えなくても、どんな形でおうてらっしゃるか分からないということはあるからね。精神に異常をきたしているという人だって、どんな形で仏さんに会ってるかわからんよ、実際にそういう人もいるからね。だから、いわゆる、普通の意味で、御領解が述べられない、お念仏もできないけども、なんか仏様を実感している人もいることはいるわけだからね。
私らの方で往生したかどうかっていうのはわからない。ただその人にとっては最後まで法に入らなかったら仏様に会えなかったら一人ぼっちで寂しい人生を送ったという、そういうことしかいえない。仏様に会ってらっしゃるかもしれないしね。
[めっちゃん]
そうすると、いろんな縁があっても聞かない、あるいは、仏様に会えない人というのは何がそうさせているの?
[おじいちゃん]
やっぱり自分をたのむ心だね。自分というものを信頼しすぎる。自分を信頼しすぎるんで、失敗もするし。といっても、自分を信頼しないと生きていかれないわけやけどね。
だけど、「自分自身は根本的にはたよりならない」というそういう思いがどっかであると仏様に出会いやすいということだね。自分だって人だって、そんなたよりになるもんじゃない。たよりになるもんじゃないからお互いに善意だけは失わないで生きようという、危ないもんだから、よっぽど気をつけて生きようという、そういう心が生まれてくる。
やっぱり仏様の教えって言うのは、これがほんまのことで、それを疑う自分の心が偽者だということ。といって、自分の心をなくすわけにはいかんのだから、あってもいいけどもこれにあまり力をいれない、それをいわゆる、「我をつのる」っていうでしょう、我はみんなあるんだけどなるべくつのらないようにしましょう、っていうことだね。
どっか隙間あけておくわけなんだよ。その隙間から仏様の教えが入ってくる。はからいなくしたら生きていけないから、はからいはあるんだけども隙間あけておく。つまり、自分を絶対視しない、たかがしれた人間なんだということを思っておく。隙間あけておいたらあってもそんなに邪魔にならない。
[めっちゃん]
その我っといういものが、往生できない場合は輪廻を繰り返していくっていう主体になっているの?
[おじいちゃん]
えーあのね、輪廻転生っというのはね、そういう風に「自分自身がえがいていく世界」なんだよ。だから、輪廻しているものには、まさに我があるような状態で輪廻しているわけなんだけよ。だけど、ほんとは無我なんだからな。それが一瞬にして消えるわけなんだよ。
[めっちゃん]
そうすると、輪廻には主体なんてものはないのかなあ?
[おじいちゃん]
主体はないのにね、あると思ってえがいているわけなんだよ。だから、人間存在というものが、無我といわれた時には、そういう実態のないものだと、しかし、実態のないものだと分かったら悟り開いたことになるんだけどね。しかし、凡夫であるけども実態のないものだと思うことができるというのはどうかというと、心に隙間あけるだけなんだよ。ちょっと隙間あける。絶対視しない、っていうこと。なんらかの形で実体化し絶対化するようなものがあるとそれでふさがれてしまう。聞こえてくるものが聞こえなくなる、見えるものが見えなくなる。ちょっと隙間あけておくんだ、心に。
[めっちゃん]
絶対視してはいけないかあ。でもね、おじいちゃん、親鸞聖人のお言葉は絶対視してもいいもの、だとか、その、絶対視していいものとしていけないものというふたつが存在するわけだよね?
[おじいちゃん]
そうだね、区別はあるね。そういうことで、親鸞聖人のお言葉、親鸞聖人自身は「おれの言葉にふりまわされたらいかんぞ」というところがあるから、それなりに気をつけておっしゃってるわけなんだよ。ただ間違うこともあるし、ケアレスもされるけど、そんなことがあっても、本質的にはかわらない。法然聖人でも親鸞聖人でも、人間を超えた領域からきている言葉が非常にたくさんある人なんだよ。言葉なんかでも非常に吟味して書いておられるからね。
その点で、法然聖人の言葉なんかは聞き書きがほとんどで、ご自身で筆とって書かれたのは非常に少ないんだよ。お手紙の中でもほんのわずかだね。あとは弟子たちが聞き書きしたり、口うつしだったりしたものが多いと思うんだよ。だいたい文章のスタイルがわかっているから、そのスタイルでよんでいくと、これは原本は直筆だっただろうなと、ちょっとこういう言葉づかいはあの人されなかったよな、とかあったりして、他のお弟子さんに書かせたりしたかなっというのがあるのだよ。
その点、親鸞聖人の場合は、直筆が残っているから信頼感があってありがたい。そうでない場合は、信頼できる人が確認したもの、例えば同じ観経でも善導大師がよんだ読み方でよむと、善導大師が到達されている境地というのがよみとれるわけなんだよ。しかし、浄影寺のような人がお書きになった観経書ですとこの人なりの観経になる。みなひとつの観経だけど、ああいう天才的な学者が注釈しているだけに、お経が開く世界が違ってくるんだよ。おじいちゃんは、善導大師がよんで、法然聖人が確認して、親鸞聖人が展開したようなそういうお経をよむという、そういう読み方なんだな。そういう意味で、できるだけあの人が伝えようとされたものに近いものをこちらで自分なりに再現していくということをやってるのだけども、なかなか相手が大物やから、ははは、こっちが小物すぎるかしらん、難しいんだけどな。
[めっちゃん]
最後に、おじいちゃん、もうひとつ聞きたいの。
前に聞いた「浄土真宗以外の人は救われないのか」ということと関連するのだけどね。キリスト教徒だったら親鸞聖人のお聖教に出会わないと思うんだけど、結局最後は、浄土という場所にいろんな宗教の人がいくんじゃないかと思うのだけど、それは違う理解かな?
私は確実に会いますよ
[おじいちゃん]
そうだね、おじいちゃんがクリスチャンの方の考え方がある程度わかったと仮定すると、こっちから向こうは見えるということだね。向こうはこっち側が見えてるかは知らないけど。そうすると、キリスト教というのはこんないいとこがあるな、イスラム教でもこういう点は素晴らしいなというのはあるもんだよ。そういう風にいいとこの共通点をお互いに確認しあうということをすると、なんというか、あんたはあんたの信仰の世界に、私は私の信心の世界に生きているけど、話し合いができる、ということになる。どこへいかないといけないということはないと思うね。それぞれの世界の中に生きていながらお互いが話し合いができるような場があればそれでいいと思うんだよ。普通だって、みんなそれぞれ違った世界をつくって生きているけれど、その中でお互い理解しようすれば理解できる世界があるからね。キリスト教の人が阿弥陀様のお浄土にこなきゃならないこともないし、こちらが最後の審判にであわないといけないこともないしね。
[めっちゃん]
例えば、キリスト教徒が天国にいったら、こっちからお浄土にいった人と実は同じ場所にいて会うみたいなことにならないのかなあ?
[おじいちゃん]
やっぱりね、共通したものはあって、そしてお互いにその相手の信仰の世界がわかりあうというところがあれば、それだったらおんなじことだね。あの、向こうは会えるかどうかわからないが、私は確実に会いますよというのはあっていいんじゃないかな。そっちがこっちを見えるかどうか知らんけど、こっちからあなたは見えますよ、というのがあってもいいんじゃないかな。
[めっちゃん]
そうかそうか、そういうことか。こっちから見えるけど、あっちから見えないということがあるのね。
言葉が開く世界
[おじいちゃん]
そういうことはなんぼでもある。人間同士でもそうだけど、それをどうして突破できるかというと、言葉で突破するしかないんだよ。お互い言葉をかけあうことによって、見えないところが見えるようになってくればいいわけなんだ。やっぱりね、宗教の世界っていうのは、この、非常に言葉の意義が、言葉っていうものが重い意味をもっているっていうことだろうね。私らの世界もそうなんでね。
例えば、私にとっての息子は私の息子なんだが、他の人にとってはそうでないただの男性。その、めっちゃんのお母さんからいえば夫だし、めっちゃんからいえば父親なんだけど、それぞれがそれぞれの世界を生きているわけで、そんな中で話しあいすれば、「あ、これおとうちゃんだったんだ」、「あ、夫だったんだ」っていうのが、わかりあうよね。
普通は自分の息子、自分の息子ってみているけど、言葉をかわしあいながら、今は父親として振舞ってるな、とか、そういうのが人間同士でもあるんだよ。じゃあそれをどうするのかというと、言葉でほぐしていって共通の場を開いていくんだよ。
宗教の世界も、そういう意味で話し合いって大事だね。話し合いが通じなければ一番怖い。そういうことだと思うなあ。だから、死んで真宗の人のいいことは、尽十方無碍の世界が開けるっていうんだから、みな分かるっていうんだよ、ははは。
[めっちゃん]
みな見える。
[おじいちゃん]
この世は見えすぎたら困るけどな、あっちでは見えすぎて困ることはないからな。歎異抄なんかに、「尽十方無碍の光に同じくして」という言い方してるけどね、あれで結構この人楽しんでいるなっていうのを読みながら思うね。お浄土いったら「尽十方無碍の光に同じくして」って、楽しいのだろうなあっていう感じだな。ははは。
[めっちゃん]
おじいちゃんの言っていた意味がようやく分かった気がする。ありがとう。
コメント (2)
めっちゃん様
初めまして。
宮沢賢治の詩の中に「わたくしという現象は」という表現があります。僕はこの言葉がとても好きで「現象」と捉えた時、生きている僕たちも、お浄土をも含めた色んな世界をも俯瞰した視点になります。おじいさんの言われるお浄土の「枠」のまた外側の世界もあるような気がします。どんな物事(お浄土という世界も)も広い宇宙空間の要素のひとつのように感じています。そこにはこちらもあちらもなく、救われるも救われるもないのではないでしょうか。そしてそれは「映像」としてイメージされます。
真宗は言葉の理解を強く前提としている感じを受けます。そして最終的に「気づき」という条件をやはり感じます(幼くして亡くなった子供はお浄土にはいないんだろうか、他の動植物は?)。そしてこちらとあちら、見ている側と気づいていない側、というふうにイメージが直線的で、どこか空間性に乏しいような。。。「‘こちら側’いう視点」はもともと存在するのでしょうか。このことは真宗に限らず、日本仏教が人間救済の点が強調されて続いてきたことに要因があるように思います。
見ているこちら側もあちら側も俯瞰するその外側の視点、そしてそのまた外側、と。見ているつもりのこちら側、を別の視点が見ているかも知れないでしょう。内も外もなくて。。重層し流動しているように感じます。。。
教義を理解するということと、たまにはその膜の外から、の視点も持っていたいと思います。
また「お念仏に出会わなかった人、はひとり寂しい人生」なのでしょうか。そんなことはないと思います。仏様に出会わなくてもニコニコの生活を送り、穏やかに亡くなられる人もたくさんいると思います。やはりそこにはこちら側の教義として言えば、という言葉がつきますよね。
「手紙」の時からいっぱい考え、何度も楽しく読ませて頂きました。こんなことをいう僕は浄土真宗僧侶です。まだまだ信心を頂いていないのかも知れません。おじいさんに意見するようですみません。
同じ問いを持っていた者として送信いたします。
投稿者: キューピー | 2007年11月 9日 09:53
日時: 2007年11月 9日 09:53
キューピー様
はじめまして。
いつも読んでくださっているとのこと、とても嬉しく思います。ありがとうございます。コメントを頂き、私もいろいろと考えさせられました。
> どんな物事(お浄土という世界も)も広い宇宙空間の要素のひとつのように感じています。
> そこにはこちらもあちらもなく、救われるも救われるもないのではないでしょうか。
そうですね、次元を変えれば、実はすべてが分け隔てなくつつみこまれているように思います。
そして、その包み込んでいるものが、他でもない、阿弥陀様なのだと私はイメージしています。
> 真宗は言葉の理解を強く前提としている感じを受けます。そして最終的に「気づき」という条件をやはり感じます(幼くして亡くなった子供はお浄土にはいないんだろうか、他の動植物は?)。
この辺り私も疑問に思っていることなんです。近く、おじいちゃんに質問しようと思っているので、また更新されたら読んでいただければ幸いです。
> そしてこちらとあちら、見ている側と気づいていない側、というふうにイメージが直線的で、どこか空間性に乏しいような。。。「'こちら側'いう視点」はもともと存在するのでしょうか。このことは真宗に限らず、日本仏教が人間救済の点が強調されて続いてきたことに要因があるように思います。
救済を強調すると、同時に、救われるものと救われないものという構図が明確になるから?でしょうか。この辺私もまだなかなか整理ついていません。。
ただ、おっしゃるように、「こちら」と「あちら」という構図で話した場合はとても直線的な印象をうけると思います。
> 見ているこちら側もあちら側も俯瞰するその外側の視点、そしてそのまた外側、と。見ているつもりのこちら側、を別の視点が見ているかも知れないでしょう。内も外もなくて。。重層し流動しているように感じます。。。
> 教義を理解するということと、たまにはその膜の外から、の視点も持っていたいと思います。
> また「お念仏に出会わなかった人、はひとり寂しい人生」なのでしょうか。そんなことはないと思います。仏様に出会わなくてもニコニコの生活を送り、穏やかに亡くなられる人もたくさんいると思います。やはりそこにはこちら側の教義として言えば、という言葉がつきますよね。
本当にそのとおりだと思います。
ともすれば、自分の信仰することに対してやはり盲目的になってしまい、それがすべてであるように思ってしまいます。
そのことが意図なく何かを否定したりしてしまうことにもつながってしまいます。
私もそのあたり気をつけないと・・・と思ったりします。
ただ、やはり、自分と阿弥陀様の関係のもとで、理屈なく信じおまかせするより他にないとも思います。
一方で、やはり頭で、理屈で考えてしまう自分もいる。
その時に、教義に戻り自分の問いに向き合っていくのだろうと思います。
コメントどうもありがとうございます。
また是非お願いします。
投稿者: めっちゃん | 2007年11月12日 09:11
日時: 2007年11月12日 09:11