2007年09月26日

拝啓


少しずつ秋めいてきましたね。海からの風が心地よい季節になってきたことかと思います。

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おじいちゃんと話した後は、不思議なもので、心の芯から温かくなるというか、元気になるというか、ものすごく深いところで大事なことを肯定されたような気がします。

さて、今回の質問は、
「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのでしょうか」
というものでした。

そもそも、なぜこんな質問が沸いてきたのだろうかと、私なりにもう一度考えてみました。

ひとつは、「お聖教の通りに生きないといけない」という言葉を聞いたときに自分が感じた「私の生き方はこれでいいのだろうか」という不安による部分があります。

もうひとつは、「教えを聞いているのに、あるいは、お坊さんなのにどうして日常においてもっと立派ではないの?」という問いに対して、私がきちんと答えられなかったということがあります。

さらに、それらの根底には、「こういう風に生きなければならないという理想モデルのようなものがあるのだろうか」あるいは、「教えを聞いたならそれは即実践としてあらわれなければ『すべて意味がない』のだろうか」そのような思いがありました。

同時に、「そんなことはないはずだ」そのようにも思っていました。一方で、その理由をきちんと説明できませんでした。そして、そのような自分に対して、ある種の歯がゆさのようなものを感じていました。


そしておじいちゃんは言いました。

大事なことは「真剣かどうか」ということ


その一言で、私は、ものすごく安心しました。
そして、亡くなったおばあちゃんの生き方が、わがままでマイペースであったけれども、やはり「すごい生き方」だったんだということを改めて認識しました。
聞かせていただくことに対して、あれほど「真剣に」また、あれほど「喜び楽しんでいた」人を私は今まで間近で見たことがなかった。だから強烈であり、その姿が、私にご縁をつないで下さる何よりものきっかけになったのだと思います。
そのような事実を改めて認識しました。


さらに、おじいちゃんが言うように、人は善悪様々なご縁のもとで生きる極めて不安定な生き物だと思います。だからこそ、「いつでも戻れる」「いつでも復元できる」ということが、とても大事なのですね。
ポイントオブノーリターンを超えられるということが、おじいちゃんと私の間の極めて自然な共通認識でしたね。

帰り道、私はしみじみ思いました。
「念仏とともに生きるご縁をいただいたことは、本当にありがたいことだなあ」と。

これがあれば、生きられる、
これがあれば、死ねる、

そういうものが教えであり、念仏なのだろうと思います。
また、そういうことが、おじいちゃんが以前教えてくれた「主導原理」ということでもあるのだろうか、とも思いました。


めっちゃんより

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めっちゃん(29歳)が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。
[手紙]
ーめっちゃんからおじいちゃんへの手紙
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めっちゃん
離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。