2007年08月01日

おじいちゃんへ

拝啓

梅雨の前の少し不安定な気候が続いていますがお変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。

この間は、また私のとりとめもない疑問につきあってくれてどうもありがとう。問えば問うほど何かからズレていくような気がする一方で、問わずにはいられないのですから、本当に我ながらどうしようもないなっと思ったりもします。


さて、今回の私の質問は、
「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか」
ということでした。

この質問の背景には、特別な宗教をもたない自分の夫や子どもはどうなるのだろうかという不安がありました。また一方で、私は念仏よりほかに救われる道はないと思うが、私以外の人は念仏よりほかに救われる道があるのかもしれないという思いがありました。

今回のおじいちゃんとの対話の最大のキーワードは、
「主導原理」
ではないでしょうか。

おじいちゃんはいいました。
人生における具体的な困難、生と死や罪と罰のような大きな問題にぶち当たった時に、それが私を支え突き動かしてくれるのか、つまり「主導原理」となるのか、というのが、それがその人にとって「宗教」かどうかなのだと。

心のやすらぎをうるという意味では宗教以外の無数のものがあるのだということも納得です。ただ、心のやすらぎをいくら積み重ねたところで、究極の場面で私を支えるものでなければ意味がないと思います。その意味では私が問題にしていることは、明確に「宗教」なのでしょうね。

では、浄土真宗が私を支えてくれるのだろうか。人生で耐え難い困難にぶちあたった時に私を支えてくれるのは何なのだろうか。

究極にはやはり、「阿弥陀様」であり「念仏」なのだろうと思います。ただ実際にまだ私の30年足らずの人生ではまだ検証できていないわけで、それはこれからの長い長い人生の中で身をもって体験することなのでしょう。

おじいちゃんとの対話を終えた今でも、やはり、「私は念仏より他に救われないのだが、私以外の人はどうか分からない、救われる人もいるように思う。」というこのあやふやな結論は変わらないように思います。

ただ、おじいちゃんもいっていたように、
「私にとってはこれ以外に道はない」ということと同じように
「あなたにとってもそれ以外に道がない」ということが同時に成立するのだと思います。
「私は信じないけれどもあなたの信じているものを私は認める」という相手の真理性を認めることは、とても大事なことなのだと思います。

同時に、そこまでしか言えないのだと思います。

それ以上の、「あなたが救われるかどうか」という点については、”あなたではない私”が、懸念したり口をはさむべきことではないことのような気がします。それは例え夫婦であっても子どもであっても。

私と阿弥陀様との関係においてがすべてなのだとそう思います。
荒っぽい言い方をすれば、「他の人のことは知ったこっちゃない」んだと思います。

阿弥陀様とのご縁のもとに、私という自我を振り切ろうと思いつつも、常にその自我を抱えながら、「“私”はどう生きるのか」ということを突き詰めて実践していくより他ないのだろうという認識をあらためてもちました。

またお手紙書きます。

敬具

めっちゃんより

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めっちゃん(29歳)が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。
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めっちゃん
離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。