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2007年8月 アーカイブ

2007年8月15日

おじいちゃんへ

拝啓

暑い日が続いていますが、お変わりなくお過ごしですか。
私もうだるような暑さにぐったりしながらも、
どうしてもおじいちゃんに尋ねてみたいことがあって筆をとりました。

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さて、私からおじいちゃんへの3つ目の質問は
「どう生きるかということと、救われるかということはどういう関係にあるのか」
ということです。

おじいちゃんは私に
「教えの通りに生きなければならない」
という趣旨のことを何度も話してくれます。
また前回の質問の中でも、
「人生の中で大きな壁にぶち当たったときに、それが自分を
突き動かす主導原理になるかが、その人にとっての宗教かどうかだ」

ということも教えてもらいました。

私は、自分の生き方と浄土真宗の教えの関係があやふやになっています。
基本的には、
「この世でどう生きるか」ということと「救われるか」ということは直接的な関係はない
と理解しています。
だからといって、この世でどう生きてもかまわないということにはならないのですが、
この世での生き方は阿弥陀様の前ではほとんど意味をもたないのではないか
と思っています。一方で、そのような考えは大変怠惰なものであるようにも思います。

おじいちゃんは昔、身体が弱かったために戦争にいかず、
田舎で学校の先生とお寺の住職をしながら生計を立てていたんですよね。
それを聞いて、さぞかしたくさんの苦労をしてきたんだろうなと思いました。

それから私がまだ小さい頃は、
いつも正確に教えを聴かせてくれたし、
常に念仏が口をついて出ていましたよね。
そんな浄土真宗に対するおじいちゃんの姿勢が、孫の私には、
他の全部の要素をふっとばして、「おじいちゃんの生き方」として強烈に残っています。

ただ、一般の多くの人は、浄土真宗の教えをそれだけ聴いていれば
大層人間的にもすばらしい人なのだろうと期待するだろうし、
その期待と現実のおじいちゃんの姿には、
当然何かギャップがあり、ある時は人を失望させてしまったり、
なんてこともあったのではないかと思うのだけど、どうですか?
実際、おじいちゃんにはすごくマイペースなところもありますし…。

そんなことから、
「この世でどう生きるか」ということと、
「浄土真宗の教えを聴かせていただくこと」はどういう風に関係しているのだろうか

と考えるのだけど、私の中ではどうにもいいかげんな解答になってしまいます。

この世をよりよく生きるとか、道理にかなった生き方をするとか、
そういうことと宗教とは別だと思います。
別なのだけれども、私の「主導原理」であるからには、
私を導いていくのは浄土真宗の教えになるのだと思うのですが、
そのことが経験の浅さからか、まだまだ具体的に分からないのです。

おじいちゃんは何かに迷ったり、ひどく苦しむとき、
そこに浄土真宗の教えが主導原理となり具体的な方向性を指し示し、
それに基づいて生きてこられたのでしょうか。

「浄土真宗以外の人は救われないのか」という前回の質問に対して、
夫や子どもを含めて私以外の他の人が救われるかどうかということは、
私が考えをめぐらすことではないと思いました。
すべては、私と阿弥陀様との関係のもとに私がどう生きるか
ということでしかないのだとそう思いました。

一方で、人がご縁をいただくときには、
私がおじいちゃんという存在に対して深い尊敬や愛情が背景にあったように、
その人の生き方に醸し出される何かがすごく重要なのだと思います。
そう考えると、やはり「どう生きるか」というのは間違いなくとても大事なことになります。

こう生きたから救われるというものでもない、
だからといってどう生きていいものでもない。
浄土真宗の教えを真剣に聴かせていただいているのであれば、
それは必ず生きる上で実践としてあらわれるべきなのでしょうか。
そうであるならば、やはり、こう生きるべきという姿はあるものなのでしょうか。

以前のお話の中で、おじいちゃんは
「正しく聴かせていただく中で、救われるということの意味が分かる」
と言っていました。
この「分かる」というのは、「どうすれば救われるのかということが分かり、
それを日常においてどのように実践していくことが分かる」ということなのでしょうか。

と、最近はこんなふうに、堂々めぐりが続いています。

「救われる」という言葉を使用するのは、
認識の違いになってしまうのかもしれませんが、
このある種ぼわっとした疑問に、ぼわっとしたままでもいいので
おじいちゃんの考えを教えてほしいのです。

「とんでもない生徒がきてしまった」と
おじいちゃんも呆れているだろうなと思うと恥ずかしくなるけれど、
聴ける時にあつかましくも聴かせていただこうと手紙を書きました。

おじいちゃんの考えを伺いに、近いうちに会いに行きます。
今からその日が楽しみです。

敬具

めっちゃんより

2007年8月 1日

おじいちゃんへ

拝啓

梅雨の前の少し不安定な気候が続いていますがお変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。

この間は、また私のとりとめもない疑問につきあってくれてどうもありがとう。問えば問うほど何かからズレていくような気がする一方で、問わずにはいられないのですから、本当に我ながらどうしようもないなっと思ったりもします。


さて、今回の私の質問は、
「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか」
ということでした。

この質問の背景には、特別な宗教をもたない自分の夫や子どもはどうなるのだろうかという不安がありました。また一方で、私は念仏よりほかに救われる道はないと思うが、私以外の人は念仏よりほかに救われる道があるのかもしれないという思いがありました。

今回のおじいちゃんとの対話の最大のキーワードは、
「主導原理」
ではないでしょうか。

おじいちゃんはいいました。
人生における具体的な困難、生と死や罪と罰のような大きな問題にぶち当たった時に、それが私を支え突き動かしてくれるのか、つまり「主導原理」となるのか、というのが、それがその人にとって「宗教」かどうかなのだと。

心のやすらぎをうるという意味では宗教以外の無数のものがあるのだということも納得です。ただ、心のやすらぎをいくら積み重ねたところで、究極の場面で私を支えるものでなければ意味がないと思います。その意味では私が問題にしていることは、明確に「宗教」なのでしょうね。

では、浄土真宗が私を支えてくれるのだろうか。人生で耐え難い困難にぶちあたった時に私を支えてくれるのは何なのだろうか。

究極にはやはり、「阿弥陀様」であり「念仏」なのだろうと思います。ただ実際にまだ私の30年足らずの人生ではまだ検証できていないわけで、それはこれからの長い長い人生の中で身をもって体験することなのでしょう。

おじいちゃんとの対話を終えた今でも、やはり、「私は念仏より他に救われないのだが、私以外の人はどうか分からない、救われる人もいるように思う。」というこのあやふやな結論は変わらないように思います。

ただ、おじいちゃんもいっていたように、
「私にとってはこれ以外に道はない」ということと同じように
「あなたにとってもそれ以外に道がない」ということが同時に成立するのだと思います。
「私は信じないけれどもあなたの信じているものを私は認める」という相手の真理性を認めることは、とても大事なことなのだと思います。

同時に、そこまでしか言えないのだと思います。

それ以上の、「あなたが救われるかどうか」という点については、”あなたではない私”が、懸念したり口をはさむべきことではないことのような気がします。それは例え夫婦であっても子どもであっても。

私と阿弥陀様との関係においてがすべてなのだとそう思います。
荒っぽい言い方をすれば、「他の人のことは知ったこっちゃない」んだと思います。

阿弥陀様とのご縁のもとに、私という自我を振り切ろうと思いつつも、常にその自我を抱えながら、「“私”はどう生きるのか」ということを突き詰めて実践していくより他ないのだろうという認識をあらためてもちました。

またお手紙書きます。

敬具

めっちゃんより

めっちゃん(29歳)が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。
[手紙]
ーめっちゃんからおじいちゃんへの手紙
[対話]
ーめっちゃんとおじいちゃんの面談
[振り返り]
ー面談を終えためっちゃんの感想
めっちゃん
離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。