おじいちゃんへ
拝啓
ぽかぽかと穏やかな小春日和が続いていますが、
お変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。
縁側の窓から広がる久美浜湾を眺めている
おじいちゃんの様子を思いうかべながら、
今日もまたつらつらとお手紙を書いています。
もしかすると、この手の質問はおじいちゃんを
少し不愉快にさせてしまうのではないかとやや心配しつつも、
やっぱり聞かずにはおれず、今日も筆をとりました。
「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか?」
これが今回のおじいちゃんへの質問です。
■「なぜ浄土真宗を信じているのか?」
この質問に関連して、
私は随分前に一度おじいちゃんにお手紙を書いています。
それは、ギリシャを旅した時に感じた疑問を綴ったものでした。
宗教色の強いギリシャを巡る中で、私が出会ったギリシャ人たちは、
何度となくギリシャ正教の素晴らしさを私に説いてきました。
「なぜギリシャ正教を信じているのか」と私が問えば、
その理由を懇々と説明してきました。
一方で私は、「自分がなぜ浄土真宗を信じているのか」ということに対して、
まったくと言っていいほど彼らに論理的に説明できませんでした。
そのことに疑問と不安を覚えておじいちゃんに手紙を書いたのでした。
さっそくその時の手紙を引っ張り出して、私も少し読み返してみました。
『「あなたはなぜ浄土真宗を信じているのか」と問われても、
私は「浄土真宗にご縁があったから」としか言えませんでした。
それは自分の親が自分の親たるゆえんを、
説明できないのととても似ていると思います
(縁があったということと
他の親には決して代えられないということ以外は、
何も言えないのであります)。
(途中省略)
おそらく私は、信じること、まかせることがすべてであると信じる一方で、
どこかでやはり浄土真宗への絶対的まかせがまったくできておらず、
他を知って比較することで自分の信じているものが揺らぐことを
恐れる思いがあるような気がします。
同時に、だからこそ、
これから長い人生を生きていく上でたとえ愚かであっても、
「どうして自分は浄土真宗を信じているのだろうか?」
ともっと真正面から考えねば、
自分が将来子どもを持って親になったり
自分が伝える立場に立った時に
揺らぎはしないだろうかと懸念するのです』
■「夫や子どもがこのままだと救われないのだろうか?」
この手紙を書いてから早五年の月日がたち、
その間に私は結婚し、子供も授かりました。
おじいちゃんも知っているとおり、
私の夫は浄土真宗に対する私の思いを
とてもよく理解してくれる人ですが、
本人は何か特別な宗教を信仰しているわけではありません。
伴侶を得て親となった今、
「どうして自分は浄土真宗を信じているのだろうか?」
という問いの延長線上にある
「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのだろうか」
という問いが、
「家族である自分の夫や子どもがこのままだと救われないのだろうか」という
極めてリアルな問いとしてなんだか迫ってきているわけなのです。
その点について、おじいちゃん、私はふたつのことを感じています。
ひとつは、「私にとっては、念仏より他に救われる道はない」
今の私が確かにいえるのは、この一点だけです。
浄土真宗かどうかということより、
「南無阿弥陀仏とお念仏するより他に私が救われる道はない」
ということなのです。
同時に、(この前の手紙にも書きましたが)
南無阿弥陀仏とお念仏しなくても私は救われると思っている、
そのことはすでに決まったことだと思っている、
しかし、南無阿弥陀仏が口をついてでてしまう、
「念仏がなくても救われると思う反面、念仏が口をついて出てしまう。
そして、この念仏以外に私が救われる道はない」
この相矛盾するようなすべてのことが、私の中の素直で確かな感情です。
さて、もうひとつ思うこと、それは、
「私以外の人にとっては、念仏より他の道があるのかもしれない」
ということです。
この点についてはまったく確信もなく、
ただ感覚的に思っているというのが正直なところです。
■「大いなるもの」に自分が生かされているという感覚
なんと表現すればよいのかわからないので、
ここでは「大いなるもの」といいますが、
この「大いなるもの」に自分が生かされているという感覚、絶対的安心感、
そのような感覚を、私は「南無阿弥陀仏」と手をあわせる習慣の中で
理屈なく感じてきたわけですが、一方で、同じような絶対的安心感を、
念仏以外の方法で感じている人もいるようにも思うのです。
例えば、私がお産でお世話になった産科医は、
2万例以上のお産に関わってきた人なのですが、
人工的な介入なく極めて原始的かつ自然なお産に立ち会う度に、
お産というのは人がしているのではなく大宇宙の大いなる力が
人を介しておこなっているものだと
感じざるをえないとよくおっしゃっていました。
また、自然なお産を通して、自分は大いなるものに生かされているのだと実感し、
その存在を前に自分の無力さを実感し、
ただただ手を合わせてゆだねるより他にない
という感覚におそわれる、ともおっしゃっていました。
さて、この産科医の感じる感覚は、
私が念仏の中で感じるそれととても共通していると思います。
どちらも理屈を超えて、自分という存在が大宇宙という
大いなるものに生かされていると感じ、
そこにある種の絶対的安心感を抱いているのだと思います。
そのように考えると、
「私以外の人にとって救われる道があるのか」という点については、
「分からない」を前提としながらも、
救われる道があるような気がしてしまうのです。
そうすると、(極めて浅はかな表現になってしまうのですが)
「大いなるもの」につながる手段として私は念仏をし、念仏以外の手段でもって
その「大いなるもの」につながる人もいるように思うのです。
そこには「ありがとうございます、おまかせします」という、
私が阿弥陀様におまかせする時の思いと同じような思いが存在すると思います。
上記のようなふたつの思いがある中で、
当初の疑問「浄土真宗以外を信仰する人は救われないのだろうか」を
もう一度考えてみると、
「私は念仏より他に救われないのだが、
私以外の人はどうか分からない、救われる人もいるように思う」
という極めていいかげんであやふやな結論に至ってしまうのです。
さてそうなると、
「自分の周囲の大切な人、夫や子ども、彼らはどうなのか、救われないのか」
という日常のリアルな疑問が置き去りになってしまうのだけど、
やはり、「分からない」としかいえないのです。
夫、子どもといえども私以外の人である以上分からないのです。
■「同じように浄土真宗を信仰させようと思わないのか?」
一方で、「そうであるならば、同じように浄土真宗を信仰させようと思わないのか?」
そう問われる方もいるかもしれませんね。
では、そう問われれば私はなんと答えるだろうか?
たぶんこのように答えると思います。
「浄土真宗というのはものすごく素晴らしいもので、
私はこれより他にないと思っており、願わくば同じように信仰してもらいたいが、
そこから先はなるようになる、ご縁にまかせるより他なし」
おそらく私がおじいちゃんの存在を通してご縁をいただいたように、
私の存在を通してご縁をいただくことになってもらいたいと思う反面、
すべては阿弥陀様が一生懸命私たちを救おうとして下さっている
そのお力によるものである以上、
私のはからいを超えたことだと思うのです。
前回のおじいちゃんとの対話を通して、
理屈ではないことを理屈で考えるおろかさを感じるといっていたのに、
やっぱり考えてしまうんです。そして、聞かずにはおれないんです。
おじいちゃんの考えを聞きたいのでまた会いに行きます。
その時まで、どうかめっちゃんのこのとりとめもない問いにつきあってください。
敬具
めっちゃんより
2.2「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか」[対話]へ続く
コメント (2)
宗教ってなんだろうと思ったりします。
自分の宗派が1番だという方もいます。宗派の対立とか
同じ仏教じゃないのかなって素人の私は思うのですが。
宗教って所詮人が作ったもの。
各宗派ができたのは人の欲望なんじゃないかと思います。
悲しいかな最近のお坊さんは色欲金欲物欲などの塊の人が多いように思います。
すべてのお坊さんじゃないですよ。ごく少数と思います。
投稿者: たっちゃん | 2007年7月12日 08:47
日時: 2007年7月12日 08:47
コメントありがとうございます。
そうですね、確かに「宗派」ってなんだろうって私も思います。
なぜ宗派同士が争うのだろう、宗派が違っても同じようなことをいっているのではないか、
などなど私も疑問はつきません。
欲望のもとにできたものなのかと問われればそうなような気もします。
ただいろいろ考えても、結局は、縁があった教えのもとで自分が生きるしかないということだろうなあって思います。
いろんな親がいるけれど、私の親はこの人だけ、他に変えられない、そういうことととっても似ていると思います。
投稿者: めっちゃん | 2007年7月12日 21:15
日時: 2007年7月12日 21:15