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2007年7月 アーカイブ

2007年7月15日

後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。

[おじいちゃん]

めっちゃん、お手紙読ませてもらったよ。

「他の人のことなんかわしの知ったこっちゃない」
とぽーんと言ってしまいたいけど、
そうはいかないね。ははははは。

それじゃあ、さっそく話を始めようか。

「生と死を支えるもの」

[おじいちゃん]

まず、今回の質問は、
「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのか」
ということが一番の疑問の中心だね。

まずそもそもね、
「救い」ということの内容がいろいろとあるのだと思うね。

ただ、いろんな宗教があって、
いろんな人がそれによって心のやすらぎを獲得する。

そういう意味では、救われるものというのは無数にあるだろうね。

それをいちいち、あれがいい、これがどうというわけじゃないと思うよ。
その人にとってそれが一番いいというものがあるんだよ。
仏教ではそういうのを、「病に応じて薬を与える」という意味で
「応病与薬(おうびょうよやく)」というのだけどね。
それと同じで、その人の置かれている精神状況や生活環境に応じて
一番適切な教えが一番いいということだろうね。

ただね、「みんなが同じ境地に到達するか」
というとそれは分からないけどね。

そしてね、その人にとって心のやすらぎを持つという意味ではいいのだけれども、
究極は「生と死を支えるもの」でないといけないわけなんだよ。

[めっちゃん]

生と死を支えるもの?

[おじいちゃん]

そう、それが宗教の特徴なんだよ。
どの宗教も生と死を支えていくわけだから、そこには程度の高い低いはなくて、
その人にとって何が一番いいのか、ということが大事になるね。

[めっちゃん]

さっきおじいちゃんは「心のやすらぎ」っていったけど、
その「心のやすらぎ」と「救い」って違うもの?

[おじいちゃん]

いやいや、違うものではないよ。
ひとつの問題を解決したらひとつのやすらぎを得るけれども、
次の問題が出てきたらそれに全然対応できないということがあるだろう。
そうなると、もっと深いやすらぎが必要になるね。

そうすると、もう少し程度の高い宗教が必要になるということなんだよ。
そして、さっきいったように、究極的には、「生と死を支えるもの」
というところまでいかないと宗教としては不十分なんだよ。

「私の夫と赤ちゃんは救われるのか?」

[めっちゃん]

じゃあね、おじいちゃん。手紙にも書いたのだけど、
私の夫は、何か特別に宗教を信仰しているわけではないし、
生まれたばかりの私の赤ちゃんもそう。

そうなると、心のやすらぎはあったとしても、
究極のところがないとすればやっぱり心配になるのね。
そのあたりについては、おじいちゃんはどう思う?

[おじいちゃん]

まず、同じ家庭の中で違った宗教をもっているということは、
ある意味不安定な生活を招きうると思うよ。
よっぽど相手の立場を認めていても、生活様式が違ってくるからね。

まあこれはちょっと極端な例だけど、
例えばイスラム教徒とヒンズー教徒が一緒に暮らすと、まず食べ物に困るよね。
もちろん食事の制限だけではなくて、ものの考え方もかなり違ってくる。
そういう意味で、宗教の違いが逆に生活を不安定にするということが起きてくるだろうね。

そうは言っても、それが信仰である限りは統一できるものでもないよね。

[めっちゃん]

そうね、信仰である限りは変えられないと思う。
それが家の習慣とかだったらどうとでもなるけどね。

[おじいちゃん]

ただまあ仏教についていうなら、例えば天台宗と浄土真宗なんかは、
どっちも念仏するわけで、そういう意味では浄土真宗が正信偈をあげるのも
そんなに違和感はないだろうしね。

ただ、家庭の中で出来る限り宗教は一致していた方がいいし、
それはとても大事な問題だと思うよ。

「大きな力」への「いくつものつながり方」

[めっちゃん]

そうね。
あとね、もうひとつの疑問。

私は南無阿弥陀仏と手をあわせることで、大きな何かにつながっていると感じるし、
私がお世話になった産婦人科医はお産にたちあう度に、大きな何かにつながっていると感じる。
そんな風に、「いくつものつながり方」みたいなものがあるのではないかなっと思うのだけど、
それは少し違う理解かな?

[おじいちゃん]

そういう考え方もあるよね。
ただね、ある意味そこでは「大きな力」という形で抽象化されているんだよ。
ところが実際のお念仏の中で味わう「大きな力」というのは、
「仏様のご縁」という形で具体化している
わけなんだよ。

お医者さんの場合には、赤ちゃんが産まれてくる姿に大きな力を感ずるということだね。
まあ、それは優れた科学者であれば当然ありうることだね。

抽象的な場合や、理論的な場合は、それでいいんだよ。
まあ抽象的というのは理論的ということなのだけどね。
つまり、理論的にもある種の整合性があって、
本人にも納得ができている場合はそれでいいのだよ。

ただ大事なことはね、それが生と死の問題にぶつかったり、
あるいは罪と罰の問題にぶつかった時に、そこから解答がでてくるかということ
なのだよ。
非常に抽象化されているがために、それを受け止める力がないということがあるんだよ。

「私たちを導いてくれるもの」

[めっちゃん]

抽象的というのをもう一度説明してもらえるかな?

[おじいちゃん]

抽象的というのは誰にでもわかるんだよ。
そして本人も理論的には納得ができるんだ。
だけどね、抽象的な場合は、何か大きな問題にぶつかった時に、
それが自分自身の主導原理としては働きにくいのだよ。

[めっちゃん]

主導原理?

[おじいちゃん]

そう、主導原理って例えば、
「こっちの方を向け、こういう生き方、考え方をしろ」
というような問題への指導性ということだよ。

つまりな、具体的であるほど具体的問題に対応しやすくなるんだよ。

抽象的である場合には、
普遍性をもっているけれども具体的な問題になった時には案外無力になるんだよ。
だから、出来るだけ宗教を通して具体化していった方がいいと思うんだよ。

[めっちゃん]

なんだか言葉が少し混乱気味かな…。
具体的っていうのは、体系的っていうことかな?

[おじいちゃん]

いやいや、体系的ということではなくて、
精神構造の重層性があるということだよ。

例えばね、野原に咲いている一輪の花をみて、
キリスト教徒の場合は「そこに神の栄光を感ずる」という。
また一方で、「そこに宇宙的な生命を感ずる」という人もいる。

どちらも感じている状態は同じだと思うよ。だけどその時に、
キリスト教徒であれば非常に敬虔なお祈りが、つまり宗教的な行動が出てくるわけだよ。

つまり、同じような領域を感じているのだけど、
それがどういう形で具体化していくか
ということなんだ。
なんというかな、いろんな問題にぶちあたったり、迷ったりする時に、
「その感じた何かが、人生を指導していく原理として動いてくるかどうか」ということだね。

[めっちゃん]

それは宗教かどうかというより、
信心があるかどうか、ということじゃないのかな?

[おじいちゃん]

信心といってもいいのかもしれないけど、もっと正確にいうなら、
宗教性が濃厚な場合と希薄な場合があるということだろうね。

産婦人科の先生の場合、
赤ちゃんが産まれてくる場面なんていうのはとても神秘的だからね、
ただその神秘的なことが自分の人生の中で
どういう風に具体化していくかという問題があるのと思うよ。

めっちゃん、宗教っていうのはな、
横にずらっと並ぶだけじゃなくてな、縦にも並ぶと思うよ。
つまり重層構造をもっているんだよ。
その意味で、おじいちゃんなんかも、
キリスト教徒のセントフランシスの行動をみていて立派だなあって思うしね、
そういう立派さを共感しあうところがあるもんだよ。

そういう意味では、自分の信仰とは違うけれども非常に深く共感ができるんだ。

仏教の中でも禅宗や真言宗も、
それぞれ非常に優れた宗教体系をもっていると思うよ。

「私にとってはこれ以外に道はない」

ということと同じように

「あなたにとってそれ以外に道がない」

ということが認められればいいんだよ。

ただそれが同じ家庭の中にいると、話がちぐはぐしたり、
生活様式がちぐはぐすることがあったりして安定感を欠くことがあるので、
一緒に暮らす場合は同じ宗教をもつというのは大事だと思うけどね。

「対話する宗教・しない宗教」

[めっちゃん]

いやあ、今日はなんかちょっと混乱気味やわ。おじいちゃん。

[おじいちゃん]

はははは。まあまあ、混乱してなんぼということもあるからね。

それにしても、実際問題、
今の時代は宗教の多元性や違った宗教間の対話というのが、
非常に大きな問題になってきているね。

ただ対話というのが可能になるのは、
お互いが相手の真理性を認めないと成立しないもんなんだよ、
そうでなければ「伝道」であって「対話」ではないんだ。

伝道の場合は、多くの場合はおしつけがあるからな。

親鸞聖人みたいに「誰でもはいってくれて好きなときにでていったらいいよ」
とぽーんと言い切れる心の広い人はめったにいないんでね。

「違った宗教であってもその真理性を認める」

あるいは、

「私は信じないけど、あなたの信じているものを私は認める」

とかそういうことはありうるわけだよ。

これからはむしろそういう宗教になるだろうね。
宗教がひとつの共同体を支えていっていた場合、
これを信じないとこの共同体に入れないという非常に偏狭なものであったけれど、
これからはそれをなくすようにしないといけないだろうね。

「相手の信仰を大事にする、相手の信心を大事にする」

しかし、

「認めるけど私は信じない、私は違うものを信じる」

そういうことが同時に成立するように、
これからはなっていくんじゃないかな、
そうしないと人類滅びると思うわ。

宗教で滅びたっていうんじゃ、かっこつかんからなあ。

[めっちゃん]

相手の信仰を大事にする、相手の信心を大事にする、か。
なんだかずばりの答えはないけど、ヒントをいっぱいもらった気がするな。

[おじいちゃん]

ずばりの答えなんか期待したらあかん。

[めっちゃん]

そうやな、さすが、おじいちゃん。
ちょっとまたゆっくり整理してみるわ。

ありがとう。

また手紙書くね。

2007年7月 1日

おじいちゃんへ

拝啓

ぽかぽかと穏やかな小春日和が続いていますが、
お変わりなくお元気でお過ごしでしょうか。
縁側の窓から広がる久美浜湾を眺めている
おじいちゃんの様子を思いうかべながら、
今日もまたつらつらとお手紙を書いています。

もしかすると、この手の質問はおじいちゃんを
少し不愉快にさせてしまうのではないかとやや心配しつつも、
やっぱり聞かずにはおれず、今日も筆をとりました。

「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか?」

これが今回のおじいちゃんへの質問です。

■「なぜ浄土真宗を信じているのか?」


この質問に関連して、
私は随分前に一度おじいちゃんにお手紙を書いています。
それは、ギリシャを旅した時に感じた疑問を綴ったものでした。

宗教色の強いギリシャを巡る中で、私が出会ったギリシャ人たちは、
何度となくギリシャ正教の素晴らしさを私に説いてきました。
「なぜギリシャ正教を信じているのか」と私が問えば、
その理由を懇々と説明してきました。
一方で私は、「自分がなぜ浄土真宗を信じているのか」ということに対して、
まったくと言っていいほど彼らに論理的に説明できませんでした。
そのことに疑問と不安を覚えておじいちゃんに手紙を書いたのでした。

さっそくその時の手紙を引っ張り出して、私も少し読み返してみました。

『「あなたはなぜ浄土真宗を信じているのか」と問われても、
私は「浄土真宗にご縁があったから」としか言えませんでした。
それは自分の親が自分の親たるゆえんを、
説明できないのととても似ていると思います
(縁があったということと
他の親には決して代えられないということ以外は、
何も言えないのであります)。

(途中省略)

おそらく私は、信じること、まかせることがすべてであると信じる一方で、
どこかでやはり浄土真宗への絶対的まかせがまったくできておらず、
他を知って比較することで自分の信じているものが揺らぐことを
恐れる思いがあるような気がします。

同時に、だからこそ、
これから長い人生を生きていく上でたとえ愚かであっても、
「どうして自分は浄土真宗を信じているのだろうか?」
ともっと真正面から考えねば、
自分が将来子どもを持って親になったり
自分が伝える立場に立った時に
揺らぎはしないだろうかと懸念するのです』


■「夫や子どもがこのままだと救われないのだろうか?」


この手紙を書いてから早五年の月日がたち、
その間に私は結婚し、子供も授かりました。

おじいちゃんも知っているとおり、
私の夫は浄土真宗に対する私の思いを
とてもよく理解してくれる人ですが、
本人は何か特別な宗教を信仰しているわけではありません。
伴侶を得て親となった今、
「どうして自分は浄土真宗を信じているのだろうか?」
という問いの延長線上にある
「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのだろうか」
という問いが、
「家族である自分の夫や子どもがこのままだと救われないのだろうか」という
極めてリアルな問いとしてなんだか迫ってきているわけなのです。

その点について、おじいちゃん、私はふたつのことを感じています。

ひとつは、「私にとっては、念仏より他に救われる道はない」
今の私が確かにいえるのは、この一点だけです。
浄土真宗かどうかということより、
「南無阿弥陀仏とお念仏するより他に私が救われる道はない」
ということなのです。

同時に、(この前の手紙にも書きましたが)
南無阿弥陀仏とお念仏しなくても私は救われると思っている、
そのことはすでに決まったことだと思っている、
しかし、南無阿弥陀仏が口をついてでてしまう、
「念仏がなくても救われると思う反面、念仏が口をついて出てしまう。
そして、この念仏以外に私が救われる道はない」
この相矛盾するようなすべてのことが、私の中の素直で確かな感情です。

さて、もうひとつ思うこと、それは、
「私以外の人にとっては、念仏より他の道があるのかもしれない」
ということです。
この点についてはまったく確信もなく、
ただ感覚的に思っているというのが正直なところです。


■「大いなるもの」に自分が生かされているという感覚


なんと表現すればよいのかわからないので、
ここでは「大いなるもの」といいますが、
この「大いなるもの」に自分が生かされているという感覚、絶対的安心感、
そのような感覚を、私は「南無阿弥陀仏」と手をあわせる習慣の中で
理屈なく感じてきたわけですが、一方で、同じような絶対的安心感を、
念仏以外の方法で感じている人もいるようにも思うのです。

例えば、私がお産でお世話になった産科医は、
2万例以上のお産に関わってきた人なのですが、
人工的な介入なく極めて原始的かつ自然なお産に立ち会う度に、
お産というのは人がしているのではなく大宇宙の大いなる力が
人を介しておこなっているものだと
感じざるをえないとよくおっしゃっていました。

また、自然なお産を通して、自分は大いなるものに生かされているのだと実感し、
その存在を前に自分の無力さを実感し、
ただただ手を合わせてゆだねるより他にない
という感覚におそわれる、ともおっしゃっていました。

さて、この産科医の感じる感覚は、
私が念仏の中で感じるそれととても共通していると思います。
どちらも理屈を超えて、自分という存在が大宇宙という
大いなるものに生かされていると感じ、
そこにある種の絶対的安心感を抱いているのだと思います。

そのように考えると、
「私以外の人にとって救われる道があるのか」という点については、
「分からない」を前提としながらも、
救われる道があるような気がしてしまうのです。

そうすると、(極めて浅はかな表現になってしまうのですが)
「大いなるもの」につながる手段として私は念仏をし、念仏以外の手段でもって
その「大いなるもの」につながる人もいるように思うのです。
そこには「ありがとうございます、おまかせします」という、
私が阿弥陀様におまかせする時の思いと同じような思いが存在すると思います。

上記のようなふたつの思いがある中で、
当初の疑問「浄土真宗以外を信仰する人は救われないのだろうか」を
もう一度考えてみると、
「私は念仏より他に救われないのだが、
私以外の人はどうか分からない、救われる人もいるように思う」

という極めていいかげんであやふやな結論に至ってしまうのです。

さてそうなると、
「自分の周囲の大切な人、夫や子ども、彼らはどうなのか、救われないのか」
という日常のリアルな疑問が置き去りになってしまうのだけど、
やはり、「分からない」としかいえないのです。
夫、子どもといえども私以外の人である以上分からないのです。


■「同じように浄土真宗を信仰させようと思わないのか?」


一方で、「そうであるならば、同じように浄土真宗を信仰させようと思わないのか?」
そう問われる方もいるかもしれませんね。
では、そう問われれば私はなんと答えるだろうか?

 たぶんこのように答えると思います。

「浄土真宗というのはものすごく素晴らしいもので、
私はこれより他にないと思っており、願わくば同じように信仰してもらいたいが、
そこから先はなるようになる、ご縁にまかせるより他なし」

おそらく私がおじいちゃんの存在を通してご縁をいただいたように、
私の存在を通してご縁をいただくことになってもらいたいと思う反面、
すべては阿弥陀様が一生懸命私たちを救おうとして下さっている
そのお力によるものである以上、
私のはからいを超えたことだと思うのです。

前回のおじいちゃんとの対話を通して、
理屈ではないことを理屈で考えるおろかさを感じるといっていたのに、
やっぱり考えてしまうんです。そして、聞かずにはおれないんです。

おじいちゃんの考えを聞きたいのでまた会いに行きます。
その時まで、どうかめっちゃんのこのとりとめもない問いにつきあってください。

敬具

めっちゃんより


2.2「浄土真宗を信仰する人以外は救われないのでしょうか」[対話]へ続く

めっちゃん(29歳)が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。
[手紙]
ーめっちゃんからおじいちゃんへの手紙
[対話]
ーめっちゃんとおじいちゃんの面談
[振り返り]
ー面談を終えためっちゃんの感想
めっちゃん
離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。