おじいちゃんへ
おじいちゃん、
この間はゆっくり話を聞かせてくれてありがとう。
私はおじいちゃんと話すことで、
「この方向でいいのだ」という
ある種の安心感や自信のようなものをもらうような気がします。
今回の私の質問は、
「浄土真宗を正しく聴かせていただくことの意味」
についてでした。
■「巨大な何かを直視してみたいという思い」
私自身、30歳近くになって
少しずつ浄土真宗をもっと深めたいという思いが強くなり、
実際に法座を聴いたり勉強させていただくようになりました。
真宗を深めたいというよりは、もっと正直にいうならば、
「自分の横にある巨大な何か、
それがずっと気になって仕方がないのだけれども
直視してこなかった、
その巨大な何かを直視してみてみたいという思いを
抑えきれなくなってきた」
と言った方がいいかもしれません。
話の中で、おじいちゃんは「飢餓感」ということばを使いました。
「自己満足だけではないある種の飢餓感がある」と。
そこには、真宗を正しく理解しなければ救われないのかどうか、
といったことをまったく超えた
「つき動かされる何か」があるのだと、そう理解しました。
何かをすれば何かが得られる、
そういう原因と結果の関係などを超越した、
もうそうせざるをえないような、
本能的とも言うべきものがあるだけなのではないだろうか。
私の「巨大な何かを直視してみたいという思い」も
その延長線上にあるものだと思います。
■『「信」ということ』
また「信(しん)」ということについて、
「仏様がおっしゃることはほんまやと受けいれたことを「信」といい、
「信」というのは一瞬にして決まる。ただ、一瞬にして決まるが、
受け入れた内容がどれだけ自分のものになっているか、
どれだけ自分が理解しているか、
となるとそこには人それぞれ差がある。
共通の場にいるけれども、
味わいの深い浅いという意味においては雲泥の差がある」
とおじいちゃんは言いました。
自分自身に関していうなれば、
私は「信」があると思います。
しかし、「信」として受け入れた内容は
まだまだ自分のものにはとてもなっていない、
(おじいちゃんは海という共通の場に入る例えを言いましたが)
海という共通の場に足先だけを入れた状態なのだと理解しています。
■「浄土という絶対安堵の世界」
では、私はどういうふうに「信」を得たのだろうと考えてみると、
そこにはやはりおじいちゃん、あなたがいるわけであります。
本人に言うのも照れますが、
私はきっとおじいちゃんに対する深い信頼感を通して
浄土真宗のご縁をいただき、そして信をいただいたのだと思います。
もちろん、「それも含めてすべてがお釈迦さまのお力なのだぞ」と
おじいちゃんは言うでしょうが、このリアルな現実において
おじいちゃんの存在がやはり大きかったと私自身は思っています。
いつかおじいちゃんに手紙で書いたことがありましたね。
「大学入学の前日にいつものように『南無阿弥陀仏』といいながら
手をあわせて心の中で『浄土にいけますように』と唱えた自分がいた。
なぜ『大学に合格しますように』と願わなかったのかと、
後日とても不思議に思った」、と。
そしてはたと気づかされた。
「大学に入ることと私の幸福はまったく別のことだ」と。
この当たり前の事実を実感し、同時に、自分はただひたすら
浄土という絶対安堵の世界を求めつづけているのだということに気づき、
また、この世のすべてのことが
極めて不安定な形だけのものであるということを感じたのでした。
そのことをおじいちゃんに手紙で伝えましたね。
私はおじいちゃんという存在や念仏する習慣を通して
「絶対安堵の世界観」というのを
自然に信じ受け入れてきたのだと思います。
■「何かに突き動かされて」
「浄土真宗を正しく聴かせていただくことの意味はなんなのだろう?」
その問いに少し戻りましょう。
結局のところ、意味も目的も無くして、
「ただそうせざるを得ないからそうしている、
何かに突き動かされてそうしている」
それだけなのだと思います。
「信」ある者がもつ「飢餓感」、
そうしないではいられない自分がそこにいる。
突き動かされ、追い求める上で、
浄土真宗を信じる者として一番確かなあり方が、
親鸞聖人が残して下さった教えを忠実に拝読すること。
そしてそのような姿を通して、あくまで結果として、
仏弟子としての成長があり、また周囲の者がご縁をいただき、
そこに味わい深い人生が開けていく。
そのように思います。
おじいちゃんとの対話を通して
あらためて理屈ではないことを確認させられ、
同時にやはり理屈で考えてしまう
愚かな自分がいることも確認する次第です。
いつも、めっちゃんからのとりとめもない質問に
一生懸命答えてくれてありがとう。
また会える日を楽しみにしています。
めっちゃんより