2007年05月15日

おじいちゃんへ

寒い日が続いていますがお変わりなくおすごしでしょうか。
いつものごとく、この手紙を京都に戻る新幹線の中で書いています。
「まためっちゃんからの質問がきたわい」と
あきれつつも意気揚々としているおじいちゃんの姿を思いうかべながら、
つらつらとお手紙を書いております。

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おじいちゃんはいつも私に言います。
「めっちゃん、お釈迦さまの教えを正しく聴かせていただきなさい」
今回おじいちゃんに質問したいことは、
「浄土真宗を正しく聴かせていただく、理解しようとする、
 その行為の本質的意味は何なのでしょうか」
ということです。

もっというならば、
「浄土真宗を正しく理解しないことには救われないのでしょうか」
ということであります。

私は理屈より先に、
お念仏する、お経を唱えるという行為が
生活の中にありました。
おじいちゃんも知っていると思うけど、我が家では、
寝る前には必ず家にある仏壇の前で南無阿弥陀仏と唱えて、
お経の一部を読むのが”習慣”でした。
私は、そのことの意味をあとになって考えはじめるわけですが、
そのような時期にはもうそれらは
私の中にしみこんでいる状態でありました。

何の意味もわからないままに
「なむあみだぶつ」と手をあわせる私は、もうその時点で
「救われるということは決まっている」
と思っています。
いつか私が亡くなったら浄土にまいらせていただけるということは
もう「決まったこと」になっていると思っています。

また、おじいちゃんもきっと私と同じように、
「救われるということは決まっている」
と思っているのだと思います。

ではそのとき、二人が同じ一言で言う「救われる」ということに
なにか違いはあるのでしょうか。

私は、ないと思っています。

つまり、
めっちゃんも、おじいちゃんも、
まったく同じ次元で「救われる」のだと思っています。

でも、めっちゃんが意味もわからないままに手をあわせていた一方で、
おじいちゃんは生涯をかけて浄土真宗を追及してきたわけで、
そこには莫大な時間とエネルギーを費やしてきたという事実も
歴然としてあるわけです。

教えを聴かせていただくことに関して費やした時間やエネルギーは、
まったくもって私とおじいちゃんでは比にならないにも関わらず、
救われるか否かという一点においては同じだと考える。

では、これまでおじいちゃんが費やしてきた時間とエネルギーの
その意味はどこにあるのだろう、
そのような疑問が湧くわけであります。

「浄土真宗を正しく理解しようとするその行為の
 本質的意味はどこにあるのだろうか。」

この疑問はずいぶん長い間、私の中にありました。
その問いに対する現時点での私の考えは以下のとおりです。

結局のところ、救われるか否かということにおいては、
真宗を正しく理解しようとする行為の本質的な意味はないのではないか、
もし意味があるとすれば、
それは「自己満足と他人への影響」ではないかと思います。

自分が真実だと思い最も重要であると考えることについて、
正しく理解したいという自己欲求の追及。
その中ではじめて人に「伝える」ということができてくるし、
それがまた自分の欲求を満たすことにもなる。
また、その真剣な姿を見て
家族を含めた周囲の者がご縁をいただいていく。
これもまた事実として起きるのだと思います。

実際に私は、
おじいちゃんが浄土真宗を追求するその真剣な姿に
大きく影響を受けました。
おじいちゃんの生き方を見ながら
私は浄土真宗のご縁をいただいたと言っても過言ではありません。

そのように考えると、
おじいちゃんが浄土真宗を追求してきたその事実が
確実に孫の人生を変えたとも言えるわけで、
その意味においては、
おじいちゃんの浄土真宗に費やした時間やエネルギーというのは
確実に意味をなすとも思うわけであります。

矛盾しているかのように聞こえるかもしれませんが、
「浄土真宗を理解しようとする行為の本質的意味はない」
というのが私の考えです。

しかしその一方で、理解しようとするその過程において
浄土真宗を味わうこの上ない贅沢さに満足を覚えると同時に、
その姿を通して周囲の人が影響を受けて真宗のご縁をいただいていく。

したがって、二次的な意味において
浄土真宗を理解しようとすることはきわめて大切ですし、
理解しようとするからには、
「正しく理解する」「正しく聴かせていただく」
ことが重要であるというのが大前提になるのだと思います。

正しいか間違っているかの議論ではないとは思いつつも、
私のこうした疑問や考えをおじいちゃんはどう受け止めてくれるか、
聞いてみたいのです。

もうすぐ会えますね。
その時にゆっくりと話ができるのを楽しみしています。

めっちゃんより

2007年06月01日

後日、めっちゃんはおじいちゃんに会いにいきました。

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[おじいちゃん]

めっちゃん、お手紙読ませてもらったよ。
また難題を持ってきたなあ。
それじゃあ、さっそく話を始めようか。

めっちゃんの質問は、
「正しく聴かせていただくこと意味はなんだろうか。
 正しく聴かせていただかないと救われないのか」
ということだね。

本題に入る前に、
まず「何をどう学ぶか」ということから話そうか。

めっちゃん、浄土真宗を学ぶ上で一番大事なことはなんだと思う?


[めっちゃん]

うーん、なにかなあ・・・


[おじいちゃん]

まずはな、親鸞聖人のお聖教を正確に拝読するということだよ。
正確に拝読するために一番いいのは、自分で現代語訳することだね。
親鸞聖人が何を考えていて何を言おうとしていたか、
それを正確にとらえるのが一番大事なんだ。
教義というのももちろんあるけれど、
あの方の生の声を聴くというのが大事なんだよ。

もうひとつは、読むときに「朗読をしてみる」ということだな。
中世の文章というのはもともと朗読するものなんだ。
おそらく親鸞聖人は、ご自分で書かれた教行信証など
何度も何度も自分で声に出して読んでこられたと思うよ。
そうすると生命のリズムみたいなものが響いてくる。
そういうことを心がけていくといい。
おじいちゃんなんかも、ついつい目でばかり読んでしまうけど、
そうするとね、大事な部分が失われてしまうんだよ。

大事な文章は声に出して読んでみるということだよ。
そうすると言葉に慣れてくるしね、
親鸞聖人が語った言葉で聴くという意味で、
朗読しながら読むといいんだよ。


[めっちゃん]

じゃあ、おじいちゃん。
つまり、お聖教を正確に拝読したり、浄土真宗の勉強をしないと
救われないということかな?

[おじいちゃん]

いよいよ本題だね。
それは、救われるということの意味がわかってくるということだよ。

救われるということは、簡単といえば簡単だ。
でも同時に、人生というのは無限に多様な、
しかも誰も経験したことがない事柄がどんどん出てきて
その中で確かめていくわけで、そういう意味では、
人生全体が道場みたいなものなんだよ。

ただ、教えを反発しながら聴くのではなく、
教えをほんものと受け入れて、そして確かめていこうという態度、
それが信心というものだ。

だから、信の無い者は共感がないから、
お聖教をいくら読んでもわからない。
ほんとうにわかろうとするならば、
愛情や敬意をもって読むものなんだ。
愛情や敬意、深い信頼感なくして宗教の文章というのは身につかない。

信心っていうのはな、めっちゃん、
「この人の言ってることがほんとうなんだ」と
それがわかることが信心なんだ。
共鳴しているということは、
親鸞聖人と同じ世界にいるということなんだよ。
もちろん、そこには雲泥の差があるけどね。

たとえば、海に入るとひとことに言ってもいろいろあるね。
片足を海につけても海に入るというものだし、
太平洋のど真ん中に入っても海に入っているわけだね。
「海に入る」という意味では一緒なんだけど、
味わいの、人生感の浅い深いはある。
でも、全体としては共通の場にいるわけだ。
その「共通の場にいる」というのが大事なことで、
真理っていうのはそういう世界なんだよ。

たとえば、仏さんの言葉を聴いて、この言葉が
「ほんものや」と受け取ったときに開かれていく世界と、
「どうやろなあ」と思いながら聴いている時との違いがある。

仏さんがおっしゃることはほんまやと、
受け入れたことを信というんだ。
これも一瞬、一瞬にして決まることだよ。

けど、その受けいれた内容がどれだけ自分のものになっているか、
どれだけ自分に理解されているかということになると
それはみんなそれぞれ違うわけなんだよ。
まあ、違っていていいんだ。
違っていていいんだけれども、
共通の場にいるということはあるわけだ。

信があると親鸞聖人の考え方と波長が合うんだな。
雑音が入りながらも波長が合うから聴こえてくる。
「ああこういうことだったのか」という目覚めが生涯続いていく、
そういう意味で成長し続けるという一面があるわけなんだよ。


[めっちゃん]

おじいちゃん、そういう意味では、私はたぶん、
親鸞聖人と同じ海の中に少しだけ足を入れている状態だと思うな。
じゃあ、海のどんどん深いところへ入っていくことの
意味というのはなんなのだろうか。
私は、それは自己満足なんじゃないかと思うんだけど。


[おじいちゃん]

そうだなあ、ある程度は自己満足であっていいんだけどね。
ただ、聴くという時には
ある種の飢餓感があるから進んでいくわけなんだよ。
自己満足という時には、
そこに座ってしまっているようなものだけど、
実際には、そこからもっと先があるんじゃないかと追求して
どんどん深みに入っていくわけで。
まあそういうことは人間として、
あるいは仏弟子として成長していくことになるのだろうしね。

同じ本でも前読んだときには気づかなかったことが
もう一度読んでみるとわかったりするものだろう。
そういうことがずっと続いていくんだよ。

そういう意味では
「まだわからない、まだわからない」
ということもある一方で、こっちからみると、
「前はわからなかったことが今はここまでわかっているのだな、
 ああこれだけ育ててもらっているのだな」
というのがあるからね。

そうすると、人生っていうのはけっこう収穫の多いもの、
生きていることはありがたいことではないかな。

あせることはない、めっちゃん。
生きている時間を上手に使って経典をゆっくり読んでいったらいい。
一番大事なことは、敬意をもって、しかしリラックスして読むことだよ。
教えを正しく聴いていくということは、
一番大事なことはお聖教に忠実に聴くということ。
そのためにはできれば自分で現代語訳してみると、
そしてそれを何年かたってまた読み返してみれば、
「ああ、こう訳した方がいいなあ」ということが出てくる。
それは自分が成長している証なんだよ。

最初から完成はありえない。

そういうことを積み重ねていくと、けっこう楽しいもんだよ。


[めっちゃん]

うん、なんかちょっとわかったような、
うまく言えないけど、少し整理された気がする。
また少し自分で考えさせてもらうね。
ありがとう。

2007年06月15日

おじいちゃんへ

おじいちゃん、
この間はゆっくり話を聞かせてくれてありがとう。

私はおじいちゃんと話すことで、
「この方向でいいのだ」という
ある種の安心感や自信のようなものをもらうような気がします。

今回の私の質問は、
「浄土真宗を正しく聴かせていただくことの意味」
についてでした。

■「巨大な何かを直視してみたいという思い」

私自身、30歳近くになって
少しずつ浄土真宗をもっと深めたいという思いが強くなり、
実際に法座を聴いたり勉強させていただくようになりました。

真宗を深めたいというよりは、もっと正直にいうならば、

「自分の横にある巨大な何か、
 それがずっと気になって仕方がないのだけれども
 直視してこなかった、
 その巨大な何かを直視してみてみたいという思い
 抑えきれなくなってきた」

と言った方がいいかもしれません。

話の中で、おじいちゃんは「飢餓感」ということばを使いました。
「自己満足だけではないある種の飢餓感がある」と。
そこには、真宗を正しく理解しなければ救われないのかどうか、
といったことをまったく超えた
「つき動かされる何か」があるのだと、そう理解しました。

何かをすれば何かが得られる、
そういう原因と結果の関係などを超越した、
もうそうせざるをえないような、
本能的とも言うべきものがあるだけなのではないだろうか。

私の「巨大な何かを直視してみたいという思い」も
その延長線上にあるものだと思います。

■『「信」ということ』

また「信(しん)」ということについて、

「仏様がおっしゃることはほんまやと受けいれたことを「信」といい、
 「信」というのは一瞬にして決まる。ただ、一瞬にして決まるが、
 受け入れた内容がどれだけ自分のものになっているか、
 どれだけ自分が理解しているか、
 となるとそこには人それぞれ差がある。
 共通の場にいるけれども、
 味わいの深い浅いという意味においては雲泥の差がある」

とおじいちゃんは言いました。

自分自身に関していうなれば、
私は「信」があると思います。
しかし、「信」として受け入れた内容は
まだまだ自分のものにはとてもなっていない、
(おじいちゃんは海という共通の場に入る例えを言いましたが)
海という共通の場に足先だけを入れた状態なのだと理解しています。

■「浄土という絶対安堵の世界」

では、私はどういうふうに「信」を得たのだろうと考えてみると、
そこにはやはりおじいちゃん、あなたがいるわけであります。
本人に言うのも照れますが、
私はきっとおじいちゃんに対する深い信頼感を通して
浄土真宗のご縁をいただき、そして信をいただいたのだと思います。

もちろん、「それも含めてすべてがお釈迦さまのお力なのだぞ」と
おじいちゃんは言うでしょうが、このリアルな現実において
おじいちゃんの存在がやはり大きかったと私自身は思っています。

いつかおじいちゃんに手紙で書いたことがありましたね。

「大学入学の前日にいつものように『南無阿弥陀仏』といいながら
 手をあわせて心の中で『浄土にいけますように』と唱えた自分がいた。
 なぜ『大学に合格しますように』と願わなかったのかと、
 後日とても不思議に思った」、と。

そしてはたと気づかされた。
「大学に入ることと私の幸福はまったく別のことだ」と。

この当たり前の事実を実感し、同時に、自分はただひたすら
浄土という絶対安堵の世界を求めつづけているのだということに気づき、
また、この世のすべてのことが
極めて不安定な形だけのものであるということを感じたのでした。

そのことをおじいちゃんに手紙で伝えましたね。
私はおじいちゃんという存在や念仏する習慣を通して
「絶対安堵の世界観」というのを
自然に信じ受け入れてきたのだと思います。

■「何かに突き動かされて」

「浄土真宗を正しく聴かせていただくことの意味はなんなのだろう?」

その問いに少し戻りましょう。
結局のところ、意味も目的も無くして、

「ただそうせざるを得ないからそうしている、
何かに突き動かされてそうしている」

それだけなのだと思います。

「信」ある者がもつ「飢餓感」、
そうしないではいられない自分がそこにいる。
突き動かされ、追い求める上で、
浄土真宗を信じる者として一番確かなあり方が、
親鸞聖人が残して下さった教えを忠実に拝読すること。

そしてそのような姿を通して、あくまで結果として、
仏弟子としての成長があり、また周囲の者がご縁をいただき、
そこに味わい深い人生が開けていく。
そのように思います。

おじいちゃんとの対話を通して
あらためて理屈ではないことを確認させられ、
同時にやはり理屈で考えてしまう
愚かな自分がいることも確認する次第です。

いつも、めっちゃんからのとりとめもない質問に
一生懸命答えてくれてありがとう。

また会える日を楽しみにしています。

めっちゃんより

めっちゃん(29歳)が仏教について、浄土真宗について、日々考える素朴な疑問を、僧侶であるおじいちゃんに質問します。
[手紙]
ーめっちゃんからおじいちゃんへの手紙
[対話]
ーめっちゃんとおじいちゃんの面談
[振り返り]
ー面談を終えためっちゃんの感想
めっちゃん
離れて住むおじいちゃんは浄土真宗のお寺のお坊さん。そのおじいちゃんの影響を強く受けたせいか、人生の節目節目に浮かんでくる仏教への問いと格闘する日々が続く。京都府出身、現在29歳。今年第一子を出産。