2008年6月24日

東京の青山から渋谷方面には、現在国道246号線が走っています。俗に大山街道とも呼ばれています。元々は、江戸の人々が大山不動に参詣する時に使用した街道です。

大山を起点とする大山街道にはいくつもありました。七~八ケ所ほどありましたが、江戸からの参詣者が主に使った街道は、この矢倉沢往還とも呼ばれた道でした。

江戸から青山・宮益坂、三軒茶屋。そして多摩川を渡って二子・溝ノ口・長津田・厚木・伊勢原・矢倉沢を経て、駿河国に達する街道です。途中、大山の麓を通過する形を取るため、大山街道とも呼ばれていました。

江戸から駿河方面に向かう街道には東海道があります。東海道は五街道の一つですが、矢倉沢往還はそれに準じる脇往還と呼ばれていました。しかし、脇往還とは言え、その通行量は多かったようですが、なかでも大山への参詣者がかなりの割合を占めていました。

続きを読む "九章三話 大山街道"
2008年7月 1日

大山不動に参詣すると言っても、一年中というわけではありませんでした。参詣者が集中したのは、春山(4月15日~24日)、夏山(7月27日~8月17日)の時期でした。

春山の時期は農閑期にあたるため、近在や関東一円の農民が数多く参詣したようです。夏山の時期は盆山とも言い、特に江戸からの参詣者で溢れました。

神仏分離前の江戸時代には石尊大権現と呼ばれていた大山阿夫利神社は、雨乞いの神様として大山の麓に広がる農民から厚く信仰されていました。江戸時代の事例ですが、次のような風習があったと言います。

続きを読む "九章四話 参詣のピーク"
2008年6月10日

現在の神奈川県伊勢原市に、大山(おおやま)という標高1253メートルの山があります。この辺りは、ハイキングでも知られる丹沢山系の地域に当たりますが、その最も南東に大山は位置しています。

この大山には、阿夫利山(あふりさん)という名前がありますが、雨降山とも呼ばれていました。雨を降らせてくれる山として、古くから厚い信仰を集めていたのです。特に農民にとっては雨は大切ですから、雨乞いの対象として、その心に深く根付いていったようです。

大山の頂上には、大山阿夫利神社の本社が鎮座しています。そして山中に、阿夫利神社の下社そして大山寺があります。

阿夫利神社には、石尊大権現、大雷神、高おかみ神、鳥石楠船神(とりのいわくすふね)などが祀られています。大山寺の本尊は不動明王です。成田不動、高幡不動、そしてこの大山不動が、関東の三大不動と呼ばれています。

続きを読む "九章一話 雨乞いの山"
2008年6月17日

 大山講は成田講や高尾講にも勝るとも劣らないほどの規模を誇った講でした。講員は70万人を越えていたと言われています。最盛期には、年間20万人が参詣したと伝えられます。「大山詣り」という落語があるほど、当時のメジャーな御参りでした。

大山詣に当たっては、面白い風習がありました。「納太刀」という風習です。源頼朝の太刀奉納に由来すると伝えられています。

頼朝と言えば、鎌倉幕府を開いた人物ですが、大山に登山して武運を祈ったと言います。その折、太刀を奉納したのでしょう。以後、頼朝に倣って、武士たちが武運の神様として厚く信仰している証として、太刀を納めるようになりましたが、その風習を町人も真似したというわけです。最初は本物の太刀だったのかもしれませんが、町人たちが奉納した太刀は木太刀でした。

続きを読む "九章二話 納太刀の風習"
2008年7月 8日

それでは、江戸っ子の大山詣の様子を見てみましょう。
江戸っ子は大山街道を通って、そのまま大山に向かうのではありません。意外なことに、隅田川に向かうのです。向かう先は両国橋です。

両国橋は隅田川に架かる橋の一つです。江戸の頃は、隅田川には5つしか橋が架かっていませんでした。千住大橋が一番古く、その次が両国橋、そして永代橋・新大橋・吾妻橋の順です。

両国橋が架橋された年には諸説ありますが、明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の翌年より、架橋工事がはじまりました。

両国橋は、江戸市街と当時市街地化が進んでいた本所・両国地域を結ぶ橋として、交通量はたいへん激しかったようです。寛保2年(1742)に幕府が調査したところでは、1日になんと2万人以上が往来していたそうです。となると、その人の流れに注目したビジネスが生まれることになります。

続きを読む "九章五話 両国橋での水ごり"
2008年7月15日
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江戸っ子が大山に向かう際には、両国橋東詰の下流側で水垢離(みずごり)をするのが慣習となっていました。ちなみに、大山詣をするのは男性のみでした。

江戸の名所旧跡などを取り上げたガイドブックである「続江戸砂子」(ぞくえどすなご)には、その様子が次の通り記述されています。

浅草川で17日間、水垢離をすると書いてあります。浅草川とは隅田川のことですが、17日間、具体的に毎日、どういうことをするのかと言うと、大きな木太刀を手に持って、乳の辺りまで水に浸かります。

そして、先達の法螺貝に合わせて、「懺悔、懺悔、六根精浄」(ざんげ、ざんげ、ろっこんしょうしょう」などと唱えたそうです。こうして、自分の体を清めたのです。

江戸を出立する時だけではありません。大山の麓に到着すると、今度は滝に打たれて身を清めます。その後、山を登るのです。

続きを読む "九章六話 六根精浄"
2008年7月22日

御師(おし)とは、どういう人たちなのでしょう。

御師とは特定の寺社に属して、参詣者を自分の属する寺社に導く者のことです。人々を導くだけでなく、祈祷を行ったり、参詣者に宿泊所も提供したりしました。導いた参詣者を檀那(信者)として、師檀関係を結んだのです。

大山だけでなく、この時代、特に伊勢神宮に参詣する人は物凄い数にのぼりました。年間、100万人前後が参詣したと伝えられています。その場合も、伊勢神宮に属すの御師が江戸の人々を伊勢神宮に導いていたのです。

こうした事例は枚挙に暇がないほどあります。当時は富士山信仰も根強く、富士山に参詣した人も多かったのですが、江戸の各所には富士山に模した富士塚が造られています。

富士山は女人禁制だったということもありますが、富士山まで行けない江戸の人々が富士塚を造って、そこに参詣することで、富士山参詣の代りにしていました。もちろん、富士塚でしたら、女性でも登ることができました。

続きを読む "九章七話 大山御師"
2008年7月29日

御師は大山の麓で普段は生活していたわけですが、年2回ぐらい講中のもとを回っています。これを檀那廻りと称しました。師檀関係の継続という意図があったことは言うまでもありません。この御師による檀那廻りが、江戸の人々による大山信仰を長く支える原動力となっていました。

大山講は江戸はもちろん、関東一体に展開していましたから、この檀那廻りは自然と長期にわたるものになりました。

もちろん、これまでの講中を回るためだけに檀那廻りをするのではありません。その折には、新たな檀家の獲得も目指していたのです。新たな講を結成しながら、回っていたのです。こうした御師たちの活動が、大山信仰の布教活動に他ならなかったことはもちろんです。

さて、御師は講中を回る時には、様々なものを配っていました。まずは、御札です。この行為を配札と呼んでいました。

続きを読む "九章八話 御師の業務"
2008年8月 5日

御師は、檀家つまり講中には大変気を遣っていました。

江戸っ子が大挙、大山に向かう夏山の時などは、麓に広がる伊勢原の町まで講中出迎えに行きました。登拝が終わり、下山してくると、今度は「山迎」と言って出迎えます。その時には、お酒やご飯、煮しめなどを振る舞っています。

さて、その大山講ですが、明治に入ってから編纂された「開導記」という記録には、御師が持っている檀家の数が町や村別に書き上げられています。その記録から、講中の実態を見てみましょう。

県別で言うと、神奈川県・東京府・埼玉県・千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・福島県・新潟県・長野県・山梨県・静岡県の12府県に及んでいました。講中の総数は15638にものぼっていました。

講中の数が一番多いのが、千葉県で2668。次が大山が所在する神奈川県で2412でした。

続きを読む "九章九話 大山御師"
2008年8月12日

明治に入ってからの数字ではありますが、大山講の規模は、戸数で約70万。1つの講あたりの戸数は、平均で50戸弱だったようです。 残念ながら、江戸の町の講中の数は分からないのですが、どういう講中が結成されていたかについては、いくつかの事例があります。以下、みていきましょう。

将軍の霊廟が置かれていた増上寺は芝地域に鎮座していますが、芝地域の人々が結成していた講中に御太刀講があります。この名前は、納太刀に由来することはもちろんです。

講中と言っても、全員が毎年参詣するのではありません。数人が代参講という形で参詣するのが通例でした。講中を代表して、大山詣りをするわけです。

そして、太刀を持ち帰ってくるわけですが、参詣できなかった講員は、太刀の刀身を少し抜き、その下をくぐって家内安全・商売繁盛を祈願したそうです。

続きを読む "九章十話 様々な大山講"
2008年8月19日

講中が大山に参詣する時は、御師が経営する宿坊に宿泊・休憩するのが通例でした。その経営事情などを細かく見てみます。

その前に、御師はどのような形で収入を得ていたのかを見ていきましょう。

何と言っても、宿坊経営による収入です。講による参詣と言っても、代参者数人を立てての参詣ですが、その宿泊代が貴重な収入となっていました。

宿泊代だけではありません。宿泊した翌朝に、大山に登山して参拝するわけですが、その前に、御師は参拝者に祈祷などをして、その料金を受け取っています

同行して道案内もします。御師は先導師でもありました

続きを読む "九章十一話 祈祷の収入"
2008年8月26日

宿坊の経営事情を教えてくれる資料はあまりないのですが、村山坊という宿坊の資料が残っています。それを見ていくことにしましょう。

村山坊は、222の講中を持っていました。天保2年(1831)の事例ですが、夏山(22日間)の時期に宿泊した講中は213でした。その人数ですが、総計857人だったそうです。

1つの講中で平均4人ほどが代参してきているわけですか、その人数にはかなりの幅がありました。1人でという事例が、33組もありました。一方、10人以上という事例は14組あります。

宿泊料ですが、1泊300文というのが通例でした。かけ蕎麦1杯が16文という時代ですから、蕎麦代の20倍弱ということになります。旅篭の宿泊料が1泊250文というのが相場でしたから、それより少し高めということになるでしょう。

ただし、講中は宿泊料だけ宿坊に支払ったのではありません。茶代と称して、その1割ぐらいを渡していました。他に、心付けもあります。

続きを読む "九章十二話 宿坊経営"
江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト