重倫が藩主時代は、紀州家と高尾山との関係はたいへん強いものでした。ですから、重倫の家族だけでなく、紀州家の家臣たちにも高尾山を厚く信仰する者が大勢いたでしょう。紀州家の江戸屋敷には、家臣だけで1000人以上はいました。家族も含めればその数倍。
そして、紀州家には分家もいくつかあります。高尾山としては、本家たる紀州家を通して分家への浸透も期待したことでしょう。紀州家の当主に跡継ぎがいなければ、分家から養子に入るわけですから、紀州家とのゆかりを永続的なものにするには、分家からも帰依を受けておく必要がありました。
さらに、紀州家は徳川将軍家の実家にもなっていましたので、将軍やその家臣たちへの浸透も期待できたわけです。ですから、紀州家を護摩檀家であることは、はかりしれないメリットを生んでいたのです。
しかし、高尾山に深く帰依していた重倫が隠居すると、紀州家の方針が変わってしまったようです。紀州家からの祈祷依頼の回数が激減し、天明6年(1786)には、祈祷料の奉納まで取り止められてしまっています。
正月・5月・9月の年3回、護摩檀家には護摩札を配札していましたが、紀州家ではその度に、ある程度のお金を高尾山に奉納していました。護摩札を配札されると、紀州家に限らず、大名や商人などは永代護摩供養料とは別に奉納金を納めていたようです。これを中止してしまったのです。
別に、高尾山に落ち度があったわけではありません。紀州家の懐事情が理由なのでした。
当時、紀州家は財政難に苦しんでいました。そのため、支出を切り詰めて財政再建をはかろうという倹約の方針が強力に推進されていたのですが、高尾山への祈祷料も、そのターゲットになってしまったわけです。
護摩札を配札した時、高尾山は紀州家に御守りも届けていたようですが、同じく天明6年に、紀州家では以後届けるに及ばないと申し渡しています。お守りが届けられるたびに、何らかの奉納金を納めていたのでしょう。それを節約したかったのです。
護摩檀家という関係を通して紀州家に食い込み、様々な形でお布施を受けていた高尾山でしたが、この一連の経緯からは、紀州家にとっては高尾山へのお布施がかなりの負担になっていたことが分かります。言い換えると、それだけ高尾山の経営にとってはプラスになっていたということでもあります。
しかし、こうした紀州家の対応は経営基盤に直結する問題です。当然、高尾山は危機感を強めます。紀州家へのアプローチを強力に展開していくのです。