2008年3月 4日

成田山・川崎大師の講中が各々、両寺の寺勢拡大にはかり知れない役割を果たしていた様子についてみてきました。もちろん、この2つのお寺だけに、そのことがあてはまるのではありません。江戸近郊には、同じように江戸っ子を講中とし、強力な支持基盤としていたお寺はたくさんありました。今回はその一つ、高尾山薬王院つまり高尾講について見ていきましょう。

高尾山は、現在東京近郊の観光地として賑わっています。東京からですと、新宿駅から京王線に乗って1時間ほどです。高尾山口という駅を降りて、山をのぼっていきます。ケーブルもあります。

成田山は、どちらかと言うと平地にありますが、高尾山はまさに名前のとおり、標高約600メートルほどの高さの山です。山岳宗教の霊場として古くから知られていました。

山岳信仰という言葉があります。山に超自然的な威力や霊的存在を見る信仰です。紀州の熊野三山などは代表的な山岳信仰の霊場ですが、高尾山も霊山の一つです。都市からはかなり離れた所にあるわけですが、現在では鉄道で山麓までは行けてしまいます。

高尾山口という名前の駅があります。高尾山口駅は元々あった駅なのですが、当然ながら、高尾山への参詣者が利用する駅となりました。

高尾山は、現在の東京都八王子市にあります。奈良時代の天平16年(744)に、橋梁の建設といった社会事業に熱心な僧侶として知られる行基により開かれた霊山です。薬師如来を安置して開山したそうです。室町時代に入ると、京都の醍醐山から俊源大徳が入山して伽藍を再建します。

戦国時代に入ると、小田原城を本拠とする後北条氏の帰依を受けることになりました。しかし、関東の雄だった後北条氏は天正18年(1590)に、豊臣秀吉に降伏します。後北条氏から取り上げた関東の地を秀吉から与えられたのは、徳川家康です。

同じ年に江戸城に入った家康は、関東の領主になるにあたって、関東の人々に厚く信仰されていたお寺に、土地を次々と寄進していきます。そうした政治姿勢を見せることで、関東の人々の信頼を勝ち取ろうとしたわけです。関東の新領主たる家康の人心収攬術の一つですし、この時代の武将・大名たちが必ず取った手法でした。

高尾山も徳川家から土地を寄進され、厚く信仰されるようになります。ここに、高尾山と徳川家との縁がはじまります。

2008年3月11日

高尾山は、高尾山薬王院真喜寺と言います。新義真言宗智山派の大本山です。

高尾山と言うと、天狗が代名詞にもなっていますが、高尾山の信仰の中心は飯縄(いづな)権現堂です。中興開山とされる俊源は高尾山中で修行中、その夢に現れた飯縄権現を祀りました。これにより、以後高尾山は飯縄権現を本尊とするのです。

飯縄権現は、不動明王を本地とする習合神です。不動明王のほか、迦楼羅天、荼枳尼天、歓喜天、宇賀神の五相合体の姿をしています。その御影ですが、火炎を背負い、剣を捧げる不動明王の肢体に嘴と翼を備えているというものです。そして、足首には蛇を巻き、白狐の背に乗った姿をしています。

高尾山は寺院ですが、飯縄権現を祀ることで修験道の霊場としても知られるようになります。修験たちの活動により、高尾山信仰は庶民にも広まっていくのでした。こうして、江戸周辺の霊場として、江戸からも多くの参詣者が訪れるようになります。ですから、山上に行くと、飯縄権現堂(本社)と薬王院真喜寺(本堂)があるわけです。

つまり、神仏習合神である飯縄権現が高尾山の本尊なのですが、別当寺は薬王院真喜寺でした。この薬王院が、高尾山内の僧侶たちを統括していたのです。江戸時代には醍醐寺三宝院の院家・無量寿院を本山としていましたが、明治に入ると、智山派に所属します。

以下、高尾山が所蔵している資料から高尾山信仰の基盤を見ていきますが、残念ながら、江戸以前の様子を教えてくれる資料はほとんどないのが現状です。

高尾山の地元である東京都多摩地域に基盤があったことは間違いありませんが、家康が江戸に入り、将軍のお膝元として百万都市に発展していくにの合わせて、江戸の町に信者を増やしていきます。こうした努力が、現在の高尾山が東京からの参詣者で賑わう最大の理由となるのです。

 まずは、護摩関係のデータから、江戸の町での高尾山の活動の様子をみていくことにしましょう。

2008年3月18日

高尾山に残された檀家関係の資料のうち、「永代日護摩家名記」(えいたいひごまかめいき)という帳簿から見ていきます。

この帳簿は護摩檀家への加入者を記録したものなのですが、護摩檀家とは一体何でしょう。
お寺の檀家と言うと、そのお寺にお墓があるというイメージがあります。実際、そうなのですが、ちなみに辞書を引いてみると、「一定の寺院に属し、これに布施をする俗家」という意味が出てきます。

檀那という言葉もあります。「仏家が財物を施与する信者を呼ぶ言葉。施主。檀越。檀家」という意味です。同じような意味であるわけですが、要するに、語義からすれば、お墓があるかどうかが檀家・檀那である絶対条件というわけではないでしょう。もちろん、一人、一家族で一つのお寺の檀家・檀那という事例が大半なのでしょうが、複数のお寺の檀家・檀那であっても、別に問題はなかったはずです。

高尾山にも檀家は大勢いましたが、ここで言う護摩檀家とは、高尾山に永代護摩供養料を納めた者のことです。帳簿を見ると、名前の横に、加入の年次と居住地が記されています。つまり、そのデータを集計することで、高尾山の支持基盤が見えてくるというわけなのです。

永代護摩供養料とは、どれくらいの価格なのでしょうか。
その額は金2分です。金4分で1両なので、1両の半分ということになりますが、1両は現在の貨幣価値に換算すると、どれくらいになるのでしょう。

これはたいへん難しい問題で、時代によって全く違います。1両と言っても、物価の上昇により、購入できるモノは限られるのですが、1両10万円という換算方法がよく取られますので、10万円とすると5万円ということになります。5万円払えば、高尾山から永久に護摩の御札をいただけるというわけなのです。御札と言っても、木ではなく紙なのでしょうか。

安いのか高いのか、一概には言えません。ですが、5万円納められるのは、ある程度の経済力がある者に限られるでしょう。金2分を納めて、高尾山の護摩檀家となったのはどんな人たちなのでしょう。

2008年3月25日

護摩檀家を記録した「永代日護摩家名記」という帳簿には、元禄年間(1688~1704)から天明年間(1781~1789)までの記録が収められています。この帳簿に記された護摩檀家に、高尾山は護摩札を永久に配付し続けたわけなのですが、元禄の頃の記録をみると、護摩檀家の大半は江戸に住む町人でした。

当時の江戸の状況を見てみます。
元禄と言うと、江戸幕府が開かれてから1世紀経過した頃ですが、当時江戸の人口は百万人を超え、名実ともに世界最大の都市に成長していました。江戸は世界最大のマーケットでしたが、その巨大マーケットに進出して、新たな信者を獲得しようという動きは当然出てくるでしょう。元禄年間は開帳ブームと称されるほど、全国各地のお寺が次々と江戸出開帳した時期でもあったことは、既に成田講の章などで見たとおりです。

この時期、高尾山は江戸出開帳はしなかったようですが、他のお寺と同じく、江戸への進出ははかっていました。永代に護摩を配付するという形で、つまり護摩檀家という形で多くの信者を獲得していったのです。

ただし、金2分の納入という前提条件がありました。ある程度の経済力がないと護摩檀家に加入することはできなかったわけですが、さすがに江戸は経済力ある町人たちが大勢いました。高尾山としては、地元や江戸近郊の農村よりも、巨大都市として発展を続けていた江戸の町人に大いに期待したのでしょう。積極的にアプローチした結果、多数の護摩檀家を獲得できたのです。

こうして、高尾山の基盤は江戸に置かれていくことなります。これにより、江戸からの参詣者も増加することになり、経営基盤も強化されていきます。護摩札をいただくだけでは満足せず、高尾山に参詣して、護摩を焚いてもらい、お札をいただいて帰ったことでしょう。成田講や川崎大師講の事例でみたように、江戸の富が高尾山にも落ちていくのです。

高尾山が最初に江戸出開帳をおこなったのは、元文3年(1738)のことと言われます。将軍で言うと、8代吉宗の頃です。江戸出開帳にあたっては、江戸の講中をはじめとする信者の助力が不可欠だったわけですが、この頃には江戸での支持基盤が固まっていたということなのでしょう。そうした判断のもと、本尊とともに江戸に出向いていったわけなのです。

2008年4月 1日

高尾山は永代護摩供養料(金2分)を納めた護摩檀家に、年3回(正月・5月・9月)、護摩札を配札することになっていました。元禄の頃の記録によると、護摩檀家は圧倒的に江戸町人で占められていました。

しかし、享保~延享年間(1716~1748)に入ると、高尾山近在をはじめ、八王子や武蔵国多摩郡西南部で護摩檀家が増えはじめます。そして、宝暦・天明年間(1751~1789)には、武蔵国中北部や隣の甲斐国中東部の人々でも護摩檀家となる事例が増えていきます。

当初は高尾山周辺の人々や、江戸町人を基盤としていた高尾山でしたが、時代が下るにつれて、江戸近在である多摩郡一帯そして関東一円へと支持基盤を広げていったことが、この帳簿から分かるわけです。こうして、江戸だけでなく関東近在からも、参詣者が高尾山に向かうことになります。

一方、享保期以降になると、高尾山の護摩檀家に加入する江戸町人の増加傾向に歯止めが掛かってしまいます。その理由は良くわからないのですが、市場の競争が激しかったのでしょう。

護摩檀家という形で信者を獲得する事例は、高尾山以外、確認できていません。しかし、他のお寺が高尾山の手法に目を付けて、同じ形で信者の獲得を目指したとしても、何の不思議もありません。

競争相手が増えれば、百万都市とは言え、護摩檀家への加入者が増えなくなるのは当然のことでしょう。もしかしたら、そうした市場の飽和状態を踏まえて、高尾山は江戸近在や関東一帯へのアプローチを強めていったのかもしれません。

「永代日護摩家名記」という帳簿は、残念ながら天明期で記録が終わっています。その後、20年ほど記録を欠いてしまうのですが、文化6年(1809)以降ですと、護摩檀家の動向が分かります。「江戸田舎日護摩講中元帳」という帳簿が残されており、この年以降のデータが収められているのです。次では、この帳簿を見ていくことにしましょう。

2008年4月 8日
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高尾山に残されている「江戸田舎日護摩講中元帳」という帳簿は、文化6年(1809)以降の護摩檀家の動向が分かる帳面ですが、「江戸田舎」とは江戸とそれ以外の地方のことを指します。

ここで講中という言葉が出て来ますが、どうも高尾山は護摩檀家以外の者も含めて、護摩の配札対象である信者を、講中として組織化し直したようです。その組織名が、「江戸田舎日護摩講中」というわけなのです。

護摩檀家とは、永代護摩供養料を納めた者です。この帳簿では「永代施主」とも呼ばれていますが、この頃には数年間という期限付きで護摩供養料を納めていた者もいたようです。数年間だけ、配札を受けるというわけです。一年だけという事例もありましたが、一年だけですと、その講中の帳簿には名前は載らなかったようです。

永代で護摩札の配札を受ける護摩檀家の数が伸び悩んでいたわけですが、数年間だけというのは、檀家数増加のための苦肉の策だったのではないでしょうか。護摩檀家か納めた永代護摩供養料よりも、その額は少なかったはずです。護摩檀家よりも護摩講中という緩やかな形に組織化し直すことで、さらなる信者の獲得を目指したのでしょう。

「江戸田舎日護摩講中」のデータを見ていくと、加入者の特徴として、高尾山・八王子周辺で半分ほど、江戸で4分の1を占めていることが分かります。時代が下るにつれて、地元での支持基盤を固めていった様子が分かりますが、そうは言っても、江戸の講中にはたいへん気を使っています。

例えば、江戸の講中のメンバーの家には、薬王院の使者が1軒ずつ訪れて、護摩札を配札しています。永代のみならず、数年間だけ配札を受ける者の家にも、薬王院の使者が1軒ずつ訪れています。他の地域の場合は、薬王院の使者が届ける場合もありますが、檀家を介して配札される事例も多かったようです。

ちなみに、高尾山から直接配札を受ける者を、高尾山は「上段之施主」。檀家を介して配札を受ける者を「下段之施主」と呼んでいました。

2008年4月15日

「江戸田舎日護摩講中元帳」に登録されている護摩檀家の人数ですが、約300軒と言います。一見少ないように見えますが、家族の数も含めれば1000人ぐらいになるでしょう。それに、この数字は護摩檀家だけの数であり、成田講や川崎大師講の事例でみたような様々な目的で結成された講中は別にあります。その高尾講のメンバーも含めれば、高尾山の信者は、軽くその数倍は行きます。

護摩檀家には町人はもちろんですが、武士もいます。武士と言っても、与力・同心といった御家人から大名まで格差は激しいのですが、徳川姓の大名もいました。

徳川姓の大名とは、徳川御三家紀州家のことです。暴れん坊将軍こと吉宗の実家として、御三家のなかでは事実上のトップの権威を誇っていました。この葵の御紋を檀家にしていたことは、高尾山にとり非常に大きなメリットでした。

高尾山に限らず、お寺は大名の帰依を受けることに熱心でした。大名の帰依を受けることができれば、大名当人だけでなく、その家中にもお寺の名前を浸透させることができるからです。主君の大名が帰依すれば、家臣たちも倣います。こうして、大名の家族はもちろんですが、家臣の家族にも信者を増やしていくことができるのです。

高尾山と紀州家のゆかりは、吉宗の時にはじまります。吉宗は鷹狩りの好きな将軍でしたが、享保3年(1718)に、幕府と実家紀州家の鷹匠による放生会が高尾山で開かれます。これ以降、紀州家との縁が深くなっていきます。この行事をチャンスに、紀州家に食い込んでいったわけです。

吉宗の跡を継いで紀州家の殿様となった6代目藩主徳川宗直は、不動明王と護摩檀を高尾山に寄進しています。7代目藩主徳川宗将も、不動明王と自筆の経典を寄進しています。

8代目藩主徳川重倫に至っては、自分の病気平癒のほか、夫人の安産祈願などの祈願を依頼しています。紀州家の祈祷所になっていたのです。江戸屋敷に招いて、祈祷してもらうこともありました。
ところが、安永4年(1775)に重倫が隠居すると、紀州家との関係は疎遠になっていきます。一体、何があったのでしょうか。

2008年4月22日

重倫が藩主時代は、紀州家と高尾山との関係はたいへん強いものでした。ですから、重倫の家族だけでなく、紀州家の家臣たちにも高尾山を厚く信仰する者が大勢いたでしょう。紀州家の江戸屋敷には、家臣だけで1000人以上はいました。家族も含めればその数倍。

そして、紀州家には分家もいくつかあります。高尾山としては、本家たる紀州家を通して分家への浸透も期待したことでしょう。紀州家の当主に跡継ぎがいなければ、分家から養子に入るわけですから、紀州家とのゆかりを永続的なものにするには、分家からも帰依を受けておく必要がありました。

さらに、紀州家は徳川将軍家の実家にもなっていましたので、将軍やその家臣たちへの浸透も期待できたわけです。ですから、紀州家を護摩檀家であることは、はかりしれないメリットを生んでいたのです。

しかし、高尾山に深く帰依していた重倫が隠居すると、紀州家の方針が変わってしまったようです。紀州家からの祈祷依頼の回数が激減し、天明6年(1786)には、祈祷料の奉納まで取り止められてしまっています。

正月・5月・9月の年3回、護摩檀家には護摩札を配札していましたが、紀州家ではその度に、ある程度のお金を高尾山に奉納していました。護摩札を配札されると、紀州家に限らず、大名や商人などは永代護摩供養料とは別に奉納金を納めていたようです。これを中止してしまったのです。

別に、高尾山に落ち度があったわけではありません。紀州家の懐事情が理由なのでした。

当時、紀州家は財政難に苦しんでいました。そのため、支出を切り詰めて財政再建をはかろうという倹約の方針が強力に推進されていたのですが、高尾山への祈祷料も、そのターゲットになってしまったわけです。

護摩札を配札した時、高尾山は紀州家に御守りも届けていたようですが、同じく天明6年に、紀州家では以後届けるに及ばないと申し渡しています。お守りが届けられるたびに、何らかの奉納金を納めていたのでしょう。それを節約したかったのです。

護摩檀家という関係を通して紀州家に食い込み、様々な形でお布施を受けていた高尾山でしたが、この一連の経緯からは、紀州家にとっては高尾山へのお布施がかなりの負担になっていたことが分かります。言い換えると、それだけ高尾山の経営にとってはプラスになっていたということでもあります。

しかし、こうした紀州家の対応は経営基盤に直結する問題です。当然、高尾山は危機感を強めます。紀州家へのアプローチを強力に展開していくのです。

2008年4月29日

紀州家8代目藩主徳川重倫は高尾山に厚く帰依していましたが、9代目藩主徳川治貞の時代になると、紀州家の財政難により、高尾山への奉納金がカットされてしまいます。このため、紀州家との縁を通じて江戸の武家社会への浸透をはかり、江戸での基盤を強化していった高尾山は、巻き返しをはかることになります。

治貞は間もなく隠居し、10代目藩主に徳川治宝が就任します。この紀州家の代替りを機に、高尾山は様々なルートを通じて、紀州家に働きかけていきます

その具体的な内容は良く分からないのですが、紀州家からは葵の紋所が付いた戸帳や提灯を寄進されるようになったり、江戸出開帳の時は御殿女中の参詣もみられるようになりました。藩主に仕える御殿女中たちに働きかけていた様子が想像できます。

将軍で言えば、大奥の奥女中たちを味方につける形で、高尾山は紀州家との縁を復活させようとしたのです。こうして、再び物心両面での強力なバックアップを受けることになります。なお、高尾山は同じ御三家の尾張家の子孫繁栄の護摩祈祷をおこなっています。

尾張家や紀州家だけではありません。福井藩主松平家、浜田藩主松平家など数多くの大名家も護摩檀家でした。殿様だけでなく、家臣たちにも配札していますから、紀州家と同じく、大名家全体に高尾山の名前は浸透していったのです。

ところで、武士への配札と言っても、その対象は徳川御三家の大名から与力・同心などの御家人までバラエティーに富んでいましたが、その方式には6つのランクがありました。大箱札、箱札、中奉書台附、小奉書台附、包札、札守の6つです。

詳しいことは分かりませんが、最も厚遇されていたのが大箱札組で、段々と薄礼になっていくのでしょう。大きな箱に納められた護摩札を届けられるのが一番で、台の上に載せられて届けられるのが中くらい。包紙の中に収められて届けられるのは下のランクで、包紙にも収められないのは最も下のランクということになるわけです。永代護摩供養料とは別に奉納される金額に、比例したランク付けなのでしょう。

2008年5月 6日

護摩檀家は武士だけではありません。裕福な江戸商人たちも、高尾山の護摩檀家でした。「江戸田舎日護摩講中元帳」から、どんな商人たちが檀家だったかを見ていきましょう。

呉服問屋、米穀問屋、炭薪問屋などの商人の名前が多数みられますが、呉服問屋のなかには、三井越後屋や伊豆蔵の名前があります。江戸を代表する豪商でした。成田講の事例でみたように、江戸の富裕層を護摩檀家としていたことが分かります。

高尾山としては、江戸の豪商を護摩檀家とすることで、その富を経営基盤に組み込むことができたわけです。三井越後屋などは成田山の江戸出開帳の時、成田不動を守護する行列が休憩する場所になっていました。成田山の有力スポンサーでもあったからです。

成田不動の江戸での足取りを追って行くと、成田山の支持基盤が自然と浮き彫りになっていくことは、成田講の事例でみたとおりです。スポンサーであるからこそ、成田不動はわざわざ三井越後屋にやって来たわけです。

豪商の側からみると、成田山のスポンサーとなることで、信者への好感度はアップすることでしょう。それが狙い目だったわけですが、三井越後屋が高尾山の護摩檀家になったことにも、同じ思惑があったことは言うまでもありません。

高尾山にとっても、三井越後屋が護摩檀家であることは、物心両面での強力なバックアップが期待できたでしょう。さらに、その事実は越後屋の御得意さんへのアピールにもつながります。ですから、江戸に貫主がやって来た時には、豪商の家をわざわざ訪れ、関係の維持強化につとめています。

大商人だけでなく、小売り商人や様々な職種の職人にも、護摩講中のメンバーでした。成田講や川崎大師講と同じく、高尾講もたいへんバラエティーに富んでいた講中だったわけです。これは職業別の講ですが、地域で結成された講もあります。「新宿講中」「鎌倉河岸講中」「堺町講中」などがあります。

「御膳講」「杉筍講」という講中もあります。それぞれ、御膳や杉筍を奉納するために結成された講なのでしょう。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト