2007年11月 6日

地方のお寺が多額の出費を覚悟して、わざわざ江戸に赴き、ご本尊を開帳することには、いろいろな目論見があります。寺社奉行所に提出された願書にも書かれているのですが、堂社の新築・修復費を賄うだけの臨時収入を得ることが一番の目的でしたが、それだけではありません。江戸という大都市で、お寺の名前をPRすること自体に、大きなメリットがあったのです。

東京は現在、一極集中の街と良く言われますが、その原型は江戸に求められます。江戸は将軍様のお膝元として、いわゆる旗本八万騎が住む街でしたが、全国の大名とその家臣が住む街でもありました。

参勤交代という制度があります。1年おきに、お殿様たちが江戸の屋敷で住む決まりです。お殿様だけ住むというわけにはいきませんから、江戸滞在中は家来たちも大勢、江戸に住むことになります。

お殿様が、老中など幕府の役職に就任して江戸城勤めとなってしまうと、在職中は参勤交代制に関係なく、ずっと江戸にいなければなりません。家来たちも、江戸に住み続ける必要があります。水戸黄門でお馴染みの水戸徳川家のお殿様などは、水戸に帰ることはほとんどなく、ずっと江戸で生活するのが慣例となっていました。

こうして、江戸にはたくさんの武士が住むことになりました。常時、武士とその家族だけで50万人以上が住んでいたと推定されています。それも、殿様が江戸に出て来たり、地元に戻ってきたりするのに合わせて、家来たちも江戸と地元の間を移動しています。何10万人も江戸と地方を流動していたのです。ですから、人やモノはもちろん、情報の行き来も、江戸を核として自然と活発となっていくわけです。

江戸は、情報が高度に集中する巨大な情報都市でもありました。だから、江戸でお寺の名前をPRできれば、全国津々浦々に伝わっていくメリットが期待できたのです。

2007年11月 6日

そもそも、ご開帳とは信者に結縁の機会を与える行事です。しかし、出開帳の場合、臨時収入を確保すれば、それで終わりというわけではありません。

もちろん、それが目的であることは間違いないのですが、お寺の側としては、ご開帳を契機として、ご本尊を祀るお寺まで参詣してもらうことが、究極の目的なのです。江戸出開帳とは、まさしく江戸っ子を対象とした、お寺の側の誘致活動に他ならなかったのです。

前章では、成田山の御開帳の様子を見てきました。成田山は江戸出開帳を繰り返すことで、江戸で多くの信者を獲得しました。となると、信者の心には、本尊の不動明王が祀られている成田山までお参りしたいという気持ちが、自然と湧き起こることになります。それは、成田山が期待したことでありました。

成田山は、江戸から片道一泊の行程で参詣できる距離(約63km)にありました。この時代、人々は旅に出ると、1日10里(約40km)ぐらい歩きましたから、朝に江戸を出れば、次の日の夕方ぐらいには成田山に到着する計算になります。

当時、東海道を京都まで旅する場合、箱根関所のような関所を通過しなければなりませんでした。関所を通過するには、関所手形が必要です。現在のパスポートのようなものです。一種の身分証明書なのですが、それを携帯していないと、関所を通過することはできません。関所手形は、住んでいる町や村の長である名主に頼んで発給してもらいました。

しかし、成田までの道でしたら、途中に箱根のような関所はないので、関所手形は必要ありません。その点、煩わしくなく、気軽な旅が可能なのでした。

片道1泊2日ですから、ちょっとした旅行気分で行ける距離でもありました。こうして、多くの江戸っ子が遊山も兼ねて、成田までの小旅行に出かけることになるのでした。

2007年11月13日

成田まで旅してみましょう。
現在は、東京から成田に電車で行くには2つの経路があります。JRと京成本線ですが、江戸時代はどうだったのでしょうか。

成田不動が江戸に入る前日は、千住宿に宿泊しましたが、江戸っ子はその千住宿(隅田川)を通過して、東に向かいます。次に出てくる江戸川を越えて、船橋宿に入ります。その日は、船橋で一泊するというのがお決まりのコースでした。

翌日、船橋宿を出発して佐倉城下を通過し、成田に入ります。大体、現在の京成本線に沿った経路ということになるでしょう。

成田山の門前町の宿屋で一泊します。その翌朝、成田山に参詣するのです。お参りが終わると、帰路に着きます。再び船橋宿に入り、一泊。そして、翌朝出発して、江戸に戻るという3泊4日の行程でした。

この江戸から成田に向かう街道は、元々は佐倉街道と呼ばれていました。佐倉城は、有力譜代大名に与えられたお城でした。関東のお城のなかでも、北の川越城、西の小田原城、そして東の佐倉城は、江戸城を守る城として、たいへん重要視されていた城です。そのため、徳川家の家臣の中でも、選り抜きの大名に与えられることになっていました。

小田原城は東海道沿いですが、江戸から川越に至る道は川越街道、佐倉に至る道は佐倉街道と呼ばれていました。幕府からは、五街道に次いで重要な街道とされています。川越城や佐倉城は、江戸城を守る要衝だったからです。

ところが、佐倉街道はいつしか、成田街道の方が通称になってしまいました。成田山に向かう参詣客が増えていくことで、人々は成田街道と呼ぶようになってしまったわけです。お寺が作り出した人の流れが、道の名前を事実上変えたのです。こんな所にも、江戸のお寺のパワーを見つけられるのでした。

2007年11月13日

現在、JR成田駅、京成成田駅を出て少し歩いて行くと、成田山への参道が見えてきます。本堂まではかなりの距離がありますが、道の両側には、様々なお店が立ち並んでいます。

参道を上っていくと、大きな建物が見えてきます。かつては、成田山への参詣者の大半は、門前の宿屋で宿泊しました。翌朝参詣し、早朝の護摩で焚かれたお札などをいただくことになっていました。宿屋としての名残りがうかがわれる建物なのです。

山内に入ってみますと、数多くの奉納物があります。参詣記念として、信仰の証として奉納したわけですか、そのなかでも、江戸の町人たちからの奉納物の多さは目を見張ります

そこには、いつ、誰が奉納したのかが分かるように字が彫られています。成田山に限ることではありませんが、お寺の境内に奉納された石造物や石碑などを見ることで、そのお寺がどういう人たちに、どの時代に、どのくらい信仰されているのかが、何となく分かります。

言い換えると、そのお寺がターゲットにしていた人々の層が分かるのです。江戸のお寺の実像を復元するための貴重なデータと言えるわけです。

境内の石造物だけではありません。堂社の数々にしても、成田山を篤く信仰する江戸っ子たちの浄財に大きく支えられていました。つづめて言えば、奉納されたことと同じです。成田山に参詣せずに、多額の浄財が集まることはないでしょう。実際に成田山に参詣して本尊を拝んで縁を取り結ぶことが、その大きなきっかけになったことは間違いありません。

江戸出開帳が、成田山と江戸っ子との縁を結ぶ上で、限りなく大事な行事であることが分かります。その時に集まる浄財だけが、出開帳の目的ではなかったのです。たとえ、出開帳の収支が赤字になったとしても、江戸っ子の誘致に成功すれば、目的は達せられたと言えるのかもしれません。

2007年11月20日

お寺との関係で言うと、一番距離が近いのは檀家です。大半のお寺が、檀家との関係に経営基盤を置いていたことは、今も江戸も代わりはありません。しかし、檀家との関係だけにとどまっていたならば、今日の成田山はなかったでしょう。

成田山新勝寺の檀家の多くは、当然のことながら成田村と周辺の農民たちです。だから、出開帳の時に村を挙げて協力するのは、檀家である以上、何の不思議もありません。発言権もありますから、成田山としては、いろいろ気を遣っています。

しかし、成田山を支えたのは檀家だけではありません。成田講のメンバーたちにも大きく支えられていました。

成田講とは、成田不動を篤く信仰する講中のことです。不動明王を信仰しているので、不動講とも呼ばれていました。講員には檀家も含まれていたかもしれませんが、大半は檀家ではないでしょう。

江戸には、さまざまな講中がありました。川崎大師を信仰している人たちは大師講を構成しています。高尾山薬王院の場合は高尾講、大山不動の場合は大山講といった具合です。

講とは、お寺、神社、あるいは霊山、霊場に参拝し、奉加や寄進をおこなう集団組織のことです。信者からの動きで講が結成される場合もあったでしょうが、大半はお寺の側のアプローチで講は結成されます。成田講も例外ではありません。

もちろん、成田講は江戸だけにあったのではありません。地元の下総国をはじめ、関東各地にありました。出開帳をはじめとする成田山の布教活動の成果なのですが、江戸の成田講は経営面において、最大の支持基盤であったことは間違いありません。

成田山には、成田講についての史料が豊富にあります。その史料は、現在成田山霊光館に収蔵されているのですが、その史料から成田山を支えた成田講の姿を見ていきましょう。

2007年11月20日

今から200年ほど前の文化11年(1814)に書かれた記録を読んでみることにします。「講中記」というタイトルが付けられています。

その記録によると、江戸市中だけで、成田講の講員の数は、ゆうに1万人を越していました。大半は町人ですが、これには家族の数は含まれていません。ですが、家族も成田講に含められるでしょうから、実数はその数倍ということになります。

江戸の町人人口は50万人ぐらいです。だから、成田講の占有率は10%前後ということなります。
もちろん、成田講に入っている江戸っ子で、大山講に入っている者もいたでしょう。高尾講のメンバーも、もしかしたら、大師講のメンバーもいたかもしれません。檀家ではなく、講中というまとまりでしたら、複数の講中に入っていても、別に問題はなかったはずです。

いろいろな宗派のお寺に参詣すること自体は、現在でも、ごく当り前の光景です。そうした事情は、江戸も同じでした。大半の江戸っ子はご利益があれば、その評判を聞き付ければ、宗派には関わりなく、どの宗派のお寺でも参詣していました。

ですから、数万人全てが、成田講のメンバーであったとしても、その信仰の度合いは自ら異なるでしょう。その点を踏まえた上での数字ではあるのですが、成田講が江戸で強い支持基盤を持っていたことは間違いありません。言い換えると、成田山に対する影響力・発言権も強いということになります。

成田講の数は、515講です。大半の講は、20人~40人ぐらいのメンバーでした。100人を超える講は数えるほどでした。町単位で結成されることが多かったようです。

江戸は俗に八百八町と言います。実際の町の数は1600ケ町以上ありましたが、どんな講があったのでしょうか。それを見ていくことで、成田山の支持基盤が浮き彫りになっていくのです。

2007年11月27日

江戸の成田講のなかで、最もメンバーが多かったのは、浅草田町2丁目(現台東区浅草)の講中でした。150人いました。逆に最も少ないのは、深川常磐町(現江東区常盤)の講中で、わずか3人です。

町を単位とした講のほか、同業者で組織された講中もあります。「深川八幡前大工屋講中」とは、深川八幡つまり富岡八幡の門前に住んでいた大工屋がメンバーの講中です。深川八幡とは、深川永代寺内にあった八幡様のことです。

成田山が江戸出開帳する時の会場は、永代寺でした。開帳小屋が立てられたのは、深川八幡の社殿の近くです。この辺りの地域は、成田山と深い関係のある街なのでした。

「根津門前茶屋講」というのは、根津神社の門前に茶屋を構えている主人たちが結成した講です。当然のことながら、根津神社への参詣客で商売が成り立っていたはずの茶屋なのですが、成田不動への信仰も篤かったようです。成田山のパワーが、神社の門前にまで影響力を及ぼしていたことが分かる一例と言えるでしょう。

「日本橋ろ組提灯講」というのは、日本橋のいくつかの町で結成された町火消の「ろ組」のメンバーで構成されている講中です。提灯とは、町火消が自分の組の目印として掲げる提灯のことでしょう。成田山の山内を見ると、町火消が奉納したことが分かる石碑が数多く残されていることが一目瞭然です。

年代は違いますが、「新吉原御神酒講」という講中もあります。言うまでもなく、吉原の遊廓で結成された組織です。成田山は本堂(現釈迦堂)の建立にあたっては、吉原の講中から多額の奉納を受けています。

吉原は成田山の経営を大きく支えていました。だから、江戸出開帳の時、わざわざ寄り道して、吉原に立ち寄ったわけです。こうした巡行経路からも、成田山の基盤が透けて見えてきます。

2007年11月27日
八話「浮世絵師も成田講」.jpg

江戸の成田講は、町単位だけでなく、商人や職人集団単位でも組織されていました。江戸のさまざまなネットワークが、成田山を支えていたことが分かります。

商人としては、魚屋や酒屋のほか、両替屋・札差・米屋・材木屋など、日本橋や深川地域の富裕な商人がメンバーの講中もあります。江戸の経済界を牛耳る大商人、つまり富裕層が成田講のメンバーになっていたという事実は、成田山にとって限りなく心強いことであったに違いありません。

慶応4年(1868)の「講中記」を見てみますと、「護摩木講」という名前が出てきます。これは何でしょう。

護摩を焚くには護摩木が必要ですが、その護摩木料を寄進しようという講中のことです。永代護摩木料として、50両奉納しています。1両は10万円前後ですので、500万円ぐらいということになります。護摩木用の山を成田山に寄進したという事例もあります。

「御手長講」という講中の名前も見えます。手長とは、宮中での饗宴で膳を取り次ぐことだそうです。成田山では、護摩修行中に講中全員が供物を順次手送りにして奉献します。護摩終了後は、手送りで下げます。この行為を、手長と呼びました。そのため、この行為を行う講中を「御手長講」と呼んだわけです。

「明治講」という講中の名前があります。講中の世話人は尾張屋清七と言います。江戸切絵図の版元として有名な尾張屋です。尾張屋が製作した切絵図は、俗に尾張屋版と呼ばれています。成田山への信仰が篤かったようです。

「明治講」という講中の世話人には、浮世絵師歌川国貞の名前があります。2代目の国貞(4代目の豊国)のことです。成田山は出版界にも深く根を下ろしていました。尾張屋にせよ、国貞にせよ、成田山のメディア戦略に大きな役割を果たしていたことがうかがわれます。

このような多様な講中が組織され、成田山の経営基盤を檀家と共に支えていたのです。こうした構図は別に成田山に限ることではありません。関東各地に点在する大きなお寺は、同じように、江戸に強力な基盤を持っていました。

そうした講中が、江戸出開帳の時には大活躍するのです。資金面を支えるだけでなく、成田不動の江戸入りのパレードにも参加して、その盛り上げに一役買いました。江戸の講中なくして、江戸出開帳は成り立たなかったのです。

2007年12月 4日

一口に成田講と言ってもさまざまでしたが、成田山に参詣することで、その繋がりが維持強化されていく事情は共通してあてはまります。

各成田講では、講員が各々お金を出し合い、積み立てていました。信仰の証としての奉納金となっていくわけですが、それだけが使途ではありません。成田山への参詣旅行、つまり成田詣での積立金にもなっていたのです。

必ずしも、メンバー全員が揃って、成田山まで御参りにいったわけではありません。大半の講中は、順番でお参りしています。数人から数10人ずつ連れ立って、成田に向かいました。もちろん、手ぶらではありません。成田山に納める奉納金を持参していくわけです。

さて、大体1泊2日で成田に到着して、その門前の旅籠屋に宿泊するのですが、泊まる宿屋は決まっていました。江戸の成田講に限らず、関東各地に点在する成田講は、成田山門前の旅籠屋と各々契約していたのです。定宿なのでした。

時代劇などで旅籠屋のシーンが出てくると、○○講という木製の看板が掛けられていることがあります。○○講の人たちは、その看板を目印に宿泊しました。江戸の頃から、協定旅館制度があったわけです。講にはいろいろあったわけですが、成田講の場合も同じです。成田山門前の旅籠屋の中に入ると、前回取り上げてきた○○講という看板が掛けられていたはずです。そのメンバーたちが泊まるのです。

泰平の世とはいえ、旅では危険が付き物でした。どうしても、宿の選択には気を遣うわけですが、そうした要望に応えたシステムなのです。この旅籠屋に泊まれば、安心して宿泊や休憩ができるということで旅人には好評でしたが、その裏では、宿泊者の熾烈な獲得合戦が繰り広げられていました。お寺の周りでも、参詣者の誘致合戦が繰り広げられていたわけです。

成田山の門前には32軒の旅籠屋がありましたが、昼間は一膳飯屋を営んでいました。昼間は食堂、夜は旅籠屋として活用されていたのです。

現在も、成田山の門前にはお食事所をはじめ、土産物屋など様々な店が軒を並べていますが、江戸時代は旅籠屋の数がダントツで、居酒屋と菓子屋の数が次いで多かったそうです。甘いものとお酒が人気があるのは、いつの時代も同じということなのでしょう。

湯屋、つまりお風呂屋も3軒ありました。旅籠屋にも風呂はありましたが、多人数で宿泊するため、どうしてもお風呂が不足するという事情があったようです。

2007年12月 4日
十話「坊入り」.jpg

成田講の面々は、成田山に到着した夜は旅籠屋に宿泊します。そして翌日の早朝、成田山に参詣します。護摩を焚いてもらい、そのお札などをいただくわけです。

一般の参詣者は、その後、境内や門前町を回りながら、土産物などを買い求めるのでしょう。ですが、成田講の面々などは本坊に入っていきます。そこで、成田山から精進料理やお神酒をいただくのです。これを、坊入りと呼びます。このような行事は現在も行われています。

精進料理とは、精進物のみを用いた料理のことですが、江戸時代の頃のメニューをみる前に、現代の坊入りの様子から見てみましょう。

護摩の修行を受けた参詣者は、本坊の光輪閣に向かいます。非常に立派な建物ですが、そこで精進料理が出されます。ところが、不思議なことに、成田山の坊入りでは御飯が出てこないそうです。ただし、お神酒は出ます。

御飯が出てこない理由ですが、本坊でお腹が一杯になると、参道のお食事所が困るのではという配慮が働いているということです。成田では、お昼御飯のことを中食と呼ぶそうですが、中食は参道のお食事所でという配慮なのです。お寺と門前のお店は、共存共栄の関係にありました。だから、御飯は門前町のお店で食べて欲しいというわけなのでしょう。

料理のなかでも、大浦ゴボウは珍品だそうです。大浦ゴボウは、他の地域では入手できません。千葉県八日市場市大浦地区の10軒の農家だけで栽培されているゴボウです。八日市場市の天然記念物に指定されているほどです。

このゴボウは、輪切りの直径が約20cmもあります。成田山以外のお寺では食べれないものでした。こういう所にも、成田山の参詣者への細かい配慮が見つけられます。

2007年12月11日

江戸の頃の話に戻ります。

成田講の面々に限らず、檀家にも精進料理は出したでしょうが、成田講に出す精進料理には、たいへん気を遣っています。檀家との関係は、ずっと続くわけですが、成田講の場合は必ずしもそうではありません。檀家と講の違いです。そのため、メニューには細心の注意を払ったわけです。

成田山には、料理の献立記録が残っています。一口に精進料理と言っても、季節そして奉納金額で、かなりの違いがありました。食材や料理数に格差があったわけです。つまり、奉納金額で、メニューはランク付けされていました

文政9年(1826)に成田山に御参りに来た本所堅川御手長講の献立を見てみます。隅田川から見て東側にあたる本所堅川地域のメンバーで構成されていた成田講です。御手長講は、以前取り上げました。護摩修行中に、講中全員が供物を順次手送りにして奉献し、それを各自いただくのです。

記録には、煮染め、吸い物、硯蓋、大鉢、大平、丼、大鉢、吸い物、大鉢、と書かれています。最初の吸い物で見ると、千本しめじ、白玉、かゐわり(貝割菜)うどが具でした。最後の方の吸い物は、水前寺のりとまつたけです。最後の大鉢には、葡萄と梨が盛られていました。

そのほか、メニューは奉納金額によってバラエティーに富んでいましたが、どんな食材が使われていたのでしょう。

順不同で列挙しますと、しめじ・きくらげ・まつたけ・しいたけ。これは地衣類ですが、野菜では、ゴボウ・しょうが・長イモ・れんこん・竹の子・ワラビなどがあります。

実に多彩な食材ですが、当時、これだけの食材を取り寄せるのは大変なことだったと言われています。それだけ、成田講には気を遣っていたのです。

2007年12月11日
十二話「精進落とし」決定.jpg

成田山で精進料理を食した後、成田講の面々は境内や門前でお札やお土産を買い求めます。成田山の境内を見てみると、さすがに江戸の浅草寺ほどではありませんが、飲食店はもちろん、様々な店が誘客合戦を繰り広げていました

土産物屋は定番ですが、現在の成田の土産物と言えば羊羹と漬物でしょう。ですが、江戸時代後期の事例で見ますと、苺おこしが有名だったと言います。

なかでも、見世物小屋は人気がありました。その見世物を見ると、動物の見世物、からくり人形、軽業、曲馬など多種多様でした。曲馬というのは、馬に乗って曲芸を見せるパフォーマンスです。

成田山も、江戸の芸能文化の発信地に他なりません。香具師の名前を見ますと、ほとんどが両国や浅草など江戸の香具師でした。地方興行していたわけです。まさしく、浅草寺などの空間が移転していたような光景が展開されていました。

さて、成田山を後にした成田講の面々や一般の参詣者は、江戸への帰途に就きます。いわば、往路と同じく復路でも船橋宿で宿泊するのがお決まりのコースでした。気が抜けたのかどうかは分かりませんが、船橋宿では精進落としと称して、宴会になってしまうのが実態でした。

精進明けとも言いますが、精進料理を食した日の夜には精進落とししてしまうわけです。むしろ、これが楽しみだった江戸っ子もかなりいたようです。

そのため、船橋宿は歓楽街として発展することになりました。ですが、このことは成田詣だけにあてはまることではありません。大山詣を終えた後に、藤沢宿などで精進落としと称して、どんちゃん騒ぎになってしまうことは良く知られています。通過儀礼のようなものでした。

しかし、いずれにしても、ここにも成田山の御利益が確認できるのでした。

2007年12月18日

成田山に参詣したのは、江戸の成田講だけではありません。檀家はもちろん、一般の参詣者もいます。しかし、今まで見てきましたように、成田講は成田山にとって大切な存在でした。特に、経済力ある江戸の成田講がそうでした。

お寺にとって、檀家の記録である過去帳はこの上なく大事な記録です。ですが、こうした講中のデータが記録されている帳面も、成田山のように、江戸っ子の浄財に大きく依存するお寺にとっては、この上なく貴重な情報なのです。

だから、こうした情報が記録されている帳面は大切に保管されました。現在まで残った結果、今まで述べてきたようなことが分かるのです。もし、その記録を失ってしまうと、江戸での足場を失い、戦略も立てられず、経営には大打撃ということになるでしょう。

お寺はこうした個人情報を元に、経営戦略を立てていました。その戦略の舞台は江戸とは限りませんが、成田山の場合は江戸が最重点地区であったことは間違いないでしょう。

檀家に経営基盤を置いていたお寺はたくさんあるわけですが、寛永寺・増上寺など将軍様を檀家としているようなお寺でしたら、それだけで良かったのかも知れません。経済力ある檀家を抱えていれば良いわけですが、そういうお寺はごく一部に過ぎないでしょう。

そのため、経営基盤を強化するための努力を、江戸時代のお寺は重ねています。いろいろな手法がありますが、講を組織化して、自分のお寺の境内まで江戸っ子を誘致する手法は、その代表的なものでした。

つまり、成田講という基盤を江戸で作り上げることで、成田山に江戸の富を誘導していくことが可能となるのです。こうして、成田山は地方の一寺院から全国区のお寺に飛躍していきました。成田山の現在の威容は、元をたどれば江戸に遡れると言っても決して言い過ぎではないでしょう。

となると、成田講との結び付きを維持強化するための江戸出開帳を、それのみの収支で評価するのは一面的ということになります。繰り返しになりますが、檀家や成田講への入会という形で成田山まで誘致できれば、目的は達せられたと評価することも可能でしょう。

そうした構図は、成田山だけにあてはまるものではありません。これから見ていく江戸近郊の巨大なお寺にも、共通してあてはまることなのでした。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト