2007年9月18日

現在、初詣の人出ベスト3は、明治神宮成田山新勝寺川崎大師の順番で不動です。明治神宮は、大正9年(1920)に誕生した神社なので事情は違いますが、成田山と川崎大師がベスト3に入っているのは、江戸の巨大マーケットのお陰でした。江戸での営業活動が、現在の地位をもたらしたのです。特に成田山は、江戸出開帳の大成功が寺勢拡大の大きなきっかけとなりました

成田山に参詣するには、鉄道ならばJRと京成電鉄を使うことになります。東京と成田を結ぶ京成本線と言うと、成田空港へのアクセスというイメージが強いわけですが、元々は成田山への参詣者をターゲットにして敷設された鉄道でした。成田山に限らず、東京近郊の有力寺社は、東京から放射状に広がる鉄道の終点などに位置しています。と言うより、参詣者をターゲットにして鉄道が敷かれ、門前に駅が作られたのです。

続きを読む "五章一話 お寺は駅の生みの親"
2007年9月18日

成田山が江戸で最初にご開帳をしたのは、元禄16年(1702)のことです。既に成田山は、前年の元禄15年(1701)に、本堂落慶記念として地元で居開帳を執り行っていました。

本堂の建立には巨額の費用を要しました。その建立費も借財が嵩んだ大きな理由でした。成田山は居開帳で得られた浄財を、その補填に当てたのですが、とても足りませんでした。ここに至り、江戸という巨大マーケットでの開帳が企画されたわけです。

この元禄期は開帳ブームが起きていた時期です。元禄と言うとバブルの時代ですが、そうした経済情勢とお寺の経営戦略は大いに関係しています。お寺としては好景気に沸く江戸のマーケットに目を付け、イベントを企画し、収益を挙げようと狙ったのです。その一つが、成田山なのでした。

続きを読む "五章二話 バブルとお寺の経営"
2007年9月25日

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成田山の江戸出開帳は、元禄16年を初回として、都合10回おこなわれました。一口に出開帳と言っても、その準備は大変なのですが、記録が豊富に残っている今から200年前の文化3年(1806)の事例から、その舞台裏を覗いてみましょう。

江戸で本尊を開帳すると言っても、勝手にはできませんでした。幕府の寺社奉行様の許可が必要でしたが、成田山のように地方のお寺の場合は、ご領主様(下総佐倉藩主堀田家)の許可も必要でした。

江戸出開帳は、文化3年3月1日から正味2ケ月間、深川永代寺で執り行われました。この企画が表に出てきたのは、前年の6月15日のことですが、この日、成田村の村役人たちに、来年江戸で開帳したいと打診したのです。なぜ、成田村に事前に打診する必要があったのでしょうか。

続きを読む "五章三話 地元の協力あってのご開帳"
2007年9月25日

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村役人の接待を通じて、成田村の賛同と協力を得た成田山ですが、お殿様に願書を提出する段となった時、思わぬ出来事が起きます。7月12日に、藩主の堀田正順が死去してしまったのです。忌明けまで、願書は提出できませんでした。

閏8月3日、忌明けとなりましたが、家督相続のため藩当局も取り込んでおり、願書を提出できたのは9月2日になってからです。その願書を読んでみましょう。

「成田山内の経堂と鐘楼堂が大破したが、自力で修復することができない。寛政元年(1789)の前例に倣って、江戸(深川永代寺)で明年3月より2ケ月の間開帳し、その寄進の助成をもって修復費としたい。この件を願い出るため江戸に赴き、寺社奉行所に願い出ることをお許しいただきたい。」

続きを読む "五章四話 貫首、江戸へ向かう"
2007年10月 2日

9月15日に、照誉は本所の弥勒寺(現墨田区)に向かいます。成田山は真言宗ですが、弥勒寺も真言宗です。

弥勒寺は、たいへん格式の高いお寺でした。江戸触頭を勤める4つのお寺のうちの1つです。江戸触頭というのは、何でしょう。

江戸幕府は、全国のお寺を宗派別に統制下に置いていました。この時代はお寺の数は数十万もあり、現代とケタが一つ違います。幕府にとって、お寺とお坊さんを支配するのは大変でしたが、その手段として、宗派別に江戸触頭のお寺を置き、その下に全国のお寺を付属させています。江戸時代は縦割り社会でしたが、お坊さんの社会も同じでした。

続きを読む "五章五話 お寺がお寺に払う手数料"
2007年10月 2日

9月17日に、照誉は触頭(円福寺)の添状と一緒に、開帳の願書を寺社奉行脇坂安董に提出します。寺社奉行は大名が就任することになっていました(定員4~5名)。播磨国龍野(兵庫県)5万石のお殿様です。この月は、脇坂が月番だったのでしょう。

同じ奉行でも、町奉行には町奉行所という役宅があります。町奉行に任命されると、家族を連れてそこに住むことになっていました。遠山の金さんでお馴染みの北町奉行所は、現在の東京駅八重洲口の辺り。大岡越前で知られる南町奉行所は、有楽町駅の辺りにありました。しかし、寺社奉行所という役宅はなく、奉行に任命された大名の屋敷が奉行所になっていました。その家臣が寺社奉行所役人として、事務を処理したのです。

続きを読む "五章六話 お奉行所のチェック"
2007年10月 9日

 無事に開帳が許可された照誉は、翌7日に、開帳札を江戸の各所に建てたいと寺社奉行所に願い出て、許可されています。開帳札とは何でしょうか。

開帳札とは、開帳をいつから、どのお寺の境内で執り行うかが書かれた高札のことです。江戸のオフィシャルな掲示板でした。今回の場合、翌文化3年3月から60日間、深川永代寺で成田不動が開帳になると書かれていました。

時代劇で、高札の前に人が集まり、いろいろ話をしている場面がよく出てきます。高札に貼られているのは盗賊の似顔絵だったり、文字だったりしますが、江戸の人々は普段、高札からオフィシャルな情報を入手していました。

続きを読む "五章七話 開帳の予告"
2007年10月 9日

成田山は永代寺を宿寺として開帳をおこなったのですが、本尊などはどこに安置したのでしょう。永代寺に限らず、宿寺側が安置する建物を貸すことはありませんでした。江戸にやって来たお寺は、宿寺から境内の一部を借り、そこに本尊を安置する開帳小屋を建てなければならなかったのです。開帳期間が終了すれば、それを撤去し、借りていた土地を戻すわけです。

成田山の場合、富岡八幡宮本殿近くの494坪の地所をレンタルしています。当時、富岡八幡は永代寺の境内に含まれていました。当然、地代を永代寺に納めることになります。

約500坪の地所のうち、小屋の建坪は195坪でした。開帳小屋としては最大級の規模です。その内部を見てみると、本尊や霊宝を安置する空間はもちろんのこと、玄関、お勝手、台所、風呂場、座敷、廊下、物置までありました。

続きを読む "五章八話 台所付きの開帳小屋"
2007年10月16日

年が明けて文化3年の2月17日、いよいよ成田不動が江戸に向けて出発します。5日前の12日に、成田山は江戸の寺社奉行所に届書を提出していますが、そこには17日に成田出発。20日に江戸到着。江戸市中に入ったら、どういう経路を取って深川永代寺に安置されるかまでが、細かく書かれていました。

お祭りの時に、御神輿が通る経路はあらかじめ警察などに届け出ることになっていますが、それと同じです。既に、成田山の先発隊が江戸に入っていることも分かります。準備や話題づくりに奔走していたことでしょう。

17日の午前9時、ご本尊が成田山を出発しました。本尊を納める厨子や仏事に必要な諸道具を運ぶ人数などで、総勢130人ほどです。大人数の行列ですが、この人数を勤めたのが成田村の農民でした。江戸出開帳は、村を挙げてのイベントでもありました。

続きを読む "五章九話 ご本尊出発"
2007年10月16日

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2月20日午前8時、成田山にとり、一番大事な日がはじまります。同時刻、千住宿を出発した成田不動の大行列には、江戸町奉行所の同心22人と岡っ引き30人ほどが加わっていました。

この日は、江戸入り当日です。成田不動の江戸入りの情報は既に江戸市中に広まり、成田山を厚く信仰する江戸の成田講の人たちや物見高い江戸っ子が、その時を待っていました。行列を出迎えた成田講の人たちは、次々と行列に加わっていきます。永代寺に入る時には、行列は1000人もの人数に膨れ上がったようです。

江戸の成田講の大半は、町単位で結成され、商人が世話人を勤めました。財力ある商人がバックアップしてくれることは、成田山にはたいへん心強いことでした。開帳のたびごとに、多額の奉納金が成田山に納められています。商人のほか、歌舞伎役者や吉原の遊廓経営者も有力な支持基盤でした。

続きを読む "五章十話 八丁堀の旦那がやって来た"
2007年10月23日

千住大橋を渡った成田不動が向かった先は、吉原の大門です。開帳札が建てられていた場所の一つですが、吉原大門に向かったのは、江戸出開帳のPR戦略の一環に他なりません。吉原は江戸っ子の注目スポットですから、ここに立ち寄ることで、江戸出開帳の前宣伝になると見込んだわけです。吉原の遊郭経営者は有力な支持基盤ですから、その要請もあったのでしょう。

当り前のことですが、吉原の大門をくぐったのではなく、成田山が来月から2ケ月間、ご開帳するとPRしたのです。歌舞伎が地方で興行する場合、同じような光景があります。これも時代劇によく出てきますが、役者たちが町の中を練り歩いて、興行の前宣伝の口上をする場面があります。まさに、これでした。

続きを読む "五章十一話 江戸での大パフォーマンス"
2007年10月23日

3月1日より、ご開帳がはじまりました。永代寺には、江戸や近郊から多くの参詣者が押し寄せ、まるで祭礼のような賑やかさでした。開帳場を見ると、成田講の中核である日本橋や深川の商人から奉納された金品が、所狭しと並べられていました。

永代寺は、浅草寺に匹敵するほどの巨大なお寺でした。その境内は、飲食店や娯楽を提供する店が立ち並ぶ歓楽街でしたので、元々集客力はありました。それに加えて、江戸に居ては拝めない地方のお寺の秘仏のご開帳となると、物見高い江戸っ子が押し掛けるため、人出はさらに増えるのでした。成田山はもとより、永代寺にとっても集客力ある成田山のようなお寺が開帳してくれるのは、悪い話ではありません。

続きを読む "五章十二話 開帳場の話題作り"
2007年10月30日

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ご開帳は4月一杯までの予定でしたが、途中、火事で中止となった期間があり、5月27日まで延長が許可されています。開帳期間が終り、成田山が深川を出発して成田に向かったのは、6月4日のことでしたが、今回の開帳の収支決算はどんなものだったのでしょうか。

開帳を願い出る時の関係各所への礼金や開帳札の建設費は先に見た通りですが、そのほか判明している数字としては、開帳小屋の撤去費が62両。境内を貸してくれた永代寺への挨拶料が10両ほど掛かりました。しかし、残念ながら、全体の数字が分かりませんので、安政3年(1856)に執り行われた開帳の時の数字を参考までに見てみます。

続きを読む "五章十三話 開帳の収支決算"
江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。近著に『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書)、『大名屋敷の謎』(集英社新書)、『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)『徳川将軍家の演出力』(新潮新書)。東京理科大学生涯学習センター、JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」講師も勤める。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト