2007年9月18日

現在、初詣の人出ベスト3は、明治神宮成田山新勝寺川崎大師の順番で不動です。明治神宮は、大正9年(1920)に誕生した神社なので事情は違いますが、成田山と川崎大師がベスト3に入っているのは、江戸の巨大マーケットのお陰でした。江戸での営業活動が、現在の地位をもたらしたのです。特に成田山は、江戸出開帳の大成功が寺勢拡大の大きなきっかけとなりました

成田山に参詣するには、鉄道ならばJRと京成電鉄を使うことになります。東京と成田を結ぶ京成本線と言うと、成田空港へのアクセスというイメージが強いわけですが、元々は成田山への参詣者をターゲットにして敷設された鉄道でした。成田山に限らず、東京近郊の有力寺社は、東京から放射状に広がる鉄道の終点などに位置しています。と言うより、参詣者をターゲットにして鉄道が敷かれ、門前に駅が作られたのです。

東京と八王子を結ぶ京王線に、高尾山口という駅があります。東京から高尾山薬王院に参詣する人たちをターゲットにした駅です。東京と小田原を結ぶ小田急線に、伊勢原という駅があります。この駅も、東京から大山不動(大山阿夫利神社)に参詣する人たちをターゲットにした駅でした。そのほか、集客力あるお寺の門前に置かれた駅は数知れずあります。

成田駅を降りると、すぐ参道が広がっている成田山ですが、意外にも、元禄時代以前は全国区のお寺ではありませんでした。もちろん、成田地域の人々の厚い信仰を集めてはいましたが、百万都市江戸での知名度はほとんどなかったと言って良いでしょう。ですから、成田山がご開帳というイベントを江戸で打つのは大きな賭けでした。

当時、成田山は500両にも及ぶ借財を抱えていました。1両というのは現在で言うと、10万円ぐらいですから、単純計算して5000万円くらいの借財があったことになります。これから見ていきますように、一口に江戸で開帳と言っても、準備だけでも多額の費用が掛かります。その費用を超える収益をあげなければいけません。ですから、この賭けに失敗すると、大変なことになってしまうわけですが、凶ではなく大吉と出たのです。

2007年9月18日

成田山が江戸で最初にご開帳をしたのは、元禄16年(1702)のことです。既に成田山は、前年の元禄15年(1701)に、本堂落慶記念として地元で居開帳を執り行っていました。

本堂の建立には巨額の費用を要しました。その建立費も借財が嵩んだ大きな理由でした。成田山は居開帳で得られた浄財を、その補填に当てたのですが、とても足りませんでした。ここに至り、江戸という巨大マーケットでの開帳が企画されたわけです。

この元禄期は開帳ブームが起きていた時期です。元禄と言うとバブルの時代ですが、そうした経済情勢とお寺の経営戦略は大いに関係しています。お寺としては好景気に沸く江戸のマーケットに目を付け、イベントを企画し、収益を挙げようと狙ったのです。その一つが、成田山なのでした。

深川の永代寺に本尊の不動明王を安置し、元禄16年4月27日から2ケ月間、江戸出開帳をおこないましたが、成田山は予想を上回る収益を挙げることができました。2000両以上の収入となり、借財をきれいに返済したばかりか、鐘楼などの建立費も充分に出たと言います。

大成功を収めた理由は、主に2つ挙げられます。1つは、将軍様やお殿様たちの奥方の支持を獲得できたことです。大奥の力は絶大でした。以後、成田山の強力な支持母体となっていきます。

出開帳が終わった後ですが、不動明王は江戸城に入り、桂昌院の礼拝を受けるという栄誉に浴しました。この事実は、成田山の知名度アップに大きくプラスとなります。

もう1つは、「成田屋!」で知られる江戸歌舞伎の代表格市川團十郎のバックアップを受けたことです。團十郎は、成田山の不動明王つまり成田不動を厚く信仰していました。

歌舞伎の舞台とは、流行の発信源であり、今で言えばテレビやネットに匹敵するメディアでした。役者は、流行の最先端を行く人気タレント、人気キャラクターでした。團十郎と言えば歌舞伎役者の代名詞のような存在ですが、その團十郎が、開帳中、歌舞伎の舞台で成田不動を演じたのです。成田山の知名度アップに、はかり知れない効果をもたらしたことは言うまでもありません。この後も、成田山が江戸出開帳するたびに、團十郎は成田不動を演じ続けます。

2007年9月25日

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成田山の江戸出開帳は、元禄16年を初回として、都合10回おこなわれました。一口に出開帳と言っても、その準備は大変なのですが、記録が豊富に残っている今から200年前の文化3年(1806)の事例から、その舞台裏を覗いてみましょう。

江戸で本尊を開帳すると言っても、勝手にはできませんでした。幕府の寺社奉行様の許可が必要でしたが、成田山のように地方のお寺の場合は、ご領主様(下総佐倉藩主堀田家)の許可も必要でした。

江戸出開帳は、文化3年3月1日から正味2ケ月間、深川永代寺で執り行われました。この企画が表に出てきたのは、前年の6月15日のことですが、この日、成田村の村役人たちに、来年江戸で開帳したいと打診したのです。なぜ、成田村に事前に打診する必要があったのでしょうか。

 成田不動が江戸に向かう時、かなり大がかりな行列が組まれます。大名行列のようなものですが、その時、成田村の村民たちに行列に加わってもらうわけです。2ケ月間にわたる開帳中、開帳小屋の警備やら何やらで、人出が必要なのですが、そのまま村民は江戸に滞在し、警備役も勤めるのです。

そもそも、成田山が江戸で開帳したいとお殿様に願う時には、成田山のある成田村の承認が必要でした。このため、最初に成田村に話を通しておく必要があったのです。他のお寺の場合も、江戸出開帳の時には、鎮座している町や村などの地方自治体の承認そして協力が必要という事情は同じでした。

ですから、この6月15日に村役人に集まってもらい、食事を出しながら、来年の開帳への協力を依頼したのです。もちろん、その数年前から成田山内部では江戸出開帳が検討されていたことでしょうが、この日、外部に向けて、来年の開帳計画を公表したのです。無事、成田村の承認は得られ、成田山は開帳の準備を進めていくことになります。

2007年9月25日

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村役人の接待を通じて、成田村の賛同と協力を得た成田山ですが、お殿様に願書を提出する段となった時、思わぬ出来事が起きます。7月12日に、藩主の堀田正順が死去してしまったのです。忌明けまで、願書は提出できませんでした。

閏8月3日、忌明けとなりましたが、家督相続のため藩当局も取り込んでおり、願書を提出できたのは9月2日になってからです。その願書を読んでみましょう。

「成田山内の経堂と鐘楼堂が大破したが、自力で修復することができない。寛政元年(1789)の前例に倣って、江戸(深川永代寺)で明年3月より2ケ月の間開帳し、その寄進の助成をもって修復費としたい。この件を願い出るため江戸に赴き、寺社奉行所に願い出ることをお許しいただきたい。」

 前回の出開帳から、まだ20年も経過していませんでした。前回は、山内の堂社の造営費を捻出するとして開帳の許可を得ました。手を変え品を変え、何とかして開帳の許可を得ようというお寺の経営事情が見えてきます

もちろん、経堂と鐘楼堂が大破していたのは間違いなかったでしょう。ですが、復費の調達には、本当に開帳しか方法がなかったのかどうかまでは、残された記録からは分かりません。

9月11日に、佐倉藩当局は成田山に対して、江戸に赴くことを許しました。早速、翌々日の13日に、貫首の照誉は成田を立ちます。徒歩ですと、江戸までは1泊2日の行程でしたので、14日には江戸に入っています。浅草坂本町(現台東区松ケ谷)のお寺を宿所としています。

お殿様の許可を頂いたとは言え、問題はこれからです。無事に、寺社奉行の許可が貰えるかどうかは、貫首照誉の奔走次第なのでした。貫首の手腕が試されていたのです。

2007年10月 2日

9月15日に、照誉は本所の弥勒寺(現墨田区)に向かいます。成田山は真言宗ですが、弥勒寺も真言宗です。

弥勒寺は、たいへん格式の高いお寺でした。江戸触頭を勤める4つのお寺のうちの1つです。江戸触頭というのは、何でしょう。

江戸幕府は、全国のお寺を宗派別に統制下に置いていました。この時代はお寺の数は数十万もあり、現代とケタが一つ違います。幕府にとって、お寺とお坊さんを支配するのは大変でしたが、その手段として、宗派別に江戸触頭のお寺を置き、その下に全国のお寺を付属させています。江戸時代は縦割り社会でしたが、お坊さんの社会も同じでした。

例えば、お寺に指令(お触れ)を出す場合、まず各宗派の江戸触頭に伝えます。そうすると、江戸触頭のお寺は管轄下のお寺に、その指令を伝えました。伝えたのは、本寺(本山)だけです。そして、本寺は末寺に伝えるという上位下達のシステムになっていました。

伝えると言っても、口頭ではなく文書です。コピーもない時代ですから、筆写したわけです。寺社奉行所から墨で書かれたお触れが届くと、触頭は管轄下にある本寺の数の分だけ筆写します。触頭からお触れの写しが届くと、本寺は末寺の間で回覧させるのです。回覧の順番も決まっていました。回覧の過程で、末寺は次々と筆写していきます。こうして、全国津々浦々のお寺まで、幕府の指令が届けられたのです。

逆に、お寺が寺社奉行に願書を提出する場合は、江戸触頭を通すことになっていました。その添状がなければ、願書自体、寺社奉行所に受け付けてもらえなかったのです。本寺はそのまま、江戸触頭に添状を出してくれるようお願いできましたが、末寺は本寺の添状がないとダメでした。成田山は本山でしたので、触頭の弥勒寺に添状を出してくれるよう、直に依頼しています。

ただし、実際に添状を出したのは同じ触頭の円福寺でした。愛宕下にありました。真言宗では、江戸触頭を勤める4つのお寺が交代で業務を取っていましたが、9月は円福寺の担当でした。これを月番と言います。弥勒寺はすぐに、円福寺に取り次いでくれました。

円福寺は即日、添状を出しましたが、無料というわけにはいきません。成田山は手数料のような形で、1両の半分ほどを納めています。取り次いでくれた弥勒寺にも同額を納めています。何かと物入りですが、必要経費のようなものでしょう。触頭のお寺にとっては、役得であり、貴重な収入源に他なりませんでした。

2007年10月 2日

9月17日に、照誉は触頭(円福寺)の添状と一緒に、開帳の願書を寺社奉行脇坂安董に提出します。寺社奉行は大名が就任することになっていました(定員4~5名)。播磨国龍野(兵庫県)5万石のお殿様です。この月は、脇坂が月番だったのでしょう。

同じ奉行でも、町奉行には町奉行所という役宅があります。町奉行に任命されると、家族を連れてそこに住むことになっていました。遠山の金さんでお馴染みの北町奉行所は、現在の東京駅八重洲口の辺り。大岡越前で知られる南町奉行所は、有楽町駅の辺りにありました。しかし、寺社奉行所という役宅はなく、奉行に任命された大名の屋敷が奉行所になっていました。その家臣が寺社奉行所役人として、事務を処理したのです。

 照誉は担当の役人から、27日に出頭するよう命じられます。奉行所に出頭すると、お奉行様たちが居並ぶ前に進み出るよう命じられ、脇坂から願書は受理したと申し渡されました。

以後、奉行所内で願書が審議されましたが、10月10日、照誉に呼び出しが掛かります。出頭すると、担当の役人から大破したというが、該当する伽藍を書き上げるよう命じられます。翌11日に照誉が提出した書面を見ると、経堂と鐘楼堂の屋根(柿葺)が腐り、強い雨の時は雨漏りしてしまう。阿弥陀堂(土瓦葺)も雨漏りしている。祖師堂は雨漏りはしてないが、大破しているなどと書かれています。

この書面を受け取った担当役人は、場合によっては成田山まで人を遣って見分させると申し渡していますが、実際に役人を派遣する例はなかったようです。形だけの申し渡しでした。

11月6日、照誉は寺社奉行大久保忠真の屋敷に出頭し、開帳を許可されます。季節ごとに5件以内という枠がはめられていましたが、ちょうど枠も空いていたのでしょう。その裏では、開帳が認められるよう根回しに動いていた照誉の姿があったはずです。そこでは、担当役人への心付けは欠かせません。開帳で得られる収益に比べれば、安いものでした。許可が貰えるかどうかは、貫首としての評価にも係わります。もし許可されなければ責任問題にも発展してしまう恐れもありました。

屋敷から出てきた照誉は、関係各所にお礼回りをしていますが、触頭のお寺には、また礼金を納めています。江戸時代は、何かと礼金が欠かせない時代でしたが、礼金はこれで終わりというわけではなかったのです。

2007年10月 9日

 無事に開帳が許可された照誉は、翌7日に、開帳札を江戸の各所に建てたいと寺社奉行所に願い出て、許可されています。開帳札とは何でしょうか。

開帳札とは、開帳をいつから、どのお寺の境内で執り行うかが書かれた高札のことです。江戸のオフィシャルな掲示板でした。今回の場合、翌文化3年3月から60日間、深川永代寺で成田不動が開帳になると書かれていました。

時代劇で、高札の前に人が集まり、いろいろ話をしている場面がよく出てきます。高札に貼られているのは盗賊の似顔絵だったり、文字だったりしますが、江戸の人々は普段、高札からオフィシャルな情報を入手していました。

高札を建てることができるのは、江戸では幕府だけです。公共空間に勝手に札を建てることはできませんでした。許可が必要でした。

開帳の成否を決める要因はいくつもありますが、何と言っても、事前にどれだけ開帳の情報を流せて、江戸っ子に成田山の名前を浸透させられるかが最大の決め手でしょう。そうした事情は現代と同じです。そのため、プロモーション活動が非常に重視されましたが、この開帳札は、お寺が幕府公認のもと、公共空間で情報を発信できる唯一のツールなのでした。

成田山は9日・10日の2日間で、江戸の各所(20ケ所)に札を建てました。当然ながら、建てる場所は人が自然と多く集まってくる場所にいうことになります。ですから、成田山に限らず、浅草寺などの巨大なお寺の門前には必ず建てています。

お寺ではありませんが、市谷八幡宮、平川天満宮、芝神明宮、湯島天神、根津権現などの門前にも建てています。幕府が唯一公認していた吉原遊廓には、大門と呼ばれる巨大な門がありましたが、吉原大門前にも建てているのは興味深いところです。

開帳札の製作には7両ほど掛かっていますが、建てて終わりというわけにはいきません。開帳がはじまる4ケ月後まで、札の管理責任も負わなければなりません。と言っても、成田山の関係者が江戸に居続けるわけにもいかなかったので、門前に札を建てさせてもらった寺社に謝礼金を支払い、管理してもらっています。それも、総額2両ほど掛かっています。ここでも、礼金が必要なのでした。

2007年10月 9日

成田山は永代寺を宿寺として開帳をおこなったのですが、本尊などはどこに安置したのでしょう。永代寺に限らず、宿寺側が安置する建物を貸すことはありませんでした。江戸にやって来たお寺は、宿寺から境内の一部を借り、そこに本尊を安置する開帳小屋を建てなければならなかったのです。開帳期間が終了すれば、それを撤去し、借りていた土地を戻すわけです。

成田山の場合、富岡八幡宮本殿近くの494坪の地所をレンタルしています。当時、富岡八幡は永代寺の境内に含まれていました。当然、地代を永代寺に納めることになります。

約500坪の地所のうち、小屋の建坪は195坪でした。開帳小屋としては最大級の規模です。その内部を見てみると、本尊や霊宝を安置する空間はもちろんのこと、玄関、お勝手、台所、風呂場、座敷、廊下、物置までありました。

開帳期間中、成田山の僧侶たちはこの小屋に寝泊まりすることになっていました。2ケ月間、この小屋で生活するため、そのような間取りになっているわけです。こうした小屋の内部も、寺社奉行に一々届け出ることになっていました。

一ヶ月も掛からずに、小屋の普請は終わりました。その費用は良く分かりませんが、回向院の事例が一つの目安になります。

回向院では、開帳小屋が成田山ぐらいの規模の場合、設営費が300両でした。土地のレンタル料だけでも、40両掛かりました。現代で言うと3000万円以上ですから、巨額の出費ですが、開帳に実際に掛かる費用はこんなものではありませんでした。

成田山の開帳は最大級の規模でしたが、小規模の開帳でも、設営費が150両、土地のレンタル料が20両ですから、資金力のないお寺が江戸で開帳すると言うのは、夢のまた夢でした。江戸で開帳ができるのは、限られたお寺だけだったのです。

小屋の建設は、1ケ月も掛からずに終わりました。11月晦日、照誉は普請完了を届け出ました。ここに、江戸での下準備は一通り終了しました。12月2日、照誉は江戸を出立して、成田に帰りました。成田山の僧侶たちが再び江戸にやって来るのは2ケ月後、開帳がはじまる半月ほど前のことでした。

2007年10月16日

年が明けて文化3年の2月17日、いよいよ成田不動が江戸に向けて出発します。5日前の12日に、成田山は江戸の寺社奉行所に届書を提出していますが、そこには17日に成田出発。20日に江戸到着。江戸市中に入ったら、どういう経路を取って深川永代寺に安置されるかまでが、細かく書かれていました。

お祭りの時に、御神輿が通る経路はあらかじめ警察などに届け出ることになっていますが、それと同じです。既に、成田山の先発隊が江戸に入っていることも分かります。準備や話題づくりに奔走していたことでしょう。

17日の午前9時、ご本尊が成田山を出発しました。本尊を納める厨子や仏事に必要な諸道具を運ぶ人数などで、総勢130人ほどです。大人数の行列ですが、この人数を勤めたのが成田村の農民でした。江戸出開帳は、村を挙げてのイベントでもありました。

成田から江戸までは、本来1泊2日の道中でした。しかし、街道の宿場で休息するたびに金品の奉納を受け、成田山も奉納者に赤飯やお酒を振る舞ったりするため、ゆっくりとした行程になっています。御祭り騒ぎのような賑やかさだったことでしょうが、成田山としては、それは望むところでした。

こうした賑やかな光景に関する情報は、これから向かう江戸にも電光石火のように伝わり、成田山への関心を一気に高めたでしょう。江戸への大行列は、開帳を盛り上げるのに不可欠なツールでしたが、江戸に入ると、その盛り上がりは最高潮に達します。

成田から江戸に入る場合、現在の京成本線に沿った経路をたどります。この大行列も、同じ経路で江戸に向かいましたが、江戸入りの前夜は日光(奥州)街道の千住宿で宿泊することになっていました。松尾芭蕉が奥の細道に出発したのは、この千住宿です。隅田川に架かる千住大橋を渡ると、江戸の町はすぐそこに広がっていました。

2007年10月16日

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2月20日午前8時、成田山にとり、一番大事な日がはじまります。同時刻、千住宿を出発した成田不動の大行列には、江戸町奉行所の同心22人と岡っ引き30人ほどが加わっていました。

この日は、江戸入り当日です。成田不動の江戸入りの情報は既に江戸市中に広まり、成田山を厚く信仰する江戸の成田講の人たちや物見高い江戸っ子が、その時を待っていました。行列を出迎えた成田講の人たちは、次々と行列に加わっていきます。永代寺に入る時には、行列は1000人もの人数に膨れ上がったようです。

江戸の成田講の大半は、町単位で結成され、商人が世話人を勤めました。財力ある商人がバックアップしてくれることは、成田山にはたいへん心強いことでした。開帳のたびごとに、多額の奉納金が成田山に納められています。商人のほか、歌舞伎役者や吉原の遊廓経営者も有力な支持基盤でした。

 この大行列には、「成田山開帳」という大きな幟が数十本ひるがえり、本尊が納められた厨子は輿に乗せられていました。まるで御神輿が巡行するような光景です。

この大行列は、当然道を塞いでしまう結果となります。通行人や見物人との間で、いろいろトラブルも起きてしまうのは仕方のないところでした。そこで、江戸の治安を預かる町奉行所から同心や岡っ引きが派遣され、行列の警備とトラブルの防止にあたったのです。

八丁堀と言うと、時代劇好きの人でしたら、町奉行所の与力同心の姿が思い浮かぶでしょう。八丁堀に組屋敷があったのですが、八丁堀から千住となると、10キロ近くありますから、午前8時に千住に着くとなると、夜明け前に屋敷を出る必要があります。当然、朝御飯も食べずに出てくるわけですから、成田山では朝御飯を用意しています。

千住から深川まで、この日は一日中、八丁堀の旦那たちは行列と同行することになりますが、昼御飯も成田山が用意します。心付けは当然です。これも、開帳の必要経費なのでした。

町奉行所の同心たちに警備されながら、千住大橋(隅田川)を渡り、江戸に向かった行列ですが、まっすぐ深川に向かったのではありません。なんと、吉原に向かっているのです。

2007年10月23日

千住大橋を渡った成田不動が向かった先は、吉原の大門です。開帳札が建てられていた場所の一つですが、吉原大門に向かったのは、江戸出開帳のPR戦略の一環に他なりません。吉原は江戸っ子の注目スポットですから、ここに立ち寄ることで、江戸出開帳の前宣伝になると見込んだわけです。吉原の遊郭経営者は有力な支持基盤ですから、その要請もあったのでしょう。

当り前のことですが、吉原の大門をくぐったのではなく、成田山が来月から2ケ月間、ご開帳するとPRしたのです。歌舞伎が地方で興行する場合、同じような光景があります。これも時代劇によく出てきますが、役者たちが町の中を練り歩いて、興行の前宣伝の口上をする場面があります。まさに、これでした。

 吉原大門を出ると、今度は浅草寺の雷門に向かいます。浅草寺のすぐ裏手に吉原があった格好ですが、江戸で一番の集客力を誇る浅草寺に立ち寄るのも、江戸入りのお決まりのコースでした。成田山に限らず、浅草・吉原エリアは江戸随一の繁華街ですから、営業戦略上、最重要のポイントということになります。

浅草寺周辺で昼食を取った後は、隅田川沿いの米穀商人の店をいくつか回っています。成田山の有力な後援者である彼らの店で休憩を取っていますが、これも本尊を拝みたいという要請に応えて立ち寄ったのでしょう。

そして、江戸経済の中心地である日本橋に向かった一行は、江戸最大の呉服商・越後屋呉服店(現在の三越日本橋本店)でも休憩を取っています。越後屋に限らず、立ち寄った先の商人たちは成田山に多額の金品を奉納したことでしょう。

成田不動一行が永代寺に到着したのは、午後4時のことでした。真っすぐに深川に向かわずに、集客力のあるお寺や繁華街、江戸の大店が立ち並ぶ日本橋界隈を一日かけて練り歩いたわけですが、この大パレードがPR戦略の一環だったことは言うまでもありません。

江戸市中の話題になることを狙ったパフォーマンスですが、ご開帳の成否に関わる以上、どのお寺も、江戸入りのパレードには力を入れています。ド派手なパフォーマンスで、集客力のアップを期待したのです。

2007年10月23日

3月1日より、ご開帳がはじまりました。永代寺には、江戸や近郊から多くの参詣者が押し寄せ、まるで祭礼のような賑やかさでした。開帳場を見ると、成田講の中核である日本橋や深川の商人から奉納された金品が、所狭しと並べられていました。

永代寺は、浅草寺に匹敵するほどの巨大なお寺でした。その境内は、飲食店や娯楽を提供する店が立ち並ぶ歓楽街でしたので、元々集客力はありました。それに加えて、江戸に居ては拝めない地方のお寺の秘仏のご開帳となると、物見高い江戸っ子が押し掛けるため、人出はさらに増えるのでした。成田山はもとより、永代寺にとっても集客力ある成田山のようなお寺が開帳してくれるのは、悪い話ではありません。

ご開帳中、お寺は様々な仕掛けをして、参詣者のアップをはかっています。例えば、人気を呼んでいた見世物があれば、開帳場に誘致しています。ここで言う見世物とは、精巧な芸術品や珍奇な展示物などです。見世物を展示する小屋は、今で言えば博物館・美術館のようなものでした。お寺としては、その人気にあやかろうとしたわけです。小屋の興行主としても、開帳中は集客力はアップしますから、同じ目論見のもと出店してきたわけです。

開帳中、大護摩と称して、大勢の山伏に烈火の中を渡り歩かせるパフォーマンスを展開したお寺もありました。たいへんな人気を呼び、見物客が殺到したと言いますから、話題作りとしては大成功です。ところが、余りの人気のため、それを見ようと怪我人が出てしまいます。ついには、幕府から中止を命じられるという結末になりました。どのお寺も、それだけ話題作りに必死だったということなのでしょう。

その点、成田山は市川團十郎という人気スターを後援者としていたことは、非常に大きかったと言えます。開帳中、團十郎は芝居の舞台で成田不動を演じて、そのPRに大きく貢献しましたが、それだけではありません。團十郎自ら、開帳場を訪れて、参詣者に挨拶をしたと言います。当日は團十郎を一目見ようと、人々が殺到したことは間違いありません。成田屋は、成田山の営業戦略にしっかりと組み込まれていたのです。

成田山に限らず、開帳の際には歌舞伎役者は引っ張りだこだったようです。当時の歌舞伎役者の人気ぶりが、このこと一つ取ってみても、よく分かります。本来でしたら、ご本尊のご利益に頼って集客力のアップを目指すべきですが、イベントを成功させるには背に腹は返られなかったのは、どのお寺も同じなのでした。

2007年10月30日

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ご開帳は4月一杯までの予定でしたが、途中、火事で中止となった期間があり、5月27日まで延長が許可されています。開帳期間が終り、成田山が深川を出発して成田に向かったのは、6月4日のことでしたが、今回の開帳の収支決算はどんなものだったのでしょうか。

開帳を願い出る時の関係各所への礼金や開帳札の建設費は先に見た通りですが、そのほか判明している数字としては、開帳小屋の撤去費が62両。境内を貸してくれた永代寺への挨拶料が10両ほど掛かりました。しかし、残念ながら、全体の数字が分かりませんので、安政3年(1856)に執り行われた開帳の時の数字を参考までに見てみます。

この時も、開帳の企画から終了までの経緯は大体同じです。支出を書き上げた帳面を見ますと、最初に出てくるのは、開帳の願書をお殿様に提出するため、佐倉に赴いた時の費用です。願書提出から許可の申し渡しを受けるまでの滞在費でしょう。

江戸の寺社奉行に開帳を願い出てよいというお殿様の許可を得ると、早速江戸に向かうわけですが、次に書き上げられているのが、開帳準備のための江戸滞在中に掛かるもろもろの経費です。文化3年の事例で見ると、文化2年9月14日から12月2日まで、貫首の照誉は江戸に滞在しています。3ケ月近く滞在するわけですから、滞在費だけでかなりのものだったはずです。それに加えて、寺社奉行所や触頭への運動費や手数料、宿寺の永代寺への挨拶料、開帳札の製作・管理費、開帳小屋の建設費もありました。

そのほか、開帳行列に掛かる経費、警備してくれる町奉行所同心たちへの心付け、開帳期間中の滞在費、開帳をバックアップしてくれる成田村や成田講への振舞などもありますが、すべてひっくるめると、出費は3000両近くにのぼりました。

現代で言うと、3億円ぐらいです。江戸出開帳には莫大な費用が掛かること、江戸で開帳できるのは限られたお寺だけであることが改めて確認できる数字と言えるでしょう。

言うまでもなく、開帳期間中、それ以上の収入が入らなければ赤字です。収支が赤字となり、大損害を受けてしまうお寺もたくさんありました。賑やかな江戸開帳の舞台裏では、悲喜交交の光景が展開されていました。だからこそ、お寺は開帳を成功させようと、プロモーションに知恵を絞り、集客力の強化に余念がなかったのです。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト