2007年7月31日

幕府からのバックアップを期待して、江戸のお寺は大奥工作を熾烈に展開したわけですが、当然ながら、全てのお寺がその恩恵に預かったのではありません。寛永寺や増上寺は将軍様のお墓があるということで、特に優遇されていたお寺でしたが、時代が下るにつれて、この2つのお寺に対してさえ、幕府の財布の紐は堅くなっていきます。

その理由は、もろろん幕府の財政難です。8代将軍吉宗の時は、旗本御家人といった家来たちに支払う給与(お米)にも不足したぐらいでした。どうにもならなくなった吉宗は、幕府の深刻な財政難を諸大名にカミングアウトし、石高1万石につき米100石の献納を命じます。加賀百万石の前田家の場合は、毎年1万石の米を幕府に納めたわけです。

その代り、諸大名が参勤交代で江戸に滞在する期間を1年から半年に縮めました。お殿様たちは、国元で1年、江戸で1年ずつ過ごすことが義務付けられていましたが、江戸での生活はたいへんな出費を伴うものでした。年間予算の半分以上が、江戸での生活費だけに消えていきましたから、お殿様たちにとっては悪い話ではありません。ただ、さすがに将軍様の体面もありますから、10年ほどで献納は中止となりました。その後は従来通り、江戸での1年間の生活が義務付けられています。

この時代、吉宗の享保改革に限らず、改革政治の最大のテーマは財政再建でした。そこでは経費節減が一番のお題目になっていたのですが、歳出カットの波はお寺にも及びます。助成の枠が狭まり、その枠をめぐる競争が激化していくのです。

寺社の監督官庁は寺社奉行所です。寺社奉行所が、お寺からの助成の嘆願を審議し決定しますが、財政難を受けて、なかなか嘆願が認めらません。正攻法では嘆願が受理されないため、お寺は裏工作に奔走することになります。そうした事情が、大奥工作を熾烈なものにしていったわけです。

大奥工作によって、お寺は葵の紋所入りの品の寄進を受けていますが、その品は実は大奥からの寄進でした。ですから、幕府の懐は直接には痛みません。お寺は葵のブランド品を何とかして手に入れようと、大奥に懸命に働き掛けます。それを売りにして集客力を高めることで、その経済効果に期待したわけですが、その争奪戦は次第に過熱していきます。その過熱ぶりにしても、お寺の助成枠を狭めた幕府の切迫した財政事情と無関係ではなかったでしょう。

2007年7月31日

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お寺が幕府から助成を受ける方法はいろいろですが、大まかに言うと2つに分けられます。1つは金品を給付されたり、拝借することです。もう1つは、募金活動を許可されることでした。

助成を願うのは、堂社の新築・修築などハード面の整備の時です。ベストなのは、幕府の費用で整備してもらうことです。しかし、その恩恵に預かれるのは、寛永寺や増上寺など、将軍と特別の由緒があるお寺に限られていました。将軍のお墓があるわけですから、国家予算で維持されるのは当然と言えます。将軍が檀家であることの強みが、いかんなく発揮されるのです。

普段お寺は、幕府や諸大名から寄進を受けた土地、年貢を免除された土地(除地と呼ばれます)から上がる収穫物や檀家のバックアップなどで、仏事を執り行っていました。しかし、堂社の大修復など、莫大な臨時の出費が予想される際は、それだけでは無理でした。そこで、幕府や大名などの領主からの助成に頼ろうしたわけです。

しかし、国家予算で修繕してもらえるお寺は言うまでもなく、金品を給付されたり、拝借できるのも、ほんのごく一部のお寺に過ぎません。そこでも、優遇されていたのは徳川家と縁故のあったお寺だけでした。総数でみても、100ケ寺ほどに過ぎなかったでしょう。

募金活動とは、お寺が自力で集金することですが、主に2つの方法がありました。1つは勧化、もう1つはご開帳でした。

勧化とは、元々は仏の教えを勧めることですが、転じて、お寺の建立や修復のために人々に勧めて寄付を募る。つまり、金品の寄付を勧める言葉として用いられるようになりました。

ここで言う勧化とは、幕府の許可を受けた勧化のことです。もちろん、幕府の許可を受けなくても、勧化はできました。それを私之勧化、自分勧化と呼びましたが、幕府の許可を受けた勧化の方がはるかに効果があったのです。

2007年8月 7日

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勧化に似た言葉に、勧進があります。

勧進という言葉は、人々に仏の道を勧めて善の道に向かわせることですが、一般には、お寺や仏像の建立や修復のため、人々に勧めて寄付を募るという意味でしょう。歌舞伎にも取り上げられている勧進帳とは、その寄付を募る趣旨が書かれた帳面のことです。

勧進も勧化もほとんど同じ意味ですが、勧進の場合はイベントと抱き合わせで使われる言葉のようです。勧進興行というフレーズがありますが、これは勧進のために、能や歌舞伎などの芸能文化が興行されるということです。その収益を修復などの費用に充てようというわけですが、江戸時代の勧進興行と言えば、何と言っても勧進相撲でした。

この時代、相撲はたいへん人気のあるイベントでした。集客力のあるイベントですから、集金力にも当然期待が集まります。あまりにも人気が高まり過ぎて、幕府は街で相撲をするのを禁止したほどでした。町中で人がたくさん集まってきて、いろいろ騒ぎやトラブルが続出したのです。勝負に過熱した余り、喧嘩そして刃傷沙汰も日常茶飯事だったのでしょう。賭け事も盛んだったことでしょう。

 しかし、幕府当局としては、こうした江戸の治安の乱れは看過できないものでした。そのため、街で相撲をすることや、ついには勧進相撲も禁止してしまうのです。

しかし、禁止されたこともあって相撲人気はいよいよ高まり、禁令も効果がありませんでした。ここに、幕府は方針を変更して、許可制にします。相撲興行を統制下に置くことで、その取り締まりをはかろうとしたのですが、お寺の側としても、勧進相撲の興行禁止が、経営に大打撃だったことは言うまでもありません。

貞享元年(1684)に、深川で勧進相撲が再興されます。当時、深川は新開地でした。埋め立てを繰り返しながら、街が作られていきましたが、街の活性化のため、相撲の経済効果が期待されたわけです。興行場所は、深川の富岡八幡宮の境内でした。

以後、お寺や神社の境内で相撲が華やかに興行され、江戸の娯楽文化として発展していきます。お寺の側も、この経済効果の恩恵に大きく浴していたのです。

2007年8月 7日

幕府の許可を受けた勧化は、御免勧化と呼ばれました。御免勧化とは、どのようにして行われるのでしょうか。

御免勧化には、実際に地域を回って募金活動をおこなうものと、地域を回らずに金品が集まってくるものの2つがあります。前者から見ていきましょう。

勧化の範囲には、全国が対象地域の場合もあれば、江戸だけ、数ケ国だけというパターンもあります。寛保2年(1742)に、奈良の西大寺が伽藍再興を理由に許可された事例を見ると西大寺のある大和国のほか、山城国・摂津国・河内国・和泉国の5ケ国での勧化となっています。現代で言うと、奈良県・京都府(一部)・大阪府の範囲です。その期間は、19ケ月でした。

対象地域と期間は、お寺によって様々です。法則性や基準は残念ながら見い出せません。監督官庁である寺社奉行所の匙加減と言ったところなのでしょう。お寺の工作次第と言えるかも知れません。

幕府の許可を得ているため、対象地域に対して、そのお寺が勧化のため巡行してくる旨が触れられることになっていました。政令が回ってくるようなものでしょう。そこには、以下のような趣旨が書かれていました。

幕府は西大寺に、その伽藍再興のため勧化を許可した。寺社奉行(定員4~5名)が連名で捺印した勧化状を持参し、西大寺が巡行してくる。志のある者たちは、多少に寄らず寄進せよ。その旨を、幕府領の領民にはその代官が、大名領や旗本領の領民には当の大名や旗本から申し渡しなさい。

幕府の命令を受けて、この5ケ国の領主たちが領民に対して、西大寺が巡行してきたら寄進するよう直接指示したわけです。

2007年8月14日

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御免勧化とは、幕府を後ろ盾にした勧化でしたから、かなりの寄進が期待できました。あくまで、寄進は当人の意志ですが、半ば義務的なものとして捉えられていたでしょう。お寺の側はそこに期待していました。まさしく、お墨付きの勧化の旅でした。

西大寺は幕府のお墨付きを持って、対象地域を巡行したのですが、わざわざ巡行しなくても、自然と金品が集まってくる御免勧化もありました。享保7年(1722)4月に、熊野三山が権現社修復のため勧化を許可された時の事例を見てみましょう。この勧化の対象地域は日本全国ですが、期間は1年間だったようです。

熊野三山の者たちが諸大名の江戸屋敷を回り、勧化への協力を依頼すると、大名の方が三山に代わって勧化の事務を取ってくれました。大名側に勧化帳を渡して置くと、江戸屋敷の家臣たちの間や領内に、勧化帳が回っていく段取りになっていたわけです。あらかじめ幕府から諸大名に、そのように指示していたのです。この場合も政令のようなものでしたが、その内容を見てみます。

江戸屋敷内で寄進された分は、4月から8月までの間に、三山の者が請取に出向いて来る。領内で集めた分は、10月から翌年3月までの間に、江戸屋敷・京都屋敷・大坂屋敷に請取に出向いて来るという趣旨でした。

どの大名も、江戸には屋敷がありましたが、京都や大坂に屋敷があった大名の場合は、京都屋敷か大坂屋敷に送っておけば、三山の者が請取にやって来るシステムになっていたのです。西国の大名は京都や大坂に屋敷を持っていましたから、その場合は江戸に送らずに、京都や大坂屋敷に送ったのでしょう。熊野三山にしても、和歌山県にあるわけですから、その方が好都合だったと言えます。

大名領での勧化の事務は大名が取ってくれましたが、幕府領の場合はお代官様が勧化帳を回してくれました。わざわざ全国を回らなくても、お殿様やお代官様がその実務を代行して、寄進品を集めてくれたのです。

お寺にとっては至れり尽くせりで、願ってもないシステムでした。ですが、その恩恵に預かれるのは、限られた大寺院だけだったのです。

2007年8月21日

お殿様やお代官様が勧化の事務を代行してくれなくても、幕府のお墨付きが得られれば、領内の勧化活動ではバックアップが期待できました。当然のことながら、御免勧化を望むお寺の数はたいへん多く、寺社奉行には願書が殺到することになります。

御免勧化の最初は、享保7年と言われています。吉宗が財政難を諸大名にカミングアウトして米の献納を命じたのが同じ年ですから、幕府の財政難と無関係ではなかったでしょう。寄進するよう命じるだけですから、直接、幕府の懐は痛みません。巧妙な助成策でした。

お寺の修復に対する幕府の基本的なスタンスは、幕府にもたれることなく、世間の助力で修復費を捻出するようにというものでした。世間の助力の範疇には、勧化による浄財のほか、ご開帳時の浄財も含まれています。

その一方、幕府から勧化の事務を押しつけられた形のお殿様たちの方は、いろいろ大変だったようです。幕府の命令とは言え、それを迷惑がる向きがあったのも事実ですが、お寺にとっては好条件ですから、御免勧化願いが減ることはありませんでした。

しかし、幕府費用による修復や修復費の給付・拝借ほどではありませんでしたが、御免勧化の場合も狭き門だったことには変わりはありません。その基準ですが、幕府の費用で建立されたという由緒を持つお寺や、特別な理由のあるお寺に限られていました。言い換えると、お寺の大半はその対象外だったということです。

ですが、その狭き門を突破しようと、お寺は様々な策をめぐらします。何とかして、その特別な理由の範疇に入ろうとします。そこでは、格式の高さが重視されていたのですが、この頃、自分のお寺の僧侶を、京都のお公家さんの養子にする事例が数多くみられたようです。

お公家さんは官位が高く、官位だけ見ると、普通の大名の遥か上を行っていました。養子と言うのはお寺の格式を高める手段だったわけですが、こうした手段を講じてまで格式を高め、勧化を認めてもらおうとしていたのです。

2007年8月21日

御免勧化の枠に入るのはお寺にとって至難の技でしたが、幕府は明和3年(1766)に、相対勧化という助成策を新たに打ち出します。

御免勧化には寺社奉行連名の勧化状が発給されましたが、この相対勧化の勧化状は、寺社奉行1名のみの捺印でした。幕府の許可を得た勧化ではありましたが、御免勧化よりも格が低く、先のような御触書、つまり政令のようなものも出されませんでした。

このため、相対勧化が許可されたお寺は、対象地域のお殿様やお代官様から、直接にはバックアップが受けられませんでした。お寺が勧化のため巡行してくる旨が伝えられなかったため、領民に対して西大寺の場合のように、巡行してきたら寄進するよう指示を下す必要はなかったのです。

相対勧化の場合、お寺の側は自力で対象地域を回り、寄進を募ったわけです。その期間は90日で、事情によって30日間の延長を許可するというものでした。

とは言え、幕府の許可を得て、寺社奉行の勧化状を持っている以上、何の後ろ盾もなく寄進を募って回る自分勧化よりは、はるかに有利だったことは間違いありません。ネームバリューのあるお寺の名前を騙って、勧化にやって来る事例も多かったようですが、携帯している寺社奉行の勧化状は、そのお寺が本物であることの証明書でもありました。

御免勧化にせよ、相対勧化にせよ、どれくらいの額を集められたのか、残念ながら、その辺りの数字はよく分かりません。ちなみに、御免勧化の場合、一つの村で200文ぐらい寄進したという数字があります。幕府の許可を得ない勧化の場合は、それよりも低かったと言います。

200文というのは、現代の貨幣単位に直すと、どれくらいの額でしょうか。二八蕎麦という言葉がありますが、かけそば1杯が16文です。地方の旅籠屋に1泊すると、その料金は250文と言いますから、おおよその見当が付くと思います。

いずれにせよ、村民個人の寄進ではなく、村という一つの自治体からの寄進でした。お寺が村を回っていく場合も、村民の家を回って歩くのではなく、村長のような村の有力者の家を回って、勧化を依頼するのが普通だったようです。世間の助力により修復費を調達せよ、と幕府はお触れで述べているのですが、村からの寄進も世間の助力に他なりませんでした。この世間という言葉には、村や町などの地方自治体も含まれていたのです。現在で言えば、市町村ということになるわけです。

しかし、幕府お墨付きの勧化とは言っても、期待するほど集まらなかった事例は多かったようです。お寺は窮してしまうわけですが、その場合にはもう一つの方法がありました。ご開帳により、目的額を達成しようとしたのです。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト