2007年6月 5日

020101.jpg

最近、テレビや映画などで大奥は大人気です。江戸城の奥深い謎の空間では、将軍様のご寵愛をめぐって、女性たちの熾烈な戦いが繰り広げられていました。

大奥のドラマを見ていると、必ず登場するのが、お坊さんです。それも、かなり重要な役回りを演じていることが多いのではないでしょうか。

大奥の女性と言うと、誰を思い浮かべるでしょう?犬を大切にした5代将軍綱吉の母・桂昌院は、テレビにも良く登場します。

絵島生島事件という大奥の大スキャンダルとして知られる事件がありました。正徳4年(1714)に起きた事件です。大奥の実力者絵島が芝の増上寺に参詣した帰りに歌舞伎を見て、人気役者生島新五郎と密通したと言うのです。この事件の背景には、6代将軍家宣の正室天英院派と、側室で時の7代将軍家継の母である月光院派(絵島は月光院派の中心人物)の争いがあったと言いますが、2人とも○○院という名前でした。

将軍が死去すると、正室(御台所)や側室たちは落飾して仏門に入ります。桂昌院は3代将軍家光の側室ですが、家光が死去したため、桂昌院と名乗りました。天英院と月光院は6代将軍家宣が死去したため、天英院、月光院と名乗ったわけです。落飾に係わるのはお坊さんですし、院号を授与するのも役目でした。

正室・側室に限らず、大奥に勤める奥女中たちの日々の生活には、仏教が深く係わっていました。大奥と言うと、なかなか外には出られないイメージが強いのですが、実際は何かと理由を付けて、お寺参りをしていました。お寺参りとなると、城の外に出やすくなったようです。

将軍が病気になると、その平癒のため。正室や側室が懐妊すれば、その安産祈願のため。あるいは、将軍の武運長久、天下泰平など、様々な理由を付けて、奥女中たちはお寺にやって来ました。

お坊さんの側も、奥女中たちが参詣するのを大いに歓迎しました。参詣してもらうと、いろいろなメリットがあったのです。今回は、大奥とお坊さんの深い関係をいろいろみていきます。

2007年6月 5日

020201.jpg

大奥は、江戸城の本丸御殿の中でも一番奥にありました。本丸御殿は現在、皇居東御苑の一部となっていますが、御殿の建坪は1万1300坪ほどあります。巨大な空間です。

御殿は3つの空間から構成されていました。幕府官僚が詰めて政務を執る表向、将軍が日常生活を送る中奥、そして将軍の寝所である大奥の3つです。そのうち大奥は約6300坪もあり、御殿の過半を占めている計算になります。

その後ろに天守閣がありましたが、明暦3年(1657)の明暦の大火で焼け落ちてしまった後は再建されないままでした。ですから、以後江戸城には天守閣は存在しないことになります。時代劇では、江戸城のシーンでお約束のように天守閣が映りますが、実際に天守閣がそびえ立っていたのは、江戸時代最初の50年ほどに過ぎませんでした。

中奥には将軍の身の周りの世話をする側近が多数詰めていましたが、大奥に入れる幕府官僚(もちろん男性ですが)は厳しく制限されていました。テレビにも登場する側用人ぐらいです。

ただ、大奥の経理を執る役人や警備の役人が詰めている空間もありました。これを、御広敷(おひろしき)と呼びます。この空間だけは例外でした。

俗に、大奥には3000人もの女性が住んでいたと書かれることが良くありますが、そんなに多くはありません。一番多い時で、1000人ほどでした。

奥女中とは、いわば幕府の女性官僚のような存在でした。将軍の寝所を独占しているわけですから、その威勢はたいへんなものでした。トップクラスの奥女中となると、幕府の閣僚人事までも左右する力を持っています。立身出世したいサムライたちは、争うように賄賂を奥女中に贈って、念願のポストを手に入れるのでした。

奥女中のトップは、御年寄でした。その威勢は老中つまり現在の大臣と同じとされたほどでした。生島新五郎と密通したと伝えられる絵島が、これに当たります。

大奥のドラマをテレビで見ていると、必ず登場してくるのが、御中臈です。御中臈とは、将軍の身の回りの世話をする女性を指しますが、将軍付の御中臈から、将軍のお手が付いて側室となりました。御中臈は高級官僚なのですが、それよりランクが下がる奥女中であっても、将軍の目に留まって、お手が付くと御中臈に昇進するシステムになっていました。

 将軍のご寵愛をめぐるバトルが、大奥ドラマのテーマとしてよく取り上げられますので、自然と、御中臈という言葉は耳に残ってしまうことになります。

さて、奥女中のなかに、「御坊主」と呼ばれた女性がいました。名前のとおり、剃髪姿でした。この御坊主も大奥の官僚なのですが、大奥に限らず、江戸城内には剃髪姿の官僚は大勢いたのです。

2007年6月12日

020301.jpg

あまり知られていないことですが、江戸城には、御坊主がたくさん詰めていました。大奥にも御坊主はいましたが、何と言っても幕府役人が詰める表向、現代で言うと首相官邸・永田町ですが、ここには剃髪姿で法服を身にまとった御坊主が忙しく立ち働いていました。殿中のシーンを見ていると、お坊さんがよく行き交っています。

こうしたお坊さんは何のために、江戸城中にいたのでしょう?江戸城の裏方さんとしてのお勤めをしていたのです。

将軍の衣装を管理したり、将軍が顔を洗うのを準備する係を勤めるお坊さんもいれば、城中の雑用をこなすお坊さんもいました。御殿にあがるお殿様たちの世話をしたり、案内係を勤めるお坊さんもいます。歌舞伎にも登場する河内山宗俊は、御数寄屋坊主。御茶を出す喫茶係の御坊主でした。お坊さんは、人数は良く分かりませんが、その数は軽く百人は越したでしょう。

御坊主は、れっきとした武士でした。ただ、将軍様に使えるサムライとしては身分は低かったのですが、陰の実力者となるお坊さんもいました。

お殿様(大名)たちは江戸城の御殿に入ったら、一人で行動しなければなりません。何と言っても御殿は広く部屋も多かったので、案内係の御坊主に先導してもらわないと、迷路に入り込んでしまったような感じになってしまいます。ですから、あらかじめ、特定の御坊主に案内を頼んでおかないと、大変なことになります。何か不始末をしでかしてしまうと、御家に傷が付くのです。そのため、お殿様というより、その家来から挨拶という名の金品が届けられることになります。

また、彼らは御殿が職場なので、城中の事情には自然と詳しくなってしまいます。お殿様たちは、政界事情通の彼らと懇意になることで、シークレットな政界裏情報を手に入れることができました。その見返りとして金品を届けています。この時代にしても、情報を制する者が勝者となります。こうして、陰の実力者となり、贅沢な生活をすることができたのです。

さて、大奥の方の御坊主ですが、年齢は50才前後だったそうです。将軍の雑用掛を勤めました。その姿を見ると、頭は剃髪していて、羽織袴を着用していました。

何とも異様な姿ですが、この御坊主のみ、中奥という将軍の側近が詰める場所に入ることができました。大奥は男子禁制と言われますが、逆に言うと、大奥の女性官僚は大奥以外の場所に立ち入ることは許されませんでした。大奥以外の場所つまり中奥・表向は女人禁制だったのですが、唯一、羽織袴姿の御坊主は入れました。お坊さんの姿だったからではないでしょうか。

2007年6月12日

020401.jpg

大奥に入れる者は限られていましたが、例外がありました。それは、お医者さんです。江戸城勤務のお医者さんもサムライでしたが、医者にも階級がありました。

上から、典薬頭(てんやくのかみ)、奥医師、表御番医師と続きます。典薬頭は医師のトップで、大名並みの官位を与えられました。法印に叙せられます。

奥医師というのは、将軍のお脈を取ったり、正室である御台所や側室、奥女中たちの診療をおこなうお医者さんです。「お匙」と呼ばれました。奥医師に任命されると、法眼に叙せられました。

法印や法眼に叙せられるということは、たいへん名誉なことでした。法印や法眼とは僧侶の位のことですが、この時代には僧侶だけでなく、医師、そして仏師や絵師にも与えられるものになっていました。

元々は僧侶に与えられた位ですから、法印や法眼になると、頭を丸めなければなりません。ですから、大奥に入るお医者さんは、剃髪姿ということになります。本物のお坊さんは、奥女中からの厚い信頼を受けていたのですが、さすがに大奥の内部には入れなかったようです。

そのほか、少年ならば大奥に入ることができました。少年と言っても、九才までの男の子だけです。

いずれにしても、大奥はこうした例外を除き、男子禁制の空間でした。そのため、本物のお坊さんが奥女中とコンタクトを持つには、彼女たちに大奥(江戸城)の外に出てもらう必要がありました。お寺参りをしてもらうことで、その信任を勝ち得たのです。

彼女たちが城外に出る時の門は決まっていました。平川門と言います。この門は不浄門とも呼ばれました。死者や罪人を城の外に出す時に使用された門でした。例えば、赤穂浪士で有名な浅野内匠頭は刃傷後、この門から城の外に出されます。

この門を出て、奥女中たちはお寺に向かったわけですが、次では、彼女たちのお寺参りの様子を見ていきましょう。

2007年6月19日

将軍様が死去すると、どのお寺に葬られるのでしょうか。

徳川家の宗旨は浄土宗です。家康は日光山に葬られましたが、2代将軍秀忠は芝の増上寺に葬られました。増上寺が将軍の菩提寺・檀那寺に指定されたわけです。歴代の将軍様は増上寺で葬儀が執り行われ、霊廟が建立されるはずでした。

ところが、3代将軍家光は天台宗の僧侶天海を厚く信頼していました。天海のために上野に造ったお寺が、寛永寺ですが、そのモデルは比叡山延暦寺でした。

伝教大師最澄は京の鬼門(北東の方角)に比叡山延暦寺を創建し、京都を鎮護する役割を担わせたわけですが、天海は江戸城の鬼門にあたる上野のお山に、延暦寺にならって寛永寺の建立を願い、許されました。山号は東の比叡山ということで、東叡山。寺号は、創建時の元号が寛永でしたので、寛永寺となりました。延暦寺創建時の元号が延暦であったことにならったものです。

このため、将軍の葬儀も菩提寺である増上寺でおこなわれるはずでしたが、家光は寛永寺を指名し、その後、日光に葬られました。日光山だけでなく、寛永寺にも家光の霊廟が建立されています。そして、家光の息子である4代将軍家綱、5代将軍綱吉も、父と同じく寛永寺で葬儀が行われ、霊廟が建立されました。

これに危機感を持ったのが、増上寺です。幕府に強力に働きかけた結果、6代将軍家宣は増上寺で葬儀が執り行われ、葬られました。7代将軍家継も増上寺に葬られましたが、今度は寛永寺が巻き返しをはかり、暴れん坊将軍の8代吉宗は寛永寺に葬られました。吉宗自身も、寛永寺に葬られることを望んだようです。その後は、両寺のメンツを立てる形で交互に葬られました。9代家重は増上寺、10代家治は寛永寺に霊廟が建立されます。

しかし、必ずしも順番が守られたわけではありません。11代家斉は順番から言うと、増上寺のはずでしたが、蓋をあけてみると、寛永寺でした。寛永寺が大奥に強力に働きかけた結果のようです。12代家慶は増上寺に葬られましたが、その裏には寛永寺との激しい争いがあったのでしょう。

2007年6月19日

020601.jpeg

寛永寺と増上寺は、将軍の葬儀を自分の所で執り行い、霊廟が建立されることを強く望んでいました。将軍が檀家となって霊廟が建立されるかどうかで、その経営が大きく左右されてしまうのです。将軍が檀家となると、お寺に入ってくるお金のケタが違うわけです。

将軍の葬儀とは、幕府の威信をかけた国家的な行事ですから、その費用は莫大なものでした。もちろん、葬儀の費用だけでなく、霊廟の建立費も国家予算から支出されました。菩提を弔う回向料も国家財政から支出されました。

回向料を寄進したのは幕府だけでありません。三百諸侯と称された諸大名も、回向料を寄進しなければいけませんでした。幕府の方から金額が指定されていて、60万石以上の大名は白銀30枚、25万石以上60万石未満の大名は白銀20枚というような規定でした。

石高つまり経済力に応じて、回向料は決められていました。これは公定額であり、現実はこれだけの出費では済まなかったでしょう。それだけ、お寺にはお金が落ちるわけで、葬儀の時だけでも莫大なお金が落ちている様子が分かります。

葬られた将軍の祥月命日には、当代の将軍が参詣することになっていました。これも国家的行事ですが、その時に詣でるのは将軍だけではありません。江戸にいる大名はすべて、その日は詣でなければいけませんでした。国家への義務なのです。

その際には、当然のことながら、相応の金品を包みます。このように、将軍の霊廟が建立されると、莫大なお金が落ち続けるわけですから、寛永寺や増上寺が争奪戦に走るのは当然のことでしょう。

どちらのお寺で将軍の葬儀をおこない、霊廟を建立するかを決めるのは老中の会議です。閣議のようなものですが、大奥の意見は無視できませんでした。大奥は将軍の家庭であり、家族の意見は無視できないというわけです。

大奥とは、将軍が生まれ育てられ、そして息を引き取る場所です。葬儀まで、亡骸は大奥に安置されています。このことからも、大奥の意見が霊廟選定に影響力を持っていたことは明らかでしょう。いきおい、寛永寺や増上寺は大奥工作に走るのです。

それには普段から大奥のご機嫌を取っておく必要がありました。こうして、大奥と寛永寺・増上寺の関係はたいへん深いものとなっていきます。お寺からは、時候の挨拶などの形を取ることで様々な品物が贈られます。そして、奥女中たちが参詣した折りには、心尽くしのおもてなしをすることになるわけです。

2007年6月26日

020701.jpg

将軍の菩提寺である寛永寺・増上寺は、江戸のお寺の中では別格でした。菩提寺ですから、黙っていても、大奥から歴代将軍の菩提を弔う代参の使者がやって来るわけですが、それ以外にも、将軍や御台所が病気に掛かった時などは、その平癒の祈祷を依頼するため、奥女中が出向いてきます。菩提寺であるだけでなく、将軍の祈祷寺でもありましたが、その際には、当然ながら手ぶらでやって来るわけではありません。

そのほか、菩提寺・祈祷寺であることのメリットは何でしょう。例えば、建物の修復をする時に、幕府から修復費が支給されています。その理由は菩提寺、つまり将軍との由緒を持っているからに他なりません。そもそも、霊廟があるわけですから、その維持・管理費は幕府から定期的に支給されています。修復はもちろんです。

菩提寺であるがゆえに、寛永寺・増上寺は特別待遇を受けており、手厚く保護されていたのですが、それに甘んじていたのではありません。普段から奥女中の歓心を勤めるよう、日々営業努力を重ねていました。そうした積み重ねが、いざと言う時の修復費などの金額に、モロに跳ね返ってきます。当代将軍が死去した時の霊廟が自寺に建立されるかどうかの大きな要因にもなります。

お寺の監督官庁は寺社奉行です。修復費をはじめ、神社仏閣に対する補助金額を決定する官庁ですが、寛永寺・増上寺に限らず、お寺が修復費の支給などを寺社奉行に願う裏では、大奥への根回しも並行しておこなっています。

大奥という鶴の一声で、通りそうにもない案件が通ってしまうこともありましたし、その金額の上積みも可能でした。そうした実例はたくさんあります。大奥は閣僚人事まで左右するほどの政治力を持っていましたから、寺社奉行がその圧力を受けて通してしまうのです。

特に将軍の菩提寺である寛永寺・増上寺に顕著なのですが、お寺の経営基盤は、お寺の家計は大奥(幕府)が握っていたとも言えるのです。

2007年6月26日

寛永寺・増上寺は大奥のバックアップを受けることで、経営基盤を維持強化していきました。大奥(将軍様)なくして、寛永寺・増上寺なしと言っても、決して言い過ぎではないでしょう。

両寺とも戦火に遭って、江戸以来の堂社はかなり失われましたが、それでも現存の建造物は、当時の将軍家菩提寺としての偉容を今に伝えてくれます。その建築費・維持費・修築費のすべてが国家予算で賄われたのではありませんが、かなりの割合を占めていることは確かです。それに、将軍の菩提寺の修築となれば、諸大名もスルーすることはできません。当然、相応の金品は寄進するでしょう。それが将軍への忠誠心の証にもなるのです。

将軍と由緒を持つことの強みがいかんなく発揮されているというわけですが、となると、当然ながら、他のお寺も将軍との結び付きをはかります。将軍が参詣してくれれば、将軍の代理として誰かが参詣してくれるだけでも、あるいは、拝領品を賜るという事実だけでも、お寺の格が高まるのです。

お寺に限らず、この時代は武士にしても商人にしても、将軍とのつながりを持つことで、自分のステータスを高めようとします。徳川将軍家の象徴である葵の紋所は、天下御免の最強ブランドに他なりませんでした。商人などは、将軍家御用達になることで信用を増し、経営を拡大させました。徳川ブランドに密着して、ビジネスを展開したのです。

お寺の場合でみると、それは結局奉納金の額に跳ね返ってくるのでしょう。将軍が参詣して寺格がアップすれば、今までの額では済まなくなるでしょうし、お寺としては資金力アップの絶好のチャンスでもありました。

将軍が参詣したという評判により、新たな信者を獲得することもできます。金品の奉納者の数も、その額も急上昇していくというわけです。一般の参詣客が増えるのはもちろんです。将軍との由緒がお寺の由緒に加わることで、自分のブランド価値が上昇し、経営基盤も強化されるというシステムになっていました。

もちろん、ライバルは多いわけですし、そう簡単に将軍や幕府の有力者と接点を持つことはできません。ここで注目されたのが、大奥なのです。何かの機会を捉えて奥女中の歓心をつかめば、そこから大奥への足がかりができます。大奥への足がかりができれば、将軍との距離が格段に近くなります。その口利きにより、監督官庁(寺社奉行)への工作も有利です。大奥との人脈があること自体が、寺社奉行に限らず、幕府有力者への無言の圧力となるわけです。

そのため、いかにして大奥との人脈を作るかに、どのお寺も知恵を絞ることになります。いざと言う時、大奥からの口利きが不可能を可能にした事例は数知れずあります。こうして、お寺の営業戦略上、大奥対策は欠かせないものになっていきます。

2007年7月 3日

東京には、大奥との由緒で建立されたお寺がたくさんあります。

徳川家康の生母・於大の方は、法名を伝通院と言います。於大の方は、大奥とは直接関係がありませんが、その菩提を弔うお寺が文京区小石川にあります。寺名は、法名から伝通院と名付けられました。伝通院には、あの有名な千姫、弟にあたる家光の御台所(鷹司孝子)のお墓もあり、幕府から厚い保護を受けていました。

大奥を創り上げた家光の乳母春日局は、法名を麟祥院と言いました。そのため、春日局が開基となって創建したお寺の名前は麟祥院ということになりました。湯島天神の近くにありますが、その前を走る春日通りは、この春日局にちなんで付けられました。

大奥とのつながりにより創建され、幕府から厚く保護されたお寺は他にもあります。なかでも、護国寺はそのシンボルのようなお寺でした。

偶然にも、護国寺は伝通院・麟祥院と同じく、東京都文京区にあります。東京の地下鉄の駅のなかで、お寺の名前が駅名となっているのは、護国寺だけでしょう。東高円寺、新高円寺という駅名もありますが、高円寺そのままではありませんので、護国寺が唯一ということになります。

護国寺は真言宗豊山派のお寺ですが、開山は亮賢というお坊さんです。元々は、群馬県の護国寺というお寺の住職でした。正保3年(1646)に、将軍家光の側室だったお玉(後の桂昌院)は綱吉を産みますが、亮賢の祈祷により、男の子を授かったと言われています。そのため、お玉(家光に死別した後、桂昌院と名乗ります)は亮賢に深く帰依していましたが、延宝8年(1680)に、綱吉が5代将軍となります。

本来、綱吉は将軍になれる立場にはありませんでした。ところが、4代将軍家綱に子供がなく、家綱が死去する前に、綱吉の兄・綱重(6代将軍家宣の父)がすでに死去していたため、はからずも将軍となりました。

綱吉が将軍となると、桂昌院は亮賢のために幕府を動かし、現在の護国寺の地を用意し、亮賢を開山とするお寺・護国寺を創建しました。桂昌院は綱吉と一緒に、何度となく参詣しています。国家予算によって境内の堂社が整備されるなど、桂昌院と綱吉の強力のバックアップを受けて、護国寺は巨大化していきます。護国寺3世の快世は、ついに大僧正にまで上ります。

大奥の最大実力者桂昌院の信頼を勝ち取って、幕府のバックアップを受けることが、どんなに大きかったかを、護国寺の成り立ちは教えてくれるのです。まさしく、護国寺は大奥が作り出したお寺なのでした。

2007年7月 3日

021001.jpg

護国寺に参詣したのは綱吉や桂昌院だけではありません。大奥から、たくさんの奥女中が参詣してきます。護国寺が大奥との人脈をさらに強めていくのは自然の成り行きです。将軍とその母が厚く帰依していたお寺ですから、諸大名も参詣してきます。江戸っ子も、親分の将軍様が参詣したということを聞けば、参詣したい気持ちが沸き上がってきたことでしょう。

こうして、綱吉の時代から、護国寺は参詣客で大いに賑わうことになりました。となると、門前に参詣客を相手にした商店が立ち並ぶのは、ほとんど法則のようなものです。護国寺門前は、歓楽街として大きく発展を遂げます。大奥は莫大な経済効果ももたらしたのでした。

現在、護国寺周辺は文京区音羽と言いますが、音羽という街の起源をたどって行くと、大奥にたどり着きます。音羽という町名の由来には諸説ありますが、大奥にゆかりがあるという説もあるのです。

護国寺門前の地所は、何人かの奥女中に与えられたと言います。地主である彼女たちは、その地所を貸すことで地代を懐に入れていました。役得のようなものですが、その一人の名前が音羽と言いました。このため、門前町が音羽町と呼ばれるようになったと言うのです。

音羽が拝領した地所には次々と町屋が建設され、参詣者相手の商売をしようという者たちが入居していきます。護国寺の賑わいに比例して、町屋も増えて、護国寺門前(音羽町)は歓楽街と化していくのです。

護国寺門前町の地主が奥女中とすれば、大奥が造ったお寺の門前の商売からあがってくる収益が、再び大奥に流れ込んでいったということになります。護国寺への参詣者が増え、その門前が賑わうほど、奥女中の実入りも増えるということになるでしょう。

寛永寺や増上寺だけでなく、大奥なくして現在の護国寺もありませんでした。巨大なお寺そして門前町を誕生させた大奥の力は絶大でした。将軍様を後ろ盾にした力でもありましたが、この事実は、江戸の仏教界に大きな衝撃を与えたことでしょう。大奥の力を目の当たりにしたお寺は護国寺に続けとばかりに、大奥との接点を何とか持とうと知恵を絞るのです。お寺からは、奥女中の歓心を引こうと、ご利益のあるお守りやお札、珍しい品などが、いろいろなルートを通じて大奥に贈られてくることになるのでした。

2007年7月10日

021101.jpg

お寺としては、大奥を通じて将軍を動かし、参詣してもらうのがベストでした。しかし、将軍は1人ですから、おのづから参詣するお寺は限られてしまいます。超売り手市場ですから、将軍をめぐる争奪戦は激しかったようです。

代参という方法もありました。将軍の代理として参詣することですが、将軍の御台所の代理として参詣する方法もありました。将軍の代参は老中などの閣僚クラスがつとめましたが、御台所の代参は大奥の役目ですし、大奥の判断だけでできました。御台所は将軍の正室ですが、側室の代理としての参詣も可能ですし、将軍の娘の代理として奥女中が参詣して来るという形もありました。

しかし、そうは言っても参詣してもらいたいお寺の数は多いわけですから、超売り手市場であることに変わりはありません。そこで、お寺の多くは将軍の象徴である葵の紋所が入った品の寄進を求めました。将軍その人、家族が参詣してもらうのが難しいので、その分身である葵の紋所を手に入れようとしたわけです。将軍から帰依を受けている証明書の交付を願い出たと言えるでしょう。

葵の紋所入りの品としては、仏事や開帳の時に用いる幕、あるいは戸帳、水引、提灯、袈裟、本尊に着用させる衣服などがあります。お寺の側は、これらの品をどのように活用したのでしょうか。

貴重品として、人に見せなかったのではありません。むしろ、その逆です。

葵の紋所入りの品を拝領するのは、本当に大変なことだったようです。東京のお寺には、葵の紋所が入った品が現在数多く残されています。これらのブランド品は、お寺の営業努力の賜物に他ならないのです。

ですから、大切に保管して外に出さないままでは、苦労して手に入れた将軍の御宝の持ち腐れです。投資した資金は回収し、収益を上げる必要があります。そのため、仏事や開帳といったイベント時に、それらの品を積極的に公開展示し、将軍との由緒を広くアピールしたのです。お寺のメディア戦略の一つです。

実態は、将軍様本人からの寄進ではなく、大奥から寄進されたものでした。将軍の正室・側室、あるいは娘にせよ、将軍の家族なのですから、葵の紋所入り品を寄進することは可能なのです。

ですが、実態はどうあれ、寄進とは信仰の証であることは言うまでもありません。葵の紋所入りの品が展示されていれば、そのお寺が将軍から深い帰依を受けているというイメージを、見る者や聞く者にインプットさせることができます。将軍家御用達というわけではありませんが、ブランド価値もあがりますし、それを売りにして参詣客を集めることができました。差別化のツールとして葵の紋所をフルに活用するイメージ戦略を展開し、経営基盤を強化していったのです。

2007年7月10日

お寺にとって、大奥との関係はたいへん大事でした。大奥対策は、経営戦略にしっかりと組み込まれていて、奥女中が参詣してくれば、お寺を挙げての至れり尽くせりの接待となります。

大奥からの参詣と言っても、将軍の正室・側室・娘(姫君)自身が参詣することはあまりありません。仕える奥女中が代理としてやって来るのです。当の奥女中にとっては、城の外に出られる貴重なチャンスでした。

将軍の正室・側室からの寄進と言っても、お寺が当人に直接アタックした結果ではありません。彼女たちには、たくさんの奥女中が取り巻いていましたが、そのうち誰か一人とでも接点を持ち、信任を得ることができれば、お寺としては大成功です。その奥女中を窓口に、主人である正(側)室・姫君が帰依してもらえれば、葵の紋所入り品の寄進というレールが引かれるわけなのです。

大奥の中で、そのお寺が話題になれば、どんどん口コミで知名度が上がります。大奥で話題になると、御殿の中奥・表向と、幕府官僚の詰所にその情報が広がっていきます。

本丸御殿とは、政府の中枢機能が集中している首相官邸と官庁街が一緒になったような空間です。そこで話題になれば、江戸全体に広がっていきます。江戸には諸大名の屋敷がありますから、そのスピードは現代とは比較になりませんが、全国に伝わっていくことにもなるでしょう。御殿特に大奥の話題となると、みんな強い関心を示しましたが、その辺りの事情は現代も同じでしょう。

お寺の側も、寄進されたという事実は自分のブランド価値を上げるものですから、積極的にこの情報を流します。それを売りにしたのです。

この時代は、コミニュケーション・ツールは、基本的に口コミしかありません。瓦版など刷り物というメディアもありますが、イベントの集客は、口コミに頼るしかありませんでした。ですが、お祭りやご開帳などの様子を描いた錦絵を見ると、本当に賑わっていますし、リアルタイムで書かれた文献からも、その事実は確認できます。逆に言うと、口コミだけでも、それだけの集客力があるということなのでしょう。口コミで、お寺は知名度を上げていったのです。

2007年7月17日

しかし、ここで一つ大きな問題がありました。お寺側からの求めに応じて大奥から寄進された葵のブランド品が、あまりに多かったのです。

幕府の側から見ると、葵のブランド品が出回り過ぎると、徳川(将軍)ブランドの価値が下がり兼ねません。少ないからこそ、有り難みが出て、将軍様の御威光も保てるのです。寄進だけなら良いのですが、それを次々と公開展示されると、ブランド価値の低下に直結してしまいます。

一方、お寺の側は、大奥との人脈を強化し、葵のブランド品をもっと寄進してもらおうと画策します。公開展示することで、将軍との由緒をさらにアピールし、経営基盤を強化しようとしたわけです。

そこで監督官庁である寺社奉行は、お寺へのブランド品の寄進、その公開展示を制限しようとします。将軍ブランドの価値の低下を防ごうしたのです。

しかし、お寺にとっては、そうした方針はまさに死活問題でした。ブランド品を拝領できず、持っているブランド品を公開展示できないとなると、まさしく宝の持ち腐れでした。投資した資金も回収できず、経営にも大打撃となるのです。むしろ、もっとブランド品を増やして、将軍との由緒をアピールしたいところでした。

そのため、お寺は大奥への工作を強化します。寺社奉行への運動という正攻法では埒があきませんから、大奥から圧力をかけてもらい、規制対象外として、寺社奉行に公開展示を認めさせていくのです。引き続き、寄進も受けることもできました。もちろん、大奥への運動費も掛かったでしょうが、背に腹は変えられませんでした。

お寺の経営は、大奥と強く結び付くことで成り立っていたのです。その裏では、幕府政治の力学が働いていました。

2007年7月17日

大奥と結び付くことで、のしあがっていったお寺は、江戸のお寺だけではありません。地方のお寺も江戸に出てきて、大奥との結び付きを梃子に、知名度を上げていきます。江戸での出開帳は、寺勢を拡大する上での必須のコンテンツとなっていました。

江戸は全国のお寺が出張して来て、御本尊を開帳するメッカでした。百万都市だけに相当の収益が上げられましたが、その名前を売り込む絶好のチャンスでもありました。開帳中は大奥をはじめ、諸大名の奥向きからも、奥女中たちが参詣に訪れました。そこで目に留まれば、大奥との人脈が得られるわけです。

大奥からの参詣を待つだけでなく、その求めに応じて、大奥に入ることもありました。その時は、ご本尊だけでなく、お坊さんたちも入ることになります。大奥と言っても、全ての部屋が男子禁制ではありませんから、どこかの部屋に安置され、彼女たちの礼拝を受けたのです。

護国寺を強力にバックアップした桂昌院は、神仏にはたいへん関心がある女性でした。桂昌院の礼拝を受けた神仏の一つに成田不動があります。護国寺の場合と同じく、成田山の歴史を振り返ってみると、桂昌院がそこで果たした役割は無視できないものがあります。

成田不動は成田山の本尊ですが、この元禄の頃までは、現代とは違って、成田山は全国にその名を知られたお寺ではありませんでした。この頃、成田山は借財の返済にも苦しんでいましたが、その窮状を打開するため、江戸ではじめての出開帳をおこないます。

この出開帳は大成功を収め、その収益により借財を返済しますが、成田不動の知名度も全国区のものとなります。桂昌院の礼拝を受けるため、江戸城に入ったのです。元禄16年(1702)7月4日のことでした。

この時、桂昌院は10両を奉納していますが、寄進者の名簿を見ると、諸大名の奥方からの寄進が目に付きます。元禄の江戸出開帳を通じて、成田山は桂昌院つまり大奥だけでなく、諸大名の奥向きからの信頼も得たのです。こうした江戸での営業活動の積み重ねが、初詣の人出ベスト3の地位を獲得する大きな要因となっていくのでした。

2007年7月24日

%E4%BA%8C%E7%AB%A0%E5%8D%81%E4%BA%94%E8%A9%B1.jpg

成田山と並んで初詣でのベスト3に数えられる川崎大師も、大奥との関係が深かったお寺の1つでした。川崎大師は、現在も厄除け大師として知られていますが、11代将軍家斉以後、前・後厄の年に将軍が参詣するお寺として位置付けられます。

川崎大師も江戸出開帳を通じて、知名度をアップさせていくのですが、成田不動と同じく、江戸城に入り、家斉とその御台所茂姫の礼拝を受けています。その折には、厄除けのお守りと御洗米を千体ずつ献上しています。江戸城に入ったこと自体、大きな話題になったでしょうが、この献上品なども、厄除け大師の営業戦略に他なりません。家斉の頃は1000人前後の奥女中がいたと言いますが、良い宣伝になったことでしょう。

大奥からは、毎月のように、奥女中たちの川崎大師参詣がありました。営業戦略の賜物というわけですが、彼女たちにとっても、川崎までの道中は日帰り旅行なようなものでしたから、この上ない楽しみになったことでしょう。

さて、成田山や川崎大師に限らず、お寺が江戸にやってきた際、ご本尊は江戸城や開帳場のお寺(回向院や浅草寺など)だけにいたのではありません。将軍の娘が嫁いだ諸大名の江戸屋敷も回っています。

将軍の娘が諸大名に嫁ぐと、御殿が建設されることになっていました。これを御守殿(ごしゅでん)、御住居(おすまい)と呼びます。東京大学の赤門は、家斉の娘溶姫が加賀藩主前田斉泰に嫁いだ際に、前田家が本郷屋敷内に建設した御殿の門なのですが、江戸にはこうした御殿が、嫁いだ将軍の娘の人数だけありました。御本尊は、その要請に応えてこれらの御殿も回っていったのです。

御殿の主である将軍の娘に仕える奥女中たちは、大奥から出向してきた女性でした。ですから、江戸城に御本尊が入るという情報は、前もってキャッチしていたことでしょう。大奥の奥女中が拝んだとなれば、自分たちも拝みたいということで、争うように誘致するわけです。

お寺にとってみれば、その大名家に足がかりを得るとともに、殿様や家臣たちにも名前を知ってもらえる絶好のチャンスでした。江戸城に入った時と同じく、お守りなどを献上していますが、その時は、賽銭箱も一緒に回っています。お坊さん、御本尊そして賽銭箱まで、赤門をくぐっていたわけです。名も実も掴み取ろうというお寺のしたたかさが、こういう所にも表れています。江戸のお寺は大奥なしに、経営戦略を立てることはできなかったのです。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト