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   <title>江戸のお寺 浮世草子</title>
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   <updated>2008-11-19T03:50:14Z</updated>
   <subtitle>江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 ／ 文
1965（昭和40）年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士（早稲田大学）。近著に『幕臣たちの明治維新』（講談社現代新書）、『大名屋敷の謎』（集英社新書）、『江戸城・大奥の秘密』（文春新書）『徳川将軍家の演出力』（新潮新書）。東京理科大学生涯学習センター、JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」講師も勤める。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 ／ イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』（角川書店）「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト</subtitle>
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   <title>九章七話　大山御師</title>
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   <published>2008-07-22T06:19:52Z</published>
   <updated>2008-07-22T08:44:56Z</updated>
   
   <summary>  御師（おし）とは、どういう人たちなのでしょう。   御師とは特定の寺社に属し...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <category term="第九章　雨乞いの山、大山詣りをめぐる光景" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[  御師（おし）とは、どういう人たちなのでしょう。

  <strong>御師とは特定の寺社に属して、参詣者を自分の属する寺社に導く者</strong>のことです。人々を導くだけでなく、祈祷を行ったり、参詣者に宿泊所も提供したりしました。導いた参詣者を檀那（信者）として、師檀関係を結んだのです。

  大山だけでなく、この時代、特に伊勢神宮に参詣する人は物凄い数にのぼりました。<strong>年間、１００万人前後が参詣した</strong>と伝えられています。その場合も、伊勢神宮に属すの御師が江戸の人々を伊勢神宮に導いていたのです。

  こうした事例は枚挙に暇がないほどあります。当時は富士山信仰も根強く、富士山に参詣した人も多かったのですが、江戸の各所には富士山に模した富士塚が造られています。

  富士山は女人禁制だったということもありますが、<strong>富士山まで行けない江戸の人々が富士塚を造って、そこに参詣する</strong>ことで、富士山参詣の代りにしていました。もちろん、富士塚でしたら、女性でも登ることができました。]]>
      <![CDATA[  さて、<strong>大山の場合ですか、御師の数は１７０人前後</strong>でした。どこに住んでいたかと言いますと、現在の伊勢原市の伊勢原口と秦野市の秦野口の２ケ所に分れて、集落を作っていました。これを御師集落と呼んでいました。

  つまり、大山の麓に住んでいたのですが、伊勢神宮の御師にしても、神宮の近くに住んでいました。<strong>御師は、その寺社の麓に住むのが普通</strong>でした。

  さて、御師は参詣者を檀那として師檀関係を結んだわけですが、具体的には講という形でした。つまり、これから述べていきますように、<strong>講中（大山講）の結成とその維持こそが、大山御師の最大の役割であり任務</strong>でした。

大山講そして大山御師の存在なくして、江戸っ子の心に大山信仰が浸透していくことなど、到底有り得なかったのです。]]>
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   <title>九章八話　御師の業務</title>
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   <published>2008-07-29T06:24:27Z</published>
   <updated>2008-07-29T09:49:55Z</updated>
   
   <summary>  御師は大山の麓で普段は生活していたわけですが、年２回ぐらい講中のもとを回って...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <category term="第九章　雨乞いの山、大山詣りをめぐる光景" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  御師は大山の麓で普段は生活していたわけですが、年２回ぐらい講中のもとを回っています。これを檀那廻りと称しました。師檀関係の継続という意図があったことは言うまでもありません。この<strong>御師による檀那廻りが、江戸の人々による大山信仰を長く支える原動力</strong>となっていました。

  大山講は江戸はもちろん、関東一体に展開していましたから、この檀那廻りは自然と長期にわたるものになりました。

  もちろん、これまでの講中を回るためだけに檀那廻りをするのではありません。その折には、新たな檀家の獲得も目指していたのです。<strong>新たな講を結成しながら、回っていた</strong>のです。こうした御師たちの活動が、大山信仰の布教活動に他ならなかったことはもちろんです。

  さて、御師は講中を回る時には、様々なものを配っていました。まずは、御札です。この行為を配札と呼んでいました。]]>
      <![CDATA[  配札だけではありません。箸・盆・重箱・煎餅・お茶なども届けています。お土産という形でしたが、御師は講中にお札やお土産を届けただけで帰ったのではありません。<strong>それに対する志を金銭で受け取っていた</strong>のです。

  そして、師檀関係を取り結んだ講中の人々が大山に参詣してくると、自分の宿坊に宿泊させるわけです。そして、山内の案内にあたりました。<strong>御師は旅行業者としての顔も持っていた</strong>のです。

  宿泊に限らず、講中の人々が宿坊に立ち寄ることを、「坊入り」と呼びました。その時、<strong>初穂と称して金銭や米・麦などを納め、代りに配札を受けています</strong>。

  宿坊に宿泊した場合は、翌早朝に宿坊を出発して、山頂で御来迎を拝することになっていました。ただし、大山近隣の相模国の村々では、夜中に自分の村を出発して大山の山頂に一気に向かったそうです。そして下山後に、宿坊で休息するのが通例でした。

  ところで、明治１６年（１８８３）に編纂された「開導記」という記録があります。それを読むと、県別の講中の数字なども分かりますので、その数字を見ていくことにしましょう。]]>
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   <title>九章九話　大山御師</title>
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   <published>2008-08-05T05:21:13Z</published>
   <updated>2008-08-07T00:24:42Z</updated>
   
   <summary>  御師は、檀家つまり講中には大変気を遣っていました。   江戸っ子が大挙、大山...</summary>
   <author>
      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  <strong>御師は、檀家つまり講中には大変気を遣っていました。</strong>

  江戸っ子が大挙、大山に向かう夏山の時などは、麓に広がる伊勢原の町まで講中出迎えに行きました。登拝が終わり、下山してくると、今度は「山迎」と言って出迎えます。その時には、お酒やご飯、煮しめなどを振る舞っています。

  さて、その大山講ですが、明治に入ってから編纂された「開導記」という記録には、御師が持っている檀家の数が町や村別に書き上げられています。その記録から、講中の実態を見てみましょう。

  県別で言うと、神奈川県・東京府・埼玉県・千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・福島県・新潟県・長野県・山梨県・静岡県の１２府県に及んでいました。<strong>講中の総数は１５６３８</strong>にものぼっていました。

  <strong>講中の数が一番多いのが、千葉県で２６６８。次が大山が所在する神奈川県で２４１２</strong>でした。]]>
      <![CDATA[  東京府は１０３８でした。神奈川などに比べると、随分少ないように思えますが、この記録には東京市、かつて江戸御府内と呼ばれた江戸の町は含まれていませんでした。東京とは言っても市街地ではなく、当時は農村地帯だった地域のみの数字に過ぎません。

  残念ながら、江戸の町における講中の数は分からないわけですが、この数倍あったことは間違いないでしょう。

  神奈川の場合ですが、当時の県内の町・村の数は総数で９１２でした。単純に計算すると、１つの町や村に、２～３の講中があった計算になります。

  つまり、<strong>１つの村に、何人もの御師が入り込んで、講中を結成させていた</strong>計算になります。御師による檀家の熾烈な争奪戦が繰り広げられていた様子が浮かんできます。

  講員の総数ですが、この資料によると、約７０万にも及んでいました。これは戸数です。家族の数を入れれば、その数倍となります。江戸の町の講中がカウントされていませんから、実数はもっと増えます。

  １つの講あたりの戸数は、単純計算すると４８戸ぐらいです。ただし、個々の事例は様々で、極端な事例としては、講員が１戸のみという場合もありました。１人と言っても、家族単位ですから、実際は数人ということになりますが、<strong>一口に講と言っても、その規模は千差万別だった</strong>ようです。]]>
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   <title>九章十話　様々な大山講</title>
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   <published>2008-08-12T05:24:20Z</published>
   <updated>2008-08-22T07:13:46Z</updated>
   
   <summary>  明治に入ってからの数字ではありますが、大山講の規模は、戸数で約７０万。１つの...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  明治に入ってからの数字ではありますが、<strong>大山講の規模は、戸数で約７０万</strong>。１つの講あたりの戸数は、平均で５０戸弱だったようです。  残念ながら、江戸の町の講中の数は分からないのですが、どういう講中が結成されていたかについては、いくつかの事例があります。以下、みていきましょう。

  将軍の霊廟が置かれていた<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E4%B8%8A%E5%AF%BA">増上寺</a>は芝地域に鎮座していますが、芝地域の人々が結成していた講中に御太刀講があります。この名前は、納太刀に由来することはもちろんです。

  講中と言っても、全員が毎年参詣するのではありません。数人が代参講という形で参詣するのが通例でした。<strong>講中を代表して、大山詣りをする</strong>わけです。

  そして、太刀を持ち帰ってくるわけですが、参詣できなかった講員は、太刀の刀身を少し抜き、その下をくぐって家内安全・商売繁盛を祈願したそうです。]]>
      <![CDATA[  そのほか、米商仲買社中。車力講中。芸者屋講中。蝋燭講中など、同業組合が多かったと伝えられます。<strong>講員に鳶職が多いのも、大山講の特徴</strong>とされますが、鳶職は火事の際には火消人足に変身するのです。そのため、鳶職つまり火消仲間の講中も多かったようです。

  明治に入ってからのことですが、日本橋区の理髪職から構成されていた講中もあります。講員は１４０７人いたそうです。神田・京橋区の足袋屋から構成されている講中に至っては、１７００人もいました。

  ところで、<strong>講中に入るには、お金が必要</strong>でした。そうした金銭をもって、講中の維持費にしていたのですが、都市の場合は会費制度が多かったようです。しかし、農村の場合は物納の事例もありました。

  物納と言っても、それを換金するわけですが、<strong>ここで言う物納とは山林や農地のこと</strong>です。村として講中に入る場合は、村の共有地を充てたのです。個人単位の場合は、自分たちが所持している山林などです。いずれにせよ、その土地から上がる収穫物などを換金して、講中の維持費としたのです。]]>
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   <title>九章十一話　祈祷の収入</title>
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   <published>2008-08-19T12:17:49Z</published>
   <updated>2008-08-22T07:16:19Z</updated>
   
   <summary>  講中が大山に参詣する時は、御師が経営する宿坊に宿泊・休憩するのが通例でした。...</summary>
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      <![CDATA[  <strong>講中が大山に参詣する時は、御師が経営する宿坊に宿泊・休憩するのが通例</strong>でした。その経営事情などを細かく見てみます。

  その前に、<strong>御師はどのような形で収入を得ていたのか</strong>を見ていきましょう。

  何と言っても、<strong>宿坊経営による収入</strong>です。講による参詣と言っても、代参者数人を立てての参詣ですが、その宿泊代が貴重な収入となっていました。

  宿泊代だけではありません。宿泊した翌朝に、大山に登山して参拝するわけですが、その前に、<strong>御師は参拝者に祈祷などをして、その料金を受け取っています</strong>。

  同行して道案内もします。<strong>御師は先導師でもありました</strong>。]]>
      <![CDATA[  参詣が終わると、講中に御札を配布します。参詣できなかった講員用の御札も配布していますが、それなりの心付けも、講中から受け取っていることは言うまでもありません。

  竈祓いに伴う収入もあります。檀那廻りによる収入は後でご紹介しますが、 竈祓いとは年末から年の初めにかけて、２～３週間にわたって、檀家のもとを廻るものです。その家の無事繁栄を祈って、竈祓いをおこない、謝礼を受け取るのです。

  「初穂受け」というものもあります。これは<strong>農村の講中を対象としたもの</strong>です。

収穫時に、御師は天秤を担いだ供人を連れて檀家を廻り、初穂を受けています。春に御師がやって来て、豊作を祈願するのですが、秋の収穫時に再びやって来て、豊作の御礼を初穂として受け取るというわけなのです。

  米の収穫時に受け取る御礼は、「米初」（こめはつ）。「麦初」「綿初」「蚕初」というものもあります。その意味は何となく分かるのではないでしょうか。このよう形で、御師は農村との繋がりを深め、自分の経営基盤も強化していたのです。]]>
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   <title>九章十二話　宿坊経営</title>
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   <published>2008-08-26T12:21:24Z</published>
   <updated>2008-08-27T10:01:37Z</updated>
   
   <summary>  宿坊の経営事情を教えてくれる資料はあまりないのですが、村山坊という宿坊の資料...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  宿坊の経営事情を教えてくれる資料はあまりないのですが、村山坊という宿坊の資料が残っています。それを見ていくことにしましょう。  

村山坊は、２２２の講中を持っていました。天保２年（１８３１）の事例ですが、夏山（２２日間）の時期に宿泊した講中は２１３でした。その人数ですが、総計８５７人だったそうです。

  １つの講中で平均４人ほどが代参してきているわけですか、その人数にはかなりの幅がありました。１人でという事例が、３３組もありました。一方、１０人以上という事例は１４組あります。

  宿泊料ですが、<strong>１泊３００文というのが通例</strong>でした。かけ蕎麦１杯が１６文という時代ですから、蕎麦代の２０倍弱ということになります。旅篭の宿泊料が１泊２５０文というのが相場でしたから、それより少し高めということになるでしょう。

  ただし、講中は宿泊料だけ宿坊に支払ったのではありません。茶代と称して、その１割ぐらいを渡していました。他に、心付けもあります。]]>
      <![CDATA[  <strong>この年の村山坊の夏山期間中の収入ですが、６０両１分１朱１７７文</strong>ということです。これは、宿泊代はもちろん、心付けなども含めた数字ですが、<strong>１両を１０万円とすると６００万円ですから、かなりの収入</strong>です。

  ただ、問題は利益です。宿泊に伴う支出は、２０％前後だったそうです。つまり、７０～８０％の利益率ということになりますから、いかに、宿坊経営が御師にとって大事だったかが分かる数字なのではないでしょうか。

  言い換えると、<strong>御師が講員の獲得、講中の結成に非常に力を入れていた様子も、容易に想像できます</strong>。もちろん、講員の獲得だけでなく、講中の維持にも力を入れています。まさしく営業活動に他なりませんが、その様子をうかがえるのが、次に見ていく檀那廻りなのです。]]>
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   <title>九章十三話　檀廻り</title>
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   <published>2008-09-02T06:02:58Z</published>
   <updated>2008-09-02T02:08:48Z</updated>
   
   <summary>  御師は普段、大山の麓で生活していましたが、年２回ぐらい講中のもとを回っている...</summary>
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      <![CDATA[  御師は普段、大山の麓で生活していましたが、年２回ぐらい講中のもとを回っていることは、既に述べたところです。これを檀那廻りと称しました。檀廻りとも言います。

  <strong>師檀関係を継続していくには檀廻りは必要不可欠な営業活動のようなもの</strong>でしたが、具体的にはどんな形でおこなわれたのでしょうか。まず、御師の家の中を覗いてみることにしましょう。

  御師の家には、<strong>自分の檀家に関する台帳</strong>が大事に保管されていました。そこには何が書かれているのでしょうか。

  檀家が住んでいる地域を檀那場と言いましたが、その国や郡・町村名が台帳には書き上げられていました。そのほか、講元。副講元。世話人。檀家数はもちろんです。

  講元というのは、講中の代表者のことです。世話人とは幹事役です。御師が講元や世話人に大変気を遣っていたことは言うまでもありません。]]>
      <![CDATA[  檀廻りについての記載もあります。廻る順番や講中に届ける品物などが記述されています。御師にとっては、マニュアルのようなものでした。その<strong>マニュアルをもとに、御師は檀廻りの計画を立てていく</strong>わけです。

  大山講の講中は関東一体に展開していましたから、この檀那廻りを効率よく実行するには、しっかりとした計画を立てる必要がありました。その際、威力を発揮した先例の記録集なのです。

  檀廻りの時期ですが、大概は<strong>春山（６月２７日～７月７日）、夏山（７月１４日～７月１７日）を除いた時期</strong>に設定されました。農村の場合は、秋の収穫が済んだ暮れから正月にかけての農閑期に廻っています。

  遠方の場合は、年１回ぐらいになってしまったようです。１回の檀廻りのため、２～３ケ月要する場合も珍しくありませんでした。

  ただし、近隣の農村の場合は、年３～４回廻ることもありました。]]>
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   <title>九章十四話　御札の発行権</title>
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   <published>2008-09-09T06:06:32Z</published>
   <updated>2008-09-12T01:37:56Z</updated>
   
   <summary>  御師は、基本的には１週間から２０日間ぐらいで、各地域の檀家のもとを一巡できる...</summary>
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      <![CDATA[  御師は、<strong>基本的には１週間から２０日間ぐらいで、各地域の檀家のもとを一巡できる計画</strong>を立てていました。主に、農閑期である１２月から３月までの期間が多かったようです。

  嘉永３年（１８５０）に、村山坊の御師が大山近くの相模国相模原台地の農村地帯を廻った時の記録を見てみましょう。

  <strong>村山坊が師檀関係を結んでいた講員の数は、なんと１２５００軒</strong>にも及んでいました。そのうちの８ケ村２４５軒を廻った時の記録です。

  大山近くということもあり、６日間かけての檀廻りでしたが、１日平均４０軒の檀家を廻りましたから、かなりの強行軍と言えるのではないでしょうか。]]>
      <![CDATA[  まず、御師は檀廻りに出発する前に、八大坊のもとに赴いて、出発の挨拶をすることになっていました。<strong>八大坊とは、大山寺（不動）の最高意思決定機関である８名の別当職のこと</strong>です。

  御師は挨拶とともに、御札を必要枚数、八大坊から受け取ることになっていました。檀家に配るためのお札でした。<strong>その発行権を八大坊が掌握していた</strong>わけなのです。それは巨大な利権となっていたようです。言い換えると、八大坊の権威の源泉にもなっていました。

  御師は帰山すると、再び八大坊のもとに赴きます。帰山の挨拶はもちろんですが、その折には、<strong>お布施の献上を義務付けられていた</strong>そうです。

  御師は檀家のもとを廻る時に、御札を配っていただけではありません。米やお金などをお布施として受け取っています。その一部を八大坊に収めていたのです。御師の檀廻りという営業活動は、<strong>大山不動という巨大なお寺の管轄下の事業だった</strong>と言えるのです。]]>
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   <title>九章十五話　御師のお土産</title>
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   <published>2008-09-16T06:12:24Z</published>
   <updated>2008-09-16T00:34:49Z</updated>
   
   <summary>  御師は檀廻りする時、どんな格好をしていたのでしょうか。   腰には大小の刀を...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  御師は檀廻りする時、どんな格好をしていたのでしょうか。

  腰には大小の刀を差していました。従者も連れています。そして、「御膳籠」を担がせていたのですが、この籠の中には何が入っていたのでしょう。

  八大坊から受け取った御札のほか、買い入れた檀家へのお土産も入っていたのですが、村山坊の御師が相模原台地の農村地帯８ケ村２４５軒を廻った時に、<strong>従者に持たせていたお土産品</strong>についてみてみましょう。今回は、嘉永７年（１８５４）の事例です。

  この８ケ村は大山の近隣でしたので、年に４回も、御師は檀廻りをしています。正月の檀廻りから見ていきましょう。]]>
      <![CDATA[  お土産と言っても、一般の講員と講元では違っていました。一般の講員用として、大札を２６０枚。小判を１８００枚。八寸はし（木はし）も５５０膳も持参しています。

  大札というのは、御札のことです。ほぼ檀家数ということになるでしょう。小判とは何でしょうか。

  小判とは本物の小判ではなく、模造品でした。<strong>大山が模造した小判ですが、いわばグッズのようなもの</strong>でしょう。玩具のようなものだったのではないでしょうか。８枚ぐらいずつ、配付したのでしょう。八寸はしも、大山に参詣すれば、お土産として販売されていたのでしょう。

  これは一般の講員へのお土産でしたが、講元へは別の品も持参していました。以下列挙してみます。

  御膳供木札１つ。お守り２つ。半紙１７把。海苔６包。昆布９０袋。名古屋菓子１７包。氷豆腐２つ。奉書１。扇子１対。

  <strong>いかに、御師が講元に気を遣っていたかが分かる品目</strong>なのではないでしょうか。]]>
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   <title>九章十六話　江戸で購入したお土産</title>
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   <published>2008-09-23T06:14:37Z</published>
   <updated>2008-07-24T06:18:51Z</updated>
   
   <summary>  次は、６月に実施した檀廻りの時のお土産の品目です。   一般の講員へのお土産...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  次は、６月に実施した檀廻りの時のお土産の品目です。

  一般の講員へのお土産ですが、大札つまり御札が２５０枚。八寸はしが５００膳でした。そのほか、薬が２５０。絵半紙１５０持参しています。

  実は、<strong>御師が経営する宿坊では、薬も製造していました</strong>。村山坊では、効能は分かりませんが、「実母散」という名前り薬を製造しています。その「実母散」を、講中へのお土産として持参したわけです。

  大山寺でも、目薬を製造していました。参拝客が購入するお土産として人気があったそうです。

  講元の元には、茶呑茶碗を１５。団扇を３つ持参しています。

  ９月に実施した檀廻りの時は、一般の講員に大札２５０枚。八寸はしが５００膳。そして、元結を２５０把持参しています。講元には、お盆や御茶を持参しました。]]>
      <![CDATA[  １２月に実施した檀廻りの時は、一般の講員に大札２５０枚。八寸はしが５５０膳。そのほか、杓子２５５本。講元へのお土産は手拭い５。茶台８。蜜柑１２０個などでした。  

こうしたお土産を従者に持たせて、檀家のもとを廻るのですが、ただ廻ったわけではありません。<strong>祈祷をしています</strong>。人数が少なければ、各檀家を廻りますが、人数が多い場合などは、講元のもとに講員を集めて祈祷する方式も取られました。

  こうしたお土産の品ですが、大山まで作られた品としては、お盆・杓子・茶台などがありますが、これは「大山細工」と呼ばれていました。

  扇子・団扇・元結などもお土産として持参しましたが、大山で取り揃えたものではありませんでした。江戸の商人から購入したものなのです。<strong>農村では、江戸で購入した品というのが人気があった</strong>ようです。その辺りの心理を付いて、御師はお土産として団扇などを配ったのです。]]>
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   <title>九章十七話　初穂米</title>
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   <published>2008-09-30T06:22:09Z</published>
   <updated>2008-07-24T06:24:33Z</updated>
   
   <summary>  御師は檀家のもとに赴いて祈祷し、お土産を配るのですが、それだけが目的ではあり...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  御師は檀家のもとに赴いて祈祷し、お土産を配るのですが、それだけが目的ではありませんでした。<strong>檀家から「初穂」と称して、米を受け取っています</strong>。

  その量は様々でしたが、大体、５合ぐらいが平均だったようです。受け取った米は、従者に持たせます。つまり、「御膳籠」に入れたわけです。お土産の品がなくなる分、籠の中に米が入っていくという仕組みなのです。

  １戸あたり５合としても、２００戸以上となれば、１石以上ですから、相当な量でしょう。大山近隣の農村でしたら、ある程度まとまったら、宿坊まで持っていったことでしょう。遠隔の地でしたら、運送業者に頼んで宿坊まで届けてもらったのでしょう。

  遠隔地に檀廻りする場合、そして檀家圏が広い場合は、全ての檀家の元を廻るわけにはいきません。<strong>そうした場合は、講元の力に頼らざるを得なかったのが実情</strong>でした。]]>
      <![CDATA[  まず講元宅に、講員である檀家を集めてもらいます。<strong>そこで一括祈祷し、お土産を一括して渡し、初穂米も一括していただく</strong>というわけなのです。時間も手間も省けるですから、御師にとっては大助かりということになるでしょう。

  言い換えると、講元にはそれだけ負担になりますから、その分、たいへん気を遣うことになります。だから、お土産品も一般の講員とは違うわけなのです。

  講元は、御師の活動にとってなくてはならない存在だったわけですが、<strong>御師は講元宅を檀廻りの時の宿泊場所にもすることも多かった</strong>ようです。そして、酒食を共にしながら、来年の講中による夏山登拝や、講中の運営についての相談をしたのです。]]>
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   <title>九章十八話　講元宅での祈祷</title>
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   <published>2008-10-07T06:25:52Z</published>
   <updated>2008-07-24T06:31:25Z</updated>
   
   <summary>  講元宅での御師の様子を見てみましょう。   檀家たちは床の間に通されます。そ...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  講元宅での御師の様子を見てみましょう。

  檀家たちは床の間に通されます。そこには、大山の掛け軸が掲げられていました。その前に、お神酒をあげます。そして、祝詞と共に、真言の経典を唱えながら、檀家である講中の家内安全と豊作を祈るのです。祈祷が終わると、石尊大権現や<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B">不動明王</a>の御札などを配りました。

  不動明王とは<strong>大山寺の本尊</strong>ですが、石尊大権現とは、現在の<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%98%BF%E5%A4%AB%E5%88%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE">大山阿夫利神社</a>のことです。江戸時代は<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E6%B7%B7%E4%BA%A4">神仏混交</a>でしたから、阿夫利神社の本社を、大山石尊大権現（おおやませきそんだいごんげん）と呼んでいたのです。

  御札やお土産を配った後、返礼として、「お召し」とも称したと言いますが、<strong>初穂米を檀家からいただくことになっていました</strong>。お米だけではなかったようです。お賽銭もいただいたようです。]]>
      <![CDATA[  そして、次の講元の元に御師は向かうのですが、講元によっては、次の講元宅まで案内をしてくれる場合もありました。荷物の運搬までしてくれたとも言います。

  講元宅に、御師専用の部屋まで用意されていた場合もありました。当然、宿泊場所として使われました。その部屋は、御師から送られてくる品の保管場所にもなっていたことでしょう。

  ところで、檀廻りをしていけば、初穂米など荷物も増えていきます。近ければ、従者に宿坊まで届けさせることもできますが、遠隔地ですと、そうはいきません。運送業者に頼むこともできますが、それでは運送費が別に掛かります。

  どうやら、<strong>御師はある程度、初穂米が集まると、適宜、換金していた</strong>ようなのです。その方法を取れば荷物は減りますし、何か入用の時も、それで済ますことができますから、一石二鳥でした。

  御師の行動範囲は関東一帯に及んでいましたが、<strong>伊豆七島にも檀家はかなりいました</strong>。大島ならば割合近いのですが、八丈島にも大山講はあったそうです。御師の精力的な営業活動の様子が浮き彫りになる事例と言えるでしょう。]]>
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   <title>九章十九話　大量のお土産</title>
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   <published>2008-10-14T06:31:31Z</published>
   <updated>2008-07-24T06:35:08Z</updated>
   
   <summary>  今まで見てきた檀廻りは、近隣地域を対象としたものですが、遠隔地を対象とした檀...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  今まで見てきた檀廻りは、近隣地域を対象としたものですが、<strong>遠隔地を対象とした檀廻りの様子</strong>を、以下見ていきましょう。

  村山坊は１万戸を越える檀家を持っていましたが、現在の千葉県北部にあたる下総国を対象とする天保８年（１８３７）の事例が、現在明らかになっています。この時に檀家に配付した品物の記録も残っているのですが、その種類と量を列挙してみます。

  下総国の８９ケ村を廻った時の事例ですが、<strong>御札にも２種類ありました</strong>。大札と小札です。大札は「糊入札」。小札は「半紙札」と呼ばれていました。「糊入札」が１７０５枚。「半紙札」が８０８２枚でした。

  <strong>「糊入札」をいただいた檀家の方が扱いが上</strong>でした。御札が紙の袋に入れられて、糊付けされていたのでしょう。「半紙札」とは、御札が小さいだけでなく、袋にも入れられなかったのでしょう。]]>
      <![CDATA[  お土産としては、福餅５２００個。小判せんべい１４５０枚。切こんぶ６０袋。みかん６０個。浅草のり３５枚。素麺５束。茶４２８４袋・山椒１斗などの数字が書き上げられています。

  そのほか、八寸はしが６６５７膳。杓子６７９。団扇３６９・・・・というものでした。実に膨大な量のお札とお土産を、御師は檀家に配っていたのです。

  もちろん、従者を連れて檀廻りしていたとは言え、これだけの量を一度に持ちながら歩いて廻っていたとは、とても考えられません。当然ではありますが、<strong>荷物は別に送っていた</strong>のです。その様子を垣間見てみることにします。

  まず、荷物として、江戸の中心である日本橋小網町の船宿金子紋兵衛という者にまとめて送っています。そして、下総の行徳河岸まで運んでおいて欲しいと依頼しているのです。

  行徳河岸まで運ばれた荷物は、今度は陸路、<strong>つまり馬で船橋宿まで運ばれました</strong>。船橋宿とは、江戸から成田山に向かって走っていた<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E8%A1%97%E9%81%93">成田（佐倉）街道</a>の宿場です。

  成田詣に向かう、あるいは成田山から戻ってくる参詣客の宿泊地として、たいへんな賑わいを見せていた宿でした。成田講中の指定宿屋も数多くありましたが、<strong>大山講の御師の定宿も船橋宿にはあった</strong>のです。]]>
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   <title>九章二十話　檀廻りのシステム</title>
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   <published>2008-10-21T06:35:32Z</published>
   <updated>2008-07-24T06:39:06Z</updated>
   
   <summary>  村山坊の御師が定宿としていたのは、亀屋と言いました。この亀屋に、これから檀家...</summary>
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      <![CDATA[  村山坊の御師が定宿としていたのは、亀屋と言いました。<strong>この亀屋に、これから檀家に配るお土産を運び込んだ</strong>のです。亀屋を拠点として、必要な量を従者に持たせ、檀家を廻ったというわけです。

  遠隔地で、檀廻りが広範囲に及ぶ場合は、檀家１軒１軒を廻ることはできません。講元宅だけ廻っていたのですが、講元宅に檀家が全て集まれるわけでもありません。そうした場合は、どうしていたのでしょうか。

  <strong>講元や講の世話人などの居宅に、一括して御札やお土産の品を置いていった</strong>のです。檀家たちに御札やお土産を渡してくれるよう頼んでおいたというわけです。

  初穂米なども、同じです。<strong>講元などに、檀家から初穂米を集めてくれるよう依頼</strong>しておきます。そして、まとまったら、指定の場所まで送り届けてくれるようにも頼むのです。]]>
      <![CDATA[  さらに、指定の場所から、船橋宿の定宿亀屋まで運ばせておく処置も取っています。そうすれば、自然と初穂米が自分のもとに集まってくることになるでしょう。お賽銭なども、同じ形で亀屋まで運ばれていたことは言うまでもありません。

  御師は講元や世話人の力を借りて、檀廻りをスムーズに、そして効率よく実施していました。言い換えると、<strong>講元や世話人の助けなくして檀廻りなど、とてもできなかった</strong>のです。

  御師の営業活動を講元が支えていた仕組みが、檀廻りを通じて浮き彫りになるのです。]]>
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   <title>九章二十一話　御師の経済力</title>
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   <published>2008-10-28T06:39:12Z</published>
   <updated>2008-11-19T03:50:14Z</updated>
   
   <summary>  こうして、御師は講元の力を借りながら、檀廻りをおこなっていました。御札をはじ...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  こうして、御師は講元の力を借りながら、檀廻りをおこなっていました。御札をはじめ、相当な量の土産品の調達など、莫大な費用と手間が掛かっていたことは言うまでもありませんが、<strong>師檀関係の維持にはどうしても不可欠な営業活動</strong>でした。

  檀廻りの負担は大きかったとは言え、<strong>相当の初穂米やお賽銭が御師に入っていたのも事実</strong>です。さらに、代参講で宿坊に宿泊してもらえれば、相当の収入も入ります。利益率の高さは、既に述べたところです。

  御師の収入は相当のものだったらしいのですが、<strong>文化活動に熱心だったことも、その生活の余裕を示すもの</strong>と言われています。

  特に江戸時代後期、関東では能をはじめとする文芸の中心地として大山は知られていました。文化活動自体は御師にとって経済活動ではありませんから、収益があがるというものではありません。]]>
      <![CDATA[  生活の余裕からこそ可能だったわけですし、そのことから御師の経済力が類推できるというわけです。それを可能にしたのが、師檀関係を通じて入ってくる檀家からのお布施やお賽銭などでした。

  以上、大山講を支えていた御師の活動について見てきましたが、御師によって大山へ導かれた檀家にとり、信仰心が満たされるだけでなく、大山詣には観光という楽しみもありました。

  ただ、大山に参詣して帰宅するわけではなかったのです。<strong>大山に参詣した足で、富士山や江ノ島の弁財天に参詣する者が大勢いた</strong>のです。特に、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE">江ノ島弁財天</a>に参詣するのは定番でした。

  江ノ島は、既に観光地として江戸の人々には大人気でしたので、江ノ島観光も大山詣の隠れた楽しみになっていました。御師や講元の力はもちろんですが、こうした楽しみも追い風となって、大山信仰は関東一帯に広がっていたのでしょう。]]>
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