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   <title>江戸のお寺 浮世草子</title>
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   <updated>2008-05-06T23:56:39Z</updated>
   <subtitle>江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 ／ 文
1965（昭和40）年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士（早稲田大学）。ＮＨＫ文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。 
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 ／ イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』（角川書店）「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト</subtitle>
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   <title>七章六話　講社からの奉納物</title>
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   <published>2008-01-29T07:06:47Z</published>
   <updated>2008-01-29T10:41:17Z</updated>
   
   <summary>  天保１０年（１８３９）６月より、川崎大師は約２ケ月間、江戸出開帳を行います。...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  天保１０年（１８３９）６月より、川崎大師は約２ケ月間、江戸出開帳を行います。会場は、両国橋際の<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%90%91%E9%99%A2">回向院</a>です。厄除け大師は回向院での開帳が終わった後、江戸城の本丸御殿に入っています。

  川崎大師にとっては、<strong>江戸での教線拡大の絶好の機会</strong>でした。江戸城に入って将軍様や大奥の女性たちに拝されることは、この上なく名誉なことであり、江戸の社会に与えるインパクトも絶大でした。

  この時、川崎大師は厄除けお守り１０００体、御洗米１０００体などを献上しています。厄除け大師の名前を広めようという意図が込められていたことは言うまでもありません。

  一方、江戸の大師講はどうだったのでしょうか。この時、大師講から奉納された物品としては次のようなものがありました。]]>
      <![CDATA[  御蔵前の講中からは、紺地や赤地の金襴水引などが奉納されています。御蔵前とは札差のことでしょう。札差たちによって結成された講社が奉納したわけです。

  札差とは、将軍様の家来(旗本・御家人)に支給された俸禄米を換金する商人のことですが、貸金業で莫大な利益を上げた商人でもありました。一言で言うと、<strong>江戸でも指折りの富裕層</strong>でした。

  札差と言っても、全員が大師講に入ったわけではないでしょう。成田講にしても、札差をメンバーとする講社はありました。ですが、いずれにせよ、川崎大師が江戸の富裕層を大師講として組織化していたことは間違いありません。出開帳時の奉納物によって、そのことが確かめられるのです。

  芝大門講からは、紫縮緬の幕が寄進されています。芝大門とは、芝増上寺総門の門前に住む町人たちにより結成された講です。その町人全てではないでしょうが、浄土宗の大本山の門前町にまで、真言宗の川崎大師の講社のメンバーがいたということは確かなのです。

  四日市の講社からは金の燈籠、市ケ谷の講社からは真鍮の燭台、大伝馬町の講社からは唐金の鰐口が奉納されています。四日市や大伝馬町は江戸の富裕層が集まる日本橋地域の町です。<strong>川崎大師も成田山と同じく、江戸の富裕層を基盤としている</strong>ことが、改めて確認できます。]]>
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   <title>七章七話　鉄道の開通</title>
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   <published>2008-02-05T07:08:39Z</published>
   <updated>2008-02-05T09:34:37Z</updated>
   
   <summary>  残念ながら、川崎大師の場合、江戸の頃の大師講の動きは良くわかりません。ですが...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  残念ながら、川崎大師の場合、江戸の頃の大師講の動きは良くわかりません。ですが、明治以降の記録に大師講が登場しますので、その記録から江戸の様子を想像して見たいと思います。

  明治に入っても、成田山などは江戸改め東京で出開帳を実施しています。しかし、川崎大師は明治に入ると、<strong>東京での出開帳は中止</strong>してしまいます。

  東京で出開帳しなくても、東京から川崎大師への人の流れは確実なものになっているという認識があったのかも知れませんが、<strong>最大の理由は交通事情の改善</strong>です。

  明治５年（１８７２）に、新橋～横浜間に鉄道が開通します。川崎駅も設置され、川崎大師と東京との距離は格段に縮まりました。川崎大師駅が設置されるのは後年のことですが、<strong>川崎まで鉄道で行けるようになった事実は、たいへん大きかった</strong>ことは言うまでもありません。]]>
      <![CDATA[  江戸から川崎大師までは２０キロぐらいありました。江戸の人は健脚で、旅に出ると、１日４０キロ歩いたと言われます。しかし、それにしても日帰りで往復するとなると、大変です。朝早く、江戸を出立しなければなりませんでした。

  そのため、ご本尊が江戸まで出開帳にやって来るということになるわけですが、鉄道の開通により、川崎駅から川崎大師まで歩けば済むことになりました。距離にして僅か２キロほどですから、川崎駅からは往復で１時間で済みます。

  ですから、川崎大師は出開帳は中止して、居開帳一本になるのですが、居開帳であっても、開帳にあたっては講社の力が必要な事情は同じでした。明治９年（１８７６）に、川崎大師は開帳をおこないますが、その折には東京講社といろいろ相談しています。残念ながら、その中身までは分かりませんが、開帳情報の周知徹底と、物心両面での協力依頼であることは間違いないでしょう。

  明治３７年（１９０４）は日露戦争が起きた年ですが、川崎大師では<strong>戦勝祈願と戦没者追悼会を兼ねて居開帳</strong>をおこなっています。大師講の講員のうち、出征した軍人の数は数千人にも及んだと言います。出征した軍人のために、山主は開帳中、長期間にわたって息災祈願を行っています。

  大正１４年（１９２５）にも、川崎大師は居開帳をおこなっているのですが、その時の裏舞台が見えてくるような資料が残されています。以下、その資料を読みながら、大師講に期待された役割などを見ていきたいと思います。]]>
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   <title>七章八話　講元と篤信</title>
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   <published>2008-02-12T07:10:16Z</published>
   <updated>2008-02-12T01:03:09Z</updated>
   
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  開帳前年の大正１３年（１９２４）８月１８日、<strong>川崎大師で開帳準備会が開催</strong>されました。そして、以下の条項が決議されます。

  まず、第１条目では、開帳期間を大正１４年４月１１日から５月１０日までの３０日間と定めています。第2条目では、檀家総代を招集して、開帳実施を発表するとしています。お寺の行事に檀家の力が必要なことは言うまでもありませんが、尽力を期待したのは檀家だけではありません。豆まき世話人と講元・篤信にも大きな期待を寄せていました。

  第3条目は、豆まき世話人についての条文です。開帳準備にあたり、地元の人々との連絡役を期待していたようです。居開帳となれば、門前の商店など地元の協力は不可欠ですが、<strong>その仲介役を勤めていたのが、豆まき世話人</strong>でした。豆まき世話人と言っても、節分のときだけに活躍するわけではなかったようです。]]>
      <![CDATA[  第4条目では、全ての講元のもとに推参し、尽力を依頼すると決議しています。講元とは、講社（中）を主催する代表世話人のことです。

  川崎大師の大師講は、地元の川崎はもちろん、関東各地で結成されていましたが、何と言っても、<strong>東京の講社が最大勢力</strong>であったことは間違いありません。江戸の頃から、そうした事情は同じなのでした。

  川崎大師が物心両面での協力を最も期待していたのは、東京各地で結成されていた大師講でした。ですから、東京の講元には、たいへん気を遣っているようです。

  第5条目では、開帳の案内状を講元と篤信に発送すると決議しています。檀家、講元のほかに、篤信にも期待していたことが分かります。篤信とは、信仰が厚い人のことですが、檀家も講元（講員）にしても篤信であることに違いはありません。

  つまり、<strong>川崎大師を厚く信仰している人のうち、檀家でも講社のメンバーでもない人を篤信と呼んで、尽力を期待した</strong>わけです。案内状発送後、川崎大師では講元や篤信のもとを個別に訪れて、協力を依頼して回ります。江戸出開帳の時にも、講元や篤信へのアプローチは盛んに行っていたはずです。

  第５条目では、開帳ポスターの掲示の件です。駅や関東各地の町村役場に依頼して、貼ってもらおうというわけです。なかでも、最も期待していたのが<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%B5%9C%E9%9B%BB%E6%B0%97%E9%89%84%E9%81%93">京浜電気鉄道</a>でした。]]>
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   <title>七章九話　大師講の行列</title>
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   <published>2008-02-19T07:11:35Z</published>
   <updated>2008-02-20T04:42:00Z</updated>
   
   <summary>  京浜電気鉄道とは、現在の京浜急行のことです。既にこの頃には、川崎駅から川崎大...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  京浜電気鉄道とは、現在の<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%B5%9C%E6%80%A5%E8%A1%8C%E9%9B%BB%E9%89%84">京浜急行</a>のことです。既にこの頃には、川崎駅から川崎大師まで鉄道が開通していました。現在の京浜急行大師線です。

  東海道線が開通して川崎駅が設置されてから、東京と川崎大師の距離は格段に縮まりました。しかし、そうは言っても、川崎駅から２キロほどは歩かなければなりません。ここに至り、鉄道敷設の機運が高まります。

  ついに、明治３２年（１８９９）１月に、多摩川縁の六郷橋駅と大師駅を結ぶ大師電気鉄道が開業します。大師駅とは現在の川崎大師駅のことですが、この大師電気鉄道こそが京浜急行電鉄のはじまりでした。そもそも、京浜急行は<strong>川崎大師参詣者のために敷設された鉄道にはじまる</strong>というわけです。なお、４月に大師電気鉄道は京浜電気鉄道に社名が変更されます。

  明治３５年（１９０２）には、川崎駅への乗り入れがはじまります。さらに、川崎大師は東京との距離を縮めることになりました。そして、後には品川まで線路が延長され、現在の京浜急行の原形が出来上がります。]]>
      <![CDATA[  大正１４年の開帳に話を戻します。
  この頃は、品川から川崎経由で大師駅まで鉄道が延びていました。並行して走る東海道線もありましたが、<strong>川崎大師としては川崎大師までの路線を持つ京浜電気鉄道に期待するところは大きかった</strong>でしょう。そのため、開帳ポスター掲示への協力を大いに期待したわけです。京浜電気鉄道側にしても、参詣者が乗車してくれれば、それだけ収入はアップします。まさに、持ちつ持たれつなのでした。

  さて、開帳に先だって、川崎大師では供養塔を準備していますが、その用材を川崎から運び込みます。牛３頭で牽いたそうですが、その行列に講社のメンバーも参加しています。

  もちろん、川崎大師側からも人が出ますが、講社が行列に彩りを添えました。豆撒講、念仏講、川崎護摩講、内陣畳講のメンバーが行列に参加し、たいへんな賑わいになりました。その行列を見物する人たちの数も半端ではなかったようです。<strong>開帳に先立っての大デモンストレーション</strong>なのでした。

  豆撒講は節分の時に豆を撒く人たち、念仏講は念仏を唱える人たちで結成された講です。護摩講は川崎の町の人たちで結成された講ですが、護摩木を寄進するコンセプトで結成された講社でしょうか。内陣畳講とは、本尊たる厄除け大師を安置してある部分（内陣）の畳を寄進するコンセプトで結成された講社でしょう。

  江戸出開帳の時は、江戸の大師講が厄除け大師の江戸入り道中の行列人数に加わっていたわけですが、居開帳の時も、江戸の大師講ではなかったようですが、講社が同じような役割を担っていたのでした。]]>
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   <title>七章十話　講中のネットワーク</title>
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   <published>2008-02-26T07:12:53Z</published>
   <updated>2008-02-27T02:05:59Z</updated>
   
   <summary>   大正１４年の居開帳は、このような準備過程を経て実施されることになります。そ...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="十話.jpg" src="http://www.higan.net/blog/edo/%E5%8D%81%E8%A9%B1.jpg" width="280" height="418" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;"/></span>

  大正１４年の居開帳は、このような準備過程を経て実施されることになります。そこでも、川崎大師側が大師講に期待するところは大きく、いろいろと気を使っています。そうした事情は、成田山（成田講）の場合と全く同じでした。

  開帳中、大師講のメンバーは大挙、関東各地から御参りにやって来ます。川崎大師側では、その接待に気を使っています。御参りした後は坊入りという段になるわけですが、さすがに大人数なので、食事の準備は大変でした。

  このため、折詰弁当で接待する形を取っていますが、江戸の頃も、居開帳の場合は同じ形を取ったのではないでしょうか。普段の参詣でしたら、何とかなるのでしょうが、開帳という大イベントの時は参詣者の数も多く、調理に手が回らなかったことでしょう。その事情に変わりはなかったはずです。]]>
      <![CDATA[  <strong>川崎大師にとって、大師講からの物心両面の協力はたいへん心強いもの</strong>でした。戦後の川崎大師の堂社復興事業でも、その果たした役割は大きく、本堂などの再建費のほか、境内の遍路大師像や大山門の額なども寄進しています。<strong>堂社のハード面の整備に実に大きく貢献している</strong>のです。

  大師講の場合、講社どうしのヨコのつながりはあまりなかったそうですが、昭和３８年（１９６３）９月８日、<strong>川崎大師講社連合会が発足</strong>しました。翌年に、川崎大師は戦後最初の開帳を実施する予定でしたが、それを見据えての結成でしょう。講社の組織化を通じて、開帳へのバックアップの体制を強固なものにしたい川崎大師の意図が伝わってきます。

  開帳中、<strong>川崎大師は布教伝導にも力を入れています</strong>。檀家は別ですが、講社の場合は、厄除け大師とのつながりは、その人一代のものでした。講社に入るのも、講社から出るのも、当人の意思次第でした。

　講員にとっては、入退会は自由でした。だからこそ、当の寺院としては、数多くの人々を短期間にメンバーに加入させることも可能でしだが、逆も成り立ちます。

  ですから川崎大師側としては、こうした開帳の機会を通じて、厄除け大師とのつながり、つまり講員としての継続を確実なものにしたいという気持ちは、当然あったことでしょう。できれば、次の代になっても講員として継続して欲しいと期待するでしょう。もちろん、新たに講員となって欲しいという気持ちもあったことでしょう。

  講社の維持とその拡大という意図のもと、川崎大師は開帳中、布教伝導に力を入れたわけです。それは成田山や他の寺院にもあてはまることでしょう。江戸の頃の江戸出開帳や居開帳の時にも、同じような光景が展開されていたのに違いないのです。]]>
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   <title>八章一話　霊山高尾山</title>
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   <published>2008-03-04T08:00:08Z</published>
   <updated>2008-03-04T14:53:47Z</updated>
   
   <summary>  成田山・川崎大師の講中が各々、両寺の寺勢拡大にはかり知れない役割を果たしてい...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <category term="第八章　独自戦略で江戸っ子獲得～高尾山の場合" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      <![CDATA[  成田山・川崎大師の講中が各々、両寺の寺勢拡大にはかり知れない役割を果たしていた様子についてみてきました。もちろん、この２つのお寺だけに、そのことがあてはまるのではありません。江戸近郊には、同じように<strong>江戸っ子を講中とし、強力な支持基盤としていたお寺はたくさんありました</strong>。今回はその一つ、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B0%BE%E5%B1%B1%E8%96%AC%E7%8E%8B%E9%99%A2">高尾山薬王院</a>つまり高尾講について見ていきましょう。

  高尾山は、現在東京近郊の観光地として賑わっています。東京からですと、新宿駅から京王線に乗って１時間ほどです。高尾山口という駅を降りて、山をのぼっていきます。ケーブルもあります。

  成田山は、どちらかと言うと平地にありますが、高尾山はまさに名前のとおり、標高約６００メートルほどの高さの山です。山岳宗教の霊場として古くから知られていました。

  山岳信仰という言葉があります。山に超自然的な威力や霊的存在を見る信仰です。紀州の熊野三山などは代表的な山岳信仰の霊場ですが、<strong>高尾山も霊山の一つ</strong>です。都市からはかなり離れた所にあるわけですが、現在では鉄道で山麓までは行けてしまいます。]]>
      <![CDATA[高尾山口という名前の駅があります。高尾山口駅は元々あった駅なのですが、当然ながら、高尾山への参詣者が利用する駅となりました。

高尾山は、現在の東京都八王子市にあります。奈良時代の天平１６年（７４４）に、橋梁の建設といった社会事業に熱心な僧侶として知られる<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%9F%BA">行基</a>により開かれた霊山です。薬師如来を安置して開山したそうです。室町時代に入ると、京都の醍醐山から俊源大徳が入山して伽藍を再建します。

  戦国時代に入ると、小田原城を本拠とする<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F">後北条氏</a>の帰依を受けることになりました。しかし、関東の雄だった後北条氏は天正１８年（１５９０）に、豊臣秀吉に降伏します。後北条氏から取り上げた関東の地を秀吉から与えられたのは、徳川家康です。

  同じ年に江戸城に入った家康は、関東の領主になるにあたって、<strong>関東の人々に厚く信仰されていたお寺に、土地を次々と寄進</strong>していきます。そうした政治姿勢を見せることで、関東の人々の信頼を勝ち取ろうとしたわけです。関東の新領主たる家康の人心収攬術の一つですし、この時代の武将・大名たちが必ず取った手法でした。

  <strong>高尾山も徳川家から土地を寄進され、厚く信仰されるようになります。</strong>ここに、高尾山と徳川家との縁がはじまります。]]>
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   <title>八章二話　高尾山の天狗</title>
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   <published>2008-03-11T08:04:38Z</published>
   <updated>2008-03-18T10:47:03Z</updated>
   
   <summary>  高尾山は、高尾山薬王院真喜寺と言います。新義真言宗智山派の大本山です。   ...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <category term="第八章　独自戦略で江戸っ子獲得～高尾山の場合" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  高尾山は、高尾山薬王院真喜寺と言います。<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%A9%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97">新義真言宗</a>智山派の大本山です。

  高尾山と言うと、天狗が代名詞にもなっていますが、<strong>高尾山の信仰の中心は飯縄（いづな）権現堂</strong>です。中興開山とされる俊源は高尾山中で修行中、その夢に現れた<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%B8%84%E6%A8%A9%E7%8F%BE">飯縄権現</a>を祀りました。これにより、以後<strong>高尾山は飯縄権現を本尊とする</strong>のです。

  飯縄権現は、<strong><a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B">不動明王</a>を本地とする習合神</strong>です。不動明王のほか、迦楼羅天、荼枳尼天、歓喜天、宇賀神の五相合体の姿をしています。その御影ですが、火炎を背負い、剣を捧げる不動明王の肢体に嘴と翼を備えているというものです。そして、足首には蛇を巻き、白狐の背に乗った姿をしています。

  高尾山は寺院ですが、飯縄権現を祀ることで<strong>修験道の霊場としても知られるようになります</strong>。修験たちの活動により、高尾山信仰は庶民にも広まっていくのでした。こうして、江戸周辺の霊場として、江戸からも多くの参詣者が訪れるようになります。ですから、山上に行くと、飯縄権現堂（本社）と薬王院真喜寺（本堂）があるわけです。]]>
      <![CDATA[  つまり、神仏習合神である飯縄権現が高尾山の本尊なのですが、別当寺は薬王院真喜寺でした。この薬王院が、高尾山内の僧侶たちを統括していたのです。江戸時代には醍醐寺三宝院の院家・無量寿院を本山としていましたが、明治に入ると、智山派に所属します。

  以下、高尾山が所蔵している資料から高尾山信仰の基盤を見ていきますが、残念ながら、江戸以前の様子を教えてくれる資料はほとんどないのが現状です。

  高尾山の地元である東京都多摩地域に基盤があったことは間違いありませんが、<strong>家康が江戸に入り、将軍のお膝元として百万都市に発展していくにの合わせて、江戸の町に信者を増やしていきます</strong>。こうした努力が、現在の高尾山が東京からの参詣者で賑わう最大の理由となるのです。

　まずは、護摩関係のデータから、江戸の町での高尾山の活動の様子をみていくことにしましょう。]]>
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   <title>八章三話　護摩檀家</title>
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   <published>2008-03-18T08:05:47Z</published>
   <updated>2008-03-18T10:47:29Z</updated>
   
   <summary>  高尾山に残された檀家関係の資料のうち、「永代日護摩家名記」（えいたいひごまか...</summary>
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      <![CDATA[  高尾山に残された檀家関係の資料のうち、「永代日護摩家名記」（えいたいひごまかめいき）という帳簿から見ていきます。

  この帳簿は<strong>護摩檀家への加入者を記録したもの</strong>なのですが、護摩檀家とは一体何でしょう。
  お寺の檀家と言うと、そのお寺にお墓があるというイメージがあります。実際、そうなのですが、ちなみに辞書を引いてみると、「一定の寺院に属し、これに布施をする俗家」という意味が出てきます。

  檀那という言葉もあります。「仏家が財物を施与する信者を呼ぶ言葉。施主。檀越。檀家」という意味です。同じような意味であるわけですが、要するに、語義からすれば、お墓があるかどうかが檀家・檀那である絶対条件というわけではないでしょう。もちろん、一人、一家族で一つのお寺の檀家・檀那という事例が大半なのでしょうが、複数のお寺の檀家・檀那であっても、別に問題はなかったはずです。]]>
      <![CDATA[  高尾山にも檀家は大勢いましたが、ここで言う<strong>護摩檀家とは、高尾山に永代護摩供養料を納めた者のこと</strong>です。帳簿を見ると、名前の横に、加入の年次と居住地が記されています。つまり、そのデータを集計することで、高尾山の支持基盤が見えてくるというわけなのです。

  永代護摩供養料とは、どれくらいの価格なのでしょうか。
  その額は金２分です。金４分で１両なので、１両の半分ということになりますが、１両は現在の貨幣価値に換算すると、どれくらいになるのでしょう。

  これはたいへん難しい問題で、時代によって全く違います。１両と言っても、物価の上昇により、購入できるモノは限られるのですが、１両１０万円という換算方法がよく取られますので、１０万円とすると５万円ということになります。<strong>５万円払えば、高尾山から永久に護摩の御札をいただける</strong>というわけなのです。御札と言っても、木ではなく紙なのでしょうか。

  安いのか高いのか、一概には言えません。ですが、５万円納められるのは、ある程度の経済力がある者に限られるでしょう。金２分を納めて、高尾山の護摩檀家となったのはどんな人たちなのでしょう。]]>
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   <title>八章四話　江戸への進出</title>
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   <published>2008-03-25T08:07:06Z</published>
   <updated>2008-04-01T05:42:39Z</updated>
   
   <summary>  護摩檀家を記録した「永代日護摩家名記」という帳簿には、元禄年間（１６８８～１...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  護摩檀家を記録した「永代日護摩家名記」という帳簿には、元禄年間（１６８８～１７０４）から天明年間（１７８１～１７８９）までの記録が収められています。この帳簿に記された護摩檀家に、高尾山は護摩札を永久に配付し続けたわけなのですが、元禄の頃の記録をみると、<strong>護摩檀家の大半は江戸に住む町人</strong>でした。

  当時の江戸の状況を見てみます。
  元禄と言うと、江戸幕府が開かれてから１世紀経過した頃ですが、当時江戸の人口は百万人を超え、名実ともに世界最大の都市に成長していました。<strong>江戸は世界最大のマーケット</strong>でしたが、その巨大マーケットに進出して、新たな信者を獲得しようという動きは当然出てくるでしょう。元禄年間は開帳ブームと称されるほど、全国各地のお寺が次々と江戸出開帳した時期でもあったことは、既に成田講の章などで見たとおりです。

  この時期、高尾山は江戸出開帳はしなかったようですが、他のお寺と同じく、江戸への進出ははかっていました。<strong>永代に護摩を配付するという形で、つまり護摩檀家という形で多くの信者を獲得していった</strong>のです。]]>
      <![CDATA[  ただし、金２分の納入という前提条件がありました。ある程度の経済力がないと護摩檀家に加入することはできなかったわけですが、さすがに江戸は経済力ある町人たちが大勢いました。高尾山としては、地元や江戸近郊の農村よりも、巨大都市として発展を続けていた江戸の町人に大いに期待したのでしょう。積極的にアプローチした結果、多数の護摩檀家を獲得できたのです。

  こうして、高尾山の基盤は江戸に置かれていくことなります。これにより、江戸からの参詣者も増加することになり、経営基盤も強化されていきます。護摩札をいただくだけでは満足せず、高尾山に参詣して、護摩を焚いてもらい、お札をいただいて帰ったことでしょう。成田講や川崎大師講の事例でみたように、江戸の富が高尾山にも落ちていくのです。

  高尾山が最初に江戸出開帳をおこなったのは、元文３年（１７３８）のことと言われます。将軍で言うと、８代吉宗の頃です。江戸出開帳にあたっては、江戸の講中をはじめとする信者の助力が不可欠だったわけですが、<strong>この頃には江戸での支持基盤が固まっていた</strong>ということなのでしょう。そうした判断のもと、本尊とともに江戸に出向いていったわけなのです。]]>
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   <title>八章五話　江戸から地元へ</title>
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   <published>2008-04-01T08:08:04Z</published>
   <updated>2008-04-01T05:43:10Z</updated>
   
   <summary>  高尾山は永代護摩供養料（金２分）を納めた護摩檀家に、年３回（正月・５月・９月...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  高尾山は永代護摩供養料（金２分）を納めた護摩檀家に、年３回（正月・５月・９月）、護摩札を配札することになっていました。元禄の頃の記録によると、護摩檀家は圧倒的に江戸町人で占められていました。

  しかし、享保～延享年間（１７１６～１７４８）に入ると、高尾山近在をはじめ、八王子や武蔵国多摩郡西南部で護摩檀家が増えはじめます。そして、宝暦・天明年間（１７５１～１７８９）には、武蔵国中北部や隣の甲斐国中東部の人々でも護摩檀家となる事例が増えていきます。

  当初は高尾山周辺の人々や、江戸町人を基盤としていた高尾山でしたが、<strong>時代が下るにつれて、江戸近在である多摩郡一帯そして関東一円へと支持基盤を広げていった</strong>ことが、この帳簿から分かるわけです。こうして、江戸だけでなく関東近在からも、参詣者が高尾山に向かうことになります。

  一方、享保期以降になると、高尾山の護摩檀家に加入する江戸町人の増加傾向に歯止めが掛かってしまいます。その理由は良くわからないのですが、市場の競争が激しかったのでしょう。]]>
      <![CDATA[  <strong>護摩檀家という形で信者を獲得する事例は、高尾山以外、確認できていません</strong>。しかし、他のお寺が高尾山の手法に目を付けて、同じ形で信者の獲得を目指したとしても、何の不思議もありません。

  競争相手が増えれば、百万都市とは言え、護摩檀家への加入者が増えなくなるのは当然のことでしょう。もしかしたら、<strong>そうした市場の飽和状態を踏まえて、高尾山は江戸近在や関東一帯へのアプローチを強めていった</strong>のかもしれません。

  「永代日護摩家名記」という帳簿は、残念ながら天明期で記録が終わっています。その後、２０年ほど記録を欠いてしまうのですが、文化６年（１８０９）以降ですと、護摩檀家の動向が分かります。「江戸田舎日護摩講中元帳」という帳簿が残されており、この年以降のデータが収められているのです。次では、この帳簿を見ていくことにしましょう。]]>
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   <title>八章六話　護摩講中</title>
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   <published>2008-04-08T08:09:23Z</published>
   <updated>2008-04-10T05:20:28Z</updated>
   
   <summary>   高尾山に残されている「江戸田舎日護摩講中元帳」という帳簿は、文化６年（１８...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image"><img alt="edo6話.jpg" src="http://www.higan.net/blog/edo/edo6%E8%A9%B1.jpg" width="280" height="374" class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;"/></span>

  高尾山に残されている「江戸田舎日護摩講中元帳」という帳簿は、文化６年（１８０９）以降の護摩檀家の動向が分かる帳面ですが、「江戸田舎」とは江戸とそれ以外の地方のことを指します。

  ここで講中という言葉が出て来ますが、どうも高尾山は護摩檀家以外の者も含めて、<strong>護摩の配札対象である信者を、講中として組織化し直した</strong>ようです。その組織名が、「江戸田舎日護摩講中」というわけなのです。

  <strong>護摩檀家とは、永代護摩供養料を納めた者</strong>です。この帳簿では「永代施主」とも呼ばれていますが、この頃には数年間という期限付きで護摩供養料を納めていた者もいたようです。数年間だけ、配札を受けるというわけです。一年だけという事例もありましたが、一年だけですと、その講中の帳簿には名前は載らなかったようです。]]>
      <![CDATA[  永代で護摩札の配札を受ける護摩檀家の数が伸び悩んでいたわけですが、数年間だけというのは、檀家数増加のための苦肉の策だったのではないでしょうか。護摩檀家か納めた永代護摩供養料よりも、その額は少なかったはずです。<strong>護摩檀家よりも護摩講中という緩やかな形に組織化し直すことで、さらなる信者の獲得を目指した</strong>のでしょう。

  「江戸田舎日護摩講中」のデータを見ていくと、加入者の特徴として、高尾山・八王子周辺で半分ほど、江戸で４分の１を占めていることが分かります。時代が下るにつれて、地元での支持基盤を固めていった様子が分かりますが、そうは言っても、江戸の講中にはたいへん気を使っています。

  例えば、江戸の講中のメンバーの家には、薬王院の使者が１軒ずつ訪れて、護摩札を配札しています。永代のみならず、数年間だけ配札を受ける者の家にも、薬王院の使者が１軒ずつ訪れています。他の地域の場合は、薬王院の使者が届ける場合もありますが、檀家を介して配札される事例も多かったようです。

  ちなみに、高尾山から直接配札を受ける者を、高尾山は「上段之施主」。檀家を介して配札を受ける者を「下段之施主」と呼んでいました。]]>
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   <title>八章七話　紀州徳川家が檀家</title>
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   <published>2008-04-15T07:22:37Z</published>
   <updated>2008-04-17T00:09:02Z</updated>
   
   <summary>  「江戸田舎日護摩講中元帳」に登録されている護摩檀家の人数ですが、約３００軒と...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <![CDATA[  「江戸田舎日護摩講中元帳」に登録されている<strong>護摩檀家の人数ですが、約３００軒</strong>と言います。一見少ないように見えますが、<strong>家族の数も含めれば１０００人ぐらい</strong>になるでしょう。それに、この数字は護摩檀家だけの数であり、成田講や川崎大師講の事例でみたような様々な目的で結成された講中は別にあります。その高尾講のメンバーも含めれば、高尾山の信者は、軽くその数倍は行きます。

  護摩檀家には町人はもちろんですが、武士もいます。武士と言っても、与力・同心といった御家人から大名まで格差は激しいのですが、徳川姓の大名もいました。

  徳川姓の大名とは、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6">徳川御三家紀州家</a>のことです。暴れん坊将軍こと吉宗の実家として、御三家のなかでは事実上のトップの権威を誇っていました。<strong>この葵の御紋を檀家にしていたことは、高尾山にとり非常に大きなメリット</strong>でした。]]>
      <![CDATA[  高尾山に限らず、お寺は大名の帰依を受けることに熱心でした。大名の帰依を受けることができれば、大名当人だけでなく、その家中にもお寺の名前を浸透させることができるからです。主君の大名が帰依すれば、家臣たちも倣います。こうして、大名の家族はもちろんですが、家臣の家族にも信者を増やしていくことができるのです。

  高尾山と紀州家のゆかりは、吉宗の時にはじまります。吉宗は鷹狩りの好きな将軍でしたが、享保３年（１７１８）に、幕府と実家紀州家の鷹匠による放生会が高尾山で開かれます。これ以降、紀州家との縁が深くなっていきます。この行事をチャンスに、紀州家に食い込んでいったわけです。

  吉宗の跡を継いで紀州家の殿様となった６代目藩主徳川宗直は、不動明王と護摩檀を高尾山に寄進しています。７代目藩主徳川宗将も、不動明王と自筆の経典を寄進しています。

  ８代目藩主徳川重倫に至っては、自分の病気平癒のほか、夫人の安産祈願などの祈願を依頼しています。紀州家の祈祷所になっていたのです。江戸屋敷に招いて、祈祷してもらうこともありました。
  ところが、安永４年（１７７５）に重倫が隠居すると、<strong>紀州家との関係は疎遠になっていきます</strong>。一体、何があったのでしょうか。]]>
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   <title>八章八話　倹約とお寺</title>
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   <published>2008-04-22T07:26:16Z</published>
   <updated>2008-04-21T23:54:30Z</updated>
   
   <summary>  重倫が藩主時代は、紀州家と高尾山との関係はたいへん強いものでした。ですから、...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  重倫が藩主時代は、<strong>紀州家と高尾山との関係はたいへん強いもの</strong>でした。ですから、重倫の家族だけでなく、紀州家の家臣たちにも高尾山を厚く信仰する者が大勢いたでしょう。紀州家の江戸屋敷には、家臣だけで１０００人以上はいました。家族も含めればその数倍。

  そして、紀州家には分家もいくつかあります。高尾山としては、本家たる紀州家を通して分家への浸透も期待したことでしょう。紀州家の当主に跡継ぎがいなければ、分家から養子に入るわけですから、紀州家とのゆかりを永続的なものにするには、分家からも帰依を受けておく必要がありました。

  さらに、紀州家は徳川将軍家の実家にもなっていましたので、将軍やその家臣たちへの浸透も期待できたわけです。ですから、<strong>紀州家を護摩檀家であることは、はかりしれないメリットを生んでいた</strong>のです。

  しかし、高尾山に深く帰依していた重倫が隠居すると、紀州家の方針が変わってしまったようです。紀州家からの祈祷依頼の回数が激減し、天明６年（１７８６）には、祈祷料の奉納まで取り止められてしまっています。]]>
      <![CDATA[  正月・５月・９月の年３回、護摩檀家には護摩札を配札していましたが、紀州家ではその度に、ある程度のお金を高尾山に奉納していました。護摩札を配札されると、紀州家に限らず、大名や商人などは永代護摩供養料とは別に奉納金を納めていたようです。<strong>これを中止してしまった</strong>のです。

  別に、高尾山に落ち度があったわけではありません。紀州家の懐事情が理由なのでした。

  当時、紀州家は財政難に苦しんでいました。そのため、支出を切り詰めて財政再建をはかろうという倹約の方針が強力に推進されていたのですが、高尾山への祈祷料も、そのターゲットになってしまったわけです。

  護摩札を配札した時、高尾山は紀州家に御守りも届けていたようですが、同じく天明６年に、紀州家では以後届けるに及ばないと申し渡しています。お守りが届けられるたびに、何らかの奉納金を納めていたのでしょう。それを節約したかったのです。

  護摩檀家という関係を通して紀州家に食い込み、様々な形でお布施を受けていた高尾山でしたが、この一連の経緯からは、紀州家にとっては高尾山へのお布施がかなりの負担になっていたことが分かります。言い換えると、<strong>それだけ高尾山の経営にとってはプラスになっていた</strong>ということでもあります。

  しかし、こうした紀州家の対応は経営基盤に直結する問題です。当然、高尾山は危機感を強めます。紀州家へのアプローチを強力に展開していくのです。]]>
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   <title>八章九話　配札の格差</title>
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   <published>2008-04-29T07:28:24Z</published>
   <updated>2008-04-30T10:35:07Z</updated>
   
   <summary>  紀州家８代目藩主徳川重倫は高尾山に厚く帰依していましたが、９代目藩主徳川治貞...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  紀州家８代目藩主<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%87%8D%E5%80%AB">徳川重倫</a>は高尾山に厚く帰依していましたが、９代目藩主<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E8%B2%9E">徳川治貞</a>の時代になると、紀州家の財政難により、高尾山への奉納金がカットされてしまいます。このため、<strong>紀州家との縁を通じて江戸の武家社会への浸透をはかり、江戸での基盤を強化していった高尾山</strong>は、巻き返しをはかることになります。

  治貞は間もなく隠居し、１０代目藩主に<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E5%AE%9D">徳川治宝</a>が就任します。<strong>この紀州家の代替りを機に、高尾山は様々なルートを通じて、紀州家に働きかけていきます</strong>。

  その具体的な内容は良く分からないのですが、紀州家からは葵の紋所が付いた戸帳や提灯を寄進されるようになったり、江戸出開帳の時は御殿女中の参詣もみられるようになりました。藩主に仕える御殿女中たちに働きかけていた様子が想像できます。

  将軍で言えば、大奥の奥女中たちを味方につける形で、高尾山は紀州家との縁を復活させようとしたのです。こうして、再び物心両面での強力なバックアップを受けることになります。なお、高尾山は同じ御三家の尾張家の子孫繁栄の護摩祈祷をおこなっています。]]>
      <![CDATA[  尾張家や紀州家だけではありません。福井藩主松平家、浜田藩主松平家など<strong>数多くの大名家も護摩檀家</strong>でした。殿様だけでなく、家臣たちにも配札していますから、紀州家と同じく、大名家全体に高尾山の名前は浸透していったのです。

  ところで、武士への配札と言っても、<strong>その対象は徳川御三家の大名から与力・同心などの御家人までバラエティーに富んでいましたが、その方式には６つのランクがありました</strong>。大箱札、箱札、中奉書台附、小奉書台附、包札、札守の６つです。

  詳しいことは分かりませんが、最も厚遇されていたのが大箱札組で、段々と薄礼になっていくのでしょう。大きな箱に納められた護摩札を届けられるのが一番で、台の上に載せられて届けられるのが中くらい。包紙の中に収められて届けられるのは下のランクで、包紙にも収められないのは最も下のランクということになるわけです。永代護摩供養料とは別に奉納される金額に、比例したランク付けなのでしょう。]]>
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   <title>八章十話　大商人も護摩檀家</title>
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   <published>2008-05-06T07:29:39Z</published>
   <updated>2008-05-06T23:56:39Z</updated>
   
   <summary>  護摩檀家は武士だけではありません。裕福な江戸商人たちも、高尾山の護摩檀家でし...</summary>
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      <name>彼岸寺管理</name>
      
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      <category term="第八章　独自戦略で江戸っ子獲得～高尾山の場合" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.higan.net/blog/edo/">
      <![CDATA[  護摩檀家は武士だけではありません。<strong>裕福な江戸商人たちも、高尾山の護摩檀家</strong>でした。「江戸田舎日護摩講中元帳」から、どんな商人たちが檀家だったかを見ていきましょう。

  呉服問屋、米穀問屋、炭薪問屋などの商人の名前が多数みられますが、呉服問屋のなかには、三井越後屋や伊豆蔵の名前があります。江戸を代表する豪商でした。成田講の事例でみたように、江戸の富裕層を護摩檀家としていたことが分かります。

  高尾山としては、<strong>江戸の豪商を護摩檀家とすることで、その富を経営基盤に組み込むことができた</strong>わけです。三井越後屋などは成田山の江戸出開帳の時、成田不動を守護する行列が休憩する場所になっていました。成田山の有力スポンサーでもあったからです。

  <strong>成田不動の江戸での足取りを追って行くと、成田山の支持基盤が自然と浮き彫りになっていく</strong>ことは、成田講の事例でみたとおりです。スポンサーであるからこそ、成田不動はわざわざ三井越後屋にやって来たわけです。]]>
      <![CDATA[  <strong>豪商の側からみると、成田山のスポンサーとなることで、信者への好感度はアップする</strong>ことでしょう。それが狙い目だったわけですが、三井越後屋が高尾山の護摩檀家になったことにも、同じ思惑があったことは言うまでもありません。

  高尾山にとっても、三井越後屋が護摩檀家であることは、物心両面での強力なバックアップが期待できたでしょう。さらに、その事実は越後屋の御得意さんへのアピールにもつながります。ですから、江戸に貫主がやって来た時には、豪商の家をわざわざ訪れ、関係の維持強化につとめています。

  大商人だけでなく、<strong>小売り商人や様々な職種の職人にも、護摩講中のメンバー</strong>でした。成田講や川崎大師講と同じく、高尾講もたいへんバラエティーに富んでいた講中だったわけです。これは職業別の講ですが、地域で結成された講もあります。「新宿講中」「鎌倉河岸講中」「堺町講中」などがあります。

  「御膳講」「杉筍講」という講中もあります。それぞれ、御膳や杉筍を奉納するために結成された講なのでしょう。]]>
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