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2008年9月 アーカイブ

2008年9月30日

御師は檀家のもとに赴いて祈祷し、お土産を配るのですが、それだけが目的ではありませんでした。檀家から「初穂」と称して、米を受け取っています

その量は様々でしたが、大体、5合ぐらいが平均だったようです。受け取った米は、従者に持たせます。つまり、「御膳籠」に入れたわけです。お土産の品がなくなる分、籠の中に米が入っていくという仕組みなのです。

1戸あたり5合としても、200戸以上となれば、1石以上ですから、相当な量でしょう。大山近隣の農村でしたら、ある程度まとまったら、宿坊まで持っていったことでしょう。遠隔の地でしたら、運送業者に頼んで宿坊まで届けてもらったのでしょう。

遠隔地に檀廻りする場合、そして檀家圏が広い場合は、全ての檀家の元を廻るわけにはいきません。そうした場合は、講元の力に頼らざるを得なかったのが実情でした。

まず講元宅に、講員である檀家を集めてもらいます。そこで一括祈祷し、お土産を一括して渡し、初穂米も一括していただくというわけなのです。時間も手間も省けるですから、御師にとっては大助かりということになるでしょう。

言い換えると、講元にはそれだけ負担になりますから、その分、たいへん気を遣うことになります。だから、お土産品も一般の講員とは違うわけなのです。

講元は、御師の活動にとってなくてはならない存在だったわけですが、御師は講元宅を檀廻りの時の宿泊場所にもすることも多かったようです。そして、酒食を共にしながら、来年の講中による夏山登拝や、講中の運営についての相談をしたのです。

2008年9月23日

次は、6月に実施した檀廻りの時のお土産の品目です。

一般の講員へのお土産ですが、大札つまり御札が250枚。八寸はしが500膳でした。そのほか、薬が250。絵半紙150持参しています。

実は、御師が経営する宿坊では、薬も製造していました。村山坊では、効能は分かりませんが、「実母散」という名前り薬を製造しています。その「実母散」を、講中へのお土産として持参したわけです。

大山寺でも、目薬を製造していました。参拝客が購入するお土産として人気があったそうです。

講元の元には、茶呑茶碗を15。団扇を3つ持参しています。

9月に実施した檀廻りの時は、一般の講員に大札250枚。八寸はしが500膳。そして、元結を250把持参しています。講元には、お盆や御茶を持参しました。

12月に実施した檀廻りの時は、一般の講員に大札250枚。八寸はしが550膳。そのほか、杓子255本。講元へのお土産は手拭い5。茶台8。蜜柑120個などでした。

こうしたお土産を従者に持たせて、檀家のもとを廻るのですが、ただ廻ったわけではありません。祈祷をしています。人数が少なければ、各檀家を廻りますが、人数が多い場合などは、講元のもとに講員を集めて祈祷する方式も取られました。

こうしたお土産の品ですが、大山まで作られた品としては、お盆・杓子・茶台などがありますが、これは「大山細工」と呼ばれていました。

扇子・団扇・元結などもお土産として持参しましたが、大山で取り揃えたものではありませんでした。江戸の商人から購入したものなのです。農村では、江戸で購入した品というのが人気があったようです。その辺りの心理を付いて、御師はお土産として団扇などを配ったのです。

2008年9月16日

御師は檀廻りする時、どんな格好をしていたのでしょうか。

腰には大小の刀を差していました。従者も連れています。そして、「御膳籠」を担がせていたのですが、この籠の中には何が入っていたのでしょう。

八大坊から受け取った御札のほか、買い入れた檀家へのお土産も入っていたのですが、村山坊の御師が相模原台地の農村地帯8ケ村245軒を廻った時に、従者に持たせていたお土産品についてみてみましょう。今回は、嘉永7年(1854)の事例です。

この8ケ村は大山の近隣でしたので、年に4回も、御師は檀廻りをしています。正月の檀廻りから見ていきましょう。

お土産と言っても、一般の講員と講元では違っていました。一般の講員用として、大札を260枚。小判を1800枚。八寸はし(木はし)も550膳も持参しています。

大札というのは、御札のことです。ほぼ檀家数ということになるでしょう。小判とは何でしょうか。

小判とは本物の小判ではなく、模造品でした。大山が模造した小判ですが、いわばグッズのようなものでしょう。玩具のようなものだったのではないでしょうか。8枚ぐらいずつ、配付したのでしょう。八寸はしも、大山に参詣すれば、お土産として販売されていたのでしょう。

これは一般の講員へのお土産でしたが、講元へは別の品も持参していました。以下列挙してみます。

御膳供木札1つ。お守り2つ。半紙17把。海苔6包。昆布90袋。名古屋菓子17包。氷豆腐2つ。奉書1。扇子1対。

いかに、御師が講元に気を遣っていたかが分かる品目なのではないでしょうか。

2008年9月 9日

御師は、基本的には1週間から20日間ぐらいで、各地域の檀家のもとを一巡できる計画を立てていました。主に、農閑期である12月から3月までの期間が多かったようです。

嘉永3年(1850)に、村山坊の御師が大山近くの相模国相模原台地の農村地帯を廻った時の記録を見てみましょう。

村山坊が師檀関係を結んでいた講員の数は、なんと12500軒にも及んでいました。そのうちの8ケ村245軒を廻った時の記録です。

大山近くということもあり、6日間かけての檀廻りでしたが、1日平均40軒の檀家を廻りましたから、かなりの強行軍と言えるのではないでしょうか。

まず、御師は檀廻りに出発する前に、八大坊のもとに赴いて、出発の挨拶をすることになっていました。八大坊とは、大山寺(不動)の最高意思決定機関である8名の別当職のことです。

御師は挨拶とともに、御札を必要枚数、八大坊から受け取ることになっていました。檀家に配るためのお札でした。その発行権を八大坊が掌握していたわけなのです。それは巨大な利権となっていたようです。言い換えると、八大坊の権威の源泉にもなっていました。

御師は帰山すると、再び八大坊のもとに赴きます。帰山の挨拶はもちろんですが、その折には、お布施の献上を義務付けられていたそうです。

御師は檀家のもとを廻る時に、御札を配っていただけではありません。米やお金などをお布施として受け取っています。その一部を八大坊に収めていたのです。御師の檀廻りという営業活動は、大山不動という巨大なお寺の管轄下の事業だったと言えるのです。

2008年9月 2日

御師は普段、大山の麓で生活していましたが、年2回ぐらい講中のもとを回っていることは、既に述べたところです。これを檀那廻りと称しました。檀廻りとも言います。

師檀関係を継続していくには檀廻りは必要不可欠な営業活動のようなものでしたが、具体的にはどんな形でおこなわれたのでしょうか。まず、御師の家の中を覗いてみることにしましょう。

御師の家には、自分の檀家に関する台帳が大事に保管されていました。そこには何が書かれているのでしょうか。

檀家が住んでいる地域を檀那場と言いましたが、その国や郡・町村名が台帳には書き上げられていました。そのほか、講元。副講元。世話人。檀家数はもちろんです。

講元というのは、講中の代表者のことです。世話人とは幹事役です。御師が講元や世話人に大変気を遣っていたことは言うまでもありません。

檀廻りについての記載もあります。廻る順番や講中に届ける品物などが記述されています。御師にとっては、マニュアルのようなものでした。そのマニュアルをもとに、御師は檀廻りの計画を立てていくわけです。

大山講の講中は関東一体に展開していましたから、この檀那廻りを効率よく実行するには、しっかりとした計画を立てる必要がありました。その際、威力を発揮した先例の記録集なのです。

檀廻りの時期ですが、大概は春山(6月27日~7月7日)、夏山(7月14日~7月17日)を除いた時期に設定されました。農村の場合は、秋の収穫が済んだ暮れから正月にかけての農閑期に廻っています。

遠方の場合は、年1回ぐらいになってしまったようです。1回の檀廻りのため、2~3ケ月要する場合も珍しくありませんでした。

ただし、近隣の農村の場合は、年3~4回廻ることもありました。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。近著に『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書)、『大名屋敷の謎』(集英社新書)、『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)『徳川将軍家の演出力』(新潮新書)。東京理科大学生涯学習センター、JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」講師も勤める。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
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