2008年8月12日

明治に入ってからの数字ではありますが、大山講の規模は、戸数で約70万。1つの講あたりの戸数は、平均で50戸弱だったようです。 残念ながら、江戸の町の講中の数は分からないのですが、どういう講中が結成されていたかについては、いくつかの事例があります。以下、みていきましょう。

将軍の霊廟が置かれていた増上寺は芝地域に鎮座していますが、芝地域の人々が結成していた講中に御太刀講があります。この名前は、納太刀に由来することはもちろんです。

講中と言っても、全員が毎年参詣するのではありません。数人が代参講という形で参詣するのが通例でした。講中を代表して、大山詣りをするわけです。

そして、太刀を持ち帰ってくるわけですが、参詣できなかった講員は、太刀の刀身を少し抜き、その下をくぐって家内安全・商売繁盛を祈願したそうです。

そのほか、米商仲買社中。車力講中。芸者屋講中。蝋燭講中など、同業組合が多かったと伝えられます。講員に鳶職が多いのも、大山講の特徴とされますが、鳶職は火事の際には火消人足に変身するのです。そのため、鳶職つまり火消仲間の講中も多かったようです。

明治に入ってからのことですが、日本橋区の理髪職から構成されていた講中もあります。講員は1407人いたそうです。神田・京橋区の足袋屋から構成されている講中に至っては、1700人もいました。

ところで、講中に入るには、お金が必要でした。そうした金銭をもって、講中の維持費にしていたのですが、都市の場合は会費制度が多かったようです。しかし、農村の場合は物納の事例もありました。

物納と言っても、それを換金するわけですが、ここで言う物納とは山林や農地のことです。村として講中に入る場合は、村の共有地を充てたのです。個人単位の場合は、自分たちが所持している山林などです。いずれにせよ、その土地から上がる収穫物などを換金して、講中の維持費としたのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト