明治に入ってからの数字ではありますが、大山講の規模は、戸数で約70万。1つの講あたりの戸数は、平均で50戸弱だったようです。 残念ながら、江戸の町の講中の数は分からないのですが、どういう講中が結成されていたかについては、いくつかの事例があります。以下、みていきましょう。
将軍の霊廟が置かれていた増上寺は芝地域に鎮座していますが、芝地域の人々が結成していた講中に御太刀講があります。この名前は、納太刀に由来することはもちろんです。
講中と言っても、全員が毎年参詣するのではありません。数人が代参講という形で参詣するのが通例でした。講中を代表して、大山詣りをするわけです。
そして、太刀を持ち帰ってくるわけですが、参詣できなかった講員は、太刀の刀身を少し抜き、その下をくぐって家内安全・商売繁盛を祈願したそうです。
そのほか、米商仲買社中。車力講中。芸者屋講中。蝋燭講中など、同業組合が多かったと伝えられます。講員に鳶職が多いのも、大山講の特徴とされますが、鳶職は火事の際には火消人足に変身するのです。そのため、鳶職つまり火消仲間の講中も多かったようです。
明治に入ってからのことですが、日本橋区の理髪職から構成されていた講中もあります。講員は1407人いたそうです。神田・京橋区の足袋屋から構成されている講中に至っては、1700人もいました。
ところで、講中に入るには、お金が必要でした。そうした金銭をもって、講中の維持費にしていたのですが、都市の場合は会費制度が多かったようです。しかし、農村の場合は物納の事例もありました。
物納と言っても、それを換金するわけですが、ここで言う物納とは山林や農地のことです。村として講中に入る場合は、村の共有地を充てたのです。個人単位の場合は、自分たちが所持している山林などです。いずれにせよ、その土地から上がる収穫物などを換金して、講中の維持費としたのです。