2008年8月 5日

御師は、檀家つまり講中には大変気を遣っていました。

江戸っ子が大挙、大山に向かう夏山の時などは、麓に広がる伊勢原の町まで講中出迎えに行きました。登拝が終わり、下山してくると、今度は「山迎」と言って出迎えます。その時には、お酒やご飯、煮しめなどを振る舞っています。

さて、その大山講ですが、明治に入ってから編纂された「開導記」という記録には、御師が持っている檀家の数が町や村別に書き上げられています。その記録から、講中の実態を見てみましょう。

県別で言うと、神奈川県・東京府・埼玉県・千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・福島県・新潟県・長野県・山梨県・静岡県の12府県に及んでいました。講中の総数は15638にものぼっていました。

講中の数が一番多いのが、千葉県で2668。次が大山が所在する神奈川県で2412でした。

東京府は1038でした。神奈川などに比べると、随分少ないように思えますが、この記録には東京市、かつて江戸御府内と呼ばれた江戸の町は含まれていませんでした。東京とは言っても市街地ではなく、当時は農村地帯だった地域のみの数字に過ぎません。

残念ながら、江戸の町における講中の数は分からないわけですが、この数倍あったことは間違いないでしょう。

神奈川の場合ですが、当時の県内の町・村の数は総数で912でした。単純に計算すると、1つの町や村に、2~3の講中があった計算になります。

つまり、1つの村に、何人もの御師が入り込んで、講中を結成させていた計算になります。御師による檀家の熾烈な争奪戦が繰り広げられていた様子が浮かんできます。

講員の総数ですが、この資料によると、約70万にも及んでいました。これは戸数です。家族の数を入れれば、その数倍となります。江戸の町の講中がカウントされていませんから、実数はもっと増えます。

1つの講あたりの戸数は、単純計算すると48戸ぐらいです。ただし、個々の事例は様々で、極端な事例としては、講員が1戸のみという場合もありました。1人と言っても、家族単位ですから、実際は数人ということになりますが、一口に講と言っても、その規模は千差万別だったようです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト