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2008年8月 アーカイブ

2008年8月26日

宿坊の経営事情を教えてくれる資料はあまりないのですが、村山坊という宿坊の資料が残っています。それを見ていくことにしましょう。

村山坊は、222の講中を持っていました。天保2年(1831)の事例ですが、夏山(22日間)の時期に宿泊した講中は213でした。その人数ですが、総計857人だったそうです。

1つの講中で平均4人ほどが代参してきているわけですか、その人数にはかなりの幅がありました。1人でという事例が、33組もありました。一方、10人以上という事例は14組あります。

宿泊料ですが、1泊300文というのが通例でした。かけ蕎麦1杯が16文という時代ですから、蕎麦代の20倍弱ということになります。旅篭の宿泊料が1泊250文というのが相場でしたから、それより少し高めということになるでしょう。

ただし、講中は宿泊料だけ宿坊に支払ったのではありません。茶代と称して、その1割ぐらいを渡していました。他に、心付けもあります。

この年の村山坊の夏山期間中の収入ですが、60両1分1朱177文ということです。これは、宿泊代はもちろん、心付けなども含めた数字ですが、1両を10万円とすると600万円ですから、かなりの収入です。

ただ、問題は利益です。宿泊に伴う支出は、20%前後だったそうです。つまり、70~80%の利益率ということになりますから、いかに、宿坊経営が御師にとって大事だったかが分かる数字なのではないでしょうか。

言い換えると、御師が講員の獲得、講中の結成に非常に力を入れていた様子も、容易に想像できます。もちろん、講員の獲得だけでなく、講中の維持にも力を入れています。まさしく営業活動に他なりませんが、その様子をうかがえるのが、次に見ていく檀那廻りなのです。

2008年8月19日

講中が大山に参詣する時は、御師が経営する宿坊に宿泊・休憩するのが通例でした。その経営事情などを細かく見てみます。

その前に、御師はどのような形で収入を得ていたのかを見ていきましょう。

何と言っても、宿坊経営による収入です。講による参詣と言っても、代参者数人を立てての参詣ですが、その宿泊代が貴重な収入となっていました。

宿泊代だけではありません。宿泊した翌朝に、大山に登山して参拝するわけですが、その前に、御師は参拝者に祈祷などをして、その料金を受け取っています

同行して道案内もします。御師は先導師でもありました

参詣が終わると、講中に御札を配布します。参詣できなかった講員用の御札も配布していますが、それなりの心付けも、講中から受け取っていることは言うまでもありません。

竈祓いに伴う収入もあります。檀那廻りによる収入は後でご紹介しますが、 竈祓いとは年末から年の初めにかけて、2~3週間にわたって、檀家のもとを廻るものです。その家の無事繁栄を祈って、竈祓いをおこない、謝礼を受け取るのです。

「初穂受け」というものもあります。これは農村の講中を対象としたものです。

収穫時に、御師は天秤を担いだ供人を連れて檀家を廻り、初穂を受けています。春に御師がやって来て、豊作を祈願するのですが、秋の収穫時に再びやって来て、豊作の御礼を初穂として受け取るというわけなのです。

米の収穫時に受け取る御礼は、「米初」(こめはつ)。「麦初」「綿初」「蚕初」というものもあります。その意味は何となく分かるのではないでしょうか。このよう形で、御師は農村との繋がりを深め、自分の経営基盤も強化していたのです。

2008年8月12日

明治に入ってからの数字ではありますが、大山講の規模は、戸数で約70万。1つの講あたりの戸数は、平均で50戸弱だったようです。 残念ながら、江戸の町の講中の数は分からないのですが、どういう講中が結成されていたかについては、いくつかの事例があります。以下、みていきましょう。

将軍の霊廟が置かれていた増上寺は芝地域に鎮座していますが、芝地域の人々が結成していた講中に御太刀講があります。この名前は、納太刀に由来することはもちろんです。

講中と言っても、全員が毎年参詣するのではありません。数人が代参講という形で参詣するのが通例でした。講中を代表して、大山詣りをするわけです。

そして、太刀を持ち帰ってくるわけですが、参詣できなかった講員は、太刀の刀身を少し抜き、その下をくぐって家内安全・商売繁盛を祈願したそうです。

そのほか、米商仲買社中。車力講中。芸者屋講中。蝋燭講中など、同業組合が多かったと伝えられます。講員に鳶職が多いのも、大山講の特徴とされますが、鳶職は火事の際には火消人足に変身するのです。そのため、鳶職つまり火消仲間の講中も多かったようです。

明治に入ってからのことですが、日本橋区の理髪職から構成されていた講中もあります。講員は1407人いたそうです。神田・京橋区の足袋屋から構成されている講中に至っては、1700人もいました。

ところで、講中に入るには、お金が必要でした。そうした金銭をもって、講中の維持費にしていたのですが、都市の場合は会費制度が多かったようです。しかし、農村の場合は物納の事例もありました。

物納と言っても、それを換金するわけですが、ここで言う物納とは山林や農地のことです。村として講中に入る場合は、村の共有地を充てたのです。個人単位の場合は、自分たちが所持している山林などです。いずれにせよ、その土地から上がる収穫物などを換金して、講中の維持費としたのです。

2008年8月 5日

御師は、檀家つまり講中には大変気を遣っていました。

江戸っ子が大挙、大山に向かう夏山の時などは、麓に広がる伊勢原の町まで講中出迎えに行きました。登拝が終わり、下山してくると、今度は「山迎」と言って出迎えます。その時には、お酒やご飯、煮しめなどを振る舞っています。

さて、その大山講ですが、明治に入ってから編纂された「開導記」という記録には、御師が持っている檀家の数が町や村別に書き上げられています。その記録から、講中の実態を見てみましょう。

県別で言うと、神奈川県・東京府・埼玉県・千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・福島県・新潟県・長野県・山梨県・静岡県の12府県に及んでいました。講中の総数は15638にものぼっていました。

講中の数が一番多いのが、千葉県で2668。次が大山が所在する神奈川県で2412でした。

東京府は1038でした。神奈川などに比べると、随分少ないように思えますが、この記録には東京市、かつて江戸御府内と呼ばれた江戸の町は含まれていませんでした。東京とは言っても市街地ではなく、当時は農村地帯だった地域のみの数字に過ぎません。

残念ながら、江戸の町における講中の数は分からないわけですが、この数倍あったことは間違いないでしょう。

神奈川の場合ですが、当時の県内の町・村の数は総数で912でした。単純に計算すると、1つの町や村に、2~3の講中があった計算になります。

つまり、1つの村に、何人もの御師が入り込んで、講中を結成させていた計算になります。御師による檀家の熾烈な争奪戦が繰り広げられていた様子が浮かんできます。

講員の総数ですが、この資料によると、約70万にも及んでいました。これは戸数です。家族の数を入れれば、その数倍となります。江戸の町の講中がカウントされていませんから、実数はもっと増えます。

1つの講あたりの戸数は、単純計算すると48戸ぐらいです。ただし、個々の事例は様々で、極端な事例としては、講員が1戸のみという場合もありました。1人と言っても、家族単位ですから、実際は数人ということになりますが、一口に講と言っても、その規模は千差万別だったようです。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。近著に『幕臣たちの明治維新』(講談社現代新書)、『大名屋敷の謎』(集英社新書)、『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)『徳川将軍家の演出力』(新潮新書)。東京理科大学生涯学習センター、JR東日本・大人の休日倶楽部「趣味の会」講師も勤める。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト