御師は大山の麓で普段は生活していたわけですが、年2回ぐらい講中のもとを回っています。これを檀那廻りと称しました。師檀関係の継続という意図があったことは言うまでもありません。この御師による檀那廻りが、江戸の人々による大山信仰を長く支える原動力となっていました。
大山講は江戸はもちろん、関東一体に展開していましたから、この檀那廻りは自然と長期にわたるものになりました。
もちろん、これまでの講中を回るためだけに檀那廻りをするのではありません。その折には、新たな檀家の獲得も目指していたのです。新たな講を結成しながら、回っていたのです。こうした御師たちの活動が、大山信仰の布教活動に他ならなかったことはもちろんです。
さて、御師は講中を回る時には、様々なものを配っていました。まずは、御札です。この行為を配札と呼んでいました。
配札だけではありません。箸・盆・重箱・煎餅・お茶なども届けています。お土産という形でしたが、御師は講中にお札やお土産を届けただけで帰ったのではありません。それに対する志を金銭で受け取っていたのです。
そして、師檀関係を取り結んだ講中の人々が大山に参詣してくると、自分の宿坊に宿泊させるわけです。そして、山内の案内にあたりました。御師は旅行業者としての顔も持っていたのです。
宿泊に限らず、講中の人々が宿坊に立ち寄ることを、「坊入り」と呼びました。その時、初穂と称して金銭や米・麦などを納め、代りに配札を受けています。
宿坊に宿泊した場合は、翌早朝に宿坊を出発して、山頂で御来迎を拝することになっていました。ただし、大山近隣の相模国の村々では、夜中に自分の村を出発して大山の山頂に一気に向かったそうです。そして下山後に、宿坊で休息するのが通例でした。
ところで、明治16年(1883)に編纂された「開導記」という記録があります。それを読むと、県別の講中の数字なども分かりますので、その数字を見ていくことにしましょう。