2008年7月 8日

それでは、江戸っ子の大山詣の様子を見てみましょう。
江戸っ子は大山街道を通って、そのまま大山に向かうのではありません。意外なことに、隅田川に向かうのです。向かう先は両国橋です。

両国橋は隅田川に架かる橋の一つです。江戸の頃は、隅田川には5つしか橋が架かっていませんでした。千住大橋が一番古く、その次が両国橋、そして永代橋・新大橋・吾妻橋の順です。

両国橋が架橋された年には諸説ありますが、明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の翌年より、架橋工事がはじまりました。

両国橋は、江戸市街と当時市街地化が進んでいた本所・両国地域を結ぶ橋として、交通量はたいへん激しかったようです。寛保2年(1742)に幕府が調査したところでは、1日になんと2万人以上が往来していたそうです。となると、その人の流れに注目したビジネスが生まれることになります。

両国橋に限らず、橋のたもとは空き地になっていました。飛び火して橋が焼失しないように、建物は建てずに空き地、つまり火除地としていたわけです。

こうした空間を広小路と呼んでいました。橋のたもとだけでなく、寺の門前も同じです。寛永寺や浅草寺など巨大なお寺の門前は、上野広小路、浅草広小路などと呼ばれていました。飛び火を防ぐための処置です。

さて、その広小路は空き地のままだったわけではありません。商人たちが、幕府の許可を得て、食べ物や飲み物を売りはじめたのです。ただし、常設店舗ではなく、露店などの形で出店しました。すぐ取り払えるという条件のもと、芝居小屋なども建てられました。

こうして、江戸の各所で設けられた広小路は、江戸の繁華街としてたいへん賑わう空間となります。それだけ、人の流れが活発だったということでもあります。そのシンポルが両国広小路なのです。その様子は、錦絵では定番のテーマとなっていたほどの江戸名所の1つでした。

両国橋には東広小路と西広小路の2つがありました。両国東西広小路は江戸の繁栄を象徴する盛り場として有名でしたが、大山詣に向かう江戸っ子が向かったのは両国東広小路側の隅田川です。その下流側に、水垢離場があったのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト