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2008年7月 アーカイブ

2008年7月29日

御師は大山の麓で普段は生活していたわけですが、年2回ぐらい講中のもとを回っています。これを檀那廻りと称しました。師檀関係の継続という意図があったことは言うまでもありません。この御師による檀那廻りが、江戸の人々による大山信仰を長く支える原動力となっていました。

大山講は江戸はもちろん、関東一体に展開していましたから、この檀那廻りは自然と長期にわたるものになりました。

もちろん、これまでの講中を回るためだけに檀那廻りをするのではありません。その折には、新たな檀家の獲得も目指していたのです。新たな講を結成しながら、回っていたのです。こうした御師たちの活動が、大山信仰の布教活動に他ならなかったことはもちろんです。

さて、御師は講中を回る時には、様々なものを配っていました。まずは、御札です。この行為を配札と呼んでいました。

配札だけではありません。箸・盆・重箱・煎餅・お茶なども届けています。お土産という形でしたが、御師は講中にお札やお土産を届けただけで帰ったのではありません。それに対する志を金銭で受け取っていたのです。

そして、師檀関係を取り結んだ講中の人々が大山に参詣してくると、自分の宿坊に宿泊させるわけです。そして、山内の案内にあたりました。御師は旅行業者としての顔も持っていたのです。

宿泊に限らず、講中の人々が宿坊に立ち寄ることを、「坊入り」と呼びました。その時、初穂と称して金銭や米・麦などを納め、代りに配札を受けています

宿坊に宿泊した場合は、翌早朝に宿坊を出発して、山頂で御来迎を拝することになっていました。ただし、大山近隣の相模国の村々では、夜中に自分の村を出発して大山の山頂に一気に向かったそうです。そして下山後に、宿坊で休息するのが通例でした。

ところで、明治16年(1883)に編纂された「開導記」という記録があります。それを読むと、県別の講中の数字なども分かりますので、その数字を見ていくことにしましょう。

2008年7月22日

御師(おし)とは、どういう人たちなのでしょう。

御師とは特定の寺社に属して、参詣者を自分の属する寺社に導く者のことです。人々を導くだけでなく、祈祷を行ったり、参詣者に宿泊所も提供したりしました。導いた参詣者を檀那(信者)として、師檀関係を結んだのです。

大山だけでなく、この時代、特に伊勢神宮に参詣する人は物凄い数にのぼりました。年間、100万人前後が参詣したと伝えられています。その場合も、伊勢神宮に属すの御師が江戸の人々を伊勢神宮に導いていたのです。

こうした事例は枚挙に暇がないほどあります。当時は富士山信仰も根強く、富士山に参詣した人も多かったのですが、江戸の各所には富士山に模した富士塚が造られています。

富士山は女人禁制だったということもありますが、富士山まで行けない江戸の人々が富士塚を造って、そこに参詣することで、富士山参詣の代りにしていました。もちろん、富士塚でしたら、女性でも登ることができました。

さて、大山の場合ですか、御師の数は170人前後でした。どこに住んでいたかと言いますと、現在の伊勢原市の伊勢原口と秦野市の秦野口の2ケ所に分れて、集落を作っていました。これを御師集落と呼んでいました。

つまり、大山の麓に住んでいたのですが、伊勢神宮の御師にしても、神宮の近くに住んでいました。御師は、その寺社の麓に住むのが普通でした。

さて、御師は参詣者を檀那として師檀関係を結んだわけですが、具体的には講という形でした。つまり、これから述べていきますように、講中(大山講)の結成とその維持こそが、大山御師の最大の役割であり任務でした。

大山講そして大山御師の存在なくして、江戸っ子の心に大山信仰が浸透していくことなど、到底有り得なかったのです。

2008年7月15日
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江戸っ子が大山に向かう際には、両国橋東詰の下流側で水垢離(みずごり)をするのが慣習となっていました。ちなみに、大山詣をするのは男性のみでした。

江戸の名所旧跡などを取り上げたガイドブックである「続江戸砂子」(ぞくえどすなご)には、その様子が次の通り記述されています。

浅草川で17日間、水垢離をすると書いてあります。浅草川とは隅田川のことですが、17日間、具体的に毎日、どういうことをするのかと言うと、大きな木太刀を手に持って、乳の辺りまで水に浸かります。

そして、先達の法螺貝に合わせて、「懺悔、懺悔、六根精浄」(ざんげ、ざんげ、ろっこんしょうしょう」などと唱えたそうです。こうして、自分の体を清めたのです。

江戸を出立する時だけではありません。大山の麓に到着すると、今度は滝に打たれて身を清めます。その後、山を登るのです。

両国橋脇の水垢離場に話を戻しますが、「六根精浄」と唱えただけではありません。サシ(ワラシベ)を手にして、1本ずつ流したのです。大山詣に出発する前の通過儀礼のようなものだっのですが、これを17日間続けたのです。両国での水垢離は、江戸の名物として、大山詣のシンボルとして、当時は広く知られていました。

木太刀ですが、「奉納大山石尊大権現天狗小天狗諸願成就」と書かれていました。これを持って大山に向かい、奉納するのです。そして、他の人が奉納した木太刀を持ち帰って祀ったことは、既にご紹介しました。

大山に向かう姿ですが、白の行衣を着用します。半纏を着用する場合ねあったようです。そして、鉢巻きを締めて出発です。もちろん、木太刀は持っています。

大山へは1泊2日の道のりでしたが、大山ではどこに宿泊したのでしょうか。もちろん門前には宿屋もありましたが、御匠の家で宿泊する者も多数いました。

この御師とは、どんな人なのでしょうか。大山に向かう江戸っ子は大山講として参詣したのですが、大山講の組織化に御師は非常に重要な役割を果たしていたのです。

2008年7月 8日

それでは、江戸っ子の大山詣の様子を見てみましょう。
江戸っ子は大山街道を通って、そのまま大山に向かうのではありません。意外なことに、隅田川に向かうのです。向かう先は両国橋です。

両国橋は隅田川に架かる橋の一つです。江戸の頃は、隅田川には5つしか橋が架かっていませんでした。千住大橋が一番古く、その次が両国橋、そして永代橋・新大橋・吾妻橋の順です。

両国橋が架橋された年には諸説ありますが、明暦3年(1657)に起きた明暦の大火の翌年より、架橋工事がはじまりました。

両国橋は、江戸市街と当時市街地化が進んでいた本所・両国地域を結ぶ橋として、交通量はたいへん激しかったようです。寛保2年(1742)に幕府が調査したところでは、1日になんと2万人以上が往来していたそうです。となると、その人の流れに注目したビジネスが生まれることになります。

両国橋に限らず、橋のたもとは空き地になっていました。飛び火して橋が焼失しないように、建物は建てずに空き地、つまり火除地としていたわけです。

こうした空間を広小路と呼んでいました。橋のたもとだけでなく、寺の門前も同じです。寛永寺や浅草寺など巨大なお寺の門前は、上野広小路、浅草広小路などと呼ばれていました。飛び火を防ぐための処置です。

さて、その広小路は空き地のままだったわけではありません。商人たちが、幕府の許可を得て、食べ物や飲み物を売りはじめたのです。ただし、常設店舗ではなく、露店などの形で出店しました。すぐ取り払えるという条件のもと、芝居小屋なども建てられました。

こうして、江戸の各所で設けられた広小路は、江戸の繁華街としてたいへん賑わう空間となります。それだけ、人の流れが活発だったということでもあります。そのシンポルが両国広小路なのです。その様子は、錦絵では定番のテーマとなっていたほどの江戸名所の1つでした。

両国橋には東広小路と西広小路の2つがありました。両国東西広小路は江戸の繁栄を象徴する盛り場として有名でしたが、大山詣に向かう江戸っ子が向かったのは両国東広小路側の隅田川です。その下流側に、水垢離場があったのです。

2008年7月 1日

大山不動に参詣すると言っても、一年中というわけではありませんでした。参詣者が集中したのは、春山(4月15日~24日)、夏山(7月27日~8月17日)の時期でした。

春山の時期は農閑期にあたるため、近在や関東一円の農民が数多く参詣したようです。夏山の時期は盆山とも言い、特に江戸からの参詣者で溢れました。

神仏分離前の江戸時代には石尊大権現と呼ばれていた大山阿夫利神社は、雨乞いの神様として大山の麓に広がる農民から厚く信仰されていました。江戸時代の事例ですが、次のような風習があったと言います。

日照りが続いて水が不足すると、農村では、お神酒枠と呼ばれる小さな社を2つ用意します。その社を棒の前後に差して、肩に担ぎ、大山に向かいます。その中には、お神酒徳利が入るようになっていたそうです。

そして、徳利に大山から湧き出している水を入れて持ち帰ります。水不足に苦しむ農家の田畑に撒いたり、神社で奉納祈願をしたのです。雨乞いの神事に用いたわけです。

さて、江戸の人々が参詣したのは夏山の時期だったわけですが、細かく見ていくと、7月27日から31日までを初山。8月1日~7日を七日道。8月~12日を間(あい)の山。8月13日から15日までを盆山。16日~17日を仕舞(しまい)山と呼んでいました。

この時期には、奥の院まで開放されました。そのため、門前町はもちろんのこと、周辺も参詣客などで賑わいました。大山街道沿いの店のほか多摩川や相模川の渡し場も、参詣客でごった返しました。

そうした賑わいに目を付けて、別のお寺が大山不動への参道に自院のお地蔵様を持ってくることもありました。出開帳というわけですが、自然とお賽銭が溜ってしまったそうです。これを2~3年続けると、自院の本堂の建設資金が賄えたとまで伝えられています。大山詣の参詣者がいかに多かったかが良く分かる話です。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト