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2008年6月 アーカイブ

2008年6月17日

 大山講は成田講や高尾講にも勝るとも劣らないほどの規模を誇った講でした。講員は70万人を越えていたと言われています。最盛期には、年間20万人が参詣したと伝えられます。「大山詣り」という落語があるほど、当時のメジャーな御参りでした。

大山詣に当たっては、面白い風習がありました。「納太刀」という風習です。源頼朝の太刀奉納に由来すると伝えられています。

頼朝と言えば、鎌倉幕府を開いた人物ですが、大山に登山して武運を祈ったと言います。その折、太刀を奉納したのでしょう。以後、頼朝に倣って、武士たちが武運の神様として厚く信仰している証として、太刀を納めるようになりましたが、その風習を町人も真似したというわけです。最初は本物の太刀だったのかもしれませんが、町人たちが奉納した太刀は木太刀でした。

まず、参拝にあたって、江戸市中などで木太刀を買い求めます。その太刀を奉納したのですが、帰山する際には、他の人が奉納した木太刀を持ち帰ります。帰宅すると、その太刀を神棚などに祀って、災いを避けようとしたようです。この太刀に触ると、病気にならない、厄が除けられると信じられていました。

江戸時代の初めは、将軍や大名などの武士や、町人でも上流階級の人々が参詣していました。武士ですから戦勝祈願、あるいは菩提供養が目的でしたが、徐々に変化していきます。

18世紀に入ると、庶民が集団で参詣する傾向が顕著となります。参詣目的も、病気の治癒など現世利益が主流となっていきます。これに伴い、大山詣は一般大衆のものとなり、大山詣という言葉も江戸の社会に定着していくのです。

「大山詣り」という落語の誕生は、そうした傾向を受けたものだったのでしょう。そして、大山への参詣道も大山街道と呼ばれるようになるのです。

2008年6月10日

現在の神奈川県伊勢原市に、大山(おおやま)という標高1253メートルの山があります。この辺りは、ハイキングでも知られる丹沢山系の地域に当たりますが、その最も南東に大山は位置しています。

この大山には、阿夫利山(あふりさん)という名前がありますが、雨降山とも呼ばれていました。雨を降らせてくれる山として、古くから厚い信仰を集めていたのです。特に農民にとっては雨は大切ですから、雨乞いの対象として、その心に深く根付いていったようです。

大山の頂上には、大山阿夫利神社の本社が鎮座しています。そして山中に、阿夫利神社の下社そして大山寺があります。

阿夫利神社には、石尊大権現、大雷神、高おかみ神、鳥石楠船神(とりのいわくすふね)などが祀られています。大山寺の本尊は不動明王です。成田不動、高幡不動、そしてこの大山不動が、関東の三大不動と呼ばれています。

大山は石がご神体ということですが、大雷神は気象を司る神様で、高おかみ神は竜神。祈雨の神様でした。鳥石楠船神は航海の神様でした。そのため、雨乞い、豊漁の神様として、農民や漁民に厚く信仰されていきます

大山寺の方ですが、天平勝宝7年(755)に華厳宗の祖であり、東大寺建立に尽力した良弁が開山と言われています。空海も入山したと言います。その折、錫杖を立てると泉が湧いて井戸になったそうです。平安時代以降、神仏混淆の修験道の霊場として栄えていきます。

鎌倉時代以降で言うと、時の武家の統領である源頼朝、足利尊氏の帰依を受けました。戦国時代には、関東の雄である後北条氏、そして豊臣秀吉により滅ぼされると、代って関東の主となった徳川家からの帰依を受けることになります。

特に、3代将軍徳川家光は伽藍の再建を強力に進めます。将軍の強力なバックアップのもと、本堂などの堂社が落成し、大山不動は隆盛の道を歩んでいくのです。

今回は、この大山不動や大山阿夫利神社への参詣、すなわち大山詣をめぐる光景をご紹介していきます。江戸の人々は大山講と総称される講を結んで、大山に向かいました。ここでも、講の果たした役割は大きかったのです。

2008年6月24日

東京の青山から渋谷方面には、現在国道246号線が走っています。俗に大山街道とも呼ばれています。元々は、江戸の人々が大山不動に参詣する時に使用した街道です。

大山を起点とする大山街道にはいくつもありました。七~八ケ所ほどありましたが、江戸からの参詣者が主に使った街道は、この矢倉沢往還とも呼ばれた道でした。

江戸から青山・宮益坂、三軒茶屋。そして多摩川を渡って二子・溝ノ口・長津田・厚木・伊勢原・矢倉沢を経て、駿河国に達する街道です。途中、大山の麓を通過する形を取るため、大山街道とも呼ばれていました。

江戸から駿河方面に向かう街道には東海道があります。東海道は五街道の一つですが、矢倉沢往還はそれに準じる脇往還と呼ばれていました。しかし、脇往還とは言え、その通行量は多かったようですが、なかでも大山への参詣者がかなりの割合を占めていました。

特に夏となると、大勢の参詣者が通行し、街道筋への経済効果は莫大だったようです。大山不動の門前町も、その恩恵を受けたことは言うまでもありません。

大山には江戸に限らず関東一帯から参詣者がやって来ました。後に述べますように、大山講という形で御参りしたのですが、七~八ケ所の大山街道沿いには定宿と呼ばれているものがありました。

138軒ほどあったそうですが、この宿は大山が参詣者の便をはかるために指定した宿でした。特定旅館のようなものでしょう。この宿に宿泊すれば、安全に旅することができるというお墨付きを与えたわけです。それにしても138軒という数は、大山への参詣者が相当数に及んでいたことを暗示させます。

これは大山講の場合ですが、成田講などの場合も、そうした指定旅館制度という事情は同じでした。江戸は泰平の世でしたが、旅に出るとなると、いろいろな危険が待っています。その辺りを踏まえて、旅館と提携することで、参詣者が安心してお参りできるように配慮したのです。

2008年6月 3日
14話[1].jpg

 以上、13話にわたり高尾講について見てきました。
 講中の分布については、そのお寺の特徴が出てくるわけですが、講中が結成される背景は、どのお寺も同じようなものでした。ですが、高尾山特有のものとしては杉苗の奉納があります。

 高尾講に限りませんが、ご利益を受けた信者は高尾山にお礼参りをします。その折には、金品などのお布施を持参するのですが、杉苗奉納という形のお布施もありました。杉苗を高尾山に植えることで、お礼の気持ちを表したのです。

 高尾山の参道には、杉の巨大な古木が立ち並んでいます。その多くは、高尾山の信者により奉納された杉苗が育ったものなのです。現在では杉苗の代わりに現金を納め、高尾山からは護摩札を貰い受けることになっています。

 毎年4月の第3日曜日に執り行われる高尾山の春期大祭では、坊の入口に「お花」が飾り付けられます。以前は、4月21日に執り行われていました。「山開き」の日だったからです。この日を境に、講中の登拝がはじまります。

 大祭に先立って、「お花」を高尾山にあげるのですが、それを担っているのが、「栄久お花講」です。八王子消防記念会が運営しています。

 栄久お花講は、山開き以前に高尾山にあがることのできる唯一の講中でしたが、元々は吉原の鳶職人で結成された講中でした。

 しかし、天保年間(1831~1845)に吉原の鳶職では手に負えなくなりました。その後、八王子の鳶職が引き継いで、現在に至っています。こんなところにも、江戸以来の高尾講の名残りを見付けることができます。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト