高尾講は江戸の講中のなかで現代まで続いているものですが、昭和58年(1983)に、当時の信徒課長が講社を把握するために作成した『講中経歴帳』が残されています。その内容から、以下のことが言えるそうです。
戦火により、東京は荒廃してしまいましたが、高尾山にとっても大きな痛手でした。経営基盤である東京の高尾講の弱体化を意味するからです。危機感を強めた高尾山では、東京都民に対する誘致活動を積極的に展開します。
臨時列車を誘致したり、観光会社と提携することで、高尾山のPRをはかります。高速道路の整備も見逃せません。こうして、高尾山には再び数多くの参詣者が訪れるようになりました。
東京の高尾講も復活していくわけですが、昭和58年の数字によると、489の講中のうち、ほとんどが関東甲信越の講中でした。その約8割が東京・埼玉・群馬県で、都内でみると、115講中です。その4分の3が23区でした。
高尾山が東京23区、つまり江戸とその近郊に基盤を置いている様子が浮かび上がってきます。言うまでもなく、江戸以来の信仰圏でした。
埼玉県の場合は南東部と北西部、群馬県の場合は南部に、講中は集中しています。埼玉・群馬県と言っても高尾山に近い地域なのですが、これも江戸以来の信仰圏でした。
高尾講が結成される背景ですが、個人や家族単位で高尾山を信仰していた人が、病気・怪我の回復、あるいは商売繁盛。厄除けなどの現世利益を受けることで、熱心な信者となります。そして、親戚や友人を誘ったり、その評判を聞きつけた人が集まってくることで、講中が結成されるというのが定番でした。
その信仰の証として、講中は高尾山に何らかのものを奉納するのですが、その奉納物が講の名前になる場合があります。具体的な事例は、先にみたとおりです。高尾山以外の講中についても、そうした事情はまったく同じなのでした。