2008年5月20日

江戸時代、高尾山は4回、江戸出開帳をおこなっていますが、明治に入っても東京で出開帳を実施しています。その時の記録が、高尾山に残されています。

明治21年(1888)4月28日から6月8日までの間、高尾山は深川の成田山不動堂で出開帳を行いましたが、出開帳の目的は何だったのでしょうか。

明治19年(1886)の大雨により、本堂が損壊してしまいました。その再建が第一の目的でしたが、それに加えて、「講社再興」と「信徒増殖」も重要な目的でした。江戸出開帳の場合も、講社や信徒の維持拡大が目的だったわけですが、明治に入ると、東京の高尾講は弱体化してしまいます。

 何と言っても、大名家が事実上消滅したことが大きかったのでしょう。豪商たちも、江戸から明治への激動のなか、姿を消していきました。高尾山に限ることではありませんでしたが、江戸の富裕層の多くが零落してしまった結果、講中が弱体化してしまったのです。

そのため、高尾山は講中の建て直しを目指したのですが、出開帳を企画するにあたり、同じく関東三本山である成田山と川崎大師に、その可否を相談しています。両寺との協議の結果、3000円の資金を投入して出開帳を実施すること。その資金のうち、2000円を成田山から、1000円を川崎大師から借りることになりました。

現在の貨幣価値に換算すると、3000万円もの大金を両寺から借り受けることで、高尾山は開帳の基本資金としたのです。資金のみならず、準備過程においても、成田山や川崎大師と諸事相談しています。高尾山単独では、開帳の資金を用意できず、東京出開帳など不可能というほどの状況だったのです。

開帳は成功に終わったようですが、成田山と川崎大師からの借入金は返せたものの、それを除いた収支は赤字になってしまったようです。開帳で黒字を出すのは大変でしたが、「講社再興」と「信徒増殖」という目的が達成できれば、経営基盤強化の第一歩にはなります。

ですから、収支だけ見て、成否を判断することはできなません。少なくとも、東京市民に高尾山という名前を再びインプットさせることができたという意味では、出開帳の目的は達成できたということになります。そうした努力こそが、現在につながっているのです。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト