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2008年5月 アーカイブ

2008年5月27日

高尾講は江戸の講中のなかで現代まで続いているものですが、昭和58年(1983)に、当時の信徒課長が講社を把握するために作成した『講中経歴帳』が残されています。その内容から、以下のことが言えるそうです。

戦火により、東京は荒廃してしまいましたが、高尾山にとっても大きな痛手でした。経営基盤である東京の高尾講の弱体化を意味するからです。危機感を強めた高尾山では、東京都民に対する誘致活動を積極的に展開します。

臨時列車を誘致したり、観光会社と提携することで、高尾山のPRをはかります。高速道路の整備も見逃せません。こうして、高尾山には再び数多くの参詣者が訪れるようになりました。

東京の高尾講も復活していくわけですが、昭和58年の数字によると、489の講中のうち、ほとんどが関東甲信越の講中でした。その約8割が東京・埼玉・群馬県で、都内でみると、115講中です。その4分の3が23区でした。

高尾山が東京23区、つまり江戸とその近郊に基盤を置いている様子が浮かび上がってきます。言うまでもなく、江戸以来の信仰圏でした。

埼玉県の場合は南東部と北西部、群馬県の場合は南部に、講中は集中しています。埼玉・群馬県と言っても高尾山に近い地域なのですが、これも江戸以来の信仰圏でした。

高尾講が結成される背景ですが、個人や家族単位で高尾山を信仰していた人が、病気・怪我の回復、あるいは商売繁盛。厄除けなどの現世利益を受けることで、熱心な信者となります。そして、親戚や友人を誘ったり、その評判を聞きつけた人が集まってくることで、講中が結成されるというのが定番でした。

その信仰の証として、講中は高尾山に何らかのものを奉納するのですが、その奉納物が講の名前になる場合があります。具体的な事例は、先にみたとおりです。高尾山以外の講中についても、そうした事情はまったく同じなのでした。

2008年5月20日

江戸時代、高尾山は4回、江戸出開帳をおこなっていますが、明治に入っても東京で出開帳を実施しています。その時の記録が、高尾山に残されています。

明治21年(1888)4月28日から6月8日までの間、高尾山は深川の成田山不動堂で出開帳を行いましたが、出開帳の目的は何だったのでしょうか。

明治19年(1886)の大雨により、本堂が損壊してしまいました。その再建が第一の目的でしたが、それに加えて、「講社再興」と「信徒増殖」も重要な目的でした。江戸出開帳の場合も、講社や信徒の維持拡大が目的だったわけですが、明治に入ると、東京の高尾講は弱体化してしまいます。

 何と言っても、大名家が事実上消滅したことが大きかったのでしょう。豪商たちも、江戸から明治への激動のなか、姿を消していきました。高尾山に限ることではありませんでしたが、江戸の富裕層の多くが零落してしまった結果、講中が弱体化してしまったのです。

そのため、高尾山は講中の建て直しを目指したのですが、出開帳を企画するにあたり、同じく関東三本山である成田山と川崎大師に、その可否を相談しています。両寺との協議の結果、3000円の資金を投入して出開帳を実施すること。その資金のうち、2000円を成田山から、1000円を川崎大師から借りることになりました。

現在の貨幣価値に換算すると、3000万円もの大金を両寺から借り受けることで、高尾山は開帳の基本資金としたのです。資金のみならず、準備過程においても、成田山や川崎大師と諸事相談しています。高尾山単独では、開帳の資金を用意できず、東京出開帳など不可能というほどの状況だったのです。

開帳は成功に終わったようですが、成田山と川崎大師からの借入金は返せたものの、それを除いた収支は赤字になってしまったようです。開帳で黒字を出すのは大変でしたが、「講社再興」と「信徒増殖」という目的が達成できれば、経営基盤強化の第一歩にはなります。

ですから、収支だけ見て、成否を判断することはできなません。少なくとも、東京市民に高尾山という名前を再びインプットさせることができたという意味では、出開帳の目的は達成できたということになります。そうした努力こそが、現在につながっているのです。

2008年5月13日

高尾講も成田講や川崎大師講と同じく、多彩な講中から構成されていましたが、江戸ならではの講中があります。江戸の華と称された火事に関連する講です。

江戸の消防を担ったのは、いろは47組から構成されている江戸町火消などですが、彼ら町火消たちも、高尾講を結成していたのです。本尊飯縄権現の本地が不動明王であるため、火難除けにご利益があると認識されていたからでした。講中を結成して高尾山を厚く信仰することで、火難を避けようとした町火消たちの心理が読み取れます。

ですから、高尾山に参詣すると、◎組講中が寄進したとある石造物を見ることができるのです。そうした事情は、成田不動を本尊とする成田山にもあてはまります。成田山に参詣すると、ここかしこに、◎組講中の寄進物を見付けることができます。

多彩な江戸の高尾講に対して、高尾山は貫主自ら、その関係を継続的なものにしようと奔走しています。高尾山は、江戸からはさほど遠くはないため、貫主が江戸に出府してくることは珍しくありませんでしたが、その折は、講中との交流を積極的にはかります。

貫主が江戸に出てくるのを契機に、新たな講中が誕生することもままありました。江戸滞在中は、新講中の届け出があったり、講中からの相談を受けるということも度々でした。檀家に赴いて、加持祈祷することもありました。逆に護摩檀家からは、土産物が次々と届けられています。

1日に、100軒ほどの講中を訪問したこともあったようです。それだけ、江戸の高尾講を高尾山は重視していたということなのです。こうした努力が日の目を見る時が、江戸出開帳の時だったのです。言い換えると、江戸の高尾講の助力なしに、江戸出開帳は実現不可能でした。

2008年5月 6日

護摩檀家は武士だけではありません。裕福な江戸商人たちも、高尾山の護摩檀家でした。「江戸田舎日護摩講中元帳」から、どんな商人たちが檀家だったかを見ていきましょう。

呉服問屋、米穀問屋、炭薪問屋などの商人の名前が多数みられますが、呉服問屋のなかには、三井越後屋や伊豆蔵の名前があります。江戸を代表する豪商でした。成田講の事例でみたように、江戸の富裕層を護摩檀家としていたことが分かります。

高尾山としては、江戸の豪商を護摩檀家とすることで、その富を経営基盤に組み込むことができたわけです。三井越後屋などは成田山の江戸出開帳の時、成田不動を守護する行列が休憩する場所になっていました。成田山の有力スポンサーでもあったからです。

成田不動の江戸での足取りを追って行くと、成田山の支持基盤が自然と浮き彫りになっていくことは、成田講の事例でみたとおりです。スポンサーであるからこそ、成田不動はわざわざ三井越後屋にやって来たわけです。

豪商の側からみると、成田山のスポンサーとなることで、信者への好感度はアップすることでしょう。それが狙い目だったわけですが、三井越後屋が高尾山の護摩檀家になったことにも、同じ思惑があったことは言うまでもありません。

高尾山にとっても、三井越後屋が護摩檀家であることは、物心両面での強力なバックアップが期待できたでしょう。さらに、その事実は越後屋の御得意さんへのアピールにもつながります。ですから、江戸に貫主がやって来た時には、豪商の家をわざわざ訪れ、関係の維持強化につとめています。

大商人だけでなく、小売り商人や様々な職種の職人にも、護摩講中のメンバーでした。成田講や川崎大師講と同じく、高尾講もたいへんバラエティーに富んでいた講中だったわけです。これは職業別の講ですが、地域で結成された講もあります。「新宿講中」「鎌倉河岸講中」「堺町講中」などがあります。

「御膳講」「杉筍講」という講中もあります。それぞれ、御膳や杉筍を奉納するために結成された講なのでしょう。

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト