2008年4月15日

「江戸田舎日護摩講中元帳」に登録されている護摩檀家の人数ですが、約300軒と言います。一見少ないように見えますが、家族の数も含めれば1000人ぐらいになるでしょう。それに、この数字は護摩檀家だけの数であり、成田講や川崎大師講の事例でみたような様々な目的で結成された講中は別にあります。その高尾講のメンバーも含めれば、高尾山の信者は、軽くその数倍は行きます。

護摩檀家には町人はもちろんですが、武士もいます。武士と言っても、与力・同心といった御家人から大名まで格差は激しいのですが、徳川姓の大名もいました。

徳川姓の大名とは、徳川御三家紀州家のことです。暴れん坊将軍こと吉宗の実家として、御三家のなかでは事実上のトップの権威を誇っていました。この葵の御紋を檀家にしていたことは、高尾山にとり非常に大きなメリットでした。

高尾山に限らず、お寺は大名の帰依を受けることに熱心でした。大名の帰依を受けることができれば、大名当人だけでなく、その家中にもお寺の名前を浸透させることができるからです。主君の大名が帰依すれば、家臣たちも倣います。こうして、大名の家族はもちろんですが、家臣の家族にも信者を増やしていくことができるのです。

高尾山と紀州家のゆかりは、吉宗の時にはじまります。吉宗は鷹狩りの好きな将軍でしたが、享保3年(1718)に、幕府と実家紀州家の鷹匠による放生会が高尾山で開かれます。これ以降、紀州家との縁が深くなっていきます。この行事をチャンスに、紀州家に食い込んでいったわけです。

吉宗の跡を継いで紀州家の殿様となった6代目藩主徳川宗直は、不動明王と護摩檀を高尾山に寄進しています。7代目藩主徳川宗将も、不動明王と自筆の経典を寄進しています。

8代目藩主徳川重倫に至っては、自分の病気平癒のほか、夫人の安産祈願などの祈願を依頼しています。紀州家の祈祷所になっていたのです。江戸屋敷に招いて、祈祷してもらうこともありました。
ところが、安永4年(1775)に重倫が隠居すると、紀州家との関係は疎遠になっていきます。一体、何があったのでしょうか。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.higan.net/apps/mt-tb.cgi/2172

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
→ブログに登場する江戸名所の地図
安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
→著者公式サイト
→著者ブログ「江戸探訪記」
→著者ブログ「大江戸グルメ日記」
加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
→イラストレーター公式サイト