「江戸田舎日護摩講中元帳」に登録されている護摩檀家の人数ですが、約300軒と言います。一見少ないように見えますが、家族の数も含めれば1000人ぐらいになるでしょう。それに、この数字は護摩檀家だけの数であり、成田講や川崎大師講の事例でみたような様々な目的で結成された講中は別にあります。その高尾講のメンバーも含めれば、高尾山の信者は、軽くその数倍は行きます。
護摩檀家には町人はもちろんですが、武士もいます。武士と言っても、与力・同心といった御家人から大名まで格差は激しいのですが、徳川姓の大名もいました。
徳川姓の大名とは、徳川御三家紀州家のことです。暴れん坊将軍こと吉宗の実家として、御三家のなかでは事実上のトップの権威を誇っていました。この葵の御紋を檀家にしていたことは、高尾山にとり非常に大きなメリットでした。
高尾山に限らず、お寺は大名の帰依を受けることに熱心でした。大名の帰依を受けることができれば、大名当人だけでなく、その家中にもお寺の名前を浸透させることができるからです。主君の大名が帰依すれば、家臣たちも倣います。こうして、大名の家族はもちろんですが、家臣の家族にも信者を増やしていくことができるのです。
高尾山と紀州家のゆかりは、吉宗の時にはじまります。吉宗は鷹狩りの好きな将軍でしたが、享保3年(1718)に、幕府と実家紀州家の鷹匠による放生会が高尾山で開かれます。これ以降、紀州家との縁が深くなっていきます。この行事をチャンスに、紀州家に食い込んでいったわけです。
吉宗の跡を継いで紀州家の殿様となった6代目藩主徳川宗直は、不動明王と護摩檀を高尾山に寄進しています。7代目藩主徳川宗将も、不動明王と自筆の経典を寄進しています。
8代目藩主徳川重倫に至っては、自分の病気平癒のほか、夫人の安産祈願などの祈願を依頼しています。紀州家の祈祷所になっていたのです。江戸屋敷に招いて、祈祷してもらうこともありました。
ところが、安永4年(1775)に重倫が隠居すると、紀州家との関係は疎遠になっていきます。一体、何があったのでしょうか。