高尾山に残されている「江戸田舎日護摩講中元帳」という帳簿は、文化6年(1809)以降の護摩檀家の動向が分かる帳面ですが、「江戸田舎」とは江戸とそれ以外の地方のことを指します。
ここで講中という言葉が出て来ますが、どうも高尾山は護摩檀家以外の者も含めて、護摩の配札対象である信者を、講中として組織化し直したようです。その組織名が、「江戸田舎日護摩講中」というわけなのです。
護摩檀家とは、永代護摩供養料を納めた者です。この帳簿では「永代施主」とも呼ばれていますが、この頃には数年間という期限付きで護摩供養料を納めていた者もいたようです。数年間だけ、配札を受けるというわけです。一年だけという事例もありましたが、一年だけですと、その講中の帳簿には名前は載らなかったようです。
永代で護摩札の配札を受ける護摩檀家の数が伸び悩んでいたわけですが、数年間だけというのは、檀家数増加のための苦肉の策だったのではないでしょうか。護摩檀家か納めた永代護摩供養料よりも、その額は少なかったはずです。護摩檀家よりも護摩講中という緩やかな形に組織化し直すことで、さらなる信者の獲得を目指したのでしょう。
「江戸田舎日護摩講中」のデータを見ていくと、加入者の特徴として、高尾山・八王子周辺で半分ほど、江戸で4分の1を占めていることが分かります。時代が下るにつれて、地元での支持基盤を固めていった様子が分かりますが、そうは言っても、江戸の講中にはたいへん気を使っています。
例えば、江戸の講中のメンバーの家には、薬王院の使者が1軒ずつ訪れて、護摩札を配札しています。永代のみならず、数年間だけ配札を受ける者の家にも、薬王院の使者が1軒ずつ訪れています。他の地域の場合は、薬王院の使者が届ける場合もありますが、檀家を介して配札される事例も多かったようです。
ちなみに、高尾山から直接配札を受ける者を、高尾山は「上段之施主」。檀家を介して配札を受ける者を「下段之施主」と呼んでいました。