2008年4月 1日

高尾山は永代護摩供養料(金2分)を納めた護摩檀家に、年3回(正月・5月・9月)、護摩札を配札することになっていました。元禄の頃の記録によると、護摩檀家は圧倒的に江戸町人で占められていました。

しかし、享保~延享年間(1716~1748)に入ると、高尾山近在をはじめ、八王子や武蔵国多摩郡西南部で護摩檀家が増えはじめます。そして、宝暦・天明年間(1751~1789)には、武蔵国中北部や隣の甲斐国中東部の人々でも護摩檀家となる事例が増えていきます。

当初は高尾山周辺の人々や、江戸町人を基盤としていた高尾山でしたが、時代が下るにつれて、江戸近在である多摩郡一帯そして関東一円へと支持基盤を広げていったことが、この帳簿から分かるわけです。こうして、江戸だけでなく関東近在からも、参詣者が高尾山に向かうことになります。

一方、享保期以降になると、高尾山の護摩檀家に加入する江戸町人の増加傾向に歯止めが掛かってしまいます。その理由は良くわからないのですが、市場の競争が激しかったのでしょう。

護摩檀家という形で信者を獲得する事例は、高尾山以外、確認できていません。しかし、他のお寺が高尾山の手法に目を付けて、同じ形で信者の獲得を目指したとしても、何の不思議もありません。

競争相手が増えれば、百万都市とは言え、護摩檀家への加入者が増えなくなるのは当然のことでしょう。もしかしたら、そうした市場の飽和状態を踏まえて、高尾山は江戸近在や関東一帯へのアプローチを強めていったのかもしれません。

「永代日護摩家名記」という帳簿は、残念ながら天明期で記録が終わっています。その後、20年ほど記録を欠いてしまうのですが、文化6年(1809)以降ですと、護摩檀家の動向が分かります。「江戸田舎日護摩講中元帳」という帳簿が残されており、この年以降のデータが収められているのです。次では、この帳簿を見ていくことにしましょう。

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江戸時代、お寺参りは町人たちのレジャーでした。当時世界一の人口規模を誇った観光都市江戸では、お寺がありとあらゆる工夫を凝らし、現代の広告代理店さながらの参詣客の争奪戦が繰り広げられておりました。江戸研究家の安藤優一郎が語る、お寺にまつわる江戸の人間模様。
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安藤 優一郎 / 文
1965(昭和40)年千葉県生まれ。歴史家。江戸時代を専門とする。文学博士(早稲田大学)。NHK文化センターなどで生涯学習講座の講師を勤める。著書『徳川将軍家の演出力』『観光都市江戸の誕生』(新潮新書)では寺社の経営戦略を、新刊『江戸城・大奥の秘密』(文春新書)では、大奥とお寺の深いつながりを明らかにした。
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加藤 円正 / イラスト
昭和51年愛媛県生まれ。人口100人ほどの瀬戸内に浮かぶ島にある、お寺の住職。イラストレーション、板目木版を中心に絵を描く。妖怪と時代劇とロックンロールを好む。2005年『怪』(角川書店)「第二回怪大賞」にて京極夏彦氏より妖怪版画で京極賞を受賞。
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